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05 真情

「それじゃ、また明日ねー! めぐるも和緒も、気をつけて!」


 完全下校時間である午後の六時――町田アンナは笑顔でぶんぶんと手を振りながら、栗原理乃とともに職員室へと向かっていた。

 部室の鍵の返却をそちらに託しためぐると和緒は、二人で裏門をくぐる。この段に至っても、めぐるは暗雲のような不安と焦燥の思いを抱え込んでしまっていた。


 朝方にはあんなに軽かった足取りが、異様に重い。ギグバッグとエフェクターボードの重さも相まって、地中に沈んでしまいそうなほどである。

 すると、裏門を越えて何歩も進まない内に、和緒がめぐるの頭を小突いてきた。


「さて。ようやく二人きりになれたね、マイフレンド。そろそろその仮面を外していただこうかな」


「え……なんのこと?」


「あんた、無自覚だったの? まるであたしと出会った頃みたいに、がっちり心を閉ざしちゃってるよ」


 そんな風に言いながら、和緒は気安く肩をすくめた。


「だけどあんたはそうすると、無表情や仏頂面じゃなく、普段以上にぼんやりした顔になるんだよね。だから町田さんたちの目をくらますことはできたんだろうけど、あたしはそうはいかないよ」


「わたし……そんなつもりはないんだけど……」


「でも、ぼんやりすることで面倒ごとから逃げてるんでしょ? ……いや、今回に限っては、自分の感情から逃げてるのかな? 怒ってるのか悲しんでるのかわからないけど、そろそろ自分と向き合う時間ってことさ」


 和緒はいつも通りのポーカーフェイスである。

 ただ、その切れ長の目にはとてもやわらかい光がたたえられていた。


「今のあんたにとっては、バンド活動が生き甲斐だもんね。そいつにちょっかいを出されたら、そりゃあ心をかき乱されるだろうさ。もう今日の練習は終わったんだから、思いのたけをぶちまけてみなさいな」


「でも……わたしが何を言ったって、状況が変わるわけでもないし……」


「状況は変わらなくても、心持ちは変わるだろうさ。まったく、世話の焼けるマイフレンドだね」


 薄紫色の宵闇の下、和緒はうっすらと苦笑を浮かべた。


「それじゃあこっちから踏み込ませていただくけど、町田さんや栗原さんがあんたを捨てて別のバンドに走ることはないだろうさ。そういう前提で、あんたも身の置きどころを考えてほしいもんだね」


「そんなの……誰にもわからないでしょ? 轟木先輩は、あんなにベースが上手いんだから……」


「あの人は確かに高校生離れした実力を持ってるみたいだけど、あんたとは正反対と言ってもいいようなタイプじゃん。あんたに惚れ込むような人間は、ああいうタイプにさほど魅力を感じないだろうと思うよ」


 そのように語りながら、和緒は形のいい下顎に手を当てて思案のポーズを取った。


「たとえば……浅川さんが『V8チェンソー』の前に組んでたバンドなんかは、ああいうタイプのベーシストだったんじゃないかな。ああいうベースは浅川さんのプレイスタイルと、がっちりハマりそうだからね。さぞかし格好よろしいガレージ・ロックバンドを結成できるだろうさ。でも……『V8チェンソー』からフユさんが脱退して、あの先輩様が加入したら、どうなると思う?」


 それはとても、不愉快な想像であった。

 そして実際に想像してみると、いっそう不愉快さが募っていく。轟木篤子ぐらいの実力であれば、浅川亜季と並び立つことも可能なのかもしれないが――それは、めぐるが心を奪われた『V8チェンソー』の姿ではなかった。


「ね? しっくりこないでしょ? フユさんの華麗なるバカテクがあってこその、『V8チェンソー』なんだよ。浅川さんとあの先輩様でバンドを組むんなら、ハルさんにも脱退していただいて、もっとストレートでパワフルなドラムを探すべきだろうね。……で、それはうちのバンドも同じことなんじゃない? だからあの先輩様は、あたしごとあんたを切り捨てたいと思ったんだよ」


 和緒のそんな言葉が、めぐるの心をいっそう重くした。

 そして、思わぬ感情の奔流が胸の奥からわきあがってくる。それが、めぐるに涙をこぼさせた。


「ありゃ。いきなり決壊しちゃったか」


「うん……わたしだけじゃなく、かずちゃんまで切り捨てようとするなんて……そんなの許せないし、悔しいよ……」


 こらえようもなく、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。

 和緒は苦笑を深めながら、ハンカチを差し出してきた。


「あんたのツボは、そこだったか。感動のあまり、もらい泣きしちゃいそうだね」


「かずちゃんは……不安じゃないの? もしも……もしものことがあったらって……」


「幸か不幸か、町田さんと栗原さんがあたしらを切り捨てるって図は、これっぽっちも想像つかないね。何せあたしはあんたと違って順風満帆な人生を歩んできたから、悲観的な未来をイメージするのが苦手なんだよ」


 そこで和緒は、底抜けに人の悪そうな笑みを浮かべた。


「それにつけても、あんたは悲観的すぎるけどね。あそこまで激怒してた町田さんがあんたを見捨てるなんて、本気で想像できるわけ?」


「だって……わたしは、こんな人間だから……」


「あんたは自己評価が低すぎるし、自分のことをまったく客観視できていない。町田さんや栗原さんは、あんたがそこまで落ち込んでるなんて想像もしてないだろうね」


「え……それって、どういう……」


「あの二人はあんたにベタ惚れだから、自分たちがあんたを裏切る可能性はゼロだっていう事実を知ってる。だから、あんたの不安も想像できないし、理解もできないんだよ。ウチらがめぐるを裏切るわけないじゃん、ってなもんさ」


 そんな風に言いながら、和緒はまた肩をすくめた。


「まあ、あっちはあっちで想像力が足りてないよね。凄腕のギターやヴォーカルがあんたを引き抜こうとする図でも想像すれば、今のあんたの気持ちも少しは理解できるだろうにさ。……もしもそんな事態になったら、あんたはどうする?」


「そ、そんなの、断るに決まってるじゃん」


「どうして? レベルの高い相手と組めば、もっと凄いバンドを作れるかもしれないよ? それこそ、『SanZenon』みたいなさ」


 めぐるの中に迷いの気持ちはなかったが、適切な言葉を見つけるのに多少の時間がかかってしまった。


「わ、わたしは上を目指すとか、よくわからないし……目先の楽しさを考えることしかできないから……どんな相手でも、今より楽しい状況なんて想像がつかないよ」


「だったら、町田さんたちもそうなんじゃない?」


「で、でも……わたしはこんな、つまらない人間だから……ベースだって、まだまだ下手くそだし……」


「ああもう、堂々巡りだね。どうしてこう、どいつもこいつも想像力ってもんが足りてないんだろ」


 和緒はふいに手をのばして、めぐるの頭をわしゃわしゃとかき回してきた。


「それでは、第一問。先週末のバンド合宿や野外フェスは、楽しかったですか?」


「う、うん。それはもちろん……」


「第二問。町田さんと栗原さんも、楽しそうでしたか?」


「う、うん……ずっと楽しそうにしていたと思うけど……」


「第三問。その楽しさと引き換えにするような価値が、あの無遠慮な先輩様にそなわっていると思いますか?」


 そこでいきなり、思わぬ姿がめぐるの脳裏に蘇った。

 七月末のライブイベントで遭遇し、バンド合宿の帰り道ではポスターを見かけることになった――『V8チェンソー』の元メンバー、土田奈津実の姿である。


 彼女は『V8チェンソー』における楽しさをすべて打ち捨てて、アイドルに転身したのだ。

 それで彼女は何を得たのかと、めぐるはかねがねそんな疑念を抱いていたのだった。


(上を目指すっていうのは……そういうことなの?)


 轟木篤子はアイドルではなく、ロックバンドのベーシストだ。

 しかし彼女は今を楽しむのではなく、それ以上の何かを追い求めているように感じられる。だからこそ、めぐるたちの心情を気にかけることなく、あのようにずけずけとものを言えるのではないだろうか。


(上……上って、何なんだろう……町田さんや浅川さんたちも、時々そういう言葉を口にするけど……バンドを成功させて、メジャーデビューするってこと? みんな、それが目的でバンドをやってるの?)


 めぐるがそのように考えたとき、和緒が「おっと」と声をあげた。

 そのしなやかな指先が、スティックケースのポケットからスマホを引っ張り出す。どこからか着信があったのだ。


「おやおや、オレンジ頭さんか。……はいはい。こちらのプレーリードッグに、何かご用事で?」


『えーっ! なんでわかったのー?』という声が、めぐるのほうにまで聞こえてきた。


「あたしには、想像力ってもんがそなわってるんでね。スピーカーにさせていただくよ」


 すると、今度ははっきりと町田アンナの元気な声が響きわたった。


『めぐる、おつかれー! いきなりで何なんだけど、今日、うちでごはんを食べていかない?』


「え? ど、どうしてですか? そちらにお邪魔するのは、土曜日の予定でしたよね?」


『やっぱり何だか、モヤモヤしちゃってさー! めぐるもなんか、最後までぼーっとしてたし! あのメガネ女、めっちゃムカついたもんねー!』


 めぐるが返事をしかねていると、町田アンナはさらにまくしたててきた。


『でさ、めぐるがほんのちょっぴりでも不安になってたら、それも放っておけないし! 気になってしかたないから、うちにおいでよー! 帰りは、親父にでも送らせるからさ! もちろん、理乃や和緒も一緒にね!』


「なんだ、人並みの想像力は持ち合わせてたのか。あたしの熱弁が台無しだよ」


『んー? なんの話ー?』


「こっちの話だよ。どうせだったら、部室を出る前にお誘いいただきたいところだったね。無駄に万歩計を充実させちゃったじゃん」


『しかたないじゃん! モヤモヤがたまってきちゃったんだもん! じゃ、バス停の前で集合ねー!』


 こちらの返事も聞かずに、町田アンナは電話を切ってしまった。

 和緒は「さて」と言いながら、めぐるの手もとに手をのばしてくる。そして、めぐるの手からエフェクターボードをもぎ取った。


「うわ、重いなこりゃ。どうせ家では使えないんだから、栗原さんを見習ってロッカーに保管しておけばいいのに」


「フ、フユさんからの借り物なのに、そんなことできないよ。それより、かずちゃん……」


「いいから、黙ってついてきな。あんたもいい加減、ひとりで重荷を抱え込む習性をどうにかしないとね」


 和緒はさっさときびすを返して、もと来た道を辿り始めた。町田アンナたちとは、帰り道が逆方向なのである。

 めぐるはずっと左手に握りしめていた和緒のハンカチで、新たにこぼれ落ちてきたものを頬からぬぐう。これまでに聞かされてきた和緒の言葉や、たったいま聞かされた町田アンナの言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻いて、めぐるの心を揺さぶってきたのだ。町田アンナのかたわらで心配そうにたたずんでいる栗原理乃の姿を想像すると、いっそう心をかき乱されてしまった。


(みんな……どうしてこんなに優しいんだろう)


 そうしてめぐるは大切なメンバーたちの待つ場所を目指して、足を踏み出したのだった。

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