04 不穏な提案
しばらくして、メンバー全員のセッティングが完了した。
栗原理乃の前には大きな電子ピアノが設置されており、町田アンナの前にはマイクスタンドが立てられて、めぐるの足もとにはエフェクターボードが置かれている。これがこの夏で、『KAMERIA』が迎えた変化であった。
「それじゃー、ナニから始めよっか? やっぱ景気よく、『小さな窓』かなー?」
「景気のよさなら、アップテンポのコロショーのほうじゃないの?」
「でもやっぱ、センパイがたにめぐるの凶悪な音を聴いてほしいじゃん!」
町田アンナと和緒がそんな言葉を交わしていると、宮岡部長が取りなしてくれた。
「それって、わたしも拝見したあの二曲のことだよね? よかったら、両方聴かせてほしいかな」
「何だよ。一曲じゃなかったのかよ?」
仏頂面の寺林副部長に、宮岡部長は苦笑を投げかける。
「一曲も二曲も大差ないでしょ? 篤子も、それでいいね? じゃ、お好きな順番で始めてよ」
「りょーかーい! じゃあライブのときと一緒で、まずは『小さな窓』からね!」
メンバーの賛同を得る前に、町田アンナはAのコードをかき鳴らした。
めぐるもラインセレクターですべてのエフェクターを開放し、歪んだ音色でAのパワーコードを鳴らす。ソウルフードでブーストしたラットと、ビッグマフがブレンドされて、プリアンプのトーンハンマーでパワーを増幅されたサウンドだ。その凶悪な音色が、ギターを圧する勢いで鳴り響いた。
どうも部室のミニアンプでは、ベースのパワーがまさってしまうようである。三日前の野外フェスではこれほどの差は生じていなかったので、スタジオやライブでは問題ないのだろうが――こういう事情もあって、町田アンナは新たなエフェクターを求める気持ちがいっそう高まったわけであった。
(町田さんがディストーションのエフェクターを使ったら、どんな感じになるのかな。合宿所でラットを使ったときは、すごくいい感じだったし……それも楽しみだな)
そんな思いを噛みしめてから、めぐるは弦に指先を叩きつけた。
『小さな窓』のリフである、スラップだ。当初はあれほど難しかったこのフレーズも、この数ヶ月ですっかり指に馴染んでいた。
そこに和緒のドラムと町田アンナのギター、さらに栗原理乃のピアノも重ねられると、めぐるの心はたちまち悦楽に満たされる。
昨日と一昨日の二日間で、栗原理乃のピアノも格段に切れ味を増していた。もともと彼女はピアノに関して、メンバーの誰よりも長いキャリアを有しているのだ。合宿所や野外フェスでは勝手の異なる機材であったし、フレーズを練るゆとりもなかったため、他の演奏よりも存在感が欠けていたものであるが――今ではもう、アンサンブルの立派な一部であった。
そうしてイントロを華麗に彩ったのち、Aメロでは歌に集中する。
そちらの完成度と迫力は、言うまでもなかった。五名ていどのギャラリーであれば、栗原理乃も心を乱さずに済むようだ。
機械のように正確で、それでいて妙に生々しい、栗原理乃ならではの歌声である。そのヒステリックなバイオリンめいた歌声は、今日も凄まじい勢いでめぐるの鼓膜と心をかき回してくれた。
ゆったりとしたBメロでは、ピアノの繊細な音色も鳴らされる。
タッチのつけにくい通常のキーボードでは、こういう音色を出すことが難しいようであるのだ。そうしてサビに入ったならば、別種の楽器のように荒々しい音色が渦を巻いた。
町田アンナもその迫力に負けないように、ギターをかき鳴らしている。ベースの歪みが激しくなり、ピアノの音色が加わった分、ギターの音が弱まってしまった感は否めなかったが――それを補って余るほど、町田アンナのギターは躍動していた。栗原理乃が歌のガイドとなるピアノを加えたため、町田アンナはこれまで以上に奔放なプレイを発揮できるようになったのだ。新しいエフェクターを購入すれば、ここにさらなる迫力が上乗せされるはずであった。
そうして他の面々が続々と勢いを増していっても、和緒のドラムは決して埋もれない。すべてを支えているのは、和緒のドラムであるのだ。その力強くて正確なリズムは、今日もめぐるたちの演奏をがっしりと支えてくれた。
やがて二番のAメロに達したならば、めぐるは音を止めるのと同時にエフェクターを切る。一昨日の練習から、この箇所はベースをなくすというアレンジにされたのだ。エフェクターを切るのは、激しい歪みから生じるノイズを消すための措置であった。
ベースをなくした分は、栗原理乃がピアノを披露する。Bメロよりもさらに繊細で、華麗な音色だ。ギターはミュートを多用した変形のリフで、ドラムはスネアの音数と音圧を減じていた。
Aメロの二回し目から、ベースはゆったりとしたフレーズを差し込む。
Bメロでは重々しい雰囲気を保ちつつ、和緒が十六分のハイハットワークで切迫感を追加し、そしてサビでは再度の爆発であった。
まだまだアレンジは試行錯誤のさなかであったが、めぐるはすでにこれまで以上の昂揚を覚えている。『V8チェンソー』の音色がなくなった物寂しさも、この二日間で払拭することができたのだ。どれだけ未熟であろうとも、めぐるたちは一日ごとに成長できているはずであった。
そうして町田アンナの猛烈なるギターソロに、一転して重々しいCメロ、そしてもっとも獰猛な大サビとアウトロを経て――『小さな窓』は、終了した。
とたんに、拍手が打ち鳴らされる。手を叩いているのは、二年生コンビの男女であった。
「すごいよ! ブイハチの人たちが抜けても、迫力はそのままだね!」
「うん! 栗原さんのピアノも、すごかった! この前のフェスより、断然かっこよくなってるね!」
めぐるは恐縮しながら、他の面々を見回してみた。
宮岡部長は驚嘆の表情、寺林副部長は呆然とした表情――そして轟木篤子だけが、相変わらずの仏頂面であった。
「いや……本当に驚いたよ。森藤さんたちから評判は聞いてたけど……これは、想像以上だったね」
やがて宮岡部長が、同じ表情のままそう言った。
「全員が全員、パワーアップしてるじゃん。町田さんのギターだけ、ときどき沈んじゃいそうだったけど……これから、音作りを考えていくんだよね?」
「うん! それに、マーシャルだったらもうちょい何とかなるんだけどさー! 部室のアンプだとこれでめいっぱいだから、どーしても新しいエフェクターが必要なんだよー!」
「これでギターまで激しくしたら、収拾がつかなくなりそうだけど……でもきっと、あなたたちだったらどうにかするんだろうね」
宮岡部長は天を仰いでから、何かを吹っ切るように言葉を重ねた。
「テラたちの感想を聞くのは、もう一曲のほうも聴いてからにしようか。どうぞ、続けて」
「はいはーい! それじゃあコロショーこと、『転がる少女のように』ねー!」
町田アンナは勢いよくギターをかき鳴らしてから、すぐさま「ありゃ」と手を止めた。
「ごめーん! チューニングが狂ってた! めぐる、Eをちょうだーい!」
「あ、ちょっと待ってくださいね。わたしも確認してみます」
そんな一幕を経て、町田アンナはあらためてギターをかき鳴らした。
こちらではめぐるも通常の音であるため、ギターの音色が沈むこともない。ただし、たとえ歪みのエフェクターを切っても、プリアンプで増幅したベースのパワーは健在であった。出力の小さい部室のベースアンプだと、プリアンプの恩恵もあらかたであったのだ。トーンハンマーという素敵な名を持つこちらのエフェクターも、もはやめぐるにとってはかけがえのない存在であるように感じられていた。
(スタジオでもしっかり音を確かめてから、買うかどうかを決めるつもりだったけど……何だかもう、他のエフェクターを試そうって気持ちもなくなってきちゃうなぁ)
そんな思いが、めぐるの幸福な心地に上乗せされた。
こちらの曲でも、栗原理乃のピアノは効果的である。彼女のおかげで、さらに疾走感が増したのだ。それでいて、ギターの邪魔になることもなく、二人で仲良くもつれ合いながら、断崖を転げ落ちているような風情であった。
そうしてBメロでは町田アンナが歌を受け持ち、ギターがシンプルになる分はピアノが躍動する。このときこそ、栗原理乃の技量が存分に発揮された。物心がつく前からピアノのレッスンをしていたという栗原理乃は、その気になればいくらでも難解なフレーズを弾きこなせるのだ。その音色とフレーズは、彼女の歌声に負けないぐらい狂騒的で耳に突き刺さった。
そしてサビでは、二人が素晴らしいハーモニーを見せる。まったく異なる声質でありながら、二人の歌声は何の不足もなく調和していた。ギターもピアノも派手なフレーズを控えることになるが、今は誰もが二人の歌に聞き惚れているはずであった。
めぐるは和緒とともに、しっかりとリズムを支えてみせる。ベースのフレーズをうねらせるのは、歌の継ぎ目だけで十分であろう。引くべきときには引かないと、楽曲の調和は得られないのだ。二人の歌声にひたりながら、和緒とともにリズムを支えるというのは、歪んだ音色でスラップを披露するのと同じぐらい幸福な心地であった。
そうして『転がる少女のように』も、無事に完奏する。
すると今度は、宮岡部長も一緒になって拍手をしてくれた。
「すごいね。なんだかもう、言葉も出ないよ。……ということで、テラたちに感想をいただこうかな」
宮岡部長がそのようにうながすと、ぽかんとしていた寺林副部長は慌ただしくそっぽを向きながら「ふん!」と鼻を鳴らした。
「俺に何を言わせようってんだよ? 見くびっていて悪かったとでも言えば、満足なのか?」
「わたしはそんなつもりで引き留めたんじゃないよ。ただ、この子たちの今の実力を見届けてほしかったのさ」
「そんなもん……うんざりするぐらい、思い知らされたよ」
と、寺林副部長はにわかに悄然と肩を落としてしまった。
「でも、こんなのおかしいだろ。なんでたったの三ヶ月ていどで、こんな別人みたいな演奏になってるんだよ」
「別人みたいかな? 最初に観たときの勢いはそのままで、飛躍的に成長したって感じだと思うけど」
「だから、成長のスピードが異常だろって言ってるんだよ」
「うん。わたしもそれは同感だよ。彼女たちは過半数が初心者だったから、のびしろが物凄かったのかもね。……それでもまあ、異常の部類だと思うけど」
宮岡部長はどこか優しげな微笑みを寺林副部長に投げかけてから、めぐるたちのほうに向きなおってきた。
「あなたたちは、本当にすごいよ。全パート、どこにも隙がないと思う。同業なんで、ギターの採点はついつい厳しくなっちゃうけど……町田さんも、見違えた。以前のあなたはもっと勢いまかせだったのに、その勢いまで倍増してるね」
「ありがとー! ブチョーのギターも、ウチは好きな感じだよー!」
「どういたしまして」と笑顔で応じてから、宮岡部長は轟木篤子に向きなおった。
「篤子は、どうだった? ジャンル的に好みに合うかどうかはわからないけど、一年生バンドとは思えない完成度と迫力だったでしょ?」
轟木篤子は「そうだね」としか答えなかった。
その仏頂面にも変わりはなく、やぶにらみの目はあらぬ方向に向けられたままである。宮岡部長はひとつ苦笑してから、通学鞄を手に取った。
「それじゃあ見学会は、ここまでね。本当は他の曲も拝見したかったんだけど、わたしもちょっと予定が詰まってるからさ。それは本番のお楽しみってことにさせていただくよ」
「うん、りょーかい! みんな、お疲れさまー!」
宮岡部長に続いて、他の面々も帰り支度を始める。
そんな中、轟木篤子だけが腰を上げようとしなかった。
「篤子は、帰らないの? 今日も予備校なんでしょ?」
「……あと三十分だけ余裕があるから、それまで見物していくよ」
轟木篤子のぶっきらぼうな返答に、宮岡部長は「へえ」と目を丸くした。
「やっぱりあんたも、それなり以上の衝撃を受けてたんだね。わかりづらいったら、ありゃしないよ」
「うるさいな。用事があるなら、とっとと行けば?」
「はいはい。それじゃあみんな、お疲れ様。くれぐれも、戸締りはよろしくね」
そうして轟木篤子を除く面々は、部室を出ていった。
町田アンナは上気した顔で、「さて!」と声を張り上げる。
「それじゃー次は、どうしよっか? 文化祭で新しい曲をお披露目するなら、それを重点的に練習しなきゃだよねー!」
「別に、今から候補曲を絞らなくてもいいんじゃない? 何せ、二ヶ月近くもあるんだからさ」
「そっかそっか! じゃ、どの曲もまんべんなく練習して、一番かっちょよく仕上がったやつをお披露目することにしよっか!」
見物人の目を気にするでもなく、町田アンナと和緒がそのように議論する。
すると――轟木篤子がにわかに立ち上がり、こちらに近づいてきた。
「ねえ、ちょっと相談があるんだけど」
「んー、なになに? センパイも、参加したくなっちゃった?」
「まあ、そんなようなもんだね」
轟木篤子は分厚い眼鏡のレンズ越しに、町田アンナの笑顔と栗原理乃のおどおどとした顔を見比べた。
「ギターのあんたと、ヴォーカルのあんた。……あたしとバンドを組んでくれない?」
「えー? 文化祭に向けて、別のバンドもやろーってこと? でも、センパイだって忙しいんでしょー?」
「文化祭なんて、どうでもいいよ。あたしは来年の話をしてるのさ」
ぶすっとした顔のまま、轟木篤子はそのように言いつのった。
「大学受験が終わったら、あたしは本格的にバンド活動をスタートさせる。そのメンバーに、あんたたちを誘いたいんだよ」
「んー? でも、ウチらもガンガン活動していくつもりだからさー! 掛け持ちは、ちょっとキビしーかなー!」
「あたしだって、そんな片手間の人間はいらないよ。こっちのバンドで、上を目指してみない?」
町田アンナは、きょとんと目を丸くした。
「なんか、誤解してるのかなー? ウチらはお遊びバンドじゃなくって、これがマジバンドなんだよー?」
「そんなことはわかってるよ。だから、そのバンドをぬけてあたしと組んでほしいってお願いしてるのさ」
町田アンナはますます驚いた顔になり――そしてめぐるは、全身から血の気が引く思いであった。
「待って待って! それ、マジで言ってんのー?」
「マジもマジ、大マジだよ。あんたのギターとあんたのヴォーカルは、大したもんだ。あたしと組んだら、もっと物凄いバンドを作れるはずだよ」
「いや、だけど――!」
「そんな馬鹿みたいに音を歪ませるベースと一緒じゃ、大変でしょ? あたしだったら、もっとあんたたちの歌とギターを活かすことができる。嘘だと思うなら、ここで証明してみせようか?」
そう言って、轟木篤子はめぐるに向きなおってきた。
「ちょっとそのベースを貸してごらんよ。リッケンなんてさわったこともないけど、五分もあればそいつの魅力を残らず引き出してみせるからさ。それでもって、あんた以上にこっちの二人の魅力も引き出してみせるよ」
めぐるは硬直してしまい、まばたきをすることもできなくなってしまっている。
すると――町田アンナの怒声が響きわたった。
「あんた、ナニを言ってるんだよ!」
めぐるは強張った首を無理やりねじ曲げて、町田アンナのほうを振り返る。
町田アンナの鳶色の目は火のように燃えあがり、オレンジ色の髪も逆立ちそうな勢いである。町田アンナがここまでの怒りをあらわにするのは初めてであったので、めぐるは思わず息を呑んでしまった。
「めぐるは大事なメンバーなんだよ! それを小馬鹿にされて、ウチが黙ってるとでも思ってんの?」
「何をそんなにいきりたってるのさ。そいつよりあたしのほうが上等なベーシストだってことは、事実でしょ?」
「知らねーよ! ウチにとっては、めぐるが最高のベースなんだよ! もちろん、和緒のドラムもね!」
「それは、ただの思い込みだね。今のリズム隊じゃ、あんたたちの歌とギターは活かしきれない。あたしと組めば、間違いなく上を目指せるはずさ」
「てめー!」と、町田アンナは轟木篤子につかみかかろうとした。
それを横から抱きとめたのは、栗原理乃である。その白皙には、和緒に負けないぐらい凛々しい表情がたたえられていた。
「アンナちゃん、落ち着いて。……申し訳ありませんが、あなたのご提案はお断りさせていただきます。私たちには練習がありますので、どうかお引き取り願えませんか?」
「へえ。あんたもそういうスタンスなんだ? まずは、あたしの腕を確かめるべきじゃない?」
「いえ。交渉の余地はありません。どうかお引き取りください」
「あっそう」と、轟木篤子は肩をすくめた。
「じゃ、今日のところはここまでにしておくよ。何にせよ、本格的なスタートは来年だからね」
「来年も再来年もねーよ! 二度と顔を見せるんじゃねー!」
「あたしだってここの部員なんだから、そういうわけにはいかないね。あたしの顔を見たくないんなら、そっちが退部すれば?」
轟木篤子はきびすを返して、さっさと部室を出ていってしまった。
町田アンナは火のような眼差しでその姿を見届けて――それからいきなり、「もー!」と両手でオレンジ色の頭をかき回した。
「なんだよ、あいつ! めっちゃムカつくー! 理乃が止めてくれなかったら、手が出ちゃってたよー!」
「うん。本当に失礼な人だったね。……遠藤さんも磯脇さんも、どうかお気になさらないでください」
凛々しい表情を消した栗原理乃は、おずおずと微笑みかけてくる。
すると、町田アンナも大慌てでめぐるたちのほうを振り返ってきた。
「ウチ、ひさびさにマジギレしちゃったよー! 普段は絶対キレたりしないから、ヒかないでね? ね?」
「いやぁ。あんな恐ろしい姿を見せられたら、今後はこっちも委縮しちゃうねぇ」
和緒が取りすました顔でそのように言いたてると、町田アンナは「やめてよー!」と頭を抱え込んだ。
「あんなリフジンなこと言われない限り、ウチはぜーったいキレたりしないから! てゆーか、あんたはアレぐらいでビビったりしないっしょー?」
「いえいえ。恐怖のあまり、言葉も出ませんでした。今後は町田様のお怒りに触れないように、身をつつしむ所存でございます」
「だから、やめてってばー! ウチは理乃を見習って、おしとやかに生きていくって決めたんだから!」
「普段の生活態度から鑑みるに、まったく努力のあとが見られませんですね」
和緒が軽妙に言葉を返していくと、その場にはすみやかに普段通りの空気が舞い戻ってくる。
だが――めぐるの中に生じた鉛のように重い感覚は、いつまでも消えようとしなかったのだった。




