中編
きっかけは初めての夜会だった。14歳になった私は、父の薦めで社交界デビューすることになったのだ。
歳の若い私が、貴族の集まる夜会に行くなど普通はない話が、実家は裕福でなく、父の事業も失敗し、ますます評判もよくなくなってきた時期だったので、父や兄は人並み以上の顔立ちの私に賭けたのだと思う。
誰か金をもっていそうな上位貴族の目に留まって、結婚でもしてくれたらお支度金で立て直せるとでも思っていたのだろう。
私にあったのは遠縁のビリエティ侯爵夫人への紹介状だけで、礼儀も作法も知らない私を夫人は快くテーブルに招いて、そばに座るようにおっしゃってくださった。
私はきらびやかな社交場にキョロキョロと目を泳がせるばかり。
「ビリエティ侯爵夫人。楽しんでいますか?」
「ああ、これはこれは王太子殿下」
ビリエティ侯爵夫人以下、テーブルにいた女性全てが立ち上がり、その若き男性へと膝折礼をとるので、私も遅れて同じような所作を致した。
その男性は遅れた私をじっと見て微笑んだ。
「見ない顔ですね。お嬢さん。お名前は?」
「で、殿下。彼女は私の遠縁の娘でして。そ、そらアリー。殿下にお名前を申し上げなさい」
と夫人が慌てておっしゃったので、私も慌てながら自己紹介した。
「あ、あのう。デジテット子爵の娘でアリアーナと申します……」
「ほう。デジテット卿の。ね」
面白そうに微笑む男性に、夫人はあたふたしながら補足していた。
「殿下。アリーは社交界に出るのが初めてですのよ。不調法なのはどうぞお許しを」
しかし男性はニヤニヤと笑うばかりで私の右手首を取った。
「いいや許せないな。こっちへ来たまえ」
「殿下! どうかお戯れはおやめください。この子は私がデジテット卿より預かったのです」
「まぁまぁビリエティ侯爵夫人。不馴れな彼女に少し楽しいことを教えるだけだよ。なあキミ。このカーテンの後ろに小さい部屋がある。そこへ行こう」
「殿下。その儀ばかりはお許しください。作法ならば私が教えます」
「心配症だなぁ夫人は。私は優しいのだぞ。さぁ来たまえ」
彼はビリエティ侯爵夫人の制止を振り払って私を小部屋へと案内した。警護する騎士が二人立っていたのだが、彼らに部屋の外で待つように言っているところで私は身を翻して彼から距離をとった。
「お、おいキミ」
「うふふ殿下、捕まえてみてください」
そう言って私は戯れのように駆け出す。彼は妖しく笑って私の背中に迫った。
「面白いやつだなぁ。でもこういうのも興奮するぞ。そーら、そらそら捕まえるぞ」
「やーん、殿下ったらお止めになってぇ」
幾重にも重なるカーテンは、一つ一つの部屋の仕切りとなっている。私はそのカーテンの間を蝶のように駆け回った。
「ほらほら逃げないと串刺しの刑だぞォ」
「やんやん、お止めください~」
そう言ったところで、私は真紅のカーテンの中に飛び込んだ。そこには数人の人たちがいる。そのことをあらかじめ知っていたのだ……。
「お助けください、王太子殿下が私を──」
「え?」
私は中央に座る女主人の膝に倒れ混む。彼女は驚いていたものの、殿下と聞いて私を抱いてくれた。
その女主人は、私を撫でながら入ってきた殿下を睨み付けたのだ。
「どういうことなの? ハーヴェイ!」
「やや、クリスティン。これは──、違うのだ。彼女が私を誘ったんだ!」
それは、王太子殿下の婚約者である、クリスティン・オワードゲイル公爵令嬢だった。彼女は私を保護するよう侍女に申し付けると、立ち上がって王太子殿下に詰め寄った。
「誘ったですって!? あの娘は私の膝に泣きながらすがってきたのよ? あなたの身持ちが悪いという噂は耳にしておりました。しかし私は否定していたのですよ? それをよくも裏切ってくださいましたわね!」
「ああクリスティン、勘違いするな。私が愛してるのはキミだけだ! こんなものただの遊びじゃないか!」
「よくもおっしゃいましたわね! オワードゲイルの名に懸けて許しません! ハーヴェイ、その王太子の座も私がいなかったら砂上の楼閣よ! 王宮に帰って震えるといいわ!」
私はそのやり取りを顔を青くして震えながら見ていた。──心では笑いながら。
馬鹿なハーヴェイ。でもあなたも別の人生を歩んだほうが良いわよ。弟のオズワルド殿下に太子の座を譲ってね。
そしたらあなたの好きな遊びも山ほど出きるでしょう? その後は知らないけど。
そんな王太子殿下は、私を睨み付けて真紅のカーテンへと手を掛けて叫んだ。
「アリアーナとか言ったな! よくも私の顔に泥を浴びせてくれた! 今に見ていよ!」
そしてカーテンを憤りのまま閉め、足を鳴らしながら行ってしまった。私はそのまま震えた演技をしていると、クリスティンは優しく声をかけてくれた。
「もう心配いらないのよ、アリアーナだったかしら? 私はオワードゲイル。クリスティン・オワードゲイルよ」
「ああ! 大公爵家のご令嬢でございましたか! これはとんだご無礼を! ああ、クリスティンさまの御手にすがれるとはなんたる光栄、オワードゲイルに栄光あれ!」
と、腰を九十度に曲げて膝折礼をとった。そんな私にますます優越感を覚えたのだろう。クリスティンは自分の席の横に私の席を用意して座るように言ってきた。
「あなたのお陰でハーヴェイの乱行が分かったわ。ありがとう。父に掛け合いますよ」
私はこれでは弱いと思い、また泣きながら訴えた。
「クリスティンさまがおられなかったら、私、どうなっていたか……。本当に助かりました。殿下の噂は夜会に来る前から聞いていたものですから……」
「あらどんな噂かしら?」
「たくさんの女性と関係を持っているというものです。グレース・ブルーネ男爵令嬢、アバ・ウラヌス男爵令嬢、オビート伯爵夫人──」
この頃、ハーヴェイが付き合ってた人なんて知ってるわ。全員言ってやった。彼女たちにも咎めが行くかもしれない。でもそのほうが真っ当な人生を送れるはずよ。
クリスティンは真っ赤な顔をして怒って、持っていた扇をへし折ってしまっていたけど。
彼女はハーヴェイの浮気相手の名前を全て侍女に書かせて、私の手を握ってきた。
「よく教えてくれたわね。私も踏ん切りがついたわ。実はハーヴェイとは婚約をやめて、弟のオズワルド殿下と婚約をしなおさないかという話もあって迷っていたところなのよ。あなたもハーヴェイの復讐なんて恐れなくていいのよ? そんなことがあったならすぐにオワードゲイルを頼っていらっしゃい」
と言ってくれた。まあ本当に困ったらそうするかもしれないが、そうするつもりはなかった。
前の運命で何度となくクリスティンを殺したのは私ですもんね。なんとなく申し訳なくて──。
今回の私にはしっかりと前の人生の記憶があった。女神アデンが削除し忘れたのかもしれないし、真っ当な人生を歩むようにわざとそうしてくれたのかもしれない。
とは言え、もう私が女王となるルートはなくなったと思う。そうすれば何万という恨みを得なくて済むだろう。
また人生をやり直させられるかもしれないが、一度でいい。トーマスとハリーと有益な人生を歩んでみたい。
こうしてはいられなかった。
家に帰って家族に王太子殿下とトラブルになったというと、みんなパニックを起こしたようになっていたが、そのほうがいい。
外戚や宰相や大将軍なんて、父や兄には分不相応だもの。こうして臆病に恐れているほうが人間らしいわよ。
ハーヴェイは早速圧力をかけてきたようで、父は免職、爵位も領地もとられることとなったが、私の不始末だと言い訳をしに行った。
まあどうでもいいわ。父には私は気が狂って修道院に入れたと言わせることにした。最初からそうするつもりだったもの。
そうすることによって、いくらか温情をもらえたようで、免職は取り消されなかったものの、爵位と領地はそのままとなった。
その代わり、私は修道院に入ったのだ。クリスティン・オワードゲイルは心配して手紙を送ってきたが、私は「私がクリスティンさまの婚約をおかしくしたので、このまま神に仕えます。どうかお気遣いなく」と返信すると、せめて力になりたいと、私の父に大きな仕事を与えてくれたようだった。
前の運命では恋のライバルとして煙たい存在で、今回も利用してやろうと思っただけなのに、本当にいい人だわ。ただ私の性格が悪いだけかもしれないけど。
修道院に入ると、院主のマリアさまは私の洗礼名は何がよいかと候補を紙に書いて見せてくれた。その中に「メリッサ」の名を見つけて即座に指差した。
「マリアさま。私はこちらの名前がいいです」
「おお、聖女メリッサの名前を選ばれましたか。あなたにピッタリですよ、シスターメリッサ」
「ありがとうございます」
私は院主に深く頭を下げた。ここでメリッサの名前があるなんて……。これは運命かもしれないわ。
◇
幾年か過ぎた。私は待ったのだ。私が女王を捨てて逃げた年月を。
その頃になると、私は修道士から修道司祭の地位に昇格していた。
クリスティンはオズワルド王太子と結婚し、王宮に入った。私が「おめでとうございます」と手紙を送ると、たくさんの花とともに長文の手紙を送ってきてくれた。本当にいい人。
クリスティンとオズワルドならきっといい国作りをしてくれるわ。私なんかとは違う。二人が国家の父母として政治を行うべきなのだと改めて思った。
ハーヴェイはよくは知らない。クリスティンの手紙には、国王陛下から辺境の一郡と公爵の地位を賜ったらしいけど、どうでもいいわ。おそらく、贅沢して一郡ではまかないきれずに反乱でも起こさせて、生涯、塔にでも幽閉されるでしょ。なんとなく想像がつくわ。
時期が来たので、私は院主マリアさまに提案した。私を田舎のほうに派遣してくださいと。そこで神の教えを布教したいと思いますと願い出たのだ。
「シスターメリッサ。あなたの常日頃の行いは勤勉で後進を育てるのが上手よ。だからこの都で新しい院を作り、修道女や孤児を導くのが将来の仕事だとばかり思っておりました。でもあなたは敢えて困難の道を選ぶというのね。田舎は食べるものも少なく、暖をとることも難しいかもしれません。それでもあなたは行くというのならきっと神のお導きだわ。私は止めません。しかし、お友だちの王太子妃にはご挨拶したらよいでしょう」
と院主マリアさまの計らいで、クリスティンのいる王宮にいくこととなった。が、正直面倒だった。堅苦しい虚礼をしなくてはならないのは億劫なのだ。ましてや、あそこは元は私のものだったし。誰も見ていないところでため息をついたが仕方がない。
王宮にやってくると、なんとクリスティンだけでなく、オズワルド殿下と国王夫妻が私を庭園まで迎えに来てくれた。
オズワルドなんて、あの頃は私にいつ殺されるのかビクビクしていたくせに、ずいぶんと明るくてハキハキした青年となったものだわ。ふふ。
国王陛下は私の手を握って来たので、私はおそれ多いと辞退しようとしたが、それすらも奥ゆかしいと好意的にとられたようだ。
「シスターメリッサ。あなたはクリスティンへの手紙で何度も余の乗る馬車を点検せよと忠告してくださいましたね。あれのお陰で、車軸の内部が腐っているのを見つけられましたよ。一歩間違えれば大事故でした。本日、その女神の祝福を受けたお顔を見ることが出来て光栄です」
「いいえ、陛下。全ては神のお導きです。そして良民と陛下の常日頃の行いです。私などではなく、神や民を大切になすってください」
よくもこんな言葉が自分の中から出てくるものだ。陛下や王妃はさらに恐縮し、オズワルドは私を見つめながらポーっとしてたので、クリスティンにつねられていた。所詮、オズワルドもハーヴェイの兄弟なのね、この顔が好みなのだわ。まあ自制心がありそうだからクリスティンを大切にするでしょうけど。
王宮の応接間に入ると薄暗かった。それは当然だわ。節約しているのね。私がいた頃は、この五倍はロウソクを使っていたもの。
そこで私は辺境の田舎に布教に行くというと、クリスティンは涙を流して、どうか都に留まるように言ってきたが、決心は固いし、遠くに行っても自分たちの友情は遠くに離れはしない。四季の境に必ず手紙を書くと約束をして解放してもらった。
国王陛下も、私のために立派な馬車一両と、金貨の入った箱を三つもくれた。これで教会を建てろと言うのだ。しかし馬車は貰うが、金貨は辞退した。
だが、国王陛下はしつこく箱を押し付けてくるので、民のために公共事業に使うべきだと、怒気を含んで言うと、恐縮して「シスターメリッサ、あなたの言う通りです。本当に神に支える人とはこう言う方なのですね」とますます羨望の眼差しで言っていたが、本当に不要なのだ。
トーマスの元に行くのに、金など不要なのだから。
◇
日を選んで私は院主や修道士たちに別れを告げて、お世話になった修道院を出た。みんな涙を流しながら見送ってくれた。
国王陛下より賜った立派な幌付きの馬車を、自分で御しながら、トーマスのいる地方のこの先を目指して。
そう。目的はトーマスのいるニール郡ではない。その先のサンルー郡なのだ。そこには古びた無人の教会がある。そこを修繕して布教をする。
という名目で──。
私はニール郡に入って、トーマスの家に着く頃には夜となっていた。私はそこで馬の手綱を引く。馬は大人しくそこで足を止めた。従順な馬だ。
トーマスの家を見ると明かりがある。賑やかだ。心なしか前より立派な佇まいとなっていた。
私は胸をときめかせて、懐かしい我が家の扉を叩いたのだ。
はい、という男の声。忘れはしない、トーマスの声だ。彼はその扉を開けてくれた。
「どなたです?」
「ああトーマス……」
私は彼の顔をみるなり、我慢ができなかった。涙が溢れて止まらない。その場に膝を着いてしまった。彼は驚いて、私を起こしてくれた。
「いかがなさいましたシスター?」
そうだわ。しっかりしないといけない。まだ終わっていないもの。私は力なく立ち上がってトーマスの胸にすがった。
「私は都の修道院から来たメリッサと申します。これからサンルー郡へと布教に行く道中で、馬を押しても引いても進まなくなってしまいました。後生でございます。どうか一晩の宿をお借りできないでしょうか?」
トーマスは快く引き受けてくれた。中に入ると、彼の父母は健在で、私をテーブルに誘ってくれた。
晩餐の内容は以前とは違い、焼きたてのパンと木苺のジャムがあった。
国王陛下の政治はとてもよく、この地まで行き届いているのだわと感心した。
ありがたく晩餐をいただき、床の上でいいと言うのにベッドを用意してくれた。
次の日、誰よりも早く起きて、農具を洗って待っていると、みんな大層驚いていた。
勝手知ったる自分の家よ。今は麦を蒔く時期ですもの。何を揃えるかなんて分かっているわ。西の山脈に雲がかかっているから今晩中には山を越えて明日には雨を降らせる。そうなる前に蒔かなくてはならないもの。
「ただでお世話になるなど、申し訳ないです。どうかお手伝いさせてください。今は麦を蒔く時期でしょう? 私も修道院で修行しておりましたので、猫の手くらいにはなりますわ」
「おおシスターメリッサ。なんと頼もしいお言葉でしょう。たしかにもうじき雨が降るので、今蒔いてしまわないといけません。そう言っていただけると大変助かります」
トーマスの言葉──。とても懐かしいし、前と変わらない。優しい、優しい人。
男たちは畑を柔らかく耕し、私はトーマスの母ベラとともに、麦を蒔く。私の蒔きかたが、素人じゃないというので、謙遜したが当たり前のことだ。だってあなたの息子から直接習って、何年もともに蒔いたのだもの。
しかしある一定のところにくると、切り株があるということでトーマスと父ジャックは立ち往生してしまった。
「どうしました?」
「あ、シスターメリッサ。切り株です。これをどうしようと思案していたところです」
「いい手がありますわ」
私は駆け出して、馬車の馬を連れてきた。トーマスの家には馬がいない。農耕のためには地主に作物を納めて借りていたのだ。
トーマスと父母は、その馬を見て大層
驚いていた。たしかにこんないい馬はこの辺にはいないものね。
「す、すごい馬ですね、シスターメリッサ」
「ええ。国王陛下から下賜されたものですもの」
「へ、陛下から? あなたは一体……」
私は、それを聞きながらさっさと切り株や根の隙間に縄を巻き付けて、馬の鞍へと縄の端を結んだ。
「さあみなさん、馬とともに切り株を起こしますよ! そーれー!」
私は馬の手綱を引く。トーマスとジャックが切り株を押すと、それは簡単に抜けた。私はそのまま、馬を草原に連れていって食事をさせ、鞍の縄は外してやった。
そこに、トーマスと父母は駆け付けてきた。
「ああシスターメリッサ! なんという見事な手際でしょう!」
「いえいえ。お日様はまだ大分高いですよ。さっさと麦を蒔きましょう。そうすれば、数日は楽になりますからね」
みんなその通りと同調して、楽しく麦を蒔いた。夕方、薄暗くなる頃、私たちは談笑しながら家路についたが、その道すがら心ならずも別れの挨拶をすると、三人は必死で引き留めてきた。
今日のお礼にもう一晩、体を休めてくださいというのだ。もちろんそうするつもりだった。
次の日はやはり雨だった。雨なので、もう少し留まるようにと引き留めてきた。
次の日は大風だった。雨の日の次の日だもの当たり前だわ。全て計算通り。この間に、楽しい時間を過ごした。まるで家族のように。
次の日は晴れたが、二日の逗留のお礼に、また作業を手伝わせて欲しいと言うと、三人とも喜んでくれた。
少しばかり庭の草むしりをすると、トーマスが、雨のお陰で麦の芽が出ているかを畑に見に行来ませんかと誘ってきたので、しめたと思い一緒に畑へと出掛けていった。
畑では少しばかり土の柔らかいところに麦の芽が出ているので、手を合わせて二人で喜んだ。
トーマスは家に帰りたくないようにゆっくりと歩く。私もそれに歩みを合わせた。そしていろんな話をしたのだ。
「ああシスターメリッサ。あなたは偉大な人ですね、国王陛下の信頼を受け、神の教えを広めようとしている。私はあなたを尊敬しています」
「いいえ、とんでもありません」
「あなたは素晴らしい人です」
「トーマス。あなただって同じよ」
「いいや、私はあなたを……、あなたが……、もしもあなたが……、ですがあなたには布教という使命がお有りになって、私なぞ……、あなたは、あなた、シスターメリッサ──。このまま家に帰る頃には薄暗くなってしまいます。どうか、明日に出立を延ばしてください」
「でもご迷惑だわ」
「いいえ! シスターメリッサ。決して迷惑なんか! 狭い家だし、食事も都に比べたら美味しくないでしょう。どうか、どうかそんなことおっしゃらないで……」
「トーマス。では、もう一日だけ甘えさせて貰おうかしら?」
「ああ、それはこちらも望むところです。きっと母が美味しい料理を作ってますよ。いえあの……シスターの口には合わないかもしれませんが……」
「いいえ、トーマス。ベラのお料理はとっても美味しいわよ」
「で、ですよね。私も自慢なんです。母の料理は、誰に出しても……」
「あのお料理の腕を受け継ぎたいくらいだわ」
「あ! ならば、どうぞ! 母に言います。麦も蒔き終わりましたし、暇ですので、どうぞ、どうぞ!」
「あら、とても嬉しいわ」
家に帰ると、トーマスはベラにそれを伝えると、ベラは大変恐縮していたが、快く教えてくれると言ってくれた。私もとっても嬉しい。
その間に、トーマスにプロポーズして欲しいのだ。最悪、私から言っても良いが、それはちょっと違う気がしていた。
次の日、私は誰よりも早く起きて、村の井戸に水を汲みに行くと、後ろからベラがついてきていた。
ベラも水を汲んで、私のとなりに並んで歩きながら話をして来た。
「シスター。あなたは本当にとても出来た人ですね」
「そんなまさか。修道院では当たり前のことでしたので」
「ねぇ、シスター……。男どもはいざとなると頼りにならないから私から言うけどさァ……。あなたがトーマスと結婚してくれたら、どんなに嬉しいことでしょうねぇ。あなたは働き者だし、美人だし、神に仕える身だから無理とは思うけど、少しはトーマスにもチャンスはあるのかねェ……」
「そんなベラ。私にはトーマスはもったいないです。彼は優しいし、頼り甲斐があります。トーマスのほうで私なぞご迷惑でしょう」
「い、い、いやいや。まさかそんな! 本当ですかね? トーマスのような百姓をもったいないと? からかってらっしゃるのでは?」
「とんでもありません。昨日、二人きりで歩きましたが、トーマスから私になにもありませんでした。きっと関心がないのですわ。本日お料理を教えていただいたら、すぐにでもお暇するつもりです」
「マァ、なにやってるんだろうね、アイツったら本当に意気地のない! シスターメリッサ、どうか私に少しだけ時間をください。あのバカ息子の尻を引っ張叩いてやりますから!」
「アラ。ベラ、それはどう言うことかしら? 叩くなんて良くありませんわ」
「いえいえ、シスターは何も気にしなくていいのです。少々お待ちを!」
と言い残すと、家の中に駆け込んで行った。ふふ。これできっと思い通りになるわ。
トーマスはベラから言われたようだったが、どうも私になかなか真意を言い出せないらしく、私とベラがキッチンでお料理をしている間に、外の井戸で顔を何度も洗ったり、キッチンに入ってはシャツの襟を摘まんでは弾いたりしていたので、ベラから怒鳴らていた。うふふ、可愛い人ね。
そのうちにようやく決心したのか、私が一人になったところを見計らってキッチンに入ってきた。
「あ、あ、あ、あの……。シスターメリッサ。少しお話が──」
「あらトーマス。ちょうど良かったわ。ベラに習った通りに豆を煮てみたの。ちょっと口を開けてみてくださる?」
「え?」
戸惑うトーマスに近づくと、彼は言われるがままに口を開けたので、大きめの豆を摘まんでねじ込んでやると、熱すぎたのか目を白黒させていた。
「どう? 美味しい? あなたの母の味に近いかしら?」
「はふ、はふ、はふ、ほ、ほっへも、ほいひいへふ、ひふはーへひっは……」
「あら、ソースが付いてるわ」
口の端しに付いたソースを指で掬いとり、自分の口の中に入れると、トーマスは腰が砕けたように床に崩れ、何も言えずに私の顔を見つめていたので、ますます楽しくなった。
「これを毎日トーマスに味わって貰ったら、どんなに嬉しいかしら?」
へたり込んだ彼の顔を覗き込みながら、直球で助け船を出してやると、彼は慌てて立ち上がって、私の肩をガッチリと掴み押さえた。
「ほ、本当ですか、シスターメリッサ。それは私もどんなに嬉しいことでしょう」
「あらどうして?」
「そ、そ、そ、それは、そのう。私はあなたに一目会ったその日から、分不相応な思いを抱いているからです。あなたは私に会った瞬間に私の名前を──。まるで伝えに聞く、女神のアデンのようで、慈悲深く、私に救いを与えて下さいました」
女神アデン……。嬉しいけど、少し複雑だわ。
「私は人生のほんのひとときの幸せを噛み締めております。こんなかたがこの世にいらっしゃって、私のそばに来てくださったことは奇跡です」
トーマスはなかなか本心を言わない。前の時も私から言ったような気がしたわ。本当に可愛いわ。
「ですから、そのぅ……」
「運命?」
「はい。ですが、その……」
「私のことをどう思うの?」
「それはその……、まことにおそれ多く……」
「トーマス。はっきりおっしゃってくださらないと分からないわ」
「ああ、シスターメリッサ。私はあなたを好いておるのです。神に仕えるあなたにこんな気持ちを抱いてしまい、申し訳ないです」
「あら。私も好きよ?」
「え?」
「トーマスのこと」
「え、そんなまさか──」
彼に近づくと、トーマスはよろめいて後ろに下がったために壁にぶつかってしまい、その拍子に棚から鍋が落ちてきて、それを被ってしまったので笑ってしまった。トーマスも鍋を取りながら、私に合わせて笑った。私たちは涙を流しながら笑いあったのだ。
「うふふ、トーマス。こうしてともに笑い合える人生を送りたいものね」
「あの、それは、つまり……」
「いやだわ。女の口から言わせるつもり?」
「いえ、そんなまさか、シスターメリッサ。私と結婚してくださるんで?」
「ええ。トーマス。お受けするわ」
トーマスは顔を赤くしたまま固まっていたが、急に私を抱き締めてきたので、私もその背中に手を回した。言葉はもういらなかった。しかしベラが入ってきて空咳を打つので、私たちは照れて離れた。
「か、か、か、母さん。シスターメリッサが、僕の嫁になってくれるって──」
「聞いてたわよゥ。本当にジャックと同じで意気地のない……。でもシスター、本当に良いのでしょうか? あなたには布教の志しもおありだし、神に仕える身です。こんな貧しい農家に嫁ぐなど許されるのでしょうか?」
ベラの疑問はもっともだ。私は答えた。
「もちろん私は神に仕える身で、叙階は修道司祭です。国王陛下も私の布教に期待してくださっております」
と現状を伝えると目を丸くして、大変なことだと慌てふためいていた。
「ですが神の教えにこうありますよ。“目的地に向かう気持ちは崇高だ。しかしたどり着かなくとも幸せは道の半ばにもある”と。私はトーマスに会って運命を感じました。神の教えは万民を救います。私がここにいても救えるはずです。私は教会と国王陛下に還俗を願い出るつもりです。その返答が来るまで結婚は少しお待ちください。でもきっと還俗は許されるはずです」
と言うと、トーマスも父母も喜んでくれた。私も嬉しい。ようやく目的が達成するのだから。
トーマスの父母は前の運命で私が殺したも同然だ。きっちりと孝行したい。罪滅ぼしをしたいのだ。
私は院主のマリアさまと、国王陛下、そしてクリスティンに還俗したい旨を綴り、手紙を送った。手紙が向こうに行って、返信が届くまでに二週間はかかるだろう。
それまでの間、私とトーマスは恋人気分を味わった。
しかし、二週間経っても返信はなく、少しばかり心配になった。なにしろ、この還俗の件は今まで経験したことがない。院主さまも、国王陛下も私を気に入っているので、ひょっとしたら還俗は許されないのかもしれないと思い始めていた。
一ヶ月後にこの土地の領主である伯爵家から使者が来て、私とトーマスに今すぐ来るように言われた。
馬車まで用意されており、伯爵が何用であろうと、私もこんなことを味わった経験はなかったので、トーマスとおっかなびっくり馬車に乗ってお屋敷まで連れていかれた。
すると屋敷の庭に、高貴な人が乗る馬車が停められていた。伯爵であれば二頭から四頭だての馬車であるが、あれは六頭だててある。しかも金や銀の装飾もある。あんなもの王族でしか乗れないと不信に思いながら屋敷に入ると、そこにはクリスティンとオズワルドの夫婦がいた。
私を見るとクリスティンは涙を流して立ち上がった。
私も──、泣きながらクリスティンに抱きついていた。
なんてこと──?
私にこんな感情があったなんて。
あの扇で打ち据えたクリスティンにこんな友情を感じていたなんて……。
私たちは泣いて言葉にならなかったが、意味が分かった。クリスティンは私の結婚を祝いに、こんな田舎にやってきてくれたのだわ。
「おめでとう、アリアーナ。私もとっても嬉しいわ……」
「ああクリスティンさま。そのようなお言葉、私にはもったいなくて、もったいなくて……」
「ああアリアーナ。私はずっと胸が痛かったのよ? 私のために人生を神に捧げてしまって。でも本当に良かった。ねぇアリアーナ。あなたの良い人を紹介してくださらない?」
私の後ろでは、全身を硬直させたトーマスが棒のように立っていたので、私は彼の手を引いて夫妻の前に立たせた。
「王太子殿下、妃殿下。こちら私の夫になります、トーマスですの。トーマス。こちらはオズワルド王太子殿下、そして私の親友クリスティン妃殿下」
トーマスは笑いながら白目を向いて意識を失ってしまったので、オズワルドに支えられて目を覚ましていた。
「おいキミ。上手くやったな、シスターメリッサの心を射止めるなんて私の次くらいに幸せ者だぞ?」
でもオズワルドに声をかけられて、またまた意識がどこかに飛んでしまった。
オズワルドはそんなトーマスの様子が面白いのか、ニヤついているので、クリスティンに咎められていた。そしてもう一度トーマスを揺り起こしたのだ。
「キミしっかりしたまえ!」
「う、うあ! お、王太子殿下さま……、これはこれは失礼を……」
トーマスは必死に起きようともがいているところで、またオズワルドだった。
「キミ。私を王太子と思って慌てふためいているな?」
「は、はい。こんな高貴なお方に会うのは初めてで……」
「いやいや、シスターメリッサは我が父も気に入っておってな、今回はここに来たがっておったが、公務があるから私を代理にたてたのだ。だからここでは私は国王同然なのだぞ?」
そう言うとトーマスはまたもやひっくり返ってしまった。それをまたオズワルドが笑うので、クリスティンに耳を引っ張られていた。
ああ……! ここだ。ここに幸せがあったのだ。以前の私はここにいる人たちを全員殺した。
クリスティンも、オズワルドも、領主の伯爵も、トーマスさえも。
でも今は全員が生きてここにいる。これが幸せだ。本当の幸せなのだと涙した。
クリスティンは泣いた私を気にかけてくれ、応接間に誘ってくれたので四人でそちらに向かった。
オズワルドは院主マリアさまからの手紙を持ってきており、中を見るように言ってきたので、検めると果たして還俗を許可する旨の内容だった。
「アリアーナ。これであなたもトーマスと結婚出来るわね、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ねぇアリアーナ。私、前から思っていた事があったのだけど……」
とクリスティンは恥ずかしそうに声のトーンを落として言う。こんな場面、私は知らないので、彼女が何を言うか想定出来なかった。
「私たち、義姉妹になりませんこと? 私は、とてもあなたを尊敬しているのです」
と言うので、驚いて言葉を失ってしまった。
クリスティンは私に良くしてくれるし、こんな場所にもお祝いのために駆け付けてくれる。
しかし私は、前に彼女に叩かれたことを恨んで彼女の死を望んだ。それはたった一度ではない。
彼女を、彼女の家族である、オワードゲイル公爵家を根絶やしにしたのだ。何度も、何度も……。
私の今回のやりなおしは初めてのことだ。トーマスの元に行き着くために、クリスティンを利用しただけ。彼女はただの踏み台の一つだった。そのために、心にもないことで彼女を頼り、友情を語った。
しかし、この胸の奥からあふれでる熱い思いはなんだろう。込み上げるこの思いは。目から溢れる熱い涙は──。
私は変わったのだろうか? 女王のルートを回避し、ただトーマスとハリーに会いたい、それだけの思いが……。
回りの人々を笑顔にしている。クリスティンも、オズワルドも、トーマスだって私の次の言葉を笑顔で待っている。
ええ、クリスティンさま、お受けいたします──。
その言葉を。ただの一言を。でも胸がつかえて出てこない。
彼女の細い首に縄をかけた。
私の前の罪が、私自身を押し潰す。
ああクリスティン。あなたはこんなにも美しく、国の母としてこれから国家を運営するのよ。
私のような罪人を、鎖に繋がれた咎人を、天国に行けない悪霊を義姉妹などに選んでなどいけない。いけないのだわ。
「……ああクリスティンさま。私のような平民を義姉妹だなんて、もったいないお言葉ですわ。どうか、その申し出はお断りさせてください」
「なぜそんなことを言うのアリアーナ? どうか顔を背けないでちょうだい。あの日、あの時、あなたが真紅のカーテンを開けて、私の膝に頼ってきたのは運命なのだわ。きっとそう。女神アデンが私に遣わした天使なのよ。どうか、私の申し出を受けてちょうだい」
と、私の手に自分の手を添えてきた。私はもう一つの手で、その手を覆いながら答える。
「クリスティンさまは国の母となるお方なのです。私は家を捨てた不孝者です。あなたとの友情を捨てて都から離れた不義者です。神に仕えながら、夫との幸せを選んだ不忠者です。不孝、不義、不忠を合わせた私が、なぜ国母の義妹となれましょうか? どうか、その儀ばかりはお許しください」
私の目から涙がこぼれて、私とクリスティンの手を濡らした。彼女はそれでも申し出を引っ込めようとしなかった。
「アリアーナ。あなたが家を捨てたのは、家を苦しめないようにとの熱い気持ちがあったからよ。あなたが都から離れたのは、友情を優先せず、民を救おうとする熱い志しがあったからだわ。あなたは神を捨てたんじゃない。トーマスを思う気持ちの中には神を思う熱い信仰心も同居しているはずよ。それは不孝でも、不義でも、不忠でもないわ」
そこにオズワルドとトーマスも口々にそうだと言い、二人こそ義姉妹にふさわしいと言った。
私もそうしたい。心ではそう叫びたがっていたが、あの時、クリスティンを殺した思いがどうしても離れずに、床に膝をつき彼女の膝にすがってしまった。
あのハーヴェイから逃げた時のように──。
「ああクリスティンさま、お許しください……」
クリスティンは泣き崩れながら謝罪する私の真意など分かるわけもなく、ただ優しく抱き締めてくれた。
それはまるで慈悲深い神のようで、私の胸の熱い思いはますます深くなっていき、“ああ許されたのだ”と思った。
「クリスティンさま、こんな私が義妹にふさわしいとは思えません。ですが、国母のあなたに近づけるように努力いたします。そんな私でよかったら、どうぞ義妹を名乗らせてくださいまし」
そう言うと、クリスティンは私と同じように床に跪いて、私の手を握りながら涙を流した。
「アリアーナ、何を言うの? 私には、あなたという義妹が大きすぎるくらいなのよ? 私こそ、あなたの弟子になりたいくらいなのに。でも私たち、義姉妹になれるのね。とっても嬉しいわ」
私たちは抱き合って誓い合った。その時、オズワルドはトーマスの肩を組んで力を込める。
「どうだいトーマス君。互いの奥方が義姉妹になったのだ。必然的に、君と私も義兄弟だな」
と言うと、トーマスはまたもや目を回してしまった。トーマスは今日一日でどれくらい寿命が縮まっただろう。
その後で、オズワルドは私たちの結婚に贈り物がしたいと、金貨のつまった箱を五つも出してきた。それには国王陛下も加わっているらしいが、前と同じように断った。
それで孤児を助けてたり、子どもの福祉に使って欲しいと申し込んだのだ。
お金があれば生活は楽になる。しかし私は、前にトーマスと暮らしたときのことを覚えている。
麦の袋が小屋に積み重なっていく喜びを。じゃがいも一つの食事の美味しさを。雨が明けた次の日の朝の温もりを──。
それはどんな贅沢にも勝るのだ。
クリスティンとオズワルドは、そんな私に大変恐縮して呟いた。
「ああアリアーナ。あなたが私たちに替わって国を治めたら、どんなに国が豊かになるでしょうね──」
ふふふ、クリスティン。悪い冗談だわ。そしたら国民は飢え、隣国はこの機会を逃さずに攻めてくるわよ。何度も何度も繰り返したんだもの。知っているのよ、私はね──。
◇
私とトーマスは結婚した。今度は舅も姑もいる。仕事も手数が多いので、はかどりどんどん裕福になっていった。
実家の子爵家でも喜んで、金を贈って来ようとしたが断った。しかし牛二頭と農具はありがたくちょうだいした。
そんな時に、ハリーは産まれた。前と同じ日、同じ時間だった。二度目のハリーはやはり愛おしく、とっても可愛らしかった。
ああ、目的が果たせた。やっとここまでこれたんだわ。
前と違って、不安も何もない。ジャックもベラも、私が来てくれたことを毎日のように感謝してくれる。
トーマスは前と同じで頼り甲斐のある優しい夫だ。
ハリーも小さい手で、お手伝いをしてくれる。
幸せを掴んだ。女王では掴めなかった幸せを。
しかし、私はハリーが四歳になる少し前、畑で仕事中に倒れ、そのまま息を引き取ったのだ。二十七歳。
それは私が火炙りになった年と時間だったのだ。