前編
きっかけは初めての夜会だった。14歳になった私は、父の薦めで社交界デビューすることになったのだ。
歳の若い私が、貴族の集まる夜会に行くなど普通はない話が、実家は裕福でなく、父の事業も失敗し、ますます評判もよくなくなってきた時期だったので、父や兄は人並み以上の顔立ちの私に賭けたのだと思う。
誰か金をもっていそうな上位貴族の目に留まって、結婚でもしてくれたらお支度金で立て直せるとでも思っていたのだろう。
その思惑は当たった。
私にあったのは遠縁のビリエティ侯爵夫人への紹介状だけで、礼儀も作法も知らない私を夫人は快くテーブルに招いて、そばに座るようにおっしゃってくださった。
なにも分からない私はキョロキョロと目を泳がせるばかり。
「ビリエティ侯爵夫人。楽しんでいますか?」
「ああ、これはこれは王太子殿下」
ビリエティ侯爵夫人以下、テーブルにいた女性全てが立ち上がり、その若き男性へと膝折礼をとるので、訳も分からないまま私も同じような所作を致した。
少し遅れたからであろう。その男性は私をじっと見て微笑んだ。
「見ない顔ですね。お嬢さん。お名前は?」
「で、殿下。彼女は私の遠縁の娘でして。そ、そらアリー。殿下にお名前を申し上げなさい」
と夫人が慌てておっしゃるので、私も大変慌ててしまった。
「あ、あのう。デジテット子爵の娘でアリアーナと申します……」
「ほう。デジテット卿の。ね」
面白そうに微笑む男性に、夫人はあたふたしながら補足していた。
「殿下。アリーは社交界に出るのが初めてですのよ。不調法なのはどうぞお許しを」
しかし男性はニヤニヤと笑うばかりで私の右手首を取った。
「いいや許せないな。こっちへ来たまえ」
「殿下! どうかお戯れはおやめください。この子は私がデジテット卿より預かったのです」
「まぁまぁビリエティ侯爵夫人。不馴れな彼女に少し楽しいことを教えるだけだよ。なあキミ。このカーテンの後ろに小さい部屋がある。そこへ行こう」
「殿下。その儀ばかりはお許しください。作法ならば私が教えます」
「心配症だなぁ夫人は。私は優しいのだぞ。さぁ来たまえ」
彼はビリエティ侯爵夫人の制止を振り払って私を小部屋へと案内した。警護する騎士が二人いたのだが、彼らに部屋の外で待つようにいい、二人だけで部屋に入り、小一時間ばかりで女にされた。
彼はこの国の王太子の身分で、公爵令嬢と婚約しながら、あちらこちらで若い娘に手を出すくせの悪い男だったのだ。
しかし結果、この王太子殿下は私の美貌と体の相性に夢中になってしまい、私も若さゆえの物知らずで、彼のそばに侍り、欲しいものをねだるようになったのだ。
父や兄も相当喜んでいた。殿下は私の歓心を惹こうと、ことあるごとに金貨や宝石、調度品などを馬車に詰め込んで贈って来た。父にも王宮でのポジションを与えてくださり、名馬や剣なども賜ったのだ。
私も殿下に都のお屋敷をねだり、宰相さまがすむような大きな邸宅とたくさんの使用人を贈らた。殿下もここに訪れ、私たちは人に言えない逢瀬を楽しんでいたのだ。
だが目立つ行動をすれば、危険も多くなる。夜会の際、私は王太子殿下を例の小部屋で待っていたのだが、そこに来たのは着飾った女性だった。共にご令嬢を大勢つれている。
その人は入るなり私を閉じた扇で叩きつけてきたのだ。
「無礼者! 跪きなさい!」
なにがなんだか分からない。私は涙目になってその人を睨み返した。
「なにをするの!? 王太子殿下に言い付けるわよ!」
しかし彼女はますますいきり立って、扇を振り上げて私を何度も叩いたのだ。
「この泥棒猫! 下賎の者め! 殿下の名前を出すとは不敬であろう!」
私は抵抗も出来ず、床に崩れ落ちてしまったが、彼女は追撃を止めずに何度も叩きすえ、攻勢を止めた時には肩で息をしていた。
「私はクリスティン。知っておるであろう」
「知らないわ。あんたなんて」
「馬鹿な娘。オワードゲイル大公爵の威光を思い知らせてくれるわ。お前なぞ都にいられなくしてやる。そしたらハーヴェイはお前なぞに見向きもしなくなるだろうね」
「はぁ? どうして王太子殿下のお名前を?」
「私はハーヴェイの婚約者よ! そんなことも知らない田舎娘なのだね。ハーヴェイはお前とは遊びなのだよ。一時の快楽の道具。道具が調子にのるな!」
「キャ!」
その女、クリスティンは最後にもう一度私の頬を叩き付け、小部屋を出ていった。私は悔しくて床に伏して大泣きしてしまった。
暫くすると、そこに王太子殿下が入ってきた。お楽しみを期待してか、首のスカーフを外しながら舌なめずりをしてきたが、私の様子に驚いて抱き上げて起こしてくれた。
「どうしたアリー。私の愛しい人よ」
私は優しい言葉にまたもや涙し、彼の胸にすがりつきました。
「殿下。私、悔しいです!」
「どうした? 誰かがキミになにかしたのか? 恐れを知らぬやつだ」
「先ほどクリスティン・オワードゲイルが入って来て、私を扇で殴り付けたのです。見てください、この腕の痣を。顔などどうなってるか分かりません!」
「赤くなってるではないか! クリスティン! 許せん!」
そういって殿下は立ち上がり、私に手を伸ばした。私はそれを掴むと、殿下は力をいれて引いてくれた。
「思い知らせてやる。アリー。一緒にくるんだ!」
「はい殿下!」
殿下は警護騎士を伴って、クリスティンのもとに急いだ。彼女は広間の円卓に座っていたが、殿下は彼女を急襲し、足蹴にして床に転ばせた。彼女は叫ぶ。
「なにをなさるの!? ハーヴェイ!」
「私の大事なアリーを傷付けたな! もはや貴様とは婚約者でもなんでもない! どこぞなりとも消え失せろ!」
それを聞くとクリスティンは大変憤慨して殿下にいい放つ。
「なにを言ってらっしゃるの? あなたが王太子となれたのは誰の後ろ楯があってのことかよくお考えになって! 我が大公爵家があなたを支えたから、第一候補のオズワルドを避けてこうして王太子としていられるのに! 私が婚約者としてその女に注意するのはあなたを愛するが故だと思わないの!?」
それに殿下はたじろぐものの、襟を正して持ち直したところで、突然の来訪者だった。
王室の急を知らせる使者だったのだ。
「で、殿下、大変でございます」
「慌てて何用だ?」
急いできたであろう使者は息を飲んで伝える。
「実は国王陛下と王妃さまが馬車の事故にあいまして、崖から転落のうえ亡くなられました」
それを聞いて周りは水を打ったように静かになる。誰も動けないところに、クリスティンは身を乗り出して周りに命令し出した。
「使者よ。ご苦労様でした。すぐさま我が父、大公にも伝えてください。ことは急を要します。皆のもの。ここに居られるハーヴェイ王太子殿下は今より畏れ多くも国王陛下となられる。皆、跪くがよい」
その言葉に、会場にいたものたちは跪いて万歳をとなえた。
「大丈夫よハーヴェイ。私と大公爵家がついているわ」
そう慰めるクリスティンは殿下へと手を伸ばすが、殿下はその手を弾いた。
「は、ハーヴェイ。な、なにを?」
「この女を捕らえよ。それから私は今より軍部に参る!」
殿下は踵を返して軍部へ向かう。殿下の警護騎士はクリスティンを捕らえて縄をかけたのだ。
殿下の動きは早かった。軍部に行って兵をまとめると、大公爵の屋敷を急襲してこれを捕らえた。さらに大公爵領に兵を差し向け、あっという間に制圧したのだ。そしてその領土は自分の物とした。
殿下は国王陛下となって、国を治める立場となった。私は王宮へと召し出され、王妃となった。
「アリー。分かるかい? もう余の煙たいものは誰もいない。父も母も。大公爵もクリスティンもいないのだ。我らの愛にもはや障害などないのだよ」
「おお。陛下! ありがとうございます!」
「アリー、よいものを見せよう」
そういって陛下は窓を開けさせると、そこには公爵とクリスティンが処刑台に乗せられていたのだ。猿ぐつわを噛まされて声もでない。
私を傷付けたクリスティンのさまを見て私は異様な興奮を覚えた。
「今より彼らの処刑を始める」
「まあ陛下、本当ですの?」
「ああ君を傷付けたクリスティンを許せはしない。当然の刑だろ?」
「私もあのクリスティン・オワードゲイルが泣きながら見苦しく命乞いをするところを見たいですわ」
私は陛下の胸にすがり付いた。陛下が手を上げると、二人の刑は執行され二人は神の元に召されたのだ。
陛下は私のために、欲しいものはなんでもくれた。身もとろける贅沢。そして父を公爵の爵位をくれ、父を宰相、兄を大将軍として国の中枢を任せてくれたのだ。
なんという素晴らしい日々。私は毎日を楽しんだ。食事におしゃれ。旅行や芸術鑑賞。
しかし、私と陛下の間に子供だけが出来なかった。後継者の欲しい私は陛下に外国から取り寄せたよい薬を飲ませたが、それでもうまくはいかなかった。
このままでは、陛下の弟君であるオズワルドが王太弟になってしまう。私は彼を僧侶にするべきだと陛下に申し上げると、すぐにそのようになった。
幸せな毎日だったが、ある時、陛下は一人の女性を連れてきた。名をエリアスという。彼は彼女を側室にしたいと言ってきたのだ。私は嫉妬して彼にすがり付いた。しかし彼は申し訳なさそうに答える。
「実はエリアスの腹の中には私の子がいてね、我々には後継者が必要だ。だから仕方がないだろう?」
というのだ。私は思った。陛下は私と会う前から遊び人だった。それでも陛下の子を宿した人がいるなど聞いたことがない。
おそらく陛下に子供を作る機能はあっても能力がないのだ。だからエリアス嬢は陛下の子と偽って取り入ったに違いないと確信した。
だがそれを陛下に言うと、彼は私をクリスティンを見たような目で見たのだ。
まずい。
彼はもう私が不要なのだ。しかもあんなアバズレに心を奪われて、尽くした私を忘れようとしている。
彼が大公爵に機先を制したように、私もそうしなくてはならないと思った。
陛下はエリアスと一緒にいる時間が増えたが、ある日彼女とお茶を楽しんでいるときに大量の血を吐いて死んだ。毒殺だ。
エリアスは大変取り乱したが、一緒にいて彼女だけ無事なのはおかしいと捕らえさせた。
そして激しい拷問にかけて、陛下を毒殺したことと、腹にいるのは陛下の子供ではないことを自白させた。
「まったく。最初から素直に認めておけば苦しまずに済んだのに。陛下を弑するなんて大逆罪だわ。刑場に連れていって処刑なさい」
「は、はい」
私は部下に命令し、エリアスとその親族をさっさと処刑した。そして毒は地面に棄て、毒の入っていた小瓶は池に棄てた。
私には先にやっていたことがあった。それは陛下がエリアスに会う前だ。宰相である父にお願いし、『国王に何かあった場合は王妃が執務を代行する』というものだ。陛下は生前、それに笑って調印していた。
バカなハーヴェイ。もしもの時のために私は手を打っていたのに、アイツは影では私以外の女を抱いていた。その報いを受けたのだ。
国王崩御に際し、大臣たちは次の国王を誰にするかを議論したが、私はこの法律を出した。自分は王妃だ。国王の代わりに執務を代行すると。
数人の大臣が反対して、オズワルドを僧侶から還俗するべきだと言って来たが、すぐさま反逆の意思があるとして刑場に連れていかせ、親族も全て捕らえるよう命じると、他の大臣は静かになって私に向けて万歳をした。
まったく。こんな時にもオズワルド復活論が浮上するのね。私はすぐに手を打った。数日後に彼は運河の上に浮いていたと朝食のときに聞いて、ますます食事が美味しくなった。
それからは父である宰相と密室政治だ。法律を私の都合のいいように変えた。私は女王を称し、兄の子を王子とすることを宣言した。
案の定、忠臣ぶって小言を言ってくるヤツがいたが、安定の反逆罪。私に逆らうものはこの世に生きていてはいけないのだ。
私は女王として、この国を得たのだ。
◇
だがある時、国境を守っていたものが隣国であるディエイク帝国に降伏し、砦を明け渡したのだ。
ディエイク帝国の勢いはそれだけに留まらず、近隣の領地を奪いとっているとの報告だった。
「どうして! 領地を守る貴族は何をやっているの!」
私は癇癪を起こして大臣の前で叫ぶ。すると、一人の大臣が畏れ入って答えた。
「畏れながら……。帝国は貴族たちに本領安堵を言って降伏勧告をしているようにございます。おそらくそれを言われて降伏しないものは居りません……」
「なんと! そやつらの忠義はどこに行った! 憂国の士は居らんのか!」
その問いに誰も答えなかった。私は命令した。まだ残っている貴族の家族を連れてきて人質にしろと。人質を殺されたくなかったら帝国に抵抗しろという策だった。
しかしそれを伝えに行った使者たちは、自分たちの家族を連れてその貴族に帝国に帰順するよう伝えに行ったようで、誰も帰ってこないばかりか、帝国の勢力はますます強くなった。
私は父や兄に出兵するよう命ずると、彼らはきらびやかな鎧をつけて意気揚々と出発した。その姿を見て私は勝ちを確信したが甘かった。
彼らが戦場につくころには、兵の大半が逃げ、父は殺され、兄は降伏したのだ。
こうなってしまっては私が城を守るわけにもいかない。私は兄の子である幼い王子に城を託して、夜陰に乗じて城を逃げた。
まさに着の身着のままとはこのことだろう。王子に言っただけで、誰にも言わず、ドレスを脱いで近くにあった侍女の服を着ての脱出だ。
脱出経路は王族しか知らない隠し通路。この存在はハーヴェイから聞いていたが使うとは思わなかった。手入れのされていない長い通路を抜けるとそこは城の外だ。城内からは「女王が逃げた!」「我々と違って高価なものを身に付けてるのが女王だ!」との言葉に、つけていたアクセサリーを全て外してポケットに押し込んだ。
そして出来るだけ遠くに逃げる。帝国の兵士が来ないところまで。
途中で兄と王子は捕らえられ、処刑されることを知った。自分もただでは済まないだろう。早く遠くに逃げなくては。
南の都に入ると、すでに帝国によって治安維持が始まったらしかったが、私は人の目を避けて都から抜けようと思った。
都の城塞からでようとしたところで噂を聞いた。
「女王は侍女の服を着ているらしい」
恐ろしい。帝国は徹底的に調べ上げ、私が脱いだドレス、失くなった侍女服から捜査を広げようとしている。
捕まったら死しかない。私を殺して帝国の侵略を正しいものとしようとしているのだわ。
私は逃げる道を急ぐと、道の傍らに修道女が行き倒れていた。私が逃げる道すがら何度も見た光景だ。おそらくは餓死であろう。私はなんとかいくらかのお金を持っていたので今までは食いつないで来れたのは幸いだ。
そしてピンと来た。この修道女の背格好は私と大差ない。ここで入れ替わってしまおうと考えた。
私は修道女の遺体を引きずって森の中に入り、彼女の衣服を脱がせた。彼女は痩せこけて服は多少キツかったがなんとか着ることが出来た。
そして彼女に侍女服を着せ、持ってきた豪華なアクセサリーをつけた。だが小さい宝石のついたピアスだけは彼女の耳に穴がなかったので持っていくことにした。
そして修道女となった私は道を急ぎ、とある村へと到着した。そこで空腹に耐えきれなくなったが、持ち合わせがない。仕方がないので物乞いをしようと村の家を訪ねて回ったが、どこも食べ物があまりないと断られてしまった。
そうして何件の家にも断られ、最後にたどり着いたのは村外れの貧しそうな農家。家と言うよりは小屋である。ここで断られたら飢え死にだ。私は必死にその扉を叩いた。
すると同年代くらいの痩せた男が出てきたので早速物乞いをした。
「すいません。旅のものですが空腹に難儀しております。僅かばかりで結構です。食べ物を恵んでは頂けませんか?」
そういうと彼は、にこやかに私を迎え入れて、粗末なテーブルに案内すると野菜のクズの入った雑炊を提供して来てくれた。
都では豪華な食事しか食べたことのない私だったが空腹に勝る調味料なしで、あっという間に平らげてしまった。
「あ、あのう。ありがとうございます」
「いえいえ」
「もしよければもっとくださるとありがたいのですが」
「分かりました」
そう言うと、彼は奥に引っ込んで行ったが鍋の底を掬うような音を何度も立てて持ってきてくれたのは、ほんのちょっぴりの雑炊だった。
おそらくこれは最後の鍋に残ったものなのだろうと味わいながら食べて、彼に礼を言った。
安心したのか疲れがドッと出てめまいを覚えたので、彼にさらに無心した。
「出来れば一晩の宿をお願いしたいのですが」
それにも彼は快諾し、壊れそうなベッドのある寝室に連れてきて、ここで寝るよう言うと、別の部屋にいってしまった。
おそらく、もっといい部屋で寝るんだろうと思ったが、そこで寝かせろなどとは言えないので、仕方なくそのベッドで寝ることにした。
次の日、朝食も用意されておらず、彼は家の前の畑で働いていた。みると農具は鉄器ではなく木製で、なかなかはかどらない様子だ。
ないなら買えばもっと効率が上がるのに、ケチなのかも知れないと蔑んだ。
すると彼は窓辺にいる私に気付いて作業を中断してこちらに来た。
「おはようございます。シスター」
「おはよう。ところで朝食は?」
「朝食……。わ、分かりました。すぐご用意致します」
彼は大変慌てた様子だった。私は彼は作業前に一人で食べたのであろうから、その残りを持ってくるに違いないと思ったが違った。
彼は出来立ての茹で芋を出して来た。小さい芋が三つ。そんなものあっという間に食べてしまうだろう。食べながら彼に質問した。
「あなたのお名前、まだ聞いていなかったわ」
「あ、トーマスです。シスターのお名前は?」
まさか聞かれるとは思わなかった。ここで本名を言うわけにもいくまい。私はふと思い付いた名前を言った。
「メリッサよ」
「メリッサさま」
「“さま”なんてつけなくていいわ。それより農作業するのに木製の農具では、効率が悪いでしょう。鉄器を買えばよいのに」
「それは、はは……。貧しい暮らしをしておりまして……」
「あなたの朝食は? 一緒に食べればよかったのに」
「い、いえ。朝食など食べたことありません……」
私は食事を止めた。一つの茹で芋が残っている。彼の真意が分かった。私はその茹で芋を彼の前に差し出した。
「あなたは私をもてなそうとしてくれたのね。貧しい暮らしなのに……。昨日の晩もそうだったのかしら? 他の家は私の乞いに誰も答えてくれなかったわ」
「そりゃみんな家族で食べるのに精一杯だからです。私はこの通り独り者です。ですからまだ余裕だったのかもしれません」
「そんなわけない。あなたは私を迎え入れてくれた。なにか私にできることはないかしら。なんでも言ってちょうだい」
彼は少しためらいながら希望を言った。
「私の両親が裏庭に眠っています。シスターが祈ってくだされば両親も迷わず天国に行けるでしょう」
私はささやかすぎる願いに目を見開く。
「本当? たったそれだけでいいの?」
「もちろんです」
私たちは裏庭に向かった。そこには粗末な土饅頭が二つ。その前に跪いて、見よう見まねのお祈りをした。トーマスも同じように私の隣で祈りを捧げたのだ。
その時、客が来たようでトーマスを呼んでいた。私も行くと、昨晩私の物乞いを断った村人の一人だった。彼は私を覚えていたようで罰が悪い顔をしていた。
「これは……シスター、昨日はどうも」
「いえ。あなたにも神のお恵みを──」
別段、そういうつもりもなかったが服装のせいだろうか。そんなことをいうと彼は感謝してきた。
「すいません。女王の悪政のために、この村には蓄えがほとんどありません。この村だけではありません。国のほとんどにそんなものはないでしょう。みんな家族を守るだけで精一杯です。帝国が来てくれて、一応は不安ですが今より悪くなることはないでしょう」
「ま、まあ!」
この男はその女王を前にして、私の政治が悪いと言ってきたのだ。そしてさらに続ける。
「旅人はほとんどが餓死し、今度は家を持つものすら危うかった。女王がいなくなったので、これからは少しずつよくなるかもしれません」
「まあ……」
「しかし、トーマスは我々よりも貧しい生活をしております。女王の悪政のために父は役にかりだされ死に、母は過労に倒れました。シスター、あなたをもてなすためにトーマスは大事な食料をあなたに与えたのです」
私はショックで声もでなくなってしまった。私の政治がこんな下々のものを苦しめているなんて知らなかったのだ。しかも、この優しいトーマスを明日餓死させてしまうかもしれない。
村人は、言わなくてもいいことを言ってしまったと反省しながら家に帰っていった。
トーマスは、私に笑いかけすぐに仕事に戻った。私はどうしたらいいか分からずに、トーマスの家に入ったが、思い立ってトーマスのそばにいき、こう言った。
「トーマス。私にも手伝わせて!」
その時はもう高貴な自分という思いはなかった。ただこのトーマスに恩を返したい。そして、優しいトーマスのそばにいたいと──。そんな思いだった。
トーマスは最初は断ったが、私は頭を下げ、最後には泣いて、恩を返したい。トーマスの手伝いをしたいと懇願していた。彼は桶とひしゃくを渡し、トーマスが種を撒いた場所に水をかける作業をくれたのだ。
ところが私の仕事振りは散々だった。水を入れた桶は重いし、ひしゃくの操作も難しい。トーマスはそんな私を微笑ましく見ているようだったが恥ずかしかった。
種を撒き終わった彼は私の後ろに立って手をとり、撒く指導をしてくれたのだが、私はそれに小さく声を上げた。
「きゃ……」
「あ、すいません。シスターメリッサ。しかしこうしないと上手く教えられません」
私はなにを恥じらっているのだろう。トーマスの荒れた手のひらをとても温かく感じていた。
私は背中のトーマスへと振り返り、生きてきた中で最高のキスをした。
それは天使に招かれたように二人同時に──。互いに目を閉じあって時間を忘れる口付け。
やがてトーマスは真っ赤になって唇を離しその場に跪いた。私も一緒になってしゃがみこみ、彼の手を取った。
「シスターメリッサ。申し訳ありません」
「いいのよ。トーマス。これも神のお導きです」
そういうと、私と彼は恥じらって笑いあった。
◇
数日が経っても私はトーマスの家を出ようとはせず、少ない食事を分けあって毎日の畑仕事に精を出した。
トーマスは、父母がいた頃の荒れた畑の開墾を始め、すぐに出きる豆と芋を植えた。
さらに沼地に黍を刈り、私たちの食卓は徐々に皿が増えていった。
そんなある日、前の男が息を切らせてやってきた。
「トーマス! 大変だ!」
「どうしたんだい? トビー」
「森の中で女王の死体が発見されて都に運ばれていったんだ。皇帝は喜んでご領主にご褒美をくださった。だからご領主は我々にもそのおこぼれをくださるそうだ。家族一人一人に麦一袋だ。お前さんも貰ってくるといい」
そう伝えるとトビーという男は出ていった。トーマスは喜んでいた。
「やった! 麦が一袋貰えるらしいぞ!」
そういうトーマスに私は微笑みかけた。
「いいえ。二袋よ?」
「え? でもシスターメリッサ。ご領主は家族とおっしゃいました。この村の戸籍にあるものだけでしょう。あなた様が行っても貰えないかもしれません」
そんな心配ごとをいう彼に私はさらに笑って見せた。
「だったら戸籍を作ればいいわ。トーマスは私を妻にするのは不服かしら?」
それを聞くと彼は私の前に跪いて手を取った。
「シスターメリッサ。本当ですか? 私はあなた様を好いております。この気持ちが通じるならば、麦どころではございません」
彼は──。私を好いていてくれた。私も麦どころではなくなった。飛び上がって喜びたいくらいだった。
私たちは手を繋ぎあって村の顔役のところにいき、結婚を報告したあとに戸籍にのせて貰った。
そしてご領主のところに行って麦を二袋貰ってきたのだ。
ざるにいっぱいの麦は種として、残りはめでたいときに食べることにした。
家の回りをほとんど開墾して麦畑を作るころ、私はトーマスとの子を妊娠した。
最初は気付かなかった。作業と作業に追われていたためだったかもしれない。月の物がないと気付いた頃は五ヶ月ほどになっていた。
トーマスは喜んで、私を抱き締めてくれた。
その夜、私はぼんやりと自分が妊娠できる体だと嬉しく思いながら、やはりハーヴェイは胤無しで、エリアスは別な男から胤を受け取り、ハーヴェイに取り入ったのだと苦笑した。
そしてその年の刈り入れで、ざる一杯の麦は三袋半の麦となった。
それから数日の後に、私とトーマスの子どもは産まれた。かわいい男の子でハリーと名付けた。
ハリーを育てながら二人で農作業。私たちの生活はみるみる向上していった。
ハリーが三歳になる頃には麦を倉庫に二十袋蓄えることができたのだ。
ハリーはトーマスに似て聡明な子で一歳で可愛らしく話せるようになり、私たちに引っ付いて水桶を運んだりしてくれた。畑につく頃には水はほとんど溢れてしまったが、私もトーマスも笑っていた。
私たちだけではない。村のみんなも笑えるようになっていた。無慈悲な女王の悪政など昔の話になっていたのだ。私も村人たちとともに笑えるようになっていたのだ。
◇
しかしハリーが四歳になる前に、ハリーが倒れた。高熱を出して息も絶え絶えだ。医者を呼ぶと、彼はハリーの脈を取って首を横に降った。
「そんな! 先生! ハリーはまだ三歳ですよ?」
「これは難しい病気なのです。皇帝や貴族ならば高い薬を勝手治せるかもしれませんが……」
「高い薬……。おいくらですか? 倉庫には麦が二十袋あります!」
「麦が百袋あっても足りませんよ。金貨百枚ほどです」
「金貨百枚……」
そういうと医者は帰っていった。私とトーマスは苦しむハリーの汗を拭ってやることしか出来なかった。
ハリーは苦しみ、うわ言のように私とトーマスを呼んでいた。
私は立ち上がって、自室に戻りシスターの服を掴むと、そのポケットを探ったのだ。
「あったわ──」
そこには大粒の宝石がついたピアス。間違いなく金貨千枚の価値がある。これのためにこの国の人民たちは苦しんだのかと思うと胸が痛んだがハリーの命には変えられない。
私はそれをトーマスに渡した。
「こ、これは?」
「父母の形見なの。私は実は貴族の娘だったのよ。黙ってこれを街で売ってきて頂戴。そしてハリーの薬を買ってくるのよ」
トーマスは、喜んで私に一礼すると街へと飛んで行き、薬と数百枚の金貨を抱えて戻ってきた。
ハリーに薬を飲ませると、病状は落ち着き5日後には走り回っていた。
◇
その二日後。真夜中に私たちの小屋の戸は叩かれ、開ける前に兵士が乱入してきた。トーマスは叫んだ。
「人の家に押し掛けるなどなんのようです!」
しかし兵士はトーマスに縄をかけながら言う。
「女王を匿った罪だ。この男も連行しろ!」
そしてトーマスは縛られて麻の袋を被され馬車に放り込まれた。
私はハリーを抱いて抵抗した。ハリーも泣いて私にすがったのだ。
「女王ですって? 人違いよ。女王は森の中で死んだのでしょう?」
しかし兵士は答える。
「うまく欺きましたね女王陛下。森の中の婦女子のご遺体はだいぶ痛んでおりましたが、耳にピアス穴がなかったそうですよ。皇帝陛下は、きっとこの近隣に女王が潜んでいると内偵しておったのです。そしたら、この辺の農民には分不相応なピアスが売り出されたというではありませんか。これを作った職人が女王に売ったと証言を得ました」
そういって兵士の男は私の髪をゆっくりと上げて耳を確認する。そしてニヤリと笑った。
「ピアス穴だ。女王に違いない! 引っ捕らえろ!」
私とハリーは引き離され、ハリーも縄で縛られ、麻の袋を被されると馬車に放り込まれる。
私は後ろ手を縛られたのみで歩くように命じられた。
「お前は反省しながら馬車へ乗るよう命ずる」
私が馬車に乗ると、麻の袋を被されたトーマスとハリーはもがきながら言った。
「ママぁ! ママぁ!」
「メリッサ! き、きみは女王だったのかい?」
私は、トーマスの問いに答えた。
「ごめんなさいトーマス」
それを聞くとトーマスは黙ってしまい、ハリーの私を呼ぶ声だけが馬車の中に響いていた。
◇
やがて都に着くと、私が本物の女王であるか調べる裁判が始まった。やってきたのはビリエティ侯爵夫人で、今は帝国でも侯爵の身分にいるようだった。
彼女とは遠縁であるし、女王のときにはさんざん目をかけてやったので裏切らないと思ったがそれは誤りだった。
「彼女がアリアーナ女王で間違いありません」
とたんに私の首と手首に重い枷が嵌められた。愕然として、そこにただ立ち尽くすしかなかったが、ビリエティ侯爵夫人は扇で口許を隠しながら私を汚いものを見るような目であることに気付いた。
許せない。
当時は私のお陰で栄華な生活を送れたはずだ。それが落ちぶれた私を見捨てたのだ。
彼女が一言、嘘をいってくれたなら。
私はトーマスとハリーと平安な生活を送れたのに。
ビリエティ侯爵夫人だけでない。この裁判の部屋の中には何人もの知っているものがいた。それが口を揃えて「死刑、死刑」とがなりたてる。
私はそのまま引き出され、牢屋に入れられた。
どうして? どうして私たちを放っておいてくれないの?
トーマスとハリーはどうなってしまうのだろう。二人は関係ないわ。私のことなど知らないで生活していたのだもの。
きっと釈放されて村に帰ったのだわ。
願わくばトーマス。ハリーを無事に育てて欲しい。それだけが私の心残り……。
◇
数日後、私は久しぶりに青空を見た。
刑場に引き出されて外に出されたからだ。観衆が山ほどいて、口々に私の悪口を言っているがどうでもよい。
もうすぐ苦しみから解放される。それだけで。
だが絞首刑の台に近づいて真っ青になってしまった。そこに、ずだ袋を被せられたトーマスとハリーがいたからだ。
ハリーは震えていた。トーマスは手枷をされていたが、ハリーはされておらず、その小さい手でトーマスの服をぎっちりと掴んでいた。
なにも知らないはずの観衆がハリーのことを『悪魔の子』とヤジを飛ばしている。
うそよね? 二人は開放されるのよね?
殺すなら私だけ。私が悪いのだ。夫は……、トーマスは優しく私を受け入れただけ。
両親を私の悪政で失い、でもひたむきに人生を一生懸命生きていただけなのに。
ハリーなどまだこの世に生を受けて、良いも悪いも知らない、無垢な子どもなのに。
私は腕を押さえる二人の兵士たちに尋ねた。
「二人はなにもしてない。なにも知らないのよ。あなたたちと同じ市井の民だわ。釈放してあげてちょうだい!」
「なりません陛下。彼らはあなたを隠匿した罪で石打の刑にされます」
「い、石打ですって!?」
「あなたはそれを見て苦しまなくてはならないのです」
石打──。私が女王のときに楽しんだ刑罰だ。罪人は市民が投げる石に死ぬまで打たれる。なかなか死ねず、身を庇いながら罪を悔やむのだ。
私がその場に引きずられていくと、二人のずだ袋が外されて私と目があった。ハリーは嬉しそうな顔をして私の元に駆けてこようとしたが許されなかった。兵士に押さえられたのだ。
「ママ!」
「メリッサ……」
私は声が詰まって言葉をかけれずにいた。トーマスは手枷も外され、兵士に掴まれてハリーともども石打の刑場に連れられていく。顔はこちらを見たままに。
私の顔も押さえられ、二人の死に様を見ることを強制された。
トーマスとハリーは壁際に追いやられ、石を持った市民の前に立たされた。
私は二人の名前を叫ぶ。二人も私を呼んだ。
トーマスは泣いていたが、私を愛していると叫んで、ハリーの頭を掴んだ。
その時だった。トーマスはハリーの首を折って絶命させたのだ。ハリーからは一言の言葉も漏れず、一瞬のことだった。
観衆がドッと沸く。
頭がおかしくなって子殺しをしただの、悪魔の夫はやはり悪魔だ、だのという悪口雑言。
しかしそれは違う。優しいトーマスがなぜ愛する我が子を手にかけたのか?
それはハリーにこれ以上、苦しみを与えないため……。
トーマスはこちらを向いて大きくうなずいた。私も顔を押さえられながらだが、泣きながらそれにうなずいたのだ。
「石打、はじめー!!」
兵士の声。
トーマスの体とハリーの亡骸に、次々と大きな石が当たってゆく。民衆は歌いながら刑を楽しむ。異様な興奮が刑場を包む。やがてトーマスは崩れ落ちてハリーの亡骸をかばうようにしながら動かなくなった。
私はその様子を頭を押さえられて見るほかなかった。
愛する人の死を。我が子の死の瞬間を。こんなことが許されてよいわけがない。怒りが全身を駆け巡り、泣きながら兵士たちをなじった。
「おお! なんということを! 我が夫と子になんの罪があろうか!? お前たちは決して神の元には召されない! 家族ともども呪われるがいい! 私が死んだらお前たちを、お前たちの家族を、この国全てを呪ってやる!」
そうだとも。もうすぐ私は死ぬのだ。幽霊となり、鬼となり、こいつらの墓の上で踊ってやると、力の限り叫んだ。
それを黙って聞いた兵士の一人が口を開いた。
「畏れながら陛下。呪われるべき私たちの家族はもうおりません」
「……え?」
「私の娘は二歳で天に召されました。たったひと掬いの粥でさえ、娘は最後に飲むことすら出来なかったのです。妻は病に倒れました。ただ暖まって栄養をとれば治る病気にも、薪一本、麦一粒も手に入らなかったのです」
「な、なぜ?」
「陛下が飽食し、着飾って贅を尽くしているときに、ここにいるみんなは税に苦しんだのです。私はその辺の草を食べました。虫を食べました。この日を迎えるために、どうにか生きたのです」
「そ、それは……」
「陛下。お最後です。見苦しい真似はお止めください。さあ、お立ちになってください。皇帝陛下も見ておいでです」
私は立ち上がりながら、城のほうを見ると、皇帝らしきものがこちらをじっと見ていた。
私は兵士に両脇を抱えながら、火炙り台に率いられていった。火にかけられたものは神の元に召されることは出来ない。永遠にこの世を彷徨わなくてはならない。そこには平安などないのだ。
もう抵抗することも、なじることもしなかった。
ただ一歩一歩にトーマスとハリーへの思いを込めながら足を上げた。
ハリーは僅かな命しかなかった。それでも幸せだったろうか?
トーマスは私が女王だと知っても愛を叫んでくれた。彼を愛してよかった。
ここにいる民衆たちも兵士たちも、そんな愛する家族たちがいたのだわ。
それを私は壊したのだ。ここで火にかけられることはなるべくしてなったことなのだろう。
皇帝の号令により、私の足の裏はとろ火で炙られる。身をゆっくり焼かれ、煙を吸い込み、死ぬまでの苦しみと恥辱を与えられたのだ。
私は火に身をよじったが、未だに生への執着があるのかと苦笑した。
煙の中に、ハリーとトーマスが待っている。どうかそんな目で見ないでちょうだい。私はあなたはたちと一緒に天国の門をくぐることは出来ない。
許されないのだから──。
『アリアーナ。今度はこんな結果になったのね』
もうろうとしている意識の中で透き通る声が聞こえた。私はその声に訪ねる。
「あなたは……? どなたです。こんな結果とは──?」
『私は女神アデン。あなたは、天に召されることなく、何度も何度もこの世を彷徨っています』
「ああ、そうなのかしら……? 何度も何度も同じ運命を辿って、その度に私は悪政の女王となって、人々を苦しめている──?」
『ええその通り。ですが今回は初めてトーマスとハリーと出会ったわ』
「え?」
『毎回、毎回、処刑されることを恨み、人々を呪う悪霊となっていたのに不思議ね。あなたにもそんな一面があったなんて』
「お、お願いです! 私をトーマスとハリーの元に行かせて!」
『それは無理ね』
「ど、どうしてです?」
『あなたは結局、悪政の女王となって人々を苦しめ、火炙りになったことは変わりないもの』
「そ、そんな……」
『さあ、もう時間ですよ。あなたはもう一度同じ時間をやりなおすのです』
「ああ! 私は全てを忘れて、また昔に戻されるのだわ」
『思い出したようね。その通り。あなたは罪を悔やみ、何度も何度もこの世の同じ時間を彷徨うの。また栄華を得て、火に炙られる運命を──』
「そうなっても、トーマスとハリーのことは忘れない。絶対に……!」
『それは出来ないわ。あなたはここに全てを捨てていくの。今までもそうだったように──』
私は、真っ暗な時の渦の中に吸い込まれて行った。