温水浴
ぴっちゃん。
天井からモザイク張りの床に大きな水滴が落ちた。
さっきのボイラー室より狭いくらいの部屋に、大理石の浴槽が置かれている。浴槽から手が届くところに銅の鍋があり、リネンの手ぬぐいが何枚か掛かっている。
ちゃぽん。
女が手で顔を拭い、湯船に腕を浸した音だ。
「はぁーあったかぁい。たしかに、仕事の後の温水浴は最高ね! 汗が冷えていたし、その汗も流せるし、ちょうどいいわ」
同じ浴槽の反対側にちょこんと座っている少女が答える。
「そう、温水浴は最高なの。もう少し熱くても良いんだけど」
「トモミは本当に熱いお湯が好きなのね」
「ほとんどの日本人は、熱めのお湯に浸かりたいという欲望を、いつも心のどこかに持っているのよ」
「だからって、顎まで湯に入れなくてもいいじゃない。耳に水が入ると病気になるわよ」
「子供の頃からこうしてるんだから、そんな失敗はしないわ。シモーネ、あなたこそ肩までは浸かってみると良いわ。」
「これでいいの、もう十分に肩はくつろいでるから。呼吸も楽だし。」
ちゃっぷん。目の前に氷山の一角が浮いている。
『はいはい、巨乳あるあるだよね』
「? なんて言ったの?」
「いまのは日本語で……すべて理解した、って言ったのよ」
二人の会話は英語だ。理由は単に二人に共通の言語がそれだけだったからだ。
トモミは浴槽に背中を預け、水面下に揺蕩うぽよんぽよんしたものからシモーネの顔に目を移した。薄暗くてもわかる金髪は後ろでまとめられている。色白で彫りが深くて睫毛が長くて蒙古襞がなくて、つまりは昭和の日本人が想像するようなザ・西洋人だ。もしかすると彼らの基準では幼い顔立ちかもしれない。
トモミは体を起こして前屈みに座り直し、近くの手桶を取った。自分の頭に浴槽のお湯を掛けて優しく頭皮を洗う。
「傷はどう?」
「うん、もう痛くない。ありがとう」
「頻繁に洗ってもあなたの髪は傷まないのかしら?」
「私と母とその先祖は代々、強い髪を持っているの。さすがにこのお湯で洗うと少し痛むと思うけどね……ぷはっ」
「髪を伸ばすつもりはある?」
「伸ばすのが普通なんでしょう? でも風邪をひきやすくなるのは困るんだけど」
「うふっ。そういうところは古い考えなのね。さっき私が垢を落とさない方が敬虔的だと言ったら、絶叫して入浴の大切さを説教してきたのに」
「不潔で病気になるのと、湯冷めして風邪をひくのとは別なんだってば」
「ま、昔から色々な理由があって今ではそうそう沐浴しないのよ。教会で風呂は贅沢で退廃的だと教えるし、公共浴場で疫病が広まったし、」
「それはたぶん誤解が広まってるんだと思うけどね」
「それにどこの国でも、公衆浴場は薔薇の館と関係が深いからね。」
『浴場で欲情……』
「ん??」
「なんでもなーい。」
「あとは薪が高いのよねぇ。そこで今回ここの浴場主が購入したのが……」
「へっくち、ごめん。お湯がちょっと冷めた」
「熱いお湯を足したいのなら内鍵を外して、鈴を鳴らせば湯番が来るわ」
「もういいよ、これ以上冷める前に帰ろう」
「オーケー」
シモーネは手の甲をパンと叩き、
「じゃあ出ましょうか。お湯を捨てるわね」
そう言って浴槽の底の栓を抜いた。ジョロジョロ……。音を立てて流れ落ちた排水が床を流れていく。
シモーネがそっと立ち上がり、手ぬぐいを一本取って顔から首筋へと拭いていく。
『まったく……』
シモーネの後ろ姿をみながらトモミが呟く。
『なんなの、そのくびれは』
トモミとシモーネは服を着て浴室を出た。シモーネが湯番にチップを渡すと、湯番が何か話しながらどこかを指さした。
「浴場主が事務所に来て欲しいんだって。報告書は後日商会から送るのに、何なのかしらね。」
飾り気のないドアをノックすると、中から応えがあった。浴場主は二人を部屋に招き入れて席に座らせ、従業員にコーヒーを持ってこさせた。
シモーネは浴場主の話を聞き、時々上品な仕草で笑っていた。トモミはその言葉がドイツ語である事は想像できたものの、さっぱり聞き取れなかったので、仕方なくコーヒーをちびちび飲んだ。
やがて浴場主がテーブルの上の木箱から、あの金属板を取り出した。シモーネが妙に澄ました笑顔で何かを伝えると、浴場主はシモーネの手を握り、安堵の表情で感謝の意を表した。トモミにも、ダンケというフレーズだけは聞き取れた。
シモーネは笑顔のままトモミに説明した。
「私はこう言ったの。おめでとう、この呪文はあなたの浴場に必要な水を、短い時間で沸かせますよ、って」
トモミがつられて浴場主に向かって微笑むと、浴場主はトモミの手を取って、いかにも不慣れな笑みを浮かべてトモミに話し始めた。
「シモーネ、彼はなんて言ってるの?」
「うーんとね。これから毎日ボイラー役を頼めないか、だって。」
「え。」
シモーネは淡々と通訳を続ける。
「詠みたくてもこんな長い呪文、一息で詠むなんてワシみたいな素人には無理なんだから、」
「いや毎日って」
「商会を通した方がいいならそうしても良いが、直接依頼した方が良いのだろう?」
浴場主はトモミの手を離さずにシモーネとトモミを交互に見下ろしている。
「……ですって。どうしようかしらね?」
「いやいやいや、毎日アレはキツいよね?」
「そう? 同じ呪文を繰り返すのって、案外早く慣れるものよ? ラテン語でお祈りするのと同じ」
「オジサンも! そんなに期待してもダメなんだから!」
浴場主がシモーネにまた何か話し始め、シモーネが通訳する。
「ふんふん、毎回現金払いで……あら良い条件ね。」
「あーん、シモーネ?」
「ふんふん、へえ……ねえ、トモミ?」
「何よぅ」
「仕事が終わったら、タダでお風呂に入っていいんですって。」
それを聞いてトモミの心が揺れた。
(え、賄い風呂ってコト?)
「んー、トモミが手伝ってくれれはできると思うのよね。市外に出る日もあるし、休む日もあるだろうしぃ。あ、でもトモミがどうしてもイヤなら、断って他の詠唱士を紹介するわよ。」
「やるよ……」
「んん?」
「や、る! でも……お風呂のお湯は熱めにして!」