表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/28

温水浴

 ぴっちゃん。

 天井からモザイク張りの床に大きな水滴が落ちた。


 さっきのボイラー室より狭いくらいの部屋に、大理石の浴槽が置かれている。浴槽から手が届くところに銅の鍋があり、リネンの手ぬぐいが何枚か掛かっている。


 ちゃぽん。

 女が手で顔を拭い、湯船に腕を浸した音だ。


「はぁーあったかぁい。たしかに、仕事の後の温水浴は最高ね! 汗が冷えていたし、その汗も流せるし、ちょうどいいわ」


 同じ浴槽の反対側にちょこんと座っている少女が答える。


「そう、温水浴は最高なの。もう少し熱くても良いんだけど」

「トモミは本当に熱いお湯が好きなのね」

「ほとんどの日本人は、熱めのお湯に浸かりたいという欲望を、いつも心のどこかに持っているのよ」

「だからって、顎まで湯に入れなくてもいいじゃない。耳に水が入ると病気になるわよ」

「子供の頃からこうしてるんだから、そんな失敗はしないわ。シモーネ、あなたこそ肩までは浸かってみると良いわ。」

「これでいいの、もう十分に肩はくつろいでるから。呼吸も楽だし。」


 ちゃっぷん。目の前に氷山の一角が浮いている。


『はいはい、巨乳あるあるだよね』

「? なんて言ったの?」

「いまのは日本語で……すべて理解した、って言ったのよ」


 二人の会話は英語だ。理由は単に二人に共通の言語がそれだけだったからだ。


 トモミは浴槽に背中を預け、水面下に揺蕩うぽよんぽよんしたものからシモーネの顔に目を移した。薄暗くてもわかる金髪は後ろでまとめられている。色白で彫りが深くて睫毛が長くて蒙古襞がなくて、つまりは昭和の日本人が想像するようなザ・西洋人だ。もしかすると彼らの基準では幼い顔立ちかもしれない。


 トモミは体を起こして前屈みに座り直し、近くの手桶を取った。自分の頭に浴槽のお湯を掛けて優しく頭皮を洗う。

「傷はどう?」

「うん、もう痛くない。ありがとう」

「頻繁に洗ってもあなたの髪は傷まないのかしら?」

「私と母とその先祖は代々、強い髪を持っているの。さすがにこのお湯で洗うと少し痛むと思うけどね……ぷはっ」


「髪を伸ばすつもりはある?」

「伸ばすのが普通なんでしょう? でも風邪をひきやすくなるのは困るんだけど」

「うふっ。そういうところは古い考えなのね。さっき私が垢を落とさない方が敬虔的だと言ったら、絶叫して入浴の大切さを説教してきたのに」

「不潔で病気になるのと、湯冷めして風邪をひくのとは別なんだってば」

「ま、昔から色々な理由があって今ではそうそう沐浴しないのよ。教会で風呂は贅沢で退廃的だと教えるし、公共浴場で疫病が広まったし、」

「それはたぶん誤解が広まってるんだと思うけどね」

「それにどこの国でも、公衆浴場は薔薇の館と関係が深いからね。」

『浴場で欲情……』

「ん??」

「なんでもなーい。」


「あとは薪が高いのよねぇ。そこで今回ここの浴場主が購入したのが……」

「へっくち、ごめん。お湯がちょっと冷めた」

「熱いお湯を足したいのなら内鍵を外して、鈴を鳴らせば湯番が来るわ」

「もういいよ、これ以上冷める前に帰ろう」

「オーケー」


 シモーネは手の甲をパンと叩き、


「じゃあ出ましょうか。お湯を捨てるわね」


 そう言って浴槽の底の栓を抜いた。ジョロジョロ……。音を立てて流れ落ちた排水が床を流れていく。


 シモーネがそっと立ち上がり、手ぬぐいを一本取って顔から首筋へと拭いていく。


『まったく……』


 シモーネの後ろ姿をみながらトモミが呟く。


『なんなの、そのくびれは』


 トモミとシモーネは服を着て浴室を出た。シモーネが湯番にチップを渡すと、湯番が何か話しながらどこかを指さした。


「浴場主が事務所に来て欲しいんだって。報告書は後日商会から送るのに、何なのかしらね。」


 飾り気のないドアをノックすると、中から応えがあった。浴場主は二人を部屋に招き入れて席に座らせ、従業員にコーヒーを持ってこさせた。

 シモーネは浴場主の話を聞き、時々上品な仕草で笑っていた。トモミはその言葉がドイツ語である事は想像できたものの、さっぱり聞き取れなかったので、仕方なくコーヒーをちびちび飲んだ。


 やがて浴場主がテーブルの上の木箱から、あの金属板を取り出した。シモーネが妙に澄ました笑顔で何かを伝えると、浴場主はシモーネの手を握り、安堵の表情で感謝の意を表した。トモミにも、ダンケというフレーズだけは聞き取れた。

 シモーネは笑顔のままトモミに説明した。


「私はこう言ったの。おめでとう、この呪文はあなたの浴場に必要な水を、短い時間で沸かせますよ、って」


 トモミがつられて浴場主に向かって微笑むと、浴場主はトモミの手を取って、いかにも不慣れな笑みを浮かべてトモミに話し始めた。


「シモーネ、彼はなんて言ってるの?」

「うーんとね。これから毎日ボイラー役を頼めないか、だって。」

「え。」


シモーネは淡々と通訳を続ける。


「詠みたくてもこんな長い呪文、一息で詠むなんてワシみたいな素人には無理なんだから、」

「いや毎日って」

「商会を通した方がいいならそうしても良いが、直接依頼した方が良いのだろう?」


 浴場主はトモミの手を離さずにシモーネとトモミを交互に見下ろしている。


「……ですって。どうしようかしらね?」

「いやいやいや、毎日アレはキツいよね?」

「そう? 同じ呪文を繰り返すのって、案外早く慣れるものよ? ラテン語でお祈りするのと同じ」

「オジサンも! そんなに期待してもダメなんだから!」


 浴場主がシモーネにまた何か話し始め、シモーネが通訳する。


「ふんふん、毎回現金払いで……あら良い条件ね。」

「あーん、シモーネ?」

「ふんふん、へえ……ねえ、トモミ?」

「何よぅ」

「仕事が終わったら、タダでお風呂に入っていいんですって。」


 それを聞いてトモミの心が揺れた。

(え、賄い風呂ってコト?)


「んー、トモミが手伝ってくれれはできると思うのよね。市外に出る日もあるし、休む日もあるだろうしぃ。あ、でもトモミがどうしてもイヤなら、断って他の詠唱士を紹介するわよ。」

「やるよ……」

「んん?」

「や、る! でも……お風呂のお湯は熱めにして!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ