はじめての詠唱
タイル張りのホールを斜めに通り抜け、石を積んだままの細く薄暗い廊下を歩いて行く。突き当たりの扉を開くと、建物の裏手と思しき、薄暗くやや狭い部屋に出た。左の壁にある扉は屋外に向かって開け放たれている。そちらからは厩舎特有の匂いが漂ってくる。
先頭を歩いていた中年の男は部屋の中央で振り返り、脇に抱えてきた箱から、それは大切そうに、淡い金色の金属板を取り出した。男は後ろを着いてきていた茶色い外套の女にその板を差し出して、無愛想な表情のまま、だが少し興奮した声で何か言った。女は金属板を両手で受け取って、胸に抱えるように持ち変えた。
「じゃあ今からやってみせるからぁ、よーく見ておいてね!」
女は隣に立っている似た格好をした小柄な少女に言って、屋外に繋がる扉とは逆の右の壁に向かって立った。壁には大きな穴が空いており、穴の奥には黒く大きくやや深い鍋が据えられていて、その下に灰が溜まっていた。
壁一面が巨大な釜になっているのだった。そう言えば奥の壁には多くの薪や端材が目の高さまで積まれている。
女はしばらく金属板に刻まれた文字を指でなぞり、小さく口を動かしていたが、やがて鍋に向かって片手を伸ばし、手のひらを近づけた。それを見た男は嬉しそうに呻きを漏らした。女はそのまま何度か大きく深呼吸をした後で、金属板の「呪文」を詠み始めたーー。
「ハア、ハアッ、ハア……っとまあ、こんな、感じ、よ、フウ。……わかった? 簡単そうでしょ? じゃあ次はあなたの番。私と同じようにやってみて!」
「え、うん」
少女は金属板を受け取って、その重さに少しバランスを崩したが、黙って釜に向かって立った。
女が横から金属板を覗き込み、指で文字を差し示して言った。
「これが『ル』、そしてこれが『ぺ』ね。これをひと息で読むだけ。ここからここまで! かんたんかんたん! 右手を鍋に向けてぇ、10回深呼吸してぇ、……さあ、行ってみよう!」
少女は「呪文」を小さな声で詠み始めた。
「……ルルペぺペルペルルルペルルルペぺ……」
「いいわ、その調子!」
「……ルペルぺペルぺぺペプルペルペ」
「あーんダメー。ストップストップ」
「な、なんで?」
「いま『プ』って音が混じってしまったから。はいまた深呼吸してー。息が整ったら、もう一回やってみようね!」
外扉の近くに移動していた男が心配そうに声を掛けたが、女は大丈夫といった表情で笑い返して見せた。
「……ルルペぺペルペルルルペルルルペぺ……」
「うんうん、もう半分は過ぎたよ、がんばれ!」
少女の顔にやや苦しげな表情が浮かぶ。
「……ルペペルペルペぺペルペルルぺペルぺぺルペぺペルペルペル……」
「辛かったらやめても良いからね……」
「……ルペペルペルぺぺルペぺペルペペぺペルペルルぺペルルペル……」
「お、すごい。あと少し! キミならできる!」
「……ルペルルぺぺルルぺぺぺぺルルルペペルぺぺペルペルルルぺぺルペぺぺルルペルペルペ!」
「やった〜!」
「ハッ! ハッ! ハッ! ハッ! ハッ! んク……ハアッ! ハアッ!」
少女はその場に座り込んで激しい呼吸を繰り返す。
「すごい! よくやったわ! やっぱり私の見込んだ通り! 初めてなのにこれだけ詠めるんだもの、あなたやっぱり才能があるわよ!」
「それは……どうも。……ハアッハアッ」
少女の額に汗が噴き出していた。
女は男に向かって親指を立てて見せた。男も同じジェスチャーを返した。
「それじゃ休んでて。次は私が何回か続けてやるからね。」
その後何度か交代して少女が呪文を詠み終えたあと、女が声をかけた。
「コツをつかんで来たみたいね。そう、早口は大事なテクニックの一つよ。じゃあまた交代しましょうか。」
「うんお願いします。私の舌は疲れました。……って、なぜそんなに脱いでるの?」
「えー、なぜって?」
女は両手を挙げてみせた。
「この方がラクだし、そろそろ暑いでしょう?」
「いや、だからって……!」
女は外套も上着も脱いだ上に、コルセットの編み紐を緩め、ストマッカーも抜いていた。胸まで覆うコルセットでも隠しきれないボリュームに、少女の言葉が途切れる。
酸欠気味なせいもあって、ついつい無言で見つめてしまう。
「あなたも脱いだほうがいいわよ?」
「はっ! いやいや、えーと。外套は脱ぐけど」
「せめてスカーフも取ったほうがいいわよ。もう暑くなってきたし……」
女が鍋の縁を見上げた。視線の先で釜から薄く湯気が出ている。
「これからまだ暑くなるのに」
「うっ……でも」
少女は鍋と反対側の壁に下がっている男の方をチラリと見た。
「ああ、そういうコト?」
女は少し思案した。
「確かに気にはなるし、恥ずかしさもあるけと。彼は浴場主だから気にしないことにしたわ。全部脱ぐ訳でもないし、見慣れてるでしょうから」
男はじっと釜の湯気を見つめている。
女は金属板を少女から受け取りながら言った。
「それに彼は一部始終を見届ける必要があるのよ」
「むぅ……」
仕方なく少女はローブとジャケットを脱いで、スカーフも取った。その間に女は呪文をもう1回詠み終えていた。
「そのレイシングも緩めていいのに。押さえつけていると呼吸がしにくいわよ」
「それほど押さえつけられてないから心配しないで。では次は私に代わって? あなたがこれ以上脱がないうちに!」
少女は金属板を奪い取るようにして交代した。壁際の男が思わずビクリと反応する。少女は手のひらに鍋の赤外線を感じながら、金属板の呪文を詠み始めた。
「……ルルペぺペルペルルルペルルルペぺ……!!」
「あらー? またスピードが上がったわね。ホント凄いわぁ」
「女」が恥ずかしがらなさ過ぎ、後ほど矛盾を生じましたので、改稿しました。