冒険者の冒険~アリービアに降る涙~
アリービアに降る涙
冒険者になった時から、いつかこんな日が来ると思っていた。
だが、それが今日だとは思っていなかった。
誰だってそうだ。
自分がいつか死ぬ事は分かっている。
それについて思いを巡らし、覚悟を決めた気になる事もあるだろう。
だが、今がその時だと受け止められる人間は多くない。
砂漠の国アリービアで、フーリオ=ロッドは死にかけていた。
この灼熱地獄のような砂漠の只中で、僅かな水を飲み干し、粗末な即席の、テントとも呼べぬ、波打った砂に突き刺した二本の棒きれに、焦げた敷物を張っただけの小さな日陰に座り込んで、絶望の手前にある感傷に浸っていた。
「貴様のせいだぞ! 冒険者!」
しゃがれ声で言ったのは、依頼人の男だった。小太りで、服のセンスが悪く、憎たらしい顔をした、救いようのないケチな愚か者だった。
こんな目に合っているのは、この男のせいでもあった。
彼は商人で、隊商の護衛を募集していた。フーリオは街の冒険者ギルドでその仕事を受け、彼のもとへと出向いた。護衛はフーリオの他に二人いたが、隊商の規模を考えると、十分とは言えなかった。その事について、フーリオは事前に忠告していた。こんな人数じゃ、賑やかしにもなりませんよと。貴様の知った事ではないというのが依頼人の答えだった。このだだっ広い砂漠で、そうそう野盗になど出会う事はない。出会うのは運の悪い人間で、日ごろの行いが悪いからそういう事になる。その点俺は普段からたっぷり教会に寄付をしているから問題ない。貴様ら冒険者を雇うのだって、哀れだから仕事をくれてやってるんだ、という具合だ。だから、報酬が相場より安くても、文句を言われる筋合いはない。金を貰えるだけありがたいと思え、というわけである。
なるほど、よろしい。考え方は人それぞれだ。愚か者にだって、愚かに振る舞うくらいの自由はある。同じように、フーリオにも仕事を選ぶ自由があった。
そこで仕事を受けてしまったのだから、フーリオも同じくらいの愚か者かもしれない。冒険者に伝わる言葉にもある。長生きしたかったら、ケチな依頼人から仕事を受けるなと。
問題は、ケチでない依頼人などそうはいないという事だった。フーリオは街から街、国から国へと渡る、筋金入りの冒険者でもある。そういった生活を続けるには、とにかく身軽でなければいけない。だから、財布の中身も軽かった。昼は灼熱、夜は凍えるように寒い悪夢のようなアリービアの乾いた大地で野宿をしたくなければ、ケチで愚かな依頼人の、ケチで愚かな依頼だって受けないわけにはいかなかった。
そういうわけで、ケチで愚かな依頼人は日ごろの行いの報いを受けたのだった。昨晩、粗末なテントの中で眠っていると、野盗の襲撃を受けた。見張りは交代制で、その時はフーリオの番ではなかった。当番の男は、ケチな報酬に見合った働きをして、夢見心地でいた。彼がどうなったかは知らないが、もう一人の護衛はとっとと見切りをつけて逃げてしまった。賢い選択だった。命を張るには、ケチで愚かな依頼人の用意した報酬は安すぎた。仮に十分な報酬を用意されていたとしても、二人と夢見心地の一人とでは、どう頑張ったって撃退する事は不可能だった。
フーリオも逃げるべきだった。さもなくば、降参するべきだった。野盗の目的は金目のもので、命ではない。大人しくしていれば殺される事はないし、最低限の水と食料を残すくらいの慈悲は野盗だって持ち合わせている。
ケチで愚かな依頼人の言葉を借りるなら、日ごろの行いが悪かったのだろう。フーリオのテントは、依頼人の立派なテントのすぐ隣だった。テントから飛び出して、最初に目が合ったのがこの男だった。
この期に及んで、依頼人はフーリオに野盗の撃退を命令した。十秒程問答し、一分程努力してみた。それだけやれば、いかにケチで愚かな依頼人でも、状況がどれだけ絶望的か理解する事が出来た。
次の命令は、彼の命を守る事だった。
最初からそう言われていれば、最低限の水と食料をかき集める事が出来たはずだった。
フーリオに出来たのは、派手な魔術で目をくらまし、その隙に暴れまわる走鳥を一匹捕まえて、ケチで愚かでどんくさい依頼人を後ろに乗せて逃げ出す事くらいだった。
約束された報酬を考えれば、十分すぎる活躍に思えた。だが、ケチで愚かな依頼人は、フーリオが水を積んだ走鳥を選ばなかった事を非難した。夜目では、興奮して暴れまわる走鳥がどんな荷物を積んでいるか見分ける事は困難だったが、説明しても無駄だった。
数時間前、たまたまフーリオが携帯していた水袋の中身が尽きた。
哀れな走鳥は、野盗から逃げる際に負った傷が原因で死んでしまった。
一番近い街までは、徒歩では丸三日はかかった。
幸い、食料はあった。だが、水は一滴も残されてはいなかった。
「おい、聞いているのか!」
ケチで愚かな依頼人の、醜く太ったソーセージみたいな指がフーリオの胸元を掴んだ。
「聞いてますよ」
フーリオはそれを手で払い落すと言った。
「だから無視しているんです。それとも、殴りつけて黙らせた方がよかったですか」
「雇い主にむかってなんだその言い草は!」
フーリオは感心した。彼のように図太く生きられたら、どれだけ幸せだろう。
「冗談ですよ。それで、なんですか」
「どうにかしろ! その為に貴様を雇ったんだ!」
「あの状況であんたを逃がしたんだ。十分働いたでしょう」
「働いた!? 馬鹿を言うな! こんな砂漠の真ん中に連れ出されて! これならあのまま盗賊どもに捕まっていた方がましだ!」
「その通り。でも、あんたは取り合わなかった」
「ええい、言い訳をするな! わしは喉が渇いたんだ! 魔術士なんだろ! どうにかしてみせろ!」
フーリオは肩をすくめた。
「魔術で水を集める事は出来ます。でも、ここじゃ無理だ。こんなに空気が乾いてちゃね」
「役立たずが! こんな事なら、貴様など雇うんじゃなかった!」
僕もそう思います。フーリオは心の中で呟いた。こんなケチな仕事を受けたばっかりに、砂漠の真ん中で干物になりかけている。死ぬまでには、相当の苦痛が伴うだろう。
声に出さなかったのは、これ以上ケチで愚かな依頼人と口論をしたくなかったからだ。
「怒る元気があるなら、黙っていた方がいい。大人しくして時間を稼げば、誰かが通りかかるかもしれない」
「馬鹿か貴様は! こんな砂漠で、誰が通りかかると言うんだ!」
フーリオは立ち上がった。殴られると思ったのだろう。ケチで愚かな依頼人が悲鳴を上げて顔を庇った。
「い、依頼人に手を上げる気か!?」
フーリオの目は、ケチで愚かな依頼人を見てはいなかった。彼の物憂げな眼は、正面にそびえる砂丘に注がれていた。たった今、向こう側から顔を出した、三角形の黒い影に。三角形に見えた物は、先端に小さな角が生えていた。左右の二辺はよく見ると緩く歪曲していて、底辺の真ん中から、細い棒が真下に伸びていた。次に見えたのは、黒いローブを着た、黒髪の女だった。三角形に見えたのは、日傘だった。
ケチで愚かな依頼人も日傘の女に気づいた。幽霊でも見たように、豆粒みたいな目を丸くすると、慌てて立ち上がり、ずんぐりとした腕を振った。
「おい! そこの女! お前だ! こっちにこい! 助けてくれ!」
フーリオはケチで愚かな依頼人を殴り倒そうか迷った。そんな呼び方では、相手がお人よしのイーサ教徒でもそっぽを向かれそうだ。
相手は広い心の持ち主だった。それか、相当な物好きか、もしくはその両方だ。
ケチで愚かな依頼人のしゃがれ声に気づくと、僅かに傘を上げ、こちらを見た。アリービアでは珍しい、透き通るような白い肌の持ち主で、長い黒髪は濡れたように艶やかだった。眠たげな眼をした美人だが、葬式の参列者のように陰気な気配を漂わせている。
日傘の女は、黒いブーツで砂を踏みしめながら、優雅にこちらへとやってきた。場違いな姿は、幻想的ですらあった。強い風が吹いたら消えてしまいそうで、幽霊だと言われたら、フーリオは納得しただろう。
「どうかしたの」
早春に吹く風のように涼やかな声で女は囁いた。
「助かった! おい女! 頼む! 水を分けてくれ!」
ケチで愚かな依頼人が言った。
「ごめんなさい。水は持っていないの」
申し訳なさそうに女が言った。ケチで愚かな依頼人の、醜く大きな口があんぐりと開き、乾いて臭くなった咥内が埃っぽい風にさらされた。
ケチで愚かな依頼人の口が閉じ、金歯の嵌った歯をぎりぎりとかみ合わせた。豆粒みたいな目が恨めしそうに日傘の女を睨み、顔は湯だったように赤くなった。汚れた太い指を日傘の女に突き付け、ケチで愚かな依頼人は叫んだ。
「嘘をつくな! この嘘吐きめ! 水も持たずに砂漠を歩く奴がいるわけがないだろうが!?」
ケチで愚かな依頼人の身体が、半回転して倒れた。フーリオは何もしなかった。彼の紳士的な右足がやったのだった。
「すまない。見ての通り、どうしようもない男なんだ。気分を悪くさせた事は謝るが、本当に困っているんだ。少しでいい。水を分けては貰えないだろうか」
「気にしないわ。その酷い姿を見たら、どんな目にあったか想像できるから」
フーリオは苦笑いを浮かべた。全身砂遊びをしたように汚れ、衣服はあちこち焦げて、無精ひげを生やした疲れた男。それが今の自分だ。冒険者にしたって、惨めな格好だろう。
「でも、ごめんなさい。本当に持ってないのよ」
「そんなわけないだろ! 欲張り女ぶぇ!?」
喚くケチで愚かな依頼人を踏みつける。
「引き留めて悪かった」
「こちらこそ、助けてあげられなくてごめんなさい。でも、水の心配はしなくて大丈夫よ」
女は遠くの空に視線を向け、空気に触れるように片手を上げた。
「もうすぐ雨が降るわ」
さようならを言って、女は歩き去った。
足元では、ケチで愚かな依頼人が、女を追え、水を奪えと騒いでいた。
フーリオは取り合わなかった。
ケチで愚かな依頼人の言う通り、砂漠を歩いているからには、日傘の女は水を持っているのだろう。だが、それは彼女の水だ。分ける事が出来ないと言うのなら、それまでだった。
女が見えなくなると、依頼人は静かになった。絶望に心を折られたのか、日陰に座り込み、ぐすぐすと蛙みたいに泣いている。フーリオはまた待つ事にした。一人現れたのだ。死ぬまでに、別の誰かが通りかからないとも限らない。今度こそ、その誰かが水を分けてくれる事を願うだけだ。
願いは通じた。
数時間後、雨が降り出した。
フーリオは女が差していたのが雨傘だった事に気が付いた。
2
報酬を受け取ったフーリオは、王都ラシードの街を彷徨っていた。
水浸しの大通りは人で溢れていた。三日前にフーリオがそうしたように、人々は空に手を掲げ、全身に雨を浴びて歓喜の声を上げている。
フーリオは祝杯をあげる店を探していた。一仕事を終えた後に祝杯をあげるのは、冒険者の義務と言えた。今回は駄目だと思った。今回もと言ってもいいかもしれない。こんなヤクザな生き方をしていると、死にそうな目にあったのは一度や二度ではない。十や二十でも足りない。数え出したらきりがない。真面目に数えようものなら、命を安売りするような愚かな生き方にうんざりして、もっと堅実で、真っ当な生き方をしたくなってしまう。そうした方がいい事は、誰の目にも明らかだった。今からでもそうしたい気分だ。だが、まずは祝杯だった。アリービアの美味い酒を飲み、アリービアの美味い飯を食べなければいけない。その為に、フーリオは冒険者をやっているのだった。
選ばれたのは、ガーマの匙亭という店だった。ケチで愚かな依頼人に、ラシードでお勧めの飯屋を尋ねたところ、勧められたのがそこだった。経験から物を言えば、ケチで愚かな人間は、依頼人としては最悪だが、飯処の案内人としては有能だった。
ガーマの匙亭は、ケチで愚かな依頼人の紹介にしては、質素で平凡な店構えをしていた。
アリービアのそこかしこで見られる、石造りの四角い建物で、入口にはこの地方で崇拝される神の一柱らしい、一つ目に大きな口を持った蛙頭に、巨大な匙を持った人型の身体をもつ食神ガーマの姿が織られたタペストリーが、ぐっしょりと雨に濡れて、水を滴らせていたが、フーリオは三日前から濡れネズミだったから、今更手が濡れるくらい気にならなかった。
見た目に反して、中は豪華という事もなかった。狭い店内に石造りのテーブルが幾つかあるだけだ。往来程ではないが、床は濡れていた。天井のあちこちから、漏れ出した天の恵みが小さな筋を作って流れていた。アリービアの建築士が雨漏りの心配をしなかったとしても、フーリオは責める気にならなかった。それが自分の頭に流れているのでなければ。だが、宿を探す時は気を付けた方がよさそうだ。
「だれかいないのか」
人の気配がなかったので、フーリオは店の奥に向かって呼び掛けた。返事はなかった。雨粒が石造りの屋根を叩く、間延びしたドラムロールのような音が聞こえるだけだ。表で水浴びでもしているのだろう。
フーリオは肩をすくめて、どうするか考えた。別の店を探してもいいが、他の店がこうでないという保証はなかった。ラシード中の人間が水浴びをしていると言われても、フーリオは驚かないし、咎めようとも思わなかった。アリービアで数日も過ごせば、彼らにとって、水がどれ程価値のあるものか理解できないわけはない。今の状況は、空から金貨が降っているのと同じと言っても、大袈裟ではなかった。
「おう、らっしゃい!」
威勢の良い声に振り向くと、水樽を抱えた色黒の大男が濡れたタペストリーから顔を覗かせていた。
「あんた、冒険者かい」
「あぁ。依頼人に、ここが美味いと聞いてきたんだ」
「美味いぜ! おうとも! ガーマの匙の名は伊達じゃねぇ! けど、ちぃと待ってくれな。今、樽の中身を瓶に移すからよ」
「手伝おう」
「いいって。客は大人しく座って待ってな」
「腹を減らした方が美味い飯が食える」
「ちがいねぇが、空腹で倒れないでくれよ! 飯屋ん中で餓死者を出したんじゃ、一生の恥だからな」
笑い合うと、フーリオは店主に手を貸して水樽の中身を厨房の瓶に移し、空になった樽を店先に並べた。
「助かったぜ。で、旦那。なににするよ。今日は俺の奢りだ。遠慮なく食ってってくれ」
「そういうわけにはいかない」
フーリオは控えめに断った。
「ケチな冒険者だって、時には一端の飯屋で食事をするくらいの金を持っているんだ」
「そういうなよ。水を運んだ仲じゃねぇか。それに、今日はめでたい日だ。アメンのお恵みがあった時は、誰かに施しを与えるのが俺達のやり方なのさ」
フーリオは肩をすくめた。
「雨に感謝を」
呟いて、濡れていない席に座る。
フーリオは、店主のおススメに任せる事にした。普段は、そんな頼み方はしない。悪くなった食材を押し付けられるのがオチだからだ。だが、この男は信用出来そうだった。
程なくして、三つの容器と前菜がテーブルに運ばれた。三つの容器は、小さな水差しと徳利と空のグラスだ。徳利に鼻を近づけると、アルコールの強い匂いが香った。
「飲み方は分かるか」
頷くと、フーリオは徳利の中の透明な酒を、グラスの底に指二本分程注ぎ、入れたての雨で薄めた。グラスの中身が綺麗な乳白色に濁ったが、フーリオは驚かなかった。この飲み物は、こちらに来て何度か飲んでいた。アラクと呼ばれる強い酒で、水で割って飲むのが普通だが、その際、白く濁るのだった。
「こっちは初めて見る」
フーリオは前菜の盛られた木皿を視線で示した。皿には、乾いた薄緑色の殻付きのナッツと、奇妙な野菜が盛られている。ナッツは知っていた。ピナという名で、殻付きで出てくる事は珍しいが、アリービア以外でも見かける事がある。見た事がないのは野菜の方だった。それは、緑色の揺らめく炎を摘んだような肉厚の植物で、なにかの芽のようにも見えた。特徴的な姿をしていて、表面にびっしりと玉のような雫をつけていた。
「雫菜ってんだ。美味いぜ」
厨房で何かを焼きながら、肩越しに店主が言った。
「そうだろうとも」
フーリオは新たな出会いに心躍らせながら雫菜に指を伸ばした。全体を覆っている雫のように見えたそれは、触れても指を濡らす事はなかった。そうは見えないが、それ自体が雫菜の一部のようだった。
口に運ぶと、驚きが弾けた。肉厚の葉は瑞々しく、さっぱりとした酸味があった。噛むと、表面のつぶつぶが小気味よい弾力と共に割れて、ほのかな塩味が広がった。奇妙な植物と言う他なかった。肉のように食べ応えのある葉と、ドレッシングを纏ったようなつぶつぶは、美味しく食べられる為に生み出されたもののように思えた。店主の言う通り、雫菜は美味しかった。これだから、冒険者はやめられない。
殻付きのピナも絶品だった。普段見るそれは、硬く乾燥しているが、これは生のようだった。小さな実は干し肉のような弾力と豊かな風味があり、振りかけられた塩と相まって、それこそ干し肉のような印象を与えた。
アラクの水割りは、濃厚だがすっきりと甘く、花のように美しい香りがした。特にこの店のアラクは絶品で、水のようにするすると喉を通った。危うく一口で飲み干しそうになり、フーリオは自制を働かせた。程なくして、胃に落ちた酒が砂に染み込む水のように全身を回った。指二本では、少々濃すぎるようだった。冒険者の心得にもある通り、美味しい酒程用心して飲まなければいけない。さもなければ、せっかくの祝杯を無様な失態で汚してしまう事になる。
人の気配に、フーリオは入口を振り返った。
「やってるかしら」
黒いローブを着た女が、タペストリーの隙間から僅かに顔を出した。
「悪いが、今日は店じまいだ」
やたらと腹の減る匂いのする何かを炒めながら、店主が答える。
女は、もう何件もそんな風に断られたのだと言う風に肩をすくめた。そして、フーリオに気づき、フーリオもまた、彼女に気づいた。女は僅かに驚いたような顔を見せ、愛想笑いを浮かべると、店主に視線を戻した。
「そうは見えないけど」
「そこの旦那が最後の客さ」
「そう」
女はため息をつくと、タペストリーの向こう側に下がった。
「待ってくれ」
引き留めたのはフーリオだった。
「あと一人だけ、どうにかならないか」
振り向いた店主は、困ったような顔をしていた。
「彼女の分は僕が払おう。僕にも、アメンの恵みに報いさせてくれ」
店主はバンダナの上から頭を掻くと、渋々という風に言った。
「しょうがねぇ。一人だけだぜ」
「ありがとう」
礼を言うと、フーリオは女に視線を戻した。女は少しだけ困ったような顔をした。そして、少しだけ迷って見せた。値踏みするような目でフーリオを眺めると、肩をすくめて、フーリオの向かいに腰を下ろした。
「お礼をした方がいいかしら」
「僕がお礼をしたかったんだ」
警戒する彼女に、フーリオは言った。
店主が彼女の分のグラスと前菜をテーブルに並べた。
「心当たりがないわね」
彼女はそれに目もくれなかった。たまたま舞い降りた渡り鳥のように、今にも飛んで行ってしまいそうに見える。フーリオは雫菜を一つ摘まんだ。
「雫菜と言うそうだ。初めて食べるが、実に美味しい」
雫菜を一口食べると、アラクをあおった。
「アラクも絶品だ。いい店だよ」
軽くなったグラスに呟くと、女の目を見た。暗い色の瞳は、黒真珠のように寂し気な光を放っている。
「冒険者にとって、一番の不幸が何か知っているかい」
「さぁ。わからないわ」
女は肩をすくめた。
「不味い飯屋に出くわす事だ。命の恩人を、そんな目に合わせるわけにはいかない」
「気障な人ね」
呟くと、女は雫菜を細い指でつまみ、薄い唇の間に迎え入れた。眠たげな瞼が僅かに上がり、驚きの色が黒真珠の寂しさを吹き飛ばした。女にとって、それは不本意な事だったらしい。フーリオと目が合うと、ばつが悪そうに視線をそらし、アラクを煽った。
「フーリオ」
戻ってきた黒真珠を見つめて、フーリオは言った。
「君に命を救われた、気障な男の名だ」
「雨の事を言っているのなら、たまたまよ」
「そうだろうとも」
フーリオは言った。
「君はたまたま通りかかった。雨具を着ていたのもたまたまだ。たまたま傘を差し、たまたま長靴を履いて、たまたま水を持っていなかった。気まぐれに君は砂漠に雨が降ると言い、たまたまそれが当たった。アリービアじゃよくある事だ」
女は否定をせず、肯定もしなかった。何も言わず、ぼんやりと酔った目でピナの実を殻から外している。フーリオは絵画でも鑑賞するように、女の姿を眺めていた。言葉が止むと、雨の音が目立った。
店主がやってきて、テーブルに料理を追加した。知っている料理もあれば、知らない料理もあった。たれをつけて焼いた山羊肉のスペアリブ、尖った米と短く切ったパスタと色々な豆をごちゃまぜにして炒めたもの、底なし沼を思わせる濃い緑色のスープ。
フーリオはパスタと穀物の炒め物に手をつけた。匙が口元に近づくと、酢と唐辛子の刺激的な香りがした。口に運ぶと、舌が踊った。細長い尖った米も、短く切れられたパスタも、様々な豆も、全てが少し堅めに調理されていて、それぞれが微妙に異なる食感を与えた。酢と唐辛子の赤い甘辛ソースはまだらにかかっていて、食べる場所によって味わいが違い、飽きるという事がない。それはコシャリという料理で、アリービア全域で見られる料理だった。その癖、店によって食材や調理法に違いがあり、同じものに出会ったことがない。言うまでもなく、この店のコシャリは絶品だった。ぷちぷちと弾ける穀物の食感が小気味よく、幾らでも食べられそうだ。
「イスティスカよ」
緑色のスープを匙ですすると、女は言った。
「雨雲がついてくるのよ。どこまでも、どこまでも、ずっと。それから逃げる為に、旅をしているの。足を止めたら、この通りよ。私がいなくなるまで、この雨が止むことはないわ」
「難儀な話だ」
「疑わないのね」
意外そうにイスティスカが言った。
「別の場所で出会っていたら、疑ったかもしれない。だが、ここは砂漠で、僕は雨に救われたんだ」
「そうね」
呟くと、イスティスカはグラスを飲み干した。
「そうかもしれない」
空になったグラスに言葉を投げると、一杯目よりも濃いお代わりを作り始めた。
「魔女にやられたの」
イスティスカが言った。
「昔の話よ。ずっと昔。私がまだ、ほんの小娘だった頃。村では日照りが続いていたわ。畑が枯れて、井戸が尽き、川が消えるような長い日照りよ」
その頃の風景が映っているかのように、イスティスカはグラスの表面に目を這わせた。
「沢山人が死んだわ。ある人は渇きで、ある人は、僅かな水を取り合って。それである時、魔女が通りかかったの。魔女は魔術で水を出してくれたわ。村の人達は喜んだけど、魔女はまたすぐに旅立ってしまうと言うの。それで、村のみんなが魔女に頼んだのよ。どうか、雨が降るようにしてくれって。魔女は出来ると言ったわ。その為には、生贄が必要だとも。村の人達は話し合って、私を魔女に差し出したわ」
イスティスカは言葉を詰まらせた。哀しそうな表情でグラスを眺め、濁った酒を飲んだ。
「魔女は私を村の真ん中に連れて行って、儀式をしたの。私は……抵抗しなかったわ。家族はみんな日照りで死んで、村の人達にも見捨てられて、捨て鉢になっていたの。魔女が描いた魔術陣の上に立って、彼女の唱える呪文を聞いていた。その内に、足元の魔術陣が光り出して、その時になって、急に死ぬのが怖くなったわ。でも、身体が固まって、身動きが出来なかった。光はどんどん強くなって、目を開けていられなくなって……気づいたら、村の人達が何人も倒れていた。全員ではないけれど、半分ぐらいは倒れてたと思う。残った人が悲鳴を上げて、それで、倒れた人達が死んでいる事に気づいたわ。訳が分からなくて魔女を見たら、彼女言ったのよ。これであなたは雨女よって。良い事をしたみたいな顔で。それで、茫然とする私を置いて、泣き叫ぶ村の人達も無視して、どこかに行ってしまった。暫くして、雨が降ってきた。いつまでも、いつまでも降って、私は村を追い出されたわ。以来ずっと、逃げ回っているの」
フーリオは不幸な女の身の上話を舌の上で転がした。飲み込むには、少しばかり苦みの強い話だった。切れ長の目の奥で、酒に濡れた黒真珠が小さく揺れている。
「暫くの間、僕はこの街にいる。なにか出来る事があったら、冒険者ギルドに言付けてくれ。喉が渇いていなければ、それなりの働きが出来る男だ」
「私が悪かったわ」
溜息と共に、イスティスカが言った。
「同情して欲しかったわけじゃないの。こんな話をした後で言う事じゃないけれど」
「僕だって、同情したわけじゃない」
フーリオは、同じように不満げな溜息を吐いた。
「僕も長い事一人で旅をしているんだ。死にかけた事だって、一度や二度じゃない。その事を自慢しようとは思わないが、時々は、無性に誰かに聞いてもらいたいと思う事がある。誰かに知って欲しいと思う事がある。でないと、僕の苦しみも悲しみも、なかった事になってしまうような気がする」
イスティスカは目を見開き、珍しい物をみつけたみたいに大袈裟な瞬きをした。
「あなたみたいな男の口から、そんな言葉出てくるとは思わなかったわ」
「僕だって、君のような女の前でなけりゃ、こんな事は口に出さない。でも、みんな思ってる事さ。僕達のようなはぐれ者ならみんな」
タフでなければ、冒険者は務まらない。弱みを見せたら、あっという間に食い物だ。だから、冒険者はみんなタフを気取っている。困難を笑い、孤独と仲の良いふりをする。けれど、一皮剥けば同じ人間だ。脆くて弱い、寂しがり屋の臆病者だ。少なくとも、フーリオはそうだった。
「僕が君の為になにかしたいのは、僕が君に借りがあるからだ。あの日君が通りかからなかったら、僕は死んでいた。くだらない依頼を受けて、ケチで愚かな依頼人と二人きりで。最悪な死に方だ。そうならなかったのは君のお陰だ。大きすぎる借りさ。返さない事には、背中が重くておちおち旅も出来やしない」
「おかしな人ね」
綻んだ口元に、イスティスカは景気よく酒を注いだ。一人旅の女冒険者にしては、彼女は酔い過ぎていた。わざとそうしているように見えた。そうする事を楽しんでいるようだった。
「君には負けるさ」
フーリオもまた、自分の口に酒を注いだ。ただし、控えめに。
「水の代わりに、傘を持って砂漠を歩いているんだから」
イスティスカは声を出して笑った。黒真珠はもう寂し気ではなかった。何かが吹っ切れたように、彼女はよく笑った。村を追い出されて今日まで、ずっと蓄えていた分を吐き出すように笑った。大いに食らい、大いに飲んだ。景気の良さは、店主が追加の注文を通す程だった。フーリオは彼女が満足し、宿に帰るまで付き合った。その間に、彼女は儚い夢を語った。幸せになりたい。いつかこの呪いから解き放たれて、人並みの暮らしがしたい。同じ場所に住み、気の合う友人に囲まれ、誰かを愛し、子供を産む。そんな人並みの幸せを送りたいと語った。
「きっと出来るさ」
とフーリオは答えた。無責任な言葉だが、望みのない話ではなかった。
冒険者をしていると、死にかけた数と同じくらいは、奇跡に救われる事がある。
砂漠で雨に降られるような、そんな奇跡だ。
3
イスティスカの本業は雨乞い士だった。日照りの噂を聞くと、そこに出向いて雨乞いの話を持ち掛ける。話がまとまれば、やがて雨雲が追いつき、報酬を得られる。アリービアにやってきたのは、砂漠の国なら仕事に困らないと思っての事だった。
暫くの間、フーリオは街から街、村から村へと渡り歩くイスティスカの護衛をして過ごした。雨女イスティスカの噂はあっという間に広がり、彼女はアリービア王家に雇われるようになった。彼女はフーリオのなん百倍も金持ちになり、国の用意した護衛を侍らせて、籠の中に座っているだけで移動できる身分になった。彼女はフーリオを雇い続けようとしたが、フーリオは断った。宮仕えの雨乞い士の横に、いつまでも得体の知れない冒険者がいるわけにはいかない。彼女と別れた後も、フーリオはアリービアに残り続けた。まだ借りを返していないし、彼女が幸せを掴むまで、もうしばらく見守っていたかった。
イスティスカが第三王子と婚約した事を知ると、フーリオはアリービアを旅立つ事に決めた。アリービアの酒と料理は大体楽しんだし、刺すような日差しも、乾いた砂も、もう沢山だった。おめでとうを言えない事と、借りを返せなかった事が心残りだったが、それはフーリオの事情だった。大事なの彼女の事情で、彼女が幸せになった今となっては、どうでもいい事だ。そんな機会はもうないだろうと思いつつも、フーリオは冒険者ギルドに言付けを頼んだ。もし彼女がやってきたら、おめでとうと伝えてくれと。そして、困ったことがあったらいつでも呼びつけてくれていいと。君に作った借りを、僕はまだ返し終えていないのだと。
「大変だ!」
常連の冒険者が入ってくるなりそう叫んだ。
「雨雲の巫女が逃げ出したそうだ! 捕まえたら賞金が出るぞ!」
冒険者達がどよめいた。
「どういう事だ!」
フーリオは男を問い詰めた。男は何も知らなかった。ただ、兵士から聞いた話を伝えに来ただけだった。
舌打ちを鳴らすと、フーリオは土砂降りの中に飛び出した。
イスティスカが現れてからは、王都にはよく雨が降るようになった。人々はとっくの昔に雨に慣れて、もはやはしゃぎもしない。通りは雨の日らしく閑散としていて、走り回る兵隊と、僅かな通行人が見えるだけだった。
フーリオは旧市街へと走った。イスティスカはよそ者の有名人だ。頼れる人間はおらず、身を隠せる場所もない。そんな人間が逃げ込める場所は、スラム化した旧市街ぐらいのものだ。そうであってくれとフーリオは願った。そうでなければ、彼女は今頃捕まっている。そうであってくれなければ、フーリオには見つけられない。それ以外の選択肢は思いつかないが、しかし、いくらでもあるはずだった。
旧市街に入った後は奇跡を願った。言うまでもなく、一人で探すには広すぎる場所だった。手掛かりはなく、王家の兵士や賞金目当ての人間が大勢探している。フーリオが彼らを出し抜ける理由など、一つもなかった。
「イスティスカ!」
朽ちた建物が墓標のように並ぶ旧市街に呼び掛ける。声は雨音にかき消された。それでも叫び、闇雲に走った。濡れた服は重く、ゆっくりと体温を奪っていく。どうしてこんな事になったのだろう。まるで悪夢だが、うなされているのはフーリオではなかった。
叫び声が聞こえた気がして、フーリオは足を止めた。イスティスカの声ではなかったし、女の声ですらなかった。それでも耳を澄ませると、雨粒の隙間を塗って、野太い叫びが微かに聞こえた。
フーリオはそちらに向けて走り出した。言うほど簡単ではない。捨てられるだけの事はあり、旧市街は立派な迷路だった。
角を曲がると、兵隊の背中が見えた。数は三人で、行き止まりに黒い雨具を着た女を追い詰めていた。
「ついてないな冒険者」
イスティスカを見つめるフーリオに、髭の兵士が声をかけた。
「一足遅かった。賞金はなしだ」
からかうように両脇の兵士が笑った。
「そうでもないさ」
フーリオは答えた。
背後から呪文を唱える。三人の兵士は糸が切れたみたいに倒れ、水溜りの上でいびきをかいた。
「こんな幸運は滅多にない。君もそう思うだろ」
べったりと壁に身体を押し付けて、怯えた黒真珠がフーリオを見返した。
「私を捕まえに来たの」
フーリオは肩をすくめた。
「そうだとも。命の恩人を捕まえて、はした金を手に入れる為に、大雨の中を走り回って、この国の兵士を攻撃したんだ」
「どうして? だって、あなたには関係ないじゃない」
「どうしてだって? それを言うのは僕の方だ。イスティスカ。僕はもう一万回は言ったんだ。そして君は、もう一万回言っても憶えちゃくれないんだろうが。僕は君に命を救われたんだぜ」
物覚えの悪い女は茫然とした。黒真珠が、信じられないものを見たように瞬いた。きっと、信じられない馬鹿を見たからだろう。フーリオも、そんな奴がいたら驚いて目を擦る所だ。そうは言っても、彼は信じがたい大馬鹿者だった。
「馬鹿な人」
イスティスカが懐に飛び込んだ。
「僕の事かい。それとも、君か。どうして逃げたりなんかしたんだ。お姫様になれる所だったのに」
「何にも知らないのね」
イスティスカの声が涙で震えた。
「何にも知らずに助けに来たのね」
「必要な事は知っているさ」
惨めに泣く女の背を、フーリオは冷たい雨具越しに撫でてやった。
「君は助けを必要としている。それだけ知っていれば十分だ」
「馬鹿な人。本当に馬鹿な人よ」
「場所を移そう」
フーリオは女の手を引いた。
「立ち話をするには、ここはいびきが煩すぎる」
状況はよくなかった。雨は強いが、周りが見えない程ではない。しかし、雨音は大きく、誰かが近づいていても、気づけそうになかった。出来るだけその場から離れると、フーリオは適当な廃墟に身を隠した。彼女がガラスの靴を蹴飛ばした理由を聞かなければ、話にならない。
「アリービア王家は、私を処刑するつもりなのよ」
幾分冷静になって彼女は言った。
「どうして。君はこの国に雨をもたらす救世主じゃないか」
「だからよ」
疲れた女の顔が皮肉に歪んだ。
「砂漠の国はアリービアだけじゃないわ。お姫様になりたいのも、私だけじゃないのよ」
他所の国が、アリービアがイスティスカを使って雨を独占していると言い出したのだった。本来こちらに降るはずの雨を奪っていると。そんな事はないと誰が言えるだろうか。この問題をどうにかしなければ、そう遠くない未来に戦争が起こるのは明らかだった。
第三王子の妃の座を狙う一族がこれに便乗した。そもそも、イスティスカが現れなければ、王妃はその一族から選ばれるはずだった。
宗教的な問題もあった。アリービアに限らず、砂漠の国では雨は貴重で、それは神のもたらす奇跡の恵みとされている。だからこそ、イスティスカは王族との婚姻を許されたのだ。アリービア王家は、イスティスカを神の加護を受けた聖なる巫女として迎える事で、王権を強化しようとしていた。だが、王家も一枚岩ではない。中には当然、限られた席を新参者に奪われる事をよしとしない者もいる。あるいは、純粋にアリービア人ではない人間が王家に加わる事を許せない者。他にも、不満を持つ者はいただろう。理由は幾らでも考えられる。
そして、そういった者達が力を合わせて、彼らなりに問題を解決しようとした。
イスティスカがいなくなれば、全ては解決する。だが、追放するわけにはいかない。そんな事をしたら、今度はこちらが雨を奪われる側になりかねない。
消えて貰うのが一番だった。
彼女は神の遣いなどではない。むしろ逆だ。邪悪な力を使い、雨を奪って砂漠の国に不和をもたらす悪魔の遣いに違いない。
だから殺してしまえ。
処刑しろ。
それで全て解決する。
彼女を雨雲の巫女と仰ぐ侍女の一人から、そんな話を聞いた。
あるいは、それすらもイスティスカを追い出す為の姦計だったのかもしれない。
今となっては分からない。
どちらにせよ、同じ事ではあったろうが。
もはやアリービアにイスティスカの居場所はなかった。
彼女は逃げ出した。
あとは知っての通りだった。
「私はもうおしまいよ」
イスティスカの声が震えた。
「砂漠の真ん中で水が尽きた時は僕もそう思ったものさ。けど、終らなかった。君が現れ、雨が降った。もう一度だけ言うぜ。君は命の恩人だ。僕は借りを返しに来た。おしまいだと言うのなら、その通りだろう。アリービアでの生活はおしまいだ。こんな埃っぽい所にはお別れを言って、もっとマシな所に行こうじゃないか」
「無理よ。そこら中、王家の兵士がうようよしているわ。それに、私の首には賞金がかかっているそうじゃない」
「厄介ではある。だが、無理という程でもない」
イスティスカが笑みを浮かべた。疲れた笑みを。死にかけた人間が看病人に向ける最後の感謝を思わせる笑みだ。優しさが見せる、笑みとは言えない笑みだった。
「あなたがそういうと、そんな気がしてくるわ。でも、無理なのよ。考えてちょうだい。私の後ろにはぴったりと雨雲がついてくるのよ。こんなわかりやすい目印はないわ。首尾よく街を抜け出せても、結局追いつかれるだけよ」
「そうかもしれない。君の話を聞いていると自信がなくなってきた。どうせ捕まるのなら、早い方が楽でいい。二人で手を繋いで出て行こう。兵士さん、こっちだよと言って。二人で捕まって、仲良くギロチンに掛かろうじゃないか」
「皮肉はやめて。あなたの為を思って言っているの。私の為に、あなたまで危ない橋を渡る事はないのよ」
「仰る通りだ。でも、僕はもう橋を渡ってしまったんだぜ。後戻りは出来ない。君の弱音を聞くつもりもない。二人で逃げるか、二人で捕まるか。好きな方を選びたまえ」
「フーリオ……」
哀れな女の唇が、馬鹿な男の名を呟いた。寂し気な響きを持つ、タフな男の名を。
「僕に考えがある。少し待っていてくれ」
イスティスカを待たせると、フーリオは通りに飛び出した。目覚めた兵士が報告したのか、行き交う兵士の数は増え、殺気立っているように見えた。フーリオは用心しながら徘徊し、通りかかった冒険者を襲った。不運な何者かを眠らせると、上着を奪った。同じ事をもう一度やると、大急ぎで待ち人の所に戻った。
「これで、少しは目くらましになるだろう」
拙い変装だったが、案外効果がありそうだった。大雨の中では、細部は霞む。ぱっと見の色と形が変わるだけで、別人のように見えるのだった。
「これからどうするの」
尋ねるイスティスカは、裸で表に出たみたいに不安げだった。
「旧市街の外壁にはいくつか穴が開いている所がある。そういった場所では、近くで無許可の運び屋がうろついているんだ」
運び屋ギルドに所属していない、モグリの連中だ。上納金を納めなくていい分、料金は安い。その分トラブルも多く、目的地ではなく、彼らの本当の親分である盗賊の所に運ばれる事もある。そこで走鳥を手に入れる事が出来れば、アリービア脱出も夢ではなくなる。
もはやイスティスカも、上手くいくのとは聞かなかった。
フーリオは堂々と表を走った。その方が、賞金首を探す冒険者という感じがする。道中何度も兵士とすれ違ったが、声をかけられる事はなかった。大抵の国の兵士が大抵そうであるように、彼らは冒険者に無関心だった。
「もしもここから逃げ出せたら」
切れ切れになった息の端から、そんな言葉を女は紡いだ。
「次は北に行きたいわ。うんと北の、雪の国に。全てが凍る雪の国なら、この雨雲もついてこれないかもしれないでしょ」
「あるいは、水の国だ」
「水の国?」
女が聞き返した。
「僕もまだ行った事はない。風の噂に聞いたんだ。どこかの海の底には、人と人魚が共に暮らす、水の国があるとか。この雨雲がどれだけしつこくても、海の中まではやってこれまい」
黒真珠が希望の光を受けてきらきらと輝いた。
「本当なら、素敵な話ね」
「確かめてみよう。送っていくよ」
「夢みたい」
幸せそうに女が言った。
角を曲がると、石造りの高い外壁が行く手を遮った。落書きだらけの壁面を、滝のように雨が流れている。その中に一部だけ、屈んで通れるくらいの穴が開いている。何者かに爆破されたのか、穴の周囲は黒く焦げていた。
「そこでなにをしている!」
背後で声が響いた。振り返ると、二人組の兵士が遠くに見えた。一人がこちらに駆けだし、もう片方が甲高い警笛を鳴らした。
「先に行け!」
フーリオがイスティスカの背を押した。
「でも」
「行くんだ!」
「……すぐに来るのよ!」
短い逡巡の後、女は穴を潜った。
「僕だって、こんな所でむざむざ死にたくはないさ」
呟くと、フーリオは剣を抜きながら駆け寄ってくる兵士に右手を向けた。
「眠れ!(スプリースタ)」
剣の兵士は躓いたようにして足元に倒れた。そうしている間にも、建物の影から一人、二人と援軍が現れる。
「ああぁ!?」
穴の向こうでイスティスカが悲鳴を上げた。
「イスティスカ!?」
穴に向かって叫ぶと、フーリオは舌打ちを鳴らし、足元に右手を向けた。
「壁よ!(オティフォース)」
地面が厚い板状に隆起し、穴の周りに壁を作った。所詮は即席の土の壁だ。ないよりはまし程度の、心もとない壁だった。
それで時間を稼ぐと、フーリオはイスティスカを追った。穴の向こうに、倒れたイスティスカのつま先が見えていた。
「なにがあった!」
「来ちゃだめ!」
擦り切れた悲鳴のような声でイスティスカが叫んだ。
穴を抜けると同時に、フーリオは唱えた。
「障壁よ!(エボーディオ)」
金色に輝く透明の壁が、半分に割った卵の殻のようにフーリオの前を覆った。
直後、無数の矢が壁にぶつかり、鈍い音を立てて弾き返される。
向こう側には、穴を取り囲むように、大勢の兵士が待ち構えていた。中央には、指揮官らしい髭の男が羽の白い走鳥に跨っている。
「大丈夫か!」
彼らを無視して、フーリオはイスティスカに駆け寄った。
「怪我をしたのか!」
「わからないわ」
ぐったりした声でイスティスカが言う。恐怖の為、身体は石のように固まっている。矢が刺さっている気配はなかったが、見ただけではわからなかった。
イスティスカは立ち上がろうとした。ふらつく身体をフーリオが支える。
「動くんじゃない!」
「支えていて」
囁くと、イスティスカは髭の指揮官を見た。
「投降するわ、フスタート王子! だからお願い、この人は見逃して!」
彼女の言葉に、フーリオは彼が例の第三王子である事に気づいた。
「断る」
髭の王子が言った。イスティスカを見る目には、侮蔑と憎しみの炎が浮かんでいた。
「悪魔の遣いめ。貴様のせいで、王子としての私の地位はおしまいだ。その上に、男と逃げるとは、どれだけ私の顔に泥を塗れば気が済む。見逃すなど、冗談ではない。貴様ら二人とも、惨たらしく縊り殺してくれる」
「そんな……お願いです! どうかご慈悲を! この通りです!」
イスティスカは地に伏すと、泥水に額を擦りつけた。
「やめるんだ」
フーリオは肩を掴んでそれを止めた。
「とめないで! 私のせいであなたまで死ぬなんて、耐えられないわ!」
「僕を信じるんだ」
フーリオは黒真珠を見つめた。血の気を失い、雨に凍えて青ざめた目だ。絶望し、悲しみに暮れ、希望を失った目だ。それでもまだ、美しいと思える目だった。
「信じるんだ」
繰り返すと、フーリオは彼女を庇うように前に出た。
「フスタート。国を滅ぼしたくなかったら、大人しく僕達を通せ」
「無礼者が!」
兵士が叫んだが、主の許可なく矢を放つ程の度胸はなかった。
「……一応聞いてやろう。国が滅びるとはどういう意味だ」
「そのままの意味さ。あんたらの言う通り、彼女は雨雲の巫女なんかじゃない。彼女は呪われてるんだ。昔々に、はた迷惑な魔女にかけられた呪いだ。彼女の意志とは関係なく、雨雲を呼び寄せる呪いだ。彼女が死ねば、雨雲はここに留まるぞ。王都ラシードは、常雨の街になる。数日なら平気だろうが、数十日ならどうだ。数年は保たないだろう。土がふやけ、家も壁も城も、全てが沈んで倒れるだろう。その前に、雨を妬んだ砂漠の民が戦争を仕掛けるぞ。そうなれば、アリービアはおしまいだ。それでもいいのなら、好きにするがいい。彼女を殺して僕も死ぬ。アリービアよ雨に沈め! 望み通り、悪魔の遣いになってやろうじゃないか!」
兵士達はどよめき、主人の顔を仰いだ。
フスタートは顔色一つ変えず、長い顎髭を撫でた。
「はったりだ」
「よそ者二人とアリービアを天秤にかけた答えがそれか」
雨の音が響いた。ぼたぼたと地面を叩く音は、たち込める沈黙と同じくらいには重かった。兵士たちがムスタートの顔色を伺っていた。今にも悲鳴を上げそうな情けない顔だ。
砂のように乾いた溜息をつくと、フスタートは剣を納めた。
「道をあけ、この者達に走鳥を与えよ」
兵士達は左右に分かれると、その中の一人が焦げ茶色の走鳥をフーリオのもとに引いてきた。
フーリオは走鳥に跨ると、イスティスカが後ろに登るのに手を貸した。
「疾く去れ。二度と砂の大地に足を踏み入れるな」
「言われるまでもない。世界には、もっと素敵な所が幾らでもある」
あんたには無縁だろうが。フーリオの言葉に、フスタートの鉄面皮が歪んだ。王家の血によって砂の国に縛り付けられた哀れな男の顔だった。
手綱を引くと、走鳥は風のように走り出した。いつだって、彼らは後ろから矢を射る事が出来た。そう思うと、背中が泡だった。だが、フスタートは黙って見送った。
走って、走って、走って、走って。王都ラシードが雨の向こうに消え、飛べない鳥は雨雲を振り切った。アリービアの強すぎる日差しが冷え切った肌を温めた。灼熱の太陽も、今だけは心地よかった。乾いた風が、濡れた服を軽くした。
「嘘が上手ね」
背に寄り添ったイスティスカが、呆れるようにして言った。
「役者だと言ってくれ」
誇らしげにフーリオは言った。まったく、大した役者だった。
「でも、本当に。私が死んだらこの雨雲はどうなるのかしら」
柔からな声だった。寝起きのように穏やかで、死んでしまいそうなくらい淑やかな声だった。
イスティスカの身体が傾ぎ、砂の上に落ちた。
「イスティスカ!?」
走鳥を止めると、フーリオは女のもとに駆け寄った。凍った海のように波打つ砂の上で、ぐったりとして動かない女の身体を検める。乾いた筈の服が濡れ、その下の砂が赤く染まっていた。
「怪我をしていたのか!」
「そうみたいね」
他人事のように女は言った。上着を破くと、裂けた脇腹から、彼女の内側が覗けていた。鮮やかな赤色に、フーリオは息を飲んだ。とてもではないが、彼の魔術で治せる範疇を超えている。
「大丈夫。魔術で治せる傷だ」
「優しい嘘」
女が言った。
「喋るんじゃない」
両手を添えると、フーリオは呪文を唱えた。湖面に氷が張るように、真新しい肌が傷を覆っていく。だが、それだけだった。薄皮の向こうでは、傷ついた内臓が今も赤い涙を流している。
「酷い人生だった」
アリービアの空のように晴れた表情で言うと、イスティスカは血を吐いた。
「喋るなと言ってるんだ」
「いやよ。きっと、最後の言葉だもの。言いたい事を言わせて頂戴」
イスティスカの冷たい手が、無意味な治癒を続けるフーリオの手に触れた。
「あの日からずっと、悪い夢を見ていたのよ。でも、最後には良い夢を見れたわ」
あなたのおかげよ。
女の手が、抜け落ちた羽のように砂に落ちた。
「イスティスカ!? 死ぬんじゃない! 海の国に行くんだろう!」
女は答えなかった。黒真珠は、もう輝いてはいない。
熱い雨が、アリービアの大地を濡らした。
フーリオは、彼女の死体を走鳥に乗せて走った。大きな岩を見つけると、その下に深い穴を掘って埋め、岩に彼女の名を刻んだ。
長い時間がかかったが、雨雲がやってくる気配はなかった。
フーリオは彼女を悼み、アリービアに別れを告げた。
それから長い月日が経ち、彼女の事を夢に見なくなった頃、風の噂を耳にした。
アリービアに、聖女の泉と呼ばれるオアシスがあるという噂だ。地下水路から遠く離れた場所に忽然と湧いた奇跡のオアシスには、人が集まり、今では王都顔負けの大都市として賑わっている。
街の名は、イスティスカというらしい。