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1-8 雨音をききながら

「どうだい先生。今度はなかなかのできだろう」


 若草高志は椅子に背をあずけて腕を組みながら、得意げに言った。喫茶店「すずらん」の、いつもの奥の窓際の席。背中になじんだ木製の格子のような背もたれに寄りかかり、彼は眉をしかめてコーヒーをすする。ちょっと苦めの、コクの深い味。もう何杯飲んだかわからないが、飽きがこない。でも、たまにはべつのものも頼んでみようか。そんなことを考えながら、彼は正面の席に座る人物に視線を向け、思う。思った以上に、完成までの道のりは遠そうだし。


「……」

 知佳子先生はメガネを押し上げながら絵をじっと見つめている。表情は微動だにしない。メガネの表面に光が反射してまるでそこが曇っているように見えて、そうなるともう、まるでお面でもつけているようだ。


「こんどは完璧だと思うがなあ」

 高志が言うと、彼女は眼鏡を指で押し上げてからゆっくり首を振った。

「……いいえ、まだよ。なんだか寂し気で……。なにかこう、もっと希望があふれるような感じが、ほしいと思うの」

「朝日が昇っているじゃないか」

「そこではなくて……」


 やはりな。今日もはじまった。高志は口もとに苦笑を浮かべる。この人が、こんなに熱意を持っていたとは意外だ。まさか、こんなに口出ししてくるとは。そう、半ば呆れながら。


 彼女に意見を求めてから一月近くたつ。頼りなかった枝々の若葉たちはすっかり茂り、今やまばゆいほどの新緑で街の周囲の森を覆っている。山のまとう白い衣装も小さくなり、高原を渡ってくる風も暖かくなった。しかし、絵の制作は、少しも進んでいない。


「何というか、もっとこう、柔らかく。哀しみの中にしかし希望を見出そうとしているかのような雰囲気が、風景や猫の姿勢や表情ににじみ出ていて……」


 メガネを光らせながら、無表情でぶつぶつと語る彼女の言葉からでは、いまいちイメージがわかない。イメージを教えてくれとは言ったが、これでは文章的で、そして抽象的でどうにも絵にならない。結局イメージがわからないのだ。頼むから、何か描いてくれ。そうすれば解決の糸口が見つかるかもしれないのに。しかし……。


「なあ、ちょっと簡単でいいから、先生のイメージしているものを描いてみてくれないかな」

 高志はダメもとで知佳子先生にお願いしてみる。これを言うのはこれで何度目だろう。

 彼女からは予想どおりいつもの答え。少し怒ったように眉をあげて。眼鏡のフレームを指でつまみながら。

「描けるなら、自分でやっています」


 たしかに、そうなんだけど。しかし少々かたくなにすぎないだろうか。


 一息つくためにコーヒーをすすりながら、高志は外に目を向ける。いつもなら橙色の光が街灯の屋根をきらめかせている往来の風景は、網をかけたようにどんよりと暗くうち沈んでいる。低く垂れこめたどす黒い雲からは今にも雨が降り落ちてきそうだ。傘を持ってきていないから、できれば降りだす前に帰りたいな。


 心が急いたせいか、知佳子先生との議論も面倒くさくなって、高志は頭をかきながら投げやりにまとめてみた。

「つまりあれですか。ふわっとしていて、明るく。そんな感じでいいんですね」

 返ってくるのは沈黙。返事の代わりに、遠くで、雷鳴が轟いた。

「……ふざけていますか」

 やがて発せられた雪女のささやきのような声と、氷のような冷めた目つきのせいで、あやうく高志までフリーズしてしまいそうになった。


 冷気を含んだため息を一つついて、毛先を指でいじりながら、彼女は窓の外をみやる。その目を夢見るように半分に細めて、

「私の中にあるのは、ディケンズの小説に描かれているパリやロンドンの街角のようなイメージです。その背景に日本的美しさを盛り込んで。島崎藤村の詩のような。島崎藤村は、ご存じ?」

 とつぜん授業のようなかしこまった口調になって、彼女は高志には訳の分からぬ単語をだしてきた。視線だけ高志に流して。彼を試すかのように。もちろん高志には分らない。何だそれは。本とか作家とかの名前か。ちんぷんかんぷんだ。


 首をひねっている高志の様子を横目で見つめていた知佳子先生の口もとに、やがて薄い笑いが浮かんだ。まるで不出来な生徒を見守るような表情。しょうがないわねこの子は。そうとでも言いたげな、ちょっと見下したその視線。


 ばかにして! いい加減にしろよ。


 それまで我慢していたものが、急に高志の胸の中で膨張した。喉の奥に押しとどめていたものがあふれだす。馬鹿にしないでくれ。僕はあなたの生徒じゃない。

 高志は絵のキャンバスを脇に押しやると、スケッチブックの白紙の面を知佳子先生の前に突き出し、その上に鉛筆をおいた。コーヒーカップと皿の上のスプーンが、ガチャリと派手な音をたてる。

「先生の言っていることはわかりにくいんですよ。百聞は一見に如かず。何か描いてみてください。簡単でいいと言っているではないですか。依頼者のあなたがそんな非協力的だと、僕はこれ以上描くことはできませんな」


「……」


 高志の剣幕に知佳子先生は思わず黙り込む。十分くらいはそうしていただろうか。黙りこくった鉄面皮の女の前にいるには永遠かと思われるほどの時間を高志が感じた頃、彼女は恐る恐る筆をとった。

 高志の差し出した紙に、知佳子先生が震える手で線を引いていく。長い時間をかけて数本の線を引き、そして彼女は顔を上げた。


「……描いたわ」

「先生。これは?」

「だから、私のイメージです」

 そう言って、知佳子先生は顔を赤らめた。


 少し間をおいてから、高志は思わず笑いだした。彼女の絵が、あまりにも下手くそだったから。何が描いてあるのか推測するのが難しいほどの、それはひどい代物だった。

 知佳子先生は頬を膨らませて、

「描かせておいてひどい。だから嫌だったのです」


「いや。そうか……」

 突然高志は笑うのをやめ、目を細くして彼女の絵をじっと眺めわたした。その紙面に描かれていない線をあぶりだそうとするように。そして鉛筆を取り出すと、知佳子先生の落書きに重ねて新たに線を引きはじめた。

「こういうのはどうでしょう。建物の窓のひとつに陽が差し込んでいる。その窓辺には花が咲いて、その花びらが、まだ薄暗い街路にも散っていて……」

 高志は線を重ねながら、今頭に浮かんだことを知佳子先生に話して聞かせる。黒猫は、その散った花を見上げ、手を伸ばしているんですよ!


 高志の熱っぽい口調と手の動きに吸い寄せられるように、知佳子先生も身を乗り出してスケッチブックを覗き込む。その口から、小さな感嘆の息が漏れる。


「どうです」

 陽のさす窓辺と、咲く花と、花びらに手を伸ばす黒猫を描いて高志は顔をあげる。返事はない。ただ、描かれた絵に視線を落としている知佳子先生の頬には、柔らかな笑みが浮かんでいる。それはまるで、何かの絵で見た、赤子を抱く聖母のようで……。

 あまりにいつもの彼女らしくないその表情を、高志は唖然と、無遠慮なほど見つめてしまう。やがて顔をあげた知佳子先生と目が合って、それでも目が離せなくて、ただ、己の頬を赤らめる。それと同時に、先生の頬も、ほんのり紅く染まる。


 知佳子先生は腕を組んでそっぽを向き、

「い、いいんじゃないですか。でも、ぶ、文学の素養があれば、描く絵は、もっと豊かなものになるんじゃないかなあ」

 そんなことをつぶやいた。気まずさを紛らわすように咳払いして。そしてまた高志と向き合い、いつもとは違う、はにかんだ微笑みをうかべた。


 普段は見せない知佳子先生の表情に、高志の胸は思わず鼓動をうった。それをごまかすために彼も、気まずそうに咳払いをする。

「そんなこと言ったって、何を読んだらいいかもわからない。それなら、あなたが良いと思う本を、薦めてもらいましょうか」


 返ってきたのは、沈黙。しかし、今度は氷の目つきにはなっていなかった。知佳子先生は、顎を指でつまんで、何か物思いにふけるように天井を見上げている。

「文学の素養……。本……。文章……。そうか。その手があった」

「あの。どうしたんですか」

「いえ……」

 高志に視線を向けて、答えようとちょっと開けた彼女の口もとに、今度は悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「ちょっと、思いついたことがあるのです。高志さんにも、もうちょっと仕事をしてもらうことになるかも」




 外に出ると、もうあたりはすっかり暗くなっていて、雨の降り落ちる音が彼らをつつんだ。喫茶店の軒から落ちる水滴のリズム。庭の木々の葉を洗う音。商店街の路上をたたく音……。無数の雨滴のつくりだす様々な音が合わさり、壮大な一つの音楽のように、薄暗い喫茶店の店先にたたずむこの小さな体と心をどこかに流してゆこうとする。


 目をつむって湿った大気の匂いを嗅ぎながら、音の奔流に心をゆだねる高志の横で、知佳子先生が遠慮がちにつぶやいた。

「こまったな。私。今日は傘を持ってきていないんです」

「実は僕もです。どうしましょうか」

 そう言って軒を見上げた高志の背後で、鈴の音が鳴った。

「高志さん。忘れ物ですよ」

 開いた扉の隙間から、マスターがその髭面をのぞかせている。その手に握られているのはコーヒーみたいな色の傘。彼はそれを高志に差し出して、にこやかに会釈をすると、音もたてずに扉を閉めた。


「送っていきますよ。家は、どこです?」

 そんな台詞をスムーズに口にしてしまった自分に、高志自身が驚いた。ひょっとしたらこの雨の奏でる音楽のせいかもしれない。まあ、いいだろう。たまにこんなキャラを演じるのも。そして高志は、知佳子先生が返事をする前に傘を開いて軒の下から一歩踏み出した。振り返って、持っている傘を少しだけ彼女に差し出すしぐさをする。

「さあ、入って。相合傘で悪いけど」


 薄闇の中に青白く浮かぶ機械女の頬に、ほんのり赤みがさした。ためらいがちに高志のさした傘の下に入った彼女はすぐに、その表情を隠すように顔を伏せてしまった。


 知佳子先生の家は、街はずれの丘の上にあった。生垣に囲まれた、小さな平屋の一軒家。

 蔦の絡まる白い小さな格子戸の前で、知佳子先生は立ち止まった。

「ありがとうございました。じゃあ、ここで」

 しかし、彼女はなかなかその戸を開いて中へ入ろうとしなかった。何か忘れ物をしていないか考えるように、もじもじしている。そんな彼女の様子を眺める高志も、その場に突っ立ったまま、動こうとはしない。


「ちょっと。いつまでそこにいるんです。ひとり暮らしのレディーの家に興味がおありなの?」

「先生こそ、この場所に何の用が? あなたを濡らして僕だけ先に帰るわけにはいきませんよ」

「いいんです。お先にどうぞ」

「先生こそ、お先に」

「いいえ」


 そして、知佳子先生は突然口を閉じると高志をまじまじと見つめた。ふいに、細い笑い声が漏れる。雨音のような、歌うような笑い声。彼女は目を閉じ、しばらく傘の布の上を跳ねる大小の雨粒の音楽に耳を澄ませ、そして、かみしめるように口ずさんだ。


「なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらんか きみをとどめん」


 何のことだろう。高志はその意味をきこうとするが、その前に目を開けた彼女は彼に微笑みかけて傘の下から出てしまった。


「じゃあ、また来週」

「ええ。また、来週」


 高志は少しの間そこにとどまってから、しかしほかに何も言うこともなくて、ためらいがちに踵を返した。緩やかな濡れた坂道は、来るときは光を放っているかのようだったのに、ひとりで下ろうとしている今は、沼の底に通じているみたいに心細い。ぽかりと空いた隣の空間に響く雨音が、急に寒々しく感じられた。


「また来週。必ず会いましょう!」


 高志の背に、突然声がかけられた。振り返ってみると、知佳子先生はまだ門前にいて、全身を濡らしながら大きく手を振ってくれていた。

(なんだよ。せっかく送ってやったのに、結局びしょぬれじゃないか)

 そんな彼女を見つめる高志の胸の底からは、しかしなんともいえぬあたたかさと、おかしさがこみ上げてくる。

 知佳子先生の姿を眺めながら、高志は笑った。彼の人生で今までになかったと思われるほど、高らかに、純真に。そして彼もまた傘を閉じてびしょ濡れになりながら、知佳子先生に大きく手を振り返した。

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