1-7 毎週会う理由
金曜の放課後。図書室へと向かう知佳子は、何度か廊下で立ち止まっては頭のツボを指で押した。二人の生徒とのやり取りを想像するだけで、何だか頭痛がする、気がする。今日こそちゃんと注意しよう。びしっと。教師らしく。そして私は氷の教師として恐れられながら、放課後の図書室に君臨するのだ。
でも……。私の望んでいるのはそんなこと?
知佳子の脳裏に、昨日の高志さんの姿がよみがえる。面倒なことはしたくない。できればあまり人とは触れ合わずに平穏に過ごしたい。でも、生徒から何十年もあんなふうに思ってもらえる先生って、幸せだろうな。
気がつくと図書室の前に立っていた。その古い引き戸に手を駆けながら、知佳子は己の想念をはらうように首を振る。無理、無理。どうせ私にはできっこないのだから。ほら。二人の生徒に言うことをきかせることもできない私なんだから。そして二人の生徒のさわがしい言い争いを想像しながら図書室の引き戸を開けた。
今日は、二人はおとなしく座って本を読んでいた。とくに守口君は、近寄りがたいほどに難しい顔をして、分厚い本をにらんでいる。
「はい。こんにちは。二人とも今日は静かにしてるね」
何、読んでるの。という質問を危うく出しかけて、慌てて口を閉じ、知佳子は定位置のカウンターへと向かう。二人の座っているテーブルのわきを通り抜けようとしたところで、おもむろに守口君が顔をあげた。立ち上がって知佳子を見つめる、彼のその表情は、今までになく神妙だ。
「どうしたの?」
守口君はしばらくもじもじとしていたが、やがてぼそりとつぶやいた。
「相談が、あるんです。……あの。進路について」
知佳子の心臓がひとつ鼓をうつ。責任感のあるきちんとした教師なら、こんなとき、きっと喜んで話を聴こうとするのだろう。そんなことを考える知佳子は、しかし己の胸に立ち込める戸惑いと不安をどうにも抑えることができなかった。
「そんなこと。どうして、私に」
彼に尋ねる声がかすれた。
「他の先生は忙しそうだし、知佳子先生が身近にいるから」
彼は頭をかきながらそう、ぼやくように付け加える。私はただの、あまりものかい。そう、思わず返しそうになるが、知佳子が言葉を発するよりはやく、漫才コンビのつっこみのようなテンポの良さで岩崎さんが口をはさんだ。
「うそばっかり。知佳子先生に、してほしいくせに」
頭をかきながら目を伏せる守口君を、彼女はニヤニヤしながら横目で見ていた。このむっつりスケベ。今にもそう言いだしそうに口をゆがめて。あなたの言い方もちょっとエロいよ。そう指摘やりたいのを我慢しながら知佳子は視線で彼女をたしなめる。茶化さないであげて。とにかく、守口君は真剣なようだから。そして、私も。
無理だ。しかし知佳子は思う。本当に自分に指導してほしいのだとしても、仕方なくとしても、どちらにしろ、私には。私では無理だ。生徒の進路指導など、やったこともない。ちゃんと進路の先生に相談すべきだ。私では、ちゃんと導ける自信がないから。
「あのね。こういうのは……」
私じゃなくて、進路の先生に……。そう言おうとした知佳子の脳裏にまた、昨日の高志さんの姿がよみがえった。あの喫茶店の窓際の席で、目を細めて語ってくれた、あの姿。宝物だったんだ。教師からの言葉を大事そうにそう言った、あの声。
「わかったわ」
気がつくと知佳子は、そう答えていた。
「自信はないけど。私のできる範囲で」
きっと慣れた先生なら、手際よく資料をそろえて、あっという間に彼の成績を分析し、最適な将来のプランのいくつかを提示してみせるのだろう。
しかし知佳子にそんな芸当ができるはずもなく、土曜日に守口君に対してやったことと言えば、彼の成績表を見て唖然と口を開けることだけだった。
「君。こんなに成績よかったの」
図書室のいつもの席に座った守口君は、椅子に背をあずけてだるそうにうなずいた。
そんな覇気のかけらもない生徒の顔と彼の成績表を、宝くじの番号を確認するように、知佳子は何度も見比べた。
うそでしょ。どの教科の成績も学年トップクラス。これなら、望めばどんな大学のどんな学部にも行ける。この成績で、一体何の悩みがあるというのだろう。
「君の成績ならどこも大丈夫だと思うけど、先生に何がききたいの」
知佳子は一応教師らしく鷹揚に構えて訊ねてみるが、その胸の底にわずかにこびりついていた自信も剥がれ落ちてしまいそうだった。これなら私のアドバイスなんか、私なんか、必要ないじゃない。
守口君は天然パーマをしばらく指でいじくりまわしてから、やがていじけた子供のようにうつむきながら答えた。
「わからないんです。どこにいったらいいのか。自分が何を目指せばいいのか。何に、なりたいのか」
その話し方は切実だった。嫌味な調子はみじんもなく、本当に思い悩んでいるということが、空気の重さとして伝わってくる。
守口君が語ってくれた話はこうだ。守口君の両親は彼に医学部受験を勧めていた。しかし、彼は特に医学に興味はなく、医学部に行きたいとも思っていない。しかしだからといって他に行きたいところがあるわけでもない。ことさら医学部が嫌だというわけでもない。でも、そんな流れで大学に行っていいものかわからない。そんなことでいいのか。そんなものなのか……。
難しい問題だな、と知佳子は思った。夢を追え。だの、夢は必ずかなう。だのと簡単に言うことなんかできない。歌やドラマではそんな言葉があふれているが。無責任だと感じることが多くある。もちろん夢も大事だし。その言葉に救われる人も大勢いるのだろうけれど。でも、少なくとも、教師は、そんな言葉で解決しようとしてはいけないと思う。
だけど、一方で知佳子は思う。それでは、成績がいいからととりあえず偏差値の高い学部に行くのが、その子の幸せを保証するのか。それはわからない。それがわかるのはきっと、本人が大人になってから、何年も後だろう。本人の努力にもよるかもしれない。勉強以外の。そのうえでよかったと思うのか。それともやはり後悔するのか。私は、後者だった。教師なら安定しているからと思ってこの職に就いたけど……。
「先生にも、わからない」
守口君が眉をひそめながら顔をあげる。耳に水をかけられて無理やり起こされた子供のように。何かの聞き間違いか。まだ朝六時でしょうに。そうとでも言いたげに。
「だから……。調べようか」
そう言って振り返り、知佳子は背後の書棚の列に視線を巡らせる。橙色に染まりつつある図書室の、物憂げな光に包まれた、物言わぬ本たち。本棚の列。彼らが謹厳な教師のように自分たちを見下ろしている。厳しいけれど、若者たちを想い背を押してくれる、頼もしい先輩のように。
物憂げな光と優しい無言の中で、知佳子は己の過去を振り返る。私は、私の青春は、今思えば後悔することばかりだった。そういうことを、この未来ある子に味あわせたくはない。どんな道に進んでも悩みはつきものだと思うけれど。でも、後悔するような道に進んでほしくない。
知佳子は笑うでもなく、励ますでもなく、席をたって守口君の隣に立ち、彼の肩に手をおいて言った。
「さがしてみようよ。世の中にはどんな仕事があるのか。君が進みたい道、進むべき道が、そこにあるのかどうか」
数日があっという間に過ぎ、木曜日になった。
校庭や街の辻々をピンクに染めていた桜の枝は、もうすっかり緑の葉におおわれている。
駅へと下る商店街の坂道を歩きながら、知佳子は思う。最近は一週間がはやい、と。年をとったから? いやいや、違う。忙しいからだ。
この一週間、知佳子は守口君と職業調査に忙しかった。岩崎さんも参加して、なかなか騒がしかったけれど、その騒がしさを疎んでいる余裕もなかった。
「せんせー。ほら見て、これ。おもしろそう」
今日の放課後、彼女が朗らかな声で差し出してきたスマホには、こんなページが表示されていた。
『職業適性検査』
こんなの、きっとあてにならないよ。そうぼやいてけだるそうに頭をかく守口君に岩崎さんは矢継ぎ早に質問を浴びせていく。「検査する」ボタンを押して表示された結果は、こうだった。
『芸術家・研究者』
知佳子は思わず苦笑い。こんな職業。なれるなら、みんななりたい。研究者って、いったい何の研究だよ。守口君も岩崎さんも笑い出す。やっぱり使えねー。そんなことを言い合いながら。
「さあ、まずは図書の整理だよ」
手をたたきながら知佳子が本棚の方に向かうと、二人も待ってといいながらついてくる。アヒルの子のように。そんな様子に最近はなんだか微笑ましさを感じるようになってきた。
(ひょっとして、私は……)
知佳子は今日の出来事を思い出して、頬をゆるませた。今日の、帰り際のこと。守口君が見せてくれた表情。
「ありがとうございます。話をきいてくれて」
そう、知佳子の目をまっすぐ見ながら言ってくれた、守口君の笑顔。
ありがとう。そんな言葉、今までかけられたことはなかった。少なくとも自分が意思を持って行動して、その結果としてその言葉が相手から発せられたことは。思ってもいなかった。この言葉が、自分の心にこんな感情を灯すなんて。
(ひょっとして、私は……)
知佳子は思う。思い上がりかもしれないけれど、ひょっとして私は必要とされている?
そして彼女は、喫茶店の前で小さなガッツポーズをとった。
「今日も、お疲れですか?」
疲労をにじませながらも薄ら笑いを浮かべる知佳子の顔を、高志さんがのぞき込んでくる。
なによ。じろじろ見ないでよ。そんなに私の弱った顔を見たいわけ?
そんな被害妄想にかられながら高志さんを憮然と見返す。しかし意外にも、彼のその表情は思ってもいず気づかわしげだった。
「今日はもう、やめにしておきますか」
そして彼の上半身が隠れてしまいそうなほどの大きさの、縦長のキャンバスを隣の席において苦笑いした。ごらんのとおり、あまり進んでもいませんしね。
「そうだ。相談というか、頼みがあるんですよ」
高志さんが椅子の背もたれに背をあずけながら、のんびりとした口調で言う。頼み……。その言葉に反応して知佳子は思わず顔をあげた。
「先生の意見を聞きたいんです。先生が作品に盛り込んでほしいこと。先生がこの物語に抱いているイメージとか」
知佳子は目を大きく開いて高志さんの顔を凝視した。意外だった。傲慢と言ってもいいほどに自負にあふれたこの青年の口から、そんなリクエストが出てくるなんて。全部任せろ。そう、胸を張っていたではないか。
「どうしても、暗い感じになってしまうんです。基本的に可哀そうなお話だから。でも、本当はどうなんだろう。よく考えたら、僕は文章は得意ではないんですよ。物語の解釈とか。先生の方が専門でしょ。教えていただけたらなと思いまして」
照れ笑いをしながら頭をかいた、高志さんの顔に、一瞬図書室での岩崎さんや守口君のそれが重なったような気がした。
ああ。ここにも……。
知佳子の頬がわずかに緩んだ。すぐにその表情を引き締めると彼女は毅然と背筋を伸ばし、眼鏡に指をあてた。
「そうですね。この物語にはいくつかの要素があります。思いやり。自己犠牲。哀しみ。希望。そういうことを反映した黒猫のいろんな姿を描いてほしいです。主人公なので。神様に願う姿。森の中で悲嘆にくれる姿……」
「何と欲張りな!」
「欲張りですか?」
「そんなに何でもかんでもは無理ですよ。一枚絵では……」
「そうですか」
知佳子は今度は顎に指をあてて考え込む。
一枚絵では、無理。一枚絵では。ならば、何枚も描けばいいのではないか。そうだ、何枚でも描けばいい。でも、さすがに高志さんは嫌がるかな。私も何かしたらいいのかな。私も参加したら。私も一緒になって創るとしたら……。
知佳子の頭の中に、何かが浮かびかける。新しいアイディア。それはポスター作りとは違う、別の新しい企画だった。
「それじゃあ、また来週」
テーブル上の光が陰るころ、高志さんは大きなキャンバスを抱えて店から出ていった。
鈴の音を響かせながら扉が閉まり、後に残った静寂の中に、ひび割れたピアノの音だけが流れている。
水底に沈んでいた何かが水面にあがってゆくように、知佳子の気持ちが身体の下の部分から胸の上の方へと浮かんでゆく。
ああ、これだ。この気持ちだ。
温泉につかったときのような、ふわふわした心地よさに身をゆだね、あたたかい息をゆっくり吐きながら、知佳子はふいにその答えをみつける。
自分に、あのセリフを言わせたもの。高志さんに毎週会おうといわせたもの。ずっと独りでいた時には気づかなかった気持ち。
私は、ここに来たい。ここに来て、彼の話をききたい。それが私に、私がまだ持っていない何かを、つかませてくれるような気がするから。新しい明日を垣間見せてくれるように思えるから。彼とのひと時を過ごしたい。彼を好きとかそうでないとか、自分の寂しさを紛らわすとか、そういうことではなく、ただその時間を、かけがえのないものに感じている。私はもう、乗り出したんだ。私は昨日の私ではない。
あひみての のちの心にくらぶれば……
ある和歌が頭に思い浮かんで、彼女はそれを口ずさんだ。往来に目を向けると、街灯の光の浮かぶ薄い闇を背景にした窓ガラスに、自分の顔が映っている。口の端がちょっとうれしそうにあがった、まるで自分のそれではないかのような、にこやかな顔が。