1-6 デートじゃない
知佳子は、図書部存続のための条件を提示した。
ひとつ。さわがずに、おとなしく本を読んでいること。
ひとつ。図書の整理も静かに。
そしてもうひとつ。これが最も大事なこと。知佳子にうるさくまとわりつかない。知佳子の仕事の邪魔をしない。知佳子を活動や騒ぎに巻き込まない。
翌週月曜の放課後にそう告げると、二人の生徒はそれまで緊張していた頬をゆるめて何度もうなずいた。
守口君は天然パーマの頭をかきながら。岩崎さんはその大きな厚い眼鏡を指で押さえながら。心から嬉しそうに。
そして知佳子の図書室での放課後活動が始まった。
図書の棚への返却と整理。図書カードの整理。それまで図書室を受け持っていた先生が産休に入ってしまったので、これは知佳子たちの重要な仕事だった。どうやら図書部が認められたのも、これが大きな理由だったようだ。
整理が終わった後は、あとは好きな本を読んで時間を過ごす。二人の生徒はカウンター傍の机に座って。知佳子は彼らとは少し離れたカウンターの中で。そして図書室の閉室時間になると片付けて帰る。
守口君も岩崎さんも、おとなしい生徒だった。二人とも勝手に働いてくれるし、あとの時間はおとなしく読書をしていてくれる。知佳子の言いつけを守って、彼女に必要以上にまとわりつかず、放っておいてくれる。
(ひょっとして、案外うまくやっていけるかな)
知佳子は図書の整理をする手をとめて空を見上げながら、ほっと安堵の吐息をもらす。暮れ色の空に浮かぶ、桃色に染まった千切れ雲。パンケーキにのせたクリームのようなその雲を見つめる知佳子の胸は、なんだかお菓子を食べた後のようにふわふわと浮き立った。
知佳子が穏やかな放課後の時間を過ごすことができたのは、しかし三日だけだった。三日たつと、二人の生徒はそれまで一生懸命かぶっていた猫の皮を脱ぎ捨てた。
「せんせー。また、守口君が先生のお尻を見ています」
岩崎さんの声に反応して振り返ると、すっとぼけた顔をした守口公明君が慌てた様子で首を振った。知佳子は眉根を寄せてそのままじっと睨みつけてやる。すると彼は両手を顔の前に出して、器用に顔と一緒に振りだした。
「違います。断じて、違います」
「嘘。さっきからじろじろと先生ばっかり見て!」
岩崎さんが、何冊もの本を両手に抱えてニヤニヤしながら守口君の傍までやってくる。大きな丸い眼鏡のレンズを光らせて。眼鏡のレンズは牛乳瓶の底のように厚くて、相変わらずその目の表情はよくわからないけど。しかし彼女はまるで見透かすように守口君を見つめている。
「あんたがそうやってさぼってるから、図書の整理がなかなか終わらないんじゃない」
「うるさいなあ。いつも余裕で終わってるだろ」
「わたしの頑張りのおかげだよ。あんたはその陰で……」
岩崎さんは守口君を見上げ、背伸びをして長身の彼に顔を近づけると、ちょっとおじさんぽい口調で追い打ちをかけた。
「この、むっつりスケベ」
知佳子としてもその評価に異論はない。しかし守口君は、スケベと言われたのが心外だったのか、それとも図星だったからか、顔を真っ赤にして岩崎さんに食って掛かった。
「テメー。恵。この野郎。お前こそ、いちいち先生に報告してんじゃねーよ。お前だって俺のこと、よく見てんじゃねえか。このむっつりスケベが」
「ちっ。違うわよ。わたしのは監視よ監視。あんたみたいなスケベはしっかり取り締まらないと。あ、そうだ」
岩崎さんの耳も赤くそまる。ひょっとしてこの子は守口君のことが好きだったりして。そんなことを考えていると、彼女は突然知佳子の方に視線を流し、話の矛先を向けてきた。
「先生は、休日何してるんですか」
あなた、それ、絶対興味ないだろう。知佳子は脱力しながら思う。お願いだから巻き込まないでよ。返事の代わりに、知佳子はその心からの願いを込めて岩崎さんをにらんでやる。しかし、それは岩崎さんを封じるどころか、守口君の参加もさそった。
「俺も知りたい。あ。あと、先生のスリーサ……。ぼふっ。何すんだ恵!」
「しんじらんない。サイテー」
踏まれた足をさする守口君から、岩崎さんはぷいっと顔をそむけた。
腕を組んでそんな二人のやり取りを眺めていた知佳子は、うんざりと天井を振り仰いで息を吐く。
何か言ってやろうか。あんたたち、最初にした約束をもう忘れたの? しかし説教するような気力も起きず、こんなことで熱くなったらますますこの生徒たちの思うつぼのような気がして、知佳子は口を引き結んだ。もう少しの辛抱。もう少しで、この悪夢の時間は終わるはず。
スピーカーから流れ始めたチャイムの音が、天上からの天使の歌声に聞こえた。
書棚や床のカーペットに這う光のうえに、物憂げな鐘の音がゆっくり降り落ちる。その呑気な響きと合わせるように、知佳子は手をたたいた。
「はい。喧嘩はおしまい。片付けをしてー」
お互い唾を飛ばしあっていた二人の生徒は、ピタリと言い争いをやめて同時に知佳子の方を向いた。
「えっ。もうですか」
「先生、今日ははやくない?」
知佳子はせわしい手つきでカウンターの引き出しに図書カードをしまいながらこたえる。
「約束があるのよ。だから、今日はもうおしまい。あとで教頭先生が回ってきてくれると思うけど、戸締りお願いね」
カードをしまい終わった彼女は、その隣にいくつかある引き出しを出してはもどす。えーっと、鍵。鍵はどこに置いたっけ。あ。そうだ。ポケットに入れておいたんだ。
急に静かになったので顔をあげると、二人が目をしばたたかせながら彼女を見つめていた。
「先生。ひょっとして、デートですか」
で、デートぉ?
思ってもいなかった生徒の指摘に、思わず知佳子は頬をほんのり赤く染める。
「違います!」
とっさに答えた彼女の大きな声が、人のいない廊下にまで響いた。
デートだなんて。テートだなんて。
そんなわけないじゃない。
喫茶店「すずらん」の奥の窓際の席で、コーヒーの中につっこんだスプーンをかき回しながら、知佳子は何度も己にいいきかせた。デートだなんて、心外だ。
「あの。話、聞いてますか」
正面から投げかけられた声にハッとして顔をあげ、慌てて表情を取り繕う。クールに。知的に。この小生意気な青年から甘く見られないように。
「なんでもありません。どうぞ。続けてください」
「そうですか」
そして青年は知佳子の席のテーブル上を一瞥してちょっと口の端をあげる。それにつられるように視線を落とすと、コーヒーカップの周囲には、知佳子がスプーンで飛び散らせたコーヒーの黒い染みが点々とついていた。
「絵にはつけないように、気をつけてくださいよ」
「もっ。もちろん」
今度こそ声が少し裏返った。
知佳子は咳ばらいをしながら、苦し紛れに彼をにらみつける。それにしても、さえない顔の青年だ。髪はぼさぼさだし、いつも眠たそうな目をしている。髭は剃っているのかいないのか。ずり落ちかけた丸眼鏡も、大昔の人のそれのようでなんだか野暮ったい。しかもそのくせ、やたらと皮肉を言ってつっかかってくる。口の端をゆがめてニヤニヤ笑いながら。まったく、生意気な青年。まだ二十二歳だって。私より五歳も年下のくせに。
知佳子はまた、誰にともなく心の中で言ってみる。
こんな男と、デートなわけないじゃない。
しかし……。知佳子は思う。ならばなぜ、私はこの男と毎週会うことにしたんだろう。と。その提案は、ほとんど彼女の意識にのぼってくる前に口から出ていた。彼が、絵を完成させたら持ってくると言った時、その瞬間に。ほとんど反射的に。本当なら彼の言った通りでよかったのに。彼が作品を完成させて持ってくる。それで終わりだ。それだけでよかった。なのに、毎週会うなどと言ってしまった。毎週会って話を聞くと。一体どうして。
寂しかった? とんでもない。
知佳子は目をきつく閉じて首を振る。そんなわけない。こんな男と一緒にいたいだなんて、そんなふうに思うわけない。
じゃあ、どうして?
知佳子はあの時の気持ちを胸によみがえらせようとする。じゃあ、作品ができたら持ってきます。そう言われたときの気持ちを。一月か二月後……。そう言われたとき、私はどう感じていたのか……。
「あのー。大丈夫ですか?」
青年の声に、知佳子はまた居眠りを注意された生徒のように目を開いて顔をあげた。悪いことをしていたわけではないのに、鼓動がはやくなり、冷や汗が出る。いや。悪いか。また彼の話を聞いていなかったのだから。
「だ、大丈夫」
先ほどよりは弱い語気で返し、知佳子は残っているコーヒーを飲み干した。
「今日はこれくらいにしておきましょう。何だか疲れているので」
我ながら自分勝手だと思う。怒らせてしまったかな。今さらそんな気持ちにかられながら、知佳子は高志さんの様子をうかがう。
「学校の、お仕事ですか」
「ええ」
返事に、思わずため息が混じる。視線が自然と下がる。飲み残しの黒い液が付着したカップの底を見つめながら、知佳子は思う。自信のないことを仕事としてやらなければならない、この気持ち、あなたには分らないでしょうね。
「大変な仕事ですよね。でも、先生って、いいなあ。尊敬しますよ」
高志さんの思ってもいなかった言葉に、知佳子は思わず瞬きしながら顔をあげた。尊敬ですって。からかっているの?
絵を布にくるんで隣の椅子に置いた高志さんは、コーヒーをすすりながら窓の方に顔を向けて目を細めた。遠くを眺めるように。思い出を手繰るように。
「僕が画家になろうって思ったのは、小学校の時の先生の言葉がきっかけでした。君は絵が上手だねって。才能があるよ、って。うれしかったなあ。ずっと、その言葉を宝物にしてきたんです。辛いときやあきらめそうなとき、その言葉が僕を支えてくれた」
いったん言葉を切って、またカップに口をつける。しかしすぐに離した彼は、カップの中に視線を落とした。
「だから、そんな宝物を子供に与えることのできる先生って、すごいと思うんです」
そして彼は、コーヒーカップをビールのグラスのようにあおった。
知佳子はそんな高志さんの様子を、夢でも見るような気持ちで見つめていた。それは少しも高志さんのようではなかった。まるで別人のようだった。何かのドラマで見た俳優? いや違う。それはきっと幻の人だ。それは若いときに彼女が出会いたかった、自分を導いてくれる恩師の幻に違いなかった。知佳子は思わず目をぬぐう。涙が出てきたからではない。だって。一瞬だけ、この画家の青年が格好良く見えてしまったのだもの。
「ぶほっ」
コーヒーが気管に入ったのか、突然高志さんがせき込む。口の端からコーヒーがこぼれて、彼の服やひざを濡らした。
「何をやっているんですか」
知佳子は慌てて席をたち、高志さんの前に膝をつくと、自らのハンカチを取り出して彼のズボンや服をふいてやった。
「まったく。柄にもなく格好つけるから」
「いや。すみません」
咳き込みながら、高志さんはちょっと知佳子を上目遣いにみて、はにかんだようにほほ笑んだ。いつものように皮肉っぽくちょっと口の端をあげて。しかし、優しげに目じりを下げて。その瞳の色が黄昏時の澄んだ空のような色をしていることに、その時初めて知佳子は気づいた。