1-5 図書部
どうして、私はあんなことを……。
窓の外に広がる空はもう、暮れ色に染まりかけている。そこに浮かぶ綿あめをちぎったような雲を見上げながら、知佳子はぼんやりと考えていた。
前の日、駅前の喫茶店で、あの画家の青年との別れ際に自分が言ったセリフについてである。
「毎週です。毎週、会いましょう」
考えるより速く口から出ていたその言葉に、知佳子は今さら首をかしげる。
不思議でならない。私の口からそんな提案が出てくるなんて。できるだけ他人と接したくなんかないのに。一体どうして。
まさか私は……。
あのさえない青年の顔が頭に浮かび、知佳子は慌てて首を振る。そんなわけない。そんなわけない。今のは、なし。首を振るのでは足りなくて、不吉な妄想を追い出すために、彼女は机に手をついて立ち上がった。
「いいえ! この、私が」
部屋のざわめきが消え、一瞬の静寂の後、おおーっと控えめな歓声があがる。
あれ?
知佳子は瞬きを繰り返しながら、きょろきょろとあたりを見渡す。
放課後の静かな教室には長机がロの字型に組まれ、何人もの背広を着た紳士が机に肘をついて首をひねり、知佳子に顔を向けている。
しまった。今は職員会議の最中だった。
「おお。それはありがたい。それでは、新設の図書部の顧問は新田先生にお願いします」
正面真ん中の席にいる頭の禿げあがった中年男性が、満面に笑みを浮かべて軽く頭を下げる。教頭先生だ。上目づかいに知佳子を見上げたその表情が、時代劇の悪代官のようにみえた。
嫌な予感が知佳子の背筋を突き抜けてゆく。
「いえ。その……」
知佳子は反論しかけて、口を閉じた。額と首筋に汗がにじむ。言い返そうにも言葉が出てこない。全然話を聴いていなかったから。図書部? 何だそれは?
知佳子は己を落ち着かせるため、ゆっくりと右手の人差し指を眼鏡にあてる。まずは冷静に。事情はよく分からないけど、とりあえずここは断っておかないと。顧問だなんてとんでもない。
「図書部の顧問とはどういうことでしょう。私は、すでに生物部の副顧問ですけど」
生物部。要は兎の餌やり係だ。ほかに活動しているのかはわからない。部員が本当にいるのかも。部活に顔を出したことはないから。本当にそんな部が存在するのか、最近は疑問に思いはじめていた。
しかしよくわからない顧問就任を免れるため、自分の役目を誇るように知佳子は胸を張ってやる。はからずもその眼鏡にあてた指先が少し震えてしまった。
教師たちの中のどこかから小さな失笑が漏れる。
「ああ。今ほども申し上げましたが、生物部は、廃部になりました。兎の餌やりは一年生の生き物係がやってくれます」
教頭が淡々と、事務的な口調で教えてくれた。
知佳子は自分の頬が熱くほてっているのを感じた。話聴いてなかったのがバレバレじゃないか。恥ずかしい。
湯気でも出ているんじゃないだろうかと危惧しながら頬に手を当てる彼女に、また教頭は悪代官の視線を投げた。
「生徒の文芸振興のため、力を貸してください。これは、新田先生にしかできない仕事です」
そして声をひそめて、余計なことも口にしてくれた。他の先生はみんな部活をもっているし、ご家庭のある方も多い。ほら。新田先生は結婚もされていないから……。
大きなお世話よ。
そう、胸の内で教頭に悪態をつきながらも、結局知佳子は新設図書部顧問を引き受けることになった。
結婚していないのも事実だし。結婚どころか、彼氏がいたこともない。
会議の解散後、知佳子は改めて教頭から図書部の説明を受けた。
この高校に文芸部がないのを憂えたある三年の女子が中心になって創ったのだそうな。最低条件の部員五名がなかなかそろわなくて今までかかったらしい。具体的な活動内容はまだ決まっていない。活動場所は図書室で、とりあえず図書の整理なども引き受けるようだ。
会議室を出て廊下を歩いていると、教務室の前には、室内から漏れ来るにぎやかな話し声が流れていた。楽しそうな雑談の声。高い、弾むような話し声。それに続いて笑い声が湧く。
逃げるように足を速めて廊下を歩きながら、知佳子はため息をついた。
(どうせ。私は……)
図書部の活動がどのようになるのかはよくわからない。運動部の顧問とかよりは楽そうだけど。でも、結局生徒を率いて働かせなければならないんだろう。苦手だなあ。どうせみんな言うことなんか聞いてくれないんだろうし。生徒も私が顧問なんて、きっと嫌だよね。
別棟二階の隅にある図書室の前まで来て、その扉にかけた手を知佳子はいったんとめる。
務まらないとは思う。だけどみんな忙しいのだし、自分だけわがままは言えない。言われたからにはやらないと。
そして思い切って滑りの悪いその木製の戸をひく。
「あれ? 知佳子先生だ」
聞き覚えのある声が知佳子を出迎えた。橙色の光差し込む部屋の中にいたのは、先日お説教をした守口君だった。
守口君の隣の席にはメガネをかけたおさげ髪の女の子が座っている。いかにも文学少女といった風情の、小柄で色の白い女の子。
「あ、岩崎恵です。……一応、部長です」
大きな丸い眼鏡を指でなおしながら、彼女はおどおどと名乗ってくれた。
「ああ。そう」
知佳子は気のない返事をして、室内を見渡す。
一般の教室を二つつなぎ合わせたくらいの大きさの図書室。別棟の二階のどん詰まりにあるので、入り口は知佳子の立っているところのひとつだけ。東西に長く、窓は南側にしかない。その部屋の、入り口のある東側半分は学習スペースで、六人掛けのテーブルが五つ並んでいる。奥の西側半分が蔵書スペース。色とりどりの本を満載した木製の本棚が、整然と、幾重にも列をなす。学習スペースと蔵書スペース。その両方を睥睨するように、入り口側の壁に引っ付くように、汚い茶色の貸し出しカウンターが鎮座していた。
それはいいとして、ちょっとおかしくないか。この二人のほかに、この、放課後の図書室内には誰もいない。
「ええーっと、部員は五名ってきいてたけど、君たち二人だけ。後の三人は」
知佳子の質問に、二人は沈黙で返す。
それに対し、知佳子も沈黙で応戦する。いきなりだんまりでごまかしはさせない。沈黙なら私のほうが得意だ。
やがて、観念したおさげ髪の女の子が、うつむきながら答えた。
「あとの三人は、幽霊部員です。名前を貸してくれただけなの」
新設図書部の部員は五名そろっていなかった。実質は二人で、残り三名は名義だけ。
「これは不正ね。これじゃあ、この部を認めるわけにはいかない。部の開設を見直すよう、職員会議にかけるわ」
知佳子は冷淡な声でそう告げた。内心は胸をなでおろしながら。これで、顧問の話も白紙だ。
「それじゃあ。帰るね」
「ちょっと、待ってください」
か細い声でそう言って、おさげの女子生徒が、踵を返そうとする知佳子の袖をそっとつかんだ。彼女は眉を八の字にひそめて知佳子の顔を見上げている。彼女の眼鏡が牛乳瓶の底のように厚いので、目の表情はわからない。しかし、その厚い眼鏡を通過して伝わってくる。その半開きにした口、頬のふるえ、眉の形から。彼女の必死な思いが。
「お願いです。私たち、居場所がほしいんです。どうか、私たちの居場所をとらないで」
居場所……。
その言葉の響きが、知佳子の胸の底に、水滴のように落ちてゆく。
それと同時に女子生徒の手が、彼女の袖から離れる。
ふと、知佳子の脳裏にある音がよみがえった。鈴の軽快な音。扉がきしんで閉まる音……。彼女は肩から力を抜いて彼らと向き直った。おさげの女子生徒も、守口君も、真剣な、不安そうな表情で彼女を見つめている。
「……ちょっと、考えてみるわ」
そして廊下に足を踏み出し、
「今日は、ウサギと、お別れしなくちゃいけないの」
そう言いながら、戸を閉めた。