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1-4 高志の仕事

 目覚まし時計のアラーム音が枕元の空気を震わせている。手探りでその頭についているボタンを抑え、若草高志は大きくあくびをした。

「あと……。五分……」

 むにゃむにゃと、飴でもしゃぶるようにつぶやいた、彼の耳元で今度はスマホが振動する。

「ううむ。朝か。起きなきゃ……」


 高志は目をこすりながらムクムクとおきあがった。頭はまだ半分夢の中だ。さっきまで見ていたはずの夢の内容は全く覚えていない。しかしなんだかいい夢だった気がする。その感覚だけが胸のどこかに残っている。

 大きくあくびをして、腕を伸ばしながら、彼はぼんやりと部屋の中を見渡す。どこかにその幸せな夢の欠片が残っているような気がして。


 六畳一間の、小さな部屋。キャンバスや絵の具や、画集などが乱雑に散らばっていて、フローリングの床には足の踏み場もない。閉められたカーテンの隙間から、白い光が差し込んで、ベッドの上を細く照らしている。

 高志はナマケモノのようなのろさでベッドから足を下ろし、机の上に置いてある自分のメガネに手を伸ばした。朝のニュースをチェックしようとパソコンの電源ボタンを押す。起動音が鳴り、緑のランプが点滅する。


 ん? 眼鏡? 起動ランプ? 


 高志の頭の中を覆う靄が少しずつ晴れてくる。取り払われる靄の隙間から、能面のような無表情の女の顔が現れた。そうだ。そうだった。

 高志は絵の具やバケツや木の板をかき分けて、急いで窓際に寄ると、勢いよくカーテンをあけ、窓を開いた。


 土と若葉の香りを含んださわやかな南風が、カーテンをゆらして吹き込んでくる。花びらでも一緒に舞っていそうな、晴れやかな風。この裏町の狭い路地には、桜なんか植わってはいないけど。高志は差し込む陽光に目を細めながら見上げる。坂道の向こうに、まだ雪を冠った高い山がそびえていた。雲一つない青い空を突き刺すように。

(モチーフは、この風景にしよう)

 そして彼は、窓際に座って汚れた缶から筆をとり、画材の山からスケッチブックぬきだした。




 この土地に伝わる「黒猫の涙」とは、こういう話だった。


   * * *


 昔、この地には、世にも美しい、翼の生えた白い大鹿が住んでおりました。彼には一つ憂いがありました。当時は分厚い雲がこの地を覆い、昼も夜のように暗くて、人々が大変困っていたのです。

 大鹿は神様にお願いしました。一日の半分を明るくしてほしいと。その代わりに自分の姿をみすぼらしい黒猫にしてください。

 その願いは叶えられ、昼は明るくなりました。そして大鹿は約束どうり真黒な猫にされてしまいました。

 色が黒いだけでなく、猫は傷だらけの、醜い姿をしておりました。その容貌は人々から忌み嫌らわれ、どこにいっても追い払われてしまいます。誰からも気味悪がられた彼は、ついには街にもいられなくなってしまいました。

 森の奥に逃れた黒猫は泣きました。七日七晩泣き続け、命を落としてしまいました。しかしその流した涙は、決して枯れない、透き通った美しい池となりました。


   * * *


「……それが今の、涙池です」

 あの女教師は最後にそう言った。涙池ってどこにあるんだろう。行ったこともないのでわからない。実在する池なのかも。そんなことをぼやきながら、高志は鉛筆を動かす。


 時々流れ込む小鳥の鳴き声と和すように、静かな部屋の中に短い摩擦音が響く。シャッ、シャッと、軽快に。その音が一つ鳴るたび、スケッチブックの白い紙面に線が浮かび、それが重なりながらいろいろなものを描き出してゆく。


 猫。建物。道。山……。


 しばらくすると真っ白だった紙の上には、坂道と、それを挟む街並みと、その向こうにそびえる山の風景が現出した。しかし山の稜線を描いていた筆を突然とめた高志は、しばらくそのスケッチを顔を離して眺めてから、

「違うな」

 そうつぶやいて、ため息まじりにページをめくる。

 風にあおられ膨らんだ白いカーテンが、そんな彼の額をかすめる。


 顔をあげ、窓外に広がる山麓の街の風景にぼんやりと目を向けながら、高志は前日に訊いた物語を口ずさんだ。

 優しい黒猫。

 人の幸福を願ったのに、その人によって忌み嫌われ追い出されてしまった、哀しい黒猫。

 哀しい話。

 哀しいけど、美しい話。


 朝日と黒猫は、欠かせないな。暗い絵にはしたくない。どこか希望がそこに垣間見えるような、そんな絵にしたい。

 でも、このお話の落ちは涙池だ。美しい池の風景を中心にしてみるのも悪くはない。

 霧の漂う森。木々の梢の間から差し込む薄いカーテンのような光の柱。光を受ける透明な水面のきらめき……。それらを簡単に描いてみて、高志はまた小さく首を振り、目の前に翻ったカーテンをはらうようにページをめくった。




 一週間があっという間にたち、高志はスケッチブックひとつを抱えて、再びあの喫茶店を訪れた。


 喫茶店「すずらん」は今日もすいている。この前来た時も結局客は高志と知佳子先生だけだった。木組みの天井から下げられた、スズラン型のかわいい電灯に灯る火が、何だか心もとなげに見える。スピーカーから流れてくるピアノのひび割れた音がすすり泣きのようにも聞こえて、切ない気持ちが沸き上がった。


 夕方の薄暗さと窓辺に差し込む橙に変わりかけた光の色が、寂寥感をかきたてる。時刻はこの前の待ち合わせ時間と同じ午後四時だ。もっともあの日は知佳子先生は三十分も遅れてきたが。どうせ今日もあの女教師は遅刻だろう。そうたかをくくっていたら、案に相違して、彼女はもう来て彼を待っていた。


「遅い。五分遅刻ですよ」

 奥の窓側のテーブル席に座った彼女は、無表情に、機械的にそう言った。まるで出来の悪い生徒を注意するように。

(なんだい。自分のことは棚に上げてさ)

 店に入るまでは浮き立っていた心が、潮が引くように冷めていく。この機械女め。高志は憮然とした表情で知佳子先生をにらみながら、頭の中だけで悪態をつく。お前のあだ名を急速冷凍庫とでもしてやろうか。


「へへ。すみませんね。この前は先生がずいぶん遅かったものですから、今回も遅れるもんだと思ってたんですよ」

 皮肉をたっぷり込めて言ってやったつもりだったが、それがこの機械女の表情を変化させることはなかった。彼女は眼鏡に指をあてて涼しい顔で、

「あのときは、しょうがなかったのです」

 そして、悪びれもせずに言い訳をする。

「生徒が問題を起こしたものですから」

 そして高志を一瞥し、視線だけで着席を促した。

 そのすがすがしいまでの開き直り方に、高志は二の句を継げなくなる。何だかもうどうでもよくなって、彼はおとなしく彼女の向かいの席に座った。せめてもの反抗に、できるだけ時間をかけてゆっくりと。


 高志がテーブルの上にスケッチブックを置くと、知佳子先生は視線を落としてその青い表紙をしばらくじっと見つめていた。まるでそれがジャングルで発見した新種の生物ででもあるかのように。しかし何の感動ものぞかせないまったくの無表情で。

「それで……。絵は?」

 そして顔をあげ、高志を見つめ、首を少しだけかしげてみせる。両手の人差し指で虚空に四角を描いてみせながら。どうやら高志に絵はどこだときいているようだ。

 高志は口の端をあげてスケッチブックをなでた。

「絵ですか。ここです」

「それは……」

「あなたの望むような絵が、一週間で完成すると思っていたのですか?」

 さっきのお返しだといわんばかりに、高志は見下すような視線を知佳子先生に向けてやる。まあ、そんなものはこの機械女に何の打撃も与えないのはわかっているが。


 案の定金属音をたてて彼の言葉を跳ね返し、知佳子先生はきょとんとしている。そんな彼女の目の前に、高志はスケッチブックを差し出してその一ページを開いてみせた。

「構図をいろいろ考えましてね。ようやくこれに決めて、今は制作中です」

 そこに描かれていたのは、高志がこの数日で試行錯誤しながら考えた、絵の構図だった。


 それはある家の二階から眺めた風景である。坂道を挟んで立ち並ぶレンガ造りの家々や塔。その向こうに雄大な山がそびえる。山裾からは今まさに朝日が顔を出し、無数の光の線が、この街並みに差し込む。画面の隅、街の裏路地の物陰から、黒猫が空を見上げている。


 そう。これは、はじめてこの地に光が訪れたその瞬間を描いているのだった。風景のモチーフは、高志の部屋からの眺望である。

「まあ、これは大まかなスケッチですけどね。今はキャンバスに色を塗り始めた段階です。山はちょっと暗めの色にして、山裾のこの部分に顔を出した朝日を描き出す。家の屋根の部分は明るく。でも、路地にはまだ光は差し込んでいなくて……」


 スケッチのあちらこちらに指をさしながら解説をする、高志の口調は次第に熱を帯びてきた。街並みのモチーフは窓からの風景だけど、道は石畳で、家々はレンガ造り。メルヘンチックにするんだ。尖塔の窓に光が反射して輝いている。しかし黒猫の周囲に光は届かない。光は届かないけれど、その部分が一番目立つようにする。色でそうできるように工夫しないと……。


「まあ、いずれにししても、今はまだ途中です。完成はまだまだ先。一月先か、二月先か……。できたら連絡するのでその時にまた待ち合せましょう」

 そう言ってからようやく高志は言葉を切り、知佳子先生に顔を向けた。どうだい先生。そのときこそ驚かせてやるよ。そう語りかけてやるように。


「いいえ」

 紙面に視線を落とし、高志の指を静かに追っていた知佳子先生は、眼鏡に指をあてながらそう、返事をした。

「来週です」

「いや。しかし。そんな期間では完成できませんよ」

「いいんです」


 知佳子先生は顔を伏せたまま黙り込む。ああ。フリーズしたな。まるで時間が停止したような状況に高志は少しいら立つが、ここで何をしようがきっと彼女は動かない。パソコンと違って強制終了できないのだ。


 やがて、知佳子先生は顔を伏せたままもう一度眼鏡に指をあてて、か細い声で提案した。

「毎週、会いましょう。進捗状況を知りたいので。毎週木曜日。その日に、どこまで進んだか教えてください」

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