1-3 高志の決心
「ガンつけやがって。なんか文句あんのか」
「別にガンをつけてたわけじゃなくて……。だって、あなたたち、タバコを吸ってたから……」
「ああ? 吸ったらダメかよ」
「だって、あなたたち高校生でしょ。ダメに決まっているじゃない」
ほんの十メートルほど先の彼らのやり取りを、高志はおろおろと見守っていた。あの女教師なら苦も無く撃退するだろうと思っていたら、どうやらそうでもないようだ。凄む不良たちに知佳子先生は気丈に言い返しているけど、明らかに気圧されている。その肩は小刻みに震えているし、声も弱々しくて、今にも消え入りそうだ。さっきの高飛車な教師の影はすっかり鳴りを潜めている。
「うるせぇんだよ。このババア」
「ババアじゃないよ。まだ私、二十代……」
知佳子先生が二人を見上げながら一歩後ずさる。その体に覆いかぶさるように、男たちは一歩彼女ににじり寄る。薄い影になった男二人の顔の中で、開かれた口だけが、まるで餌を前にした蛇のそれのように見えた。
(これは、いけない)
高志はとっさに体を前にすすめた。
「まあまあまあまあ」
彼はそんなことをわめきながら、知佳子先生と不良の間に割って入る。何を言おうか、そのあとどうしようかなんてことは何も考えてなかった。とにかく、知佳子先生をこいつらから引き離さないと。
「な。なんだこいつ」
眉をひそめてのけぞる不良と向かい合い、知佳子先生を背中で後ろに押す。
「まあ、まあ。ま……」
「うるせーよ」
不良Aが問答無用でパンチを突き入れてきた。問答無用はお互い様だが、高志は腕力には自信がない。暴力はいけないなんてことを教え諭している暇もなく、よける反射神経もなく、かといって顔面で受ける根性もない。と、考えているうちに手が勝手に動いて、持っていた鞄を盾にしてパンチを防いだ。
バリンと、木の砕ける音が響く。
「ああああ」
高志は思わず悲痛な声をあげてしまう。
何事かと不良たちは不審そうに身を引く。彼らの前で高志は鞄を開き、穴の開いた一枚のパネルを取り出した。
「あああ」
また叫びながら、震える手でそれを不良たちに見せつける。
「なんてことしてくれたんだ。この絵は。貴重なものなんだぞ」
「な。なんだよ。そんなの、知らねえよ」
不良たちの表情がみるみる不安そうにかげってゆく。
「知らんですまされるか。これはある有名な画家が描いた絵で、この国の宝だ。一枚一億円はするのに」
そして高志はその場に跪き、壊れたパネルを抱えてすすり泣いた。
「死んだ母の形見だったのに。うえーん」
靴が道路の石畳をこする音が鳴り、頭上を覆っていた影が引く。
「お、俺たち知らねえ」
「そ、そうだ。俺のせいじゃないからな」
そう言ったかと思うと、不良たちは一目散に駆けだした。高志が立ち上がった時には彼らの姿はもうどこにもなく、この侘びしい裏路地にはいつもの静寂が戻っていた。
「さて、と」
空はまだ橙色に染まって明るいが、谷間のこの路地は薄暗い。もう誰の足音もしないその路地の先をしばらく見はるかしてから、高志は膝をはたきながらおもむろに立ち上がった。地面に転がっていたパネルを拾い上げて、顔をしかめる。穴が開いて亀裂が走って、ボロボロだ。もうこれは、修復のしようがないな。
「あ、あの」
声をかけられて振り向くと、地面にしりもちをついた知佳子先生が眉根を寄せて彼を見上げていた。
「ああ。大丈夫ですか」
「ええ。ありがとう……。それより」
差し出した高志の手をつかんで立ち上がった知佳子先生は、お尻をはらいながら、また眉をひそませた。
「大事な絵を……。私のせいで……」
何だか怒ったような顔だったので気づかなかった。どうやらこの絵のことを心配してくれているようだと分かって、高志は頬をほころばせた。一応、優しいところもあるんじゃないか。
「心配ご無用です。一億円なんて、嘘ですから。これはさっき僕が描いた似顔絵ですよ。依頼主から突き返されるような代物です」
そう言ってパネルをつまんで揺らしながら笑った。
知佳子先生はポカンと口を開けて、壊れたパネルを見つめている。その顔の緊張は徐々にゆるんで、頬にえくぼができ、そして口もとから目もとへと笑みが広がって……。という高志の想像はすぐに裏切られた。彼女はそのまま真顔に戻り、面白くもなさそうな仏頂面になって黙り込んだ。
「ところで、先生は、どうして不良に絡まれていたんですか」
知佳子先生は視線を落としてしばらく口の中だけで何かもごもご言っていたが、高志が訊き返すと、やっと聞こえる声で話してくれた。
「古本屋に寄ろうとここまで来たら、店は閉まっていて。そしたらあの細道の奥で、彼らがタバコを吸っているのが見えたから。立ち止まって、注意した方がいいか迷いながら彼らを見ていたら、ガンをつけてるっていきなり突っかかってきて……」
「えっと。なんて言ったらいいか。今までよく無事でしたね」
高志はちょっとずっこけそうになりながら、苦笑まじりに言った。そりゃあ、不良に絡まれるよ。タバコ吸ってたのも、それを見られて突っかかるのも、不良が悪いのだけれど。でも、知佳子先生の行動は、明らかに彼らを挑発しているんじゃないかと思う。
「こんなことに遭遇したのは初めてで。だから、びっくりしちゃって……」
言い訳を言うようにそうこぼした先生は、また黙り込んで首を垂れた。彼女の頭上で街灯が点る。淡い光に照らされた彼女の姿はなんとも孤独で、消沈していて、弱々しく見えた。落としたその肩はまだ、小刻みに震えている。まるで親に叱られた子供のように頼りないその姿だった。
(不器用な、人なんですよ)
そのとき喫茶店のマスターの言葉がふと、高志の脳裏によみがえった。そうだ、やっぱりこの人は、不器用な人なのかもしれない。タバコを吸っている不良を目撃して動揺してしまうような。自分で意図せずに不良に絡まれるような行動をとってしまうような。
「ところで、先ほどのご依頼の件ですが。もう一度詳しく教えていただけませんか」
突然の高志の言葉に、「え?」と知佳子先生が顔をあげる。意表を突かれたように。まるで無防備になった眼鏡の奥のその瞳に、一瞬無邪気な喜びと期待が点るのを、高志は見逃さなかった。
「絵は、アクリル画? 油絵? それとも、パソコンでデザインしたものの方がいいのだろうか」
「そ、それは、あなたが一番表現しやすいもので……」
「じゃあ、油絵だな。でも、油絵がポスター化できるのかな」
「いいんです。自由に描いていただいて。ポスターにならなくてもいい。これは街おこしなんて大それたものではないのですから。まずは、絵があることが大事なのです。何かのきっかけになるような絵が、一枚あることが」
食い入るように高志を見上げる知佳子先生の瞳は、街灯の光を受けてスノードームのようにきらめいている。いい目だ、と高志は思う。いつもその目をしていればいいのに。そう胸の中でつぶやきながら、彼は彼女に手を差し出した。
「僕でよければ、お力になりましょう。まずは、その黒猫の涙のお話を教えてください」