4-4 高志の伝えたかったこと
知佳子先生の家を飛び出した高志は、広いトマト畑を駆け抜け、森の遊歩道へと入っていった。
歩道に敷かれたチップをけりながら、目の前でカーテンのように揺れる木漏れ日の光の幕を振り払うようにして駆けてゆく。風が彼の顔にかかり、頭上で木々の枝がさざめく。そのさざめきに混ざって、あの人の声が降ってくる。
(毎週です。毎週、会いましょう)
(描かせておいてひどい。だから嫌だったのです)
(文学の素養があれば、描く絵は、もっと豊かなものになるんじゃないかなあ)
(どうしました。やっぱり、変ですか。この格好……)
(で、でも。私にはこんなに優しくしてもらう資格なんかない……)
(私、今ならすぐに、お話の続きを書いてしまえそうです)
(確かに。任せてください)
高志は首を振り、目の前の光の筋を手ではらう。はらっても、はらっても、しかしあの人の面影は、次から次へと彼の頭の中に浮かんでくる。この半年間に共に過ごした時間。彼女が見せたいろいろな表情。彼女の発した言葉。コーヒーの味。ピアノのBGM。顔を寄せあったときに感じた息づかい。みんなみんな、振り払うことができずに、彼の思考の中を追いかけてくる。自分の影を振り切りことができないように。どんなに歩いても夜空に浮かぶ月が頭上で照っているように。
なぜだ。なぜだ。
高志はかけながら自問する。
なぜこんなことになった。何がいけなかった。誰がいけなかった。彼女がいけなかったのか。いや、そんなことはない。彼女はきっと悪くないはずだ。どうしようもなかったんだ。僕の記憶が、彼女との思い出が、どうしても彼女を悪者にすることはできない。それはわかっているけれど、だけど、それでも、目の前に突き付けられた結果を、僕はどうしても許すことができない。きっと彼女に任せるべきではなかったんだ。僕の作品なのだから。僕がどうにかしなければいけなかった。でも、あれは僕だけの作品ではなかった。知佳子先生の作品でもあったんだ。あんなにもあの作品について考えてくれた彼女の想いを、僕は信じていた。信じていた。信じていたんだ。
気がつくと、彼は涙池のほとりに立っていた。
あの日と同じように、明るい陽が注ぎ、水底の苔がところどころでエメラルドのように輝いている。突然頭上の木の枝々が激しく揺れながらざわめく。水の匂いを含んだ風が、高志の頬をなでてゆく。
ふと、柔らかい感触が、彼の頬によみがえった。かすかに触れた、あの人の唇の感触。高志は池に視線を向けたまま、その頬に手をあてる。視界の端がゆがみ、頬に触れた指の先が、こぼれた涙でぬれた。
高志はその指で、持っていた鞄のポケットから、メッセージカードを抜きだした。
「伝えようと、思っていたんだ」
しばらくそのはがき大の薄桃色のカードに目を落としていた高志は、その紙を破こうとして、しかしその手をとめた。力の抜けた、ゆっくりとした動作でカードを鞄に戻し、また涙池に視線を向ける。風が吹き、いくつもの光の粒が水面を右から左へと転がってゆく。その光を追いながら、彼は彼女に語り掛ける。
伝えようと思っていた。
君と逢ってから、僕は変わってしまったということを。
不愛想で高飛車で、わがままな君。
でも、実は自信がなくて、不器用で、思いやりがあって、優しくて……。
そんな君と触れ合ううちに、いつの間にか僕は変わっていた。
はじめは、僕は僕が認められればいいと思っていた。僕の絵が世に出て、僕が認められて、僕が賞賛されれば。それだけが、僕の目標だった。
だけど、そうじゃなかった。大事なのは、そんなことじゃなかった。
絵を観た時の君の笑顔。幸せそうにしている君の姿。僕の絵が、君にそんな思いを抱かせている。僕の絵が、僕が描く線が、色が、影が、光が、君にいろいろな感情を灯し、そのたびに君が喜んでくれる。それはなんて素敵なことなんだろう。それはなんて、幸せなことなんだろう。僕はやっと、そのことに気づくことができたんだ。僕が絵を描くのは、名誉のためじゃない。自己顕示欲を満たすためでもない。僕が描くのは、描きたいのは、君や、君の生徒たちや、きっとこの先それを見てくれるかもしれない人たちが、それを観て少しでも幸せな気持ちになってくれたらいいと、そう思うからなんだと。
そう思えるようになった時、ようやく僕は、自分が自分の目指したい画家になれたような気がしたんだ。その境地に僕を引き上げてくれたのは、まぎれもなく君だ。知佳子先生。君なんだ。君のおかげで僕は、やっと画家になれたんだ。だから、僕は君に伝えたかった。ありがとうと。僕を導いてくれてありがとうと。僕を成長させてくれてありがとうと。僕を……、今の僕をつくってくれて、ありがとうと。
(でも……)
背後の森がざわめいて、また、池の水面が光を散らしながらさざ波を立てる。高志は振り向いて、そこにいたはずの知佳子先生の姿を探す。しかしそこには、誰もいない。かつて彼女がいたその空間にはただ、枝の間より差し込む光の柱が斜めに注いでいる。
(でも、君はもう、いない)
君はもういない。僕がこの言葉を伝えたい君はもう、ここにはいない。あの部屋に戻っても、そこにいる君はもう、あの時の君じゃない。僕は君に、ひどいことを言ってしまったから。君をひどく傷つけてしまったから。君と僕をつなげていたあの絵はもう、無くなってしまったから。
(それとも……)
それとも、まだ、やり直せるのだろうか。
そう思いかけて、高志は力なくうなだれ、首を振った。
絵を失ったショックからは、まだ立ち直れそうもなかった。そんなに簡単なことではなかった。きっと自分が立ち直るにはそれなりの時間が必要で、また、違う環境に身を移す必要があるのだと、彼は感じていた。
(この街から、出てゆこう)
高志はジャケットのポケットをまさぐって、何かをつまんで取り出した。小さなブルーの光が、指の先で瞬いている。さっき駅前の露店で買った、安物のリングだ。彼はそれをいったん握りしめてから、野球の投手のように大きく振りかぶった。
大きく空中に弧を描いたそのきらめきは、チャポンと小さな音をたてて池に落下した。苔の発する淡い緑の光の間を、そのブルーの瞬きは、ゆらゆら揺れながら落ちていった。まるで黒猫の流したという、涙のように。




