1-2 自称画家 高志
「さあ。できたぞ」
描き上げた絵を差し出すと、その娘は出来栄えを確認するようにしばらくじっと画面を眺めてから、おもむろにそれを高志につき返した。
「いらない」
「いらないって。せっかく描いたのに……」
まあ、この三十分で描いた、即席の似顔絵だけど。若草高志はため息をつきながら返された絵に視線を落とす。実物よりも美人に描いてやったつもりだがな。何が不服なんだ。この喫茶店のマスターの娘でないなら、嫌味のひとつも言ってやるところだ。
視線をあげると、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけた女の子はプイとそっぽを向いて、店の奥の戸から出ていってしまった。
「すみませんねえ。あの娘。不愛想なもんですから」
髭のマスターがグラスを拭きながら、すまなくもなさそうに言ってくれる。カウンターの向こうから絵を覗き込んで、「ああ。こりゃ、芸術的ですな」とかつぶやいて含み笑い。
高志は彼から隠すように絵を鞄にしまって、肩をすくませてみせてから、窓際の席へともどっていった。たしかに、普通の似顔絵ではつまらないと、変に細工をしすぎたかもしれない。せめて、眼鏡と髪型くらいは原型を残しておいた方がよかったか、などとぼやきながら。
席について午後の光の這うテーブルに頬杖をついたとき、喫茶店の扉につけられた鈴がチリンと鳴って、高志はハッと顔をあげた。
ステンドグラスのようなガラスのはめ込まれた木の扉が開かれている。差し込む光と一緒に店に入ってきたのは、若い女の人だ。
(ああ。この人だな)
高志はすぐにわかった。きっとこの人が絵の依頼主であろう。
いかにも教師らしい、かしこまったいでたち。紺のフレアスカートにフリルのついた白いブラウス。肩の高さで切りそろえたショートボブの髪が風に揺れ、メガネの奥で理知的な目が光っている。
春の柔らかな光を背にして入り口の前に立った彼女はしばらくきょろきょろと店内を見渡していたが、やがて店の奥の窓際の席に鎮座する高志の存在に気づいてひとつ咳払いをした。
「あなたが……。高志さん?」
テーブル脇まで来てから彼女は問う。
高志はちょっともったいぶってから、鷹揚にうなずく。そうさ、この僕こそが大芸術家、高志様だ。という自負を思いっきり込めて。
……正確には、将来、大芸術家になるはずの。だけど。本当はまだかけ出しだ。しかし、まあいいや、と高志は思う。気持ちだけは大きくもとう。そう。気持ちではもう一流さ。誰も認めちゃくれないが。
しかしその全力の自負も、この女教師にまで届くことはなかったようだ。彼女はわずかに眉をひそませて眼鏡に指をあて、高志のどや顔を黙殺し、音もたてず向かいの席に着いた。蔑むような、どこか憐れむような目で彼を一瞥して。
「初めまして。新田知佳子です。高校で国語を教えています」
そう、不機嫌そうな声で挨拶をしてくれた。
澄んでいるけれど、陶器のような、硬質でどこか冷たい声。
日が陰ったのか、先ほどまで橙色の陽の差し込んでいた席が薄暗くなる。心なし空気も冷えた気がする。重い。悪いことしてるわけではないのに、まるで、この人から呼び出されて説教でもされているみたいだ。
不愛想な人だな。息苦しくてじっとしていられず、コーヒーカップを無駄に上げ下げしながら高志は思う。愛想笑いの一つもできないのかよ。
さっそく仕事の話をしてくれるのかと思っていたら、知佳子先生は黙り込んだまま、なかなか言葉を発しなかった。テーブルに視線を落として、何か考え込んでいる。無表情で。眼鏡の表面を光らせて。まるでパソコンがフリーズしてしまったように。
しょうがないので、高志から話しかけてあげた。
「お話は大体うかがっています。この街を喧伝するような絵を描くということですよね」
ようやく顔をあげた先生はためらいがちにうなずく。その目にようやく、電源のランプが灯る。ようやく起動したというふうに、ぎこちなく彼女は話し始める。
「そうです。この街の風景を描いてほしいのです。その中に、この街に伝わる『黒猫の涙』の伝説を盛り込んで」
「黒猫の涙?」
「知らないのですか?」
「知りません」
高志が素直にうなずくと、知佳子先生は一つ小さなため息をついた。まるで子供の無知にあきれるようなため息。この人、ちょっと僕のことを馬鹿にしてないか? そんなことを思い、高志は少しムッとする。
「僕はこの土地の出身ではないからわからないのです。でも、現時点では知らないというだけの話でしょう」
高志の強い口調に動じる様子も見せず、ただ先生は、瞬きをしながら彼をじっと見据えた。
高志も先生を見返す。
数秒にらみ合いのように彼女の顔を見ながら、高志は思う。まったく。偉そうな人だ。と。この先生はいったいいくつだろう。自分より七、八歳は年上だろうか。三十くらいに違いない。まだ若いくせに。でもまあ、賢そうで、落ち着いてはいる。彼女のその容貌も声も。落ち着いていて、そして表情はあまり動かない。その瞳は知的で思慮深げで、そしてちょっと挑戦的だ。まるでこう語り掛けてくるように。
あなたに、できるかしら? と。
(この僕を、馬鹿にするなよ)
ムクムクと、高志の胸にくすぶる自負心が頭をもたげかけ、しかしその熱は急に冷めていった。
(だめだ)
ほんとうは、受けてもいいと思っていた。でも、だめだと、高志は思う。僕はどうもこの人が苦手だ。僕のことを見下していると思われる人物と、僕は仕事はできない。
高志は椅子に背をあずけると、相手を突き放したような口調で彼女に宣言した。
「僕では力不足のようだ。どうぞ、他をあたってください」
「そうですか」
電源を切られた機械のような様子でいったんうつむいた知佳子先生は、小さなお辞儀だけして出ていった。
「なんだい、あの態度。腹が立つな」
チリンと鈴の音が鳴って木製の扉が閉まると、高志はそうぼやいてコーヒーのカップを口につけた。もうすっかり冷めている。口をへの字に曲げてカウンターに視線を向ける。おかわりをしようと口を開きかけたとき、まだグラスを拭いていたマスターが、扉の方を見つめながらぼそりとつぶやいた。
「不器用な、人なんですよ」
チャンスだ。ようやく、力を示すチャンスが訪れたぞ。そう、思っていたのにな。
喫茶店からの帰り道、商店街のレンガ道をのぼりながら、狭い路地裏を歩きながら、高志は数時間前に同じ道でそう何度もつぶやいていたのを思い出し、小さなため息をついた。
彼は絵描きだ。しかしそれは自分でそう思っているだけである。自分では、自分の描く絵は他の画家に勝る輝きを持っていると自負しているが、世間の評価のほどはわからない。評価の舞台に立ったこともない。描いた絵を人から褒められたこともないし、絵が気に入られて売れたことも、一度もなかった。ただただ自分が絵が好きで、好きなものを好きなように書いているだけの日々。それを考えると、高志はプロの画家というよりは絵の好きな素人と言ったほうがいいのかもしれない。しかし、本人はそれを認めなかった。彼は大まじめで己はプロに匹敵する実力もち、機会さえあればそれなりの仕事ができるものと信じていた。
創ることができる。この僕ならば。みんなが驚き感心するような絵を。チャンスさえあれば。
何百という夜をそう願いながら過ごし、しかしその機会は巡ってこなかった。そう、今日までは。
知佳子先生の依頼があったとき、高志はそれを受けようと思った。報酬が無くても問題なかった。チャンスに飢えていた彼に与えられた、これは天からの恵みだと思えたのだ。しかし……。
(ああ。やっぱりだめか)
高志はまたため息をつきながら思う。
やっぱりだめだ。あの人がじゃない。自分自身がだ。自分の、小さなプライドがだ。
ちょっと我慢すればよかった。最後まで話をきけばよかった。反射的に拒絶しなければよかった。彼女のことなんか、マスターの言うようにまだよく知りもしなかったのだから。
でも、だめだ。自分を守るため、自分のプライドを守るため、僕はすぐに他人を拒否して閉じこもってしまう。
街裏の、自分の住むアパート前の路地から、高志は空を見上げた。淡い紫色の空に、桃色に染められた柔らかそうな雲がいくつも浮かんでいる。どんなに手を伸ばしても、ジャンプしても、届きそうもない。あそこに手をかけて、あの雲の上に立って見たならば、世界はどんな風に見えるのだろう。
高志は空に腕を伸ばし、その雲をつかむようにぎゅっと手を握った。
「おい。なんとか言えよ、コラァ」
耳障りなだみ声が路地の静寂を引き裂いたのは、その時だった。
ビクッと肩を震わせて高志は周囲を見渡す。
路地を少し下った先にある、シャッターの下りた古本屋の前に、女の人の後姿が見える。彼女の前には二人の若い男。二人とも高校生だろうか。どこかの学校の制服を小汚く着崩して、頭を黄色く染めている。絵にかいたような不良だ。そして、その二人に絡まれているように見えるその女の人の背中には見覚えがあった。ついさっき喫茶店から出ていった、あの女教師の背中だった。