雲ひとつない青空の下
オー・メドックの高台にて、イアソンは親子の背中を見守っていた。
そこに揚げクレープの屋台主が揚げたてのクレープを持ってやってきて、イアソンへと差し出した。イアソンは受け取りつつも首を傾げた。
「ぼく頼んでないんだけど」
「うるさいね。さっさと食べな」
「酷い接客態度だ……。まあいいや、いただきまーす」
「500ジンバブエ」
「か、金は取るのかよ……!?」
「旦那の遺言を守らない阿呆にタダで奢るほど、あたしゃ人ができてないのさ」
屋台主は鼻を鳴らし、去っていった。
イアソンはその背に「次の弔魂祭はちゃんとするよ」と語りかけた。屋台主は返事は寄越さず、ただ黙ったまま仕事へと戻っていった。
「まぁま、くれぇぷおいしかった?」
「…………」
エキドナは――少年の母親は少しだけクレープを食べ、十分に堪能した。
微かに笑っている母の表情を見たヘラクレスは笑みを浮かべた。
「ぼく、ここのくれぇぷだいすき」
「…………」
「あのね? きょうたべたのだけじゃなくて、もっといぱいある。いろんなあじある。ぼくのおすすめまだまだあるから、またこんどおしえるね」
「…………」
「また、こよーね」
少年はニコニコと笑い、視線を空に逃した。
「……ぼく、ばっかすきていろんなこと、しった」
「…………」
「でも、まだまだしらないことある。すごくいぱい。おぼえるのすこしたいへんだけど、でも……たのしい。ぼく、このくにきて、よかた」
「…………」
「あのね、みんなやさしーんだ。ぼく、しゃべれなかたのに、しゃべれるまでつきあってくれるひといた。ぼく、いまもしゃべるのにがて。でも、みんなやさしーし、みんなともっとおしゃべりしたいから、もっとがんばる」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ぉ、おうちっ! ……お家、買おっかな……」
「…………」
「ぼく、おかねあるから。もちょとためて、じぶんのおーちかう。おうちってうってるんだって。そうちょ、おしえてくれた。つくってもらえるんだって」
「…………」
「まぁまのね……おへやも、つくろ? どんなのいいかな……」
「…………」
「ぼく、あたまこすらないとこがいー。あと、はんもっくほしい。おひるたべたらね、はんもっくにねるんだ。ぷかぷかねるの」
「…………」
「そんな、おっきいいえじゃなくても、いーんだ。でも、ちょっと、さぎょーするとこもほし。ぼく、きぼりつくるのもすきだから……よるは、そここもったり」
「…………」
「ぼく、おかねよーいする。だから……ねっ? まぁまも、おへや……」
「…………」
「まぁまのおへやも、かんがえといてね……?」
「…………」
「……まだまだ、たのしーこと、いっぱいある」
「…………」
「うれしーこと、いっぱい、まぁまにみせたい」
「…………」
「ここは、そーゆーの、いぱいあるから……」
「…………」
「ぼく、しあわせ。まぁまいて、そうちょいて、みんないてくれる」
「…………」
「だから゛……! しあわせ、だよ」
「…………」
「うまれてこないと、しあわせ、しらなかた」
「…………」
「まぁまが、うんでくれたから……しあわせ、なれたよ」
「…………」
「ぼく、うまれてきて、よかった」
「…………」
「まぁま……」
「…………、――――」
「産んでくれて゛、ありがとぉ゛……!」
少年は本当に伝えたい事を伝えた。
「――――」
彼女に聞き取れたのはもう、そこまでだった。
あとはもう、何も聞こえなかった。
視力は消え、聴力はプツリと途切れた。
残ったのは底知れぬ闇に落ちていく感覚だけだと、諦観の中で思っていた。
もっとずっと、ようやく出会えた幸福な一時の中にいたかった。
だが、まだ残ってるものがあった。
「…………」
触覚はまだ残っていた。
意識も完全には途絶えておらず、少年が変わらず抱き上げてくれている事もわかった。その事実を認識し、少しだけ、安堵の息を漏らした。
「…………」
ただ、彼女には心配事があった。
まだ生きている触覚が、肌を叩く水の存在を教えてくれていた。
雨が降っているのだろうと彼女は思った。
それは冷たくはなく、温かい雨であったが――彼女は我が子が雨に濡れ、風邪を引いてしまわないか気になった。その事だけを心配した。
「…………」
心配していたが、やがて受け入れた。
雨は全身を打つほど多くはなく、大粒のものがポタポタと落ちてきているだけだった。これぐらいなら大丈夫だろうと彼女は思った。
これぐらいなら耐えられるだろうと信頼した。
これぐらい耐えれるぐらい、強い子になったと信じ、ほころんだ。
「…………」
少しぐらいなら、雨に濡れるのも悪くない。
この子といっしょなら、悪くない。
そんな幸福感に抱かれながら、彼女は息を引き取った。