この青く美しい空の下で ~少女は旅に出る~
この世界は優しさで満ちていて。
この世界は温かさで満ちていて。
この世界は幸せで満ちている――
そうだ。きっとどんなに遠くても、きっと――
* *
「ん……ぅ……」
小鳥のさえずりが聞こえ、いつもと同じ朝が始まる。
少女の瞼は重く、開ける事が出来ない様子だった。
昨日も随分と寝つきが悪かったせいだろうか。
最近はずっとこんな日が続いている気がする。
怖い夢を見る訳でも、夜遅くまで起きていた訳でもない。
表現がし辛いが、これは不安、というものなのだろうか。
まるで真っ暗な闇が襲ってくるような、そんな不安感を少女は感じていた。
少女は不安を拭い去る様に手を伸ばしていく。
昨日まであった温もりが無く、不安になり瞳を開けた。
どうやらそこにいる筈の大切なひとの姿は既にないようだ。
上半身を起こしながら腕を上にあげ、身体を伸ばして目を覚まさせる。
肩の少し先の辺りまで伸びた、細く銀色のさらさらとした髪が揺れて、
カーテンの隙間から溢れる日の光を浴びてきらきらと美しく輝いている。
ベッドから起き上がり、服を着替えカーテンを開ける。
今日もとても天気の良い、暖かい春の日だ。
少女は部屋を出てダイニングルームへと向かっていくが、そこには誰もいないようだった。テーブルに置かれたメモを見つけ、見てみるとそこには少女へ向けたメッセージが書かれていた。
『たーくんとお外でデートしてきます(はぁと)』
『えーちゃんとデートしてきます』
楽しそうに書かれたその内容に、少女はくすりと笑いながら、
両親に楽しんできてねと心の中で思った。
メモにはどうやら追伸が書かれているようだ。
『広場でポワル様が待ってるわよ。早めに行きなさいね』
我が家では時々ある事だった。
何か理由を見つけては両親だけで出かけ、夕方頃になると帰ってくる。
そんな日が時として急に訪れる不思議な家庭だった。
それは決して放任主義ではなく、ある理由から席を外すように出かけてしまうのだが……。
まぁそれはさておき。
早く準備を終わらせて広場へ向かおうと少女は思っていた。
大切なひとを待たせ過ぎては申し訳ないからだ。
洗面所まで向かい、顔を洗い歯を磨き、ブラシで髪を整える。
鏡に映る自分の髪を見つめながらはぁっとため息をつく少女。
憧れの金色でふわふわした髪を自身に重ね合わせるように想像し、
また一つため息をついてしまっていた。
客観的に見れば彼女の髪はとても美しい。綺麗に切り揃えられて真っ直ぐ伸びたストレートヘアも、ほんのり青みがかっている銀の髪色も、青が入った銀の瞳も。
そして透き通るような白い肌に優しい眼差し。目鼻立ちがしっかりとしているので将来は絶世の美女となる可能性がとても高いだろう。
細い手足がすらりと伸び、まだ少女だと言うのに、その姿は多くの人が見惚れる程とても魅力的であった。
出かける準備を終えた少女は、家を出て広場へと向かっていった。
小走りで向かう彼女の頬を優しい春の風が撫でていく。
今日もとても気持ちの良い春の日だった。
次第に広場が見えてくると、少女は待ち人を探していく。
すぐにその姿を見つけ、歩いて近くまで寄っていった。
広場にある屋台を見ているようで、その待ち人の女性に少女は声をかけた。
「おはようございます、ポワル様」
その声に気が付き、少女の方へ振り向く女性。それはとても美しいひとだった。
見た目は20代半ばほど、大人びた顔立ちをしている超絶美人で、腰の辺りまでふわふわと伸びた、まるで金糸のような髪に宝石をはめ込んだかのような碧の瞳、白く美しい肌と慈愛に満ちた眼差しをしていた美しい女性だった。
全身からは力を体現したかのような淡い光がほんのりと溢れていて、身に纏っている真っ白なエレガントドレスが、彼女の魅力をさらに引き出しているようだった。
「おはおう、いいふひゃん」
女性は少女へ、いつもの挨拶をいつもと同じ素敵な笑顔で返していくが、その美しさとは反して、彼女はまるで子供のように何かを頬張りながら話をしてきた。
大人びた透き通るような声を持ち、おっとりとした口調のとても美しいひとなのだが、言動が若干幼い感じのする、なんとも可愛らしいお方だ。
「はしたないですよ、ポワル様。もぐもぐごっくんしてから話して下さい」
はっと気が付いたように彼女はなりながら、むぐむぐとしっかり噛んで飲み込んだ後、改めて挨拶をした。
「おはよう、イリスちゃん」
いつもと同じように優しい微笑で答えてくれて、その表情と仕草がとても美しく綺麗に見え、本当にこの方は笑顔がとても素敵で似合う方だなぁとイリスは思っていた。
「真っ白なドレス、とってもお似合いですよ」
「ふふ、ありがとう」
屈託の無い笑顔で返して下さるこのお方は、女神ポワルティーネ様。
私達の住む世界である"リヒュジエール"の人々を心から愛し、慈しみ、見守る女神様だ。地上に顕現されている時は、そのお力の殆どを封じているらしく、一般的な女性と変わらない力まで抑えているそうだ。
そしてこの世界にはたくさんの神様が顕現なさっている。
世界にある九つの街にそれぞれ一柱ずつ、世界にいる人々を常日頃からとても近い場所で見守って下さっていた。
イリスの傍にいる可愛らしくて綺麗な女神様もその一柱だ。
彼女が生まれた時からずっと傍にいて下さる方で、イリスと共に行動し、苦楽を共にしてくれていた。それは食事も、外出も、遊ぶ事も、寝ることも。
それがイリスにとっては幸せな事であり、また彼女自身も幸せと思える事であった。
「ふふっ、イリスちゃんは大切な"祝福された子"なんだから、私も一緒にいられてとっても幸せなんだよ」
"祝福された子"
神と人の魂が惹かれ合い、とても強い絆で結ばれ、祝福され生まれてきた者の事だ。お互いに惹かれ合っている為、傍にいるだけで幸せに思える存在になる。
それはお互いを"愛する"という意味でもあるのだが、ここに一切の恋愛感情はなく、仲のいい親子か兄弟の域を超えることはない。
目を細めた優しい眼差しでイリスに微笑むポワル。
その表情を何よりも美しいとイリスは感じていた。
普段はふんわりとしているが、こういう時の顔を見ると、
あぁ、本当に女神様なんだなと、イリスはしみじみ思っていた。
そんな彼女もポワルといられるだけで幸せを感じ穏やかな日々を暮らしている。
「そうだ、イリスちゃん」
そう言いながらポワルは小さな包みを何処からとも無く出し、イリスへ祝福の言葉と共に渡していく。
「十三歳のお誕生日、おめでとうっ」
「わぁ、ありがとうございますっ」
ポワルは毎年この日を忘れた事がない。とても大切で特別な日なのだから。
イリスが喜んでくれる姿が何よりも嬉しく、また幸せな一時でもあった。
心から喜びながらイリスは開けてもいいですかとポワルに尋ね、もちろんだよと彼女も答えていく。
どんな時でも心からの笑顔を見せてくれる少女に、内心ではいつもどきどきしながらも、彼女の反応を待つ。
「わぁ、かわいい。きれいな青色のリボンだ」
ぱあっと明るくなる少女にポワルまで微笑んでしまっていた。
「街の中心から少し歩いた所にあるお店で見つけたんだよ。
とっても可愛いお店だったから、今度一緒に行こうね」
「はい!」
満面の笑みで答えてくれたイリスに、嬉しくて涙が出そうになるもぐっと堪え、青いリボンをつけてあげるポワル。
特別なプレゼントという事以外は、いつもの温かく幸せな日常だった。
イリスは屋台のおじさんやおばさんにお誕生日おめでとうと祝福され、プレゼント代わりに食べ物を持っていってと言われた。彼女は何だか申し訳なく思い、遠慮しようとするも、いち早くポワルが受け取ってしまったので、ありがたく頂く事にした。
この街でイリスを知らない者はいない。女神様に祝福された子なのだと大切にしてくれる。この街の人は皆とても優しい。思いやりや助け合いに溢れてる。
全てはポワル様が見守ってくださるお蔭なんですねと、イリスは素直にそう思える、とても素敵で幸せが溢れる街だ。
頂いた食べ物を食べた後、二人はいつもの場所へと向かっていく。
街から少し離れたところにある草原だ。ふわっと暖かく心地よい春の優しい風が、心地よく身体を包んでいく。
遥か遠くを見渡せる果てのない草原に、うららかな春の陽射し、空はどこまでも透き通るような青さを見せている。
ここが二人のお気に入りの場所だった。ここで寝転がりながら色々な話をして、そのままお昼寝をして、夕方になったら二人で家に帰る。
これは二人にとって、いつもと変わらない、そしてとても幸せな日常だった。
目が覚めてからも話を続けていき、ゆっくりと散歩をするように歩いていく二人は、やがて家へと戻ってくる。どうやら両親も帰ってきているようだった。
二人の姿を見かけるとおかえりと優しく言ってくれた。
「おう、おかえり、イリス」
「おかえりなさい、イリス」
「ただいま、お父さん、お母さん」
「タウマス、エレクトラ、ただいまーっ」
「「おかえりなさい、ポワル様」」
イリスたちが帰ってくる前に、今日のこの日の為に豪華な食事を用意してくれたようだ。料理が上手な母特製のとても美味しそうな品々が並んでいた。
どれもイリスの好物を作ってくれたようで、嬉しさでいっぱいになるイリス。
「今日はイリスのお誕生日だから、お母さん張り切っちゃった!」
「後で父さん達からのプレゼントもあるからな、楽しみにしてるんだぞ」
「わぁ、ありがとう、お父さん、お母さん!」
優しい家族、穏やかな時間、温かい家、そして素敵な女神様。
大切なひとと過ごし、大切なひととお気に入りの場所でお昼寝をし、
大切なひとと眠りに就く。いつもと変わらない日常。いつもと同じ幸せな日々。
ただひとつ違ったのは、今日はとても特別な日だって事だった。
この世界は優しく、穏やかで、暖かい。
この街に生きる人々で、笑顔を絶やしている所を見た事がない。
まるで世界そのものに祝福されているかのように、誰もが幸せに生きている。
そしてそれはイリスや、彼女の家族も同様だった。
この優しく穏やかな世界で、今日も少女は大切なひとと眠りに就いていく。彼女が生まれてからずっと、ポワルはこうしてイリスを抱きしめて眠ってくれていた。
彼女のぬくもりも、彼女の香りも、彼女の鼓動も。イリスにとっては、どれも安心する事が出来るものだった。
だが、何故だろうか。少女は今日も中々眠りに就く事が難しいようだ。
それはまた言いようのない不安に襲われていくように、イリスは瞳を閉じながらも眉を顰めていく。ポワルはそんな不安げな少女を優しく抱き寄せ、落ち着かせるように頭を撫でていった。
少女は次第に心を落ち着かせていき、微睡む意識の中、
この幸せで温かな暮らしがいつまでもずっと続き、
そして目が覚めるとまた優しい日々が始まりますようにと、
まるで願うように、小さな少女は眠りに就いていった。
* *
目が覚めると、ポワルが優しい眼差しでイリスの頭を撫でてくれている様だった。とても心地が良く、そのまま眠ってしまいそうなほど気持ちが良いのだが、ぼんやりと少女が微睡みながら瞳を閉じかけると、優しく温かな笑顔で挨拶をしてくれた。
「おはよう、イリスちゃん」
いつもと同じ、目を細めた優しい眼差しに温かな笑顔。イリスが何よりも大好きな笑顔だ。凄く安心できる声と表情に、まるで心まで温まっていくようだった。
イリスも笑顔でポワルへ挨拶をしていった。
「おはようございます、ポワル様」
いつもと同じ朝の挨拶、始まりの言葉。
小鳥のさえずる今日もとても天気の良い暖かな春の日だった。
だが、小さな少女と笑顔の女性はまだ何も知らない。
これから彼女達の身に何が起こるのかを。
これから彼女達がどうなってしまうのかを。
ポワルですら、いや、この世界にいる全ての神々ですら知る由も無い事だった。
この日が二人にとって、"運命の日"となるという事に。
少女は着替えた後、二人で一緒にダイニングまで向かっていくと、
父と母の姿が見えて、二人は朝の挨拶をしていく。
「おはよう、お父さん、お母さん」
「あぁ、おはよう、イリス」
「おはよう、イリス」
「おはようっ、タウマス、エレクトラ」
「「おはようございます、ポワル様」」
家族四人で朝食を取りながら、いつものように楽しく会話をしていった。
そんな中、感慨に耽る父はイリスを見ながら、まるで涙ぐむように目を細め話していく。
「もうイリスも十三歳か。時が経つのは早いものだなぁ」
「ふふっ、そうねぇ。本当に早いわねぇ」
母の優しい眼差しに、少しだけくすぐったく感じるイリス。
続けてポワルが昔話をするように遠くを見つめながら話をした。
「イリスちゃんが生まれた日を、昨日の事の様に覚えてるわ」
思い出すようなポワルの表情に、何ものにも代え難い美しさと気高さをイリスは感じていた。
普段はどこか子供っぽく見えてしまう可愛らしさがあるのだが、時折見せる美しい女神の表情をするポワルを見ることが、彼女にとっては何よりも嬉しく、また何よりも幸せな瞬間だった。
温かい食事、絶えることのない笑顔と笑い声、幸せな時間と優しい居場所。
そして隣には美しい女神様。ずっとずっとイリスの傍にいて、微笑んでくれる本当に素敵な方だった。
楽しい食事が終わり、洗い物の手伝いをして、また二人で広場に出かけていく。
少女の横に居るポワルは今日もご機嫌で、そんな彼女の傍にいるだけで自然と笑顔になってしまう。
広場まで出ると、屋台の準備をしているおじさん、おばさん達が挨拶をしてくれて、二人はそれに応えていく。いつも私にも優しく接してくれる人たちだ。本当にこの街は優しさで溢れた素敵な街だ。イリスは他の街に行った事はないけれど、どこもここと同じくらい素敵な街だと思っていた。
なんて素敵な優しい世界なのだろうか。
そんな素敵な世界に生まれた事に幸せを噛みしめるイリスだった。
いつもと変わらない日常。いつもと変わらない空。大切なひととの他愛無い会話。世はこともなし。
今日もとても天気が良い。昨日と同じような穏やかな風に暖かな日差し、どこか花の香りを含んだ甘い匂いがする春の風に少女は包まれながら、大切なひとと歩いていた。
ポワルはいつもと同じように美味しそうな物を発見すると、そこへ向かって走っていく。これも日常だった。なぜか美味しそうな食べ物ばかりに飛んで行っている気がするも、ポワル様らしくていいなぁなどとイリスは思っていた。
既に彼女は屋台で何かを注文しているようだった。後姿だけでも可愛らしい仕草だと思ってしまうイリスは、目を細めながら彼女の元へと歩いていった。
そう。この日もいつもと変わらない、幸せな日々だった。
だがその幸せは、前触れもなく、突然終わりを迎える事となる。
彼女の背後の空間が音もなく突如として裂け、深淵のような恐ろしい暗闇からゆっくりと何かが現れていく。その姿はとても禍々しく、形容することが出来ないほどのおぞましく歪な形をしたモノが、少女の大切なひとへと迫りつつあった。
イリスはそのモノの姿を一目見ただけで、恐怖で硬直し、震える事しか出来なくなってしまった。彼女の理解の範疇を超えたそれは、徐々に、しかし確実に大切なひとへと近づいていく。
理解は出来なくとも、彼女には一つだけ分った事があった。それが自身が何よりも大切にしているひとへ、明確な悪意を持っているという事に。
その先がどうなったのか、イリスは良く覚えていない。まるですっぽりと記憶が抜け落ちたようだった。
だがポワルはそれを目の当たりにしてしまう。
大切な子が目の前で、形容しがたい何かに襲われるという、
全身が凍りつく様な恐怖を味わう事になってしまった。
何かに襲われ、崩れ落ちる大切な子を半狂乱になりながらも急いで近づき、
受け止めるようにイリスを抱きかかえる。
少女の顔色は血色がまるで無くなっていて、恐ろしいほど体温が低かった。
ポワルは今何が起こったのかを、纏まらない考えの中で必死に記憶を手繰り寄せるように思い出していた。屋台の食べ物を受け取る瞬間までは覚えている。だが、その後の記憶が曖昧になっていた。
まるでで意識が途切れているような、理解不能な事象に取り乱しつつも、
現状すべき事を冷静に判断して能力を使い、イリスの回復に努めていく。
だが、まるで効果を感じない。
地上で可能な限り使える最大の力を行使して回復させているのにもかかわらず、効果が見られない。これは明らかにおかしい。
瞬時にイリスの状態を確認すると、恐ろしい事実が彼女に襲い掛かる。
「……そ、そんな……。肉体が……。死んでいる……」
こんな事有り得ない。ポワルはあまりの絶望に叫びだしそうになる気持ちを奮い立たせ、イリスの肉体の生命活動を維持させる為に力を行使する。このまま放置すれば直ぐに彼女の魂が天上へと還ってしまう。
しばらくすると、彼女の頭の中に女性の声が響いてきた。
≪ポワルティーネ、こちらで引き継ぎます≫
「! お願いします。レテュレジウェリル」
力の行使を抑えると息がかなり切れてしまった。
やはり地上で現状出来得る力を最大限行使をする事は、かなり厳しいようだった。息を整えていた彼女にレテュレジウェリルは現状を報告していく。
≪コード16が発生しました。現状は1784581309を復号化して下さい≫
コード16とは"敵の侵略行為"の事だ。ポワルは続いて、送られてきた報告を読み取っていった。だがすぐさま、その聞いた事すらないイレギュラーな事態に酷く取り乱してしまった。
平常心を保てるだけの精神を維持出来ず、心臓の鼓動だけがばくばくと激しく脈打っていく。
そんな中、イリスの両親であるタウマスとエレクトラが彼女に駆け寄って来た。
どうやら倒れたイリスを見た近くの人が、二人へ教えに行ってくれたようだ。
両親は血の気を失ったイリスを一目見て顔面蒼白になりながら、ポワルと愛娘へそれぞれ言葉を発していった。
「ポワル様!」
「イリス!!」
「いま調べています。後で必ず詳しく説明します。ですが――」
途中まで言いかけて、言葉に詰まってしまうポワル。
その言葉を言いたくない。口に出したくない。
でも言わねばならない。私は"女神"で、二人はイリスちゃんの"両親"だから。
こんな、こんな恐ろしい事を言わなくてはいけないだなんて……。
震える声でイリスに置かれた現状を説明していく。
「このままでは、イリスちゃんは……。"天に還ります"」
タウマスは驚愕し、エレクトラは目を見開き両手を口に当てて涙を流す。
「……イリスちゃん」
ポワルは少女に語りかける。
あまりの辛さ、あまりの苦しさに涙が出てしまう。
とても辛そうだ。出来る事なら代わってあげたい。
ポワルは尚もイリスへと優しく語りかけていく。
自分よりもずっと苦しい思いをしている少女に。
もうじき"お別れ"をしなければならない大切な子に――。
一瞬、イリスの意識がこちらに向いたのをポワルは感じ、今度は強めに少女へ語りかけていった。
「……イリスちゃん!!」
イリスは辛そうに重々しくゆっくりと瞼を開けると、大切なひとに抱かれていた。定かでない記憶を思い起こすと、恐怖で出す事が出来ない声で、誰かに助けを求め、誰かに祈り、そして誰かに願った。
大切なひとに、何かを振りかぶるようにしたモノの、あまりの恐ろしさに瞳を閉じてしまったイリス。
そこから意識は飛び、まるで底の見えない深い深い闇に吸い込まれていくような感じがしていた。とても眠く、身体は動かせず、何も考えられないような意識の中、イリスは光にも似た優しい輝きの声を聞いた。
自分を心から心配しているひとの声を。まるで自分よりもずっと大切に思ってくれているかのような、とても優しくて美しい、大好きなひとの声を。
言う事を聞かない身体を強引に動かすように、瞼に力を込めると、そこには大切なひとの姿があった。
少女は言う。口にする事すら出来ないような身体で。大切なひとに声で伝える事は出来ないけれど、想いだけも伝わる気がしたからだ。
そんなイリスの想いに反応するように、ポワルは表情を変えて話していく。
「……どうして謝るの? イリスちゃん」
少女は大切なひとへ謝っていた。
イリスが悪い事など何ひとつない。あるわけがない。
悪いのは護れなかった私だ。貴女では決してない。ポワルはそう思っていた。
なのにイリスが謝る理由が、ポワルには全くわからなかった。
そして少女は想い、ポワルの心に伝わっていく。
自分のせいで貴女を泣かせてしまったと。
その優しさに涙が一気に溢れてしまった。
この子はどうして自分よりも、人の事を想ってくれるのだろうか。
いま一番辛いのは、いま一番大変なのは、この子なのに。
それなのにこの子は、自分よりも私を気遣ってくれている。
ポワルにはそれが、とても辛く思えてしまった。
気が付くと、彼女達のすぐ傍に見知った顔がそこにあった。
長身でがっしりとした体型の、力強く感じる濃い茶色の男性だ。
ポワルのいる街から北東に位置する街を守護する大切な神のひとりだ。
「……ガエウェグフォル」
その姿にまるで助けを求めるかのような、とても弱々しい声がその場に響いていった。ポワルとしても、どうしていいのかわからないようだった。
「現状は理解した。現在レテュレジウェリルが最優先で対処している」
そんな彼女に彼は力強くはっきりと答えていくが、
内心では魂が揺れているのが、手に取るようにポワルには伝わっていく。
これは"悲しみ"と"怒り"だ。
≪ポワルティーネ。経過報告です。1784581310を復号化して下さい≫
レテュレジウェリルの声がポワルに届く。
すぐさま彼女は空を見上げるようにしながらそれを読み取り、
現状の把握に努めるが、状況はあまり良くないようだった。
その内容はポワルを苛立たせるのに十分な言葉が含まれていた。
だが今はそれどころではない。目の前に最優先でするべき事があるのだから。
心を落ち着かせて、今はその件を一旦頭の片隅に追いやった。
そうでもしなければ、今にでも叫び出してしまいそうになるほどの怒りに包まれてしまいそうだったからだ。
大凡の現状は把握できたものの、対応策がとても少なかった。
そしてそのどれもがポワルとイリスにとって最悪とも言えるものだった。
今の自分の精神状態でそれを話していくのは困難だとポワルは思い、
レテュレジウェリルに説明してもらう事を選んでいく。
イリスは未だ血の気の完全に引いた辛そうな表情をしていた。
瞳すら半分も開いていないその痛々しい姿に、
ポワルは魂が切り刻まれるような痛みを感じていた。
本当に辛そうだ。変わってあげたい。でも、それは出来ない。
女神なのに、人よりもずっと長い間生きているのに。
人よりもずっと凄い力を持ち、それを行使する事が出来るのに。
情けない。何も出来ないなんて。
何も出来ず、大切な子がただただ弱っていくのを見続けるしか出来ないなんて。
ポワルは自分の無力さを噛み締めている一方で、
レテュレジウェリルはイリスへ説明していく。
イリスは今、一刻を争う危機的な現状に置かれている事を。
≪初めまして。私は"天上"で世界の管理をしております、レテュレジウェリルと申します。現在貴女の置かれている状況を説明させて頂きます。
現在の貴女の肉体は、何物かに攻撃を受け、生命活動を維持するのが困難な状況にあります。現在、我々の力で生命活動の維持を続けておりますが、このままですと後一時間と経たずに、肉体と魂が切り離され、貴女は死亡します。
また、何物かに攻撃をされた際、肉体に"呪詛"を受けた事も確認されました。この呪いは肉体が死亡した後、魂を汚染する効果が予測されます。
一度汚染された魂は浄化する事が出来ず、輪廻の輪に戻る事が不可能となり、消滅してしまいます≫
彼女の説明は丁寧ではあるものの、十三歳の少女に、
いや、この世界の住民には理解出来ると思えない言葉が数多く含まれていた。
その説明では理解出来ないでしょうにと呆れてしまうポワルは、イリスに分りやすく説明していく。
「つまりね、イリスちゃん。……このまま時間が経つと、
イリスちゃんともう二度と会えなくなってしまうって意味なの」
イリスの声無き悲しみが、まるで悲鳴のように届き、ずきんと胸が痛むポワル。
だがポワルにはそんな痛みを感じる資格はないと思っていた。
大切な子すら護れずに胸が痛むなど、情けないにも程がある。
そしてレテュレジウェリルは、その対策をイリスへと話していく。
≪現在確認された対処法は二つあります。
一つは、このまま肉体が死亡する前に魂を天上へと導き、魂を浄化した後、再び輪廻の輪に戻す方法。
この方法が成功すれば、現在の記憶を引き継いだまま新しく生まれ変わる事が出来ます。ですが、輪廻の輪に戻る為に必要な魂の浄化をしても、新たに宿る適応された母体が魂を保存出来る時間内に見付けられない可能性が高いです。
その場合、現在貴女にある記憶は全て失い、新しい生命体として生まれ変わる事となり、貴女という個は消滅してしまいます。
この対処法の成功確立は、計算上0.26パーセントとなっています≫
引き続きレテュレジウェリルがイリスへと説明するも、やはりその説明では全く伝わらないだろうとポワルは判断する。
だがポワルのその言葉に、絶望すら感じている様な悲嘆に暮れさせてしまった。
「……つまりとても難しい方法で、奇跡が起こるのを待つ事になるの」
≪二つ目の方法は、貴女の魂が適応する世界へ転移させる方法です。
現在この方法が最も確実且つ、安全な方法となっております。この方法で魂を転移させる事が出来れば、記憶は勿論、イリスさんの身体をほぼ同じ姿で作り変え、別の世界に転移させる事が出来ます。転移予定となっている世界も確認済みです≫
この方法であるなら別の身体に作り変える事が必要となるも記憶も無くならない。
特に欠陥があるようには聞こえないが、この方法ではイリスにとっても、またポワルにとっても、簡単に納得する事など決して出来ない重要な意味が含まれていた。
心の何処かでイリスはそれを感じたのだろうか。
レテュレジウェリルへ本質を捉えた質問をしてしまう。
その想いに胸が張り裂けそうになるポワル。
彼女は質問した。『その方法なら、ポワル様と離れなくて済むのですか』と。
その問いに、涙を流さない様に堪えながら、ポワルは声を震わせて答えていく。
「……あのね、イリスちゃん。この方法で別の世界に渡っても、私と会う事はとても難しくなるの」
ポワルにイリスの想いが伝わってくる。
苦しい。身体が震える。こんなにも酷い言葉を口にしないといけないなんて。
わかるよ、イリスちゃん……。私だって……。私だって貴女と離れたくない。
でも……。でも言えなかった。言う事なんて出来なかった。
別世界に転移してしまえば、私たちは、もう……。
ポワルはまるで自分に言い聞かせるように、イリスへ説明をしていった。
「理由は色々あるのだけれど、一番の理由は私の世界じゃない事なの。
……私が創った世界なら調整をして力を抑えれば、地上に顕現することが出来るけれど、別の世界の場合は話が違ってくるの。別の世界に、別の世界の女神を顕現させてしまうと、その世界にとても大きな影響が出てしまうの。
その影響を抑える調整をするのに、とっても時間がかかるの。それこそ数十年単位で。そもそも力ある者が、軽々しく世界を渡れない様にする為のものでもあるから、そう簡単に地上へ顕現出来ない様にもなっているけど、実際にその世界へ降り立つとなるとその調整は凄く難しいの」
悲痛な声で説明するポワルの言葉に、レテュレジウェリルも補足していく。
≪例えそれが叶ったとしても、別世界の神が力を極限まで抑えた状態で地上に降りた場合、その世界に多大な影響を与えてしまうと思われます。
恐らく、予測される可能性で最も確率の高い影響は"大災害"でしょう。そうなれば地上に凄まじい爪痕を残す事になります。最悪の場合、その世界そのものが崩壊する事も考えられます≫
静かに淡々と続けるレテュレジウェリルの言葉に沈み込むイリス。
だがふとイリスは、発想を変えた考え方を思い付いた。
ポワルから逢いに行けないのなら、自分から逢いに行けるかもしれないと。
その気持ちはとても嬉しい。何も出来ないで見送る事しか出来ないポワルに、
それでも逢いたいと言ってくれた。こんなに嬉しい事がかつてあっただろうか。
だが、そのイリスの優しい気持ちを踏み躙るような、避けようの無い現実が彼女を襲う。どう言えばいいものかを考えてしまうポワルは言葉に詰まってしまった。
それは不可能なことだ。神ですら軽々しく出来ないほど難しいこと。まして人であるイリスには……。
言葉が出ない彼女に代わり、レテュレジウェリルがはっきりとした声で、イリスに現実を教えてしまった。
≪それは不可能です。人から神に逢える方法を、私は知りません≫
「――!? レテュレジウェリル! 貴女っ!」
イリスの前で初めて憤りを露にしてしまったポワル。
もっと良い言い方があった筈だと思う彼女は、怒りを抑える事が出来なかった。
だが、レテュレジウェリルは話を続け、希望を示していく。
≪ですが、それはこの世界の法則です。私は別の世界の法則を識りません。
……とても難しい方法だとは思いますが≫
それは限りなくゼロに近い、だがゼロではない希望だった。
そんな微かな光であったが、イリスにとってはそれで十分だと言わんばかりに、とても前向きに捉えてくれたようだ。
彼女の想いが伝わる。『可能性がゼロじゃないなら、頑張ってみたい』と。
そして少女は続ける。『またポワル様と一緒に居たいから』と。
涙が溢れてくるほど嬉しい。でも、何も出来ない自分が悔しい。
女神なのに……。人よりもずっとずっと長い時間を生きているのに……。
ポワルはその優しい言葉に涙を流しながら、大切な少女を優しく抱きしめ、レテュレジウェリルへ謝罪をする。
≪ごめんなさい、レテュレジウェリル≫
≪構いません≫
同じ口調で答えるレテュレジウェリルに、本当に感情をあまり表に出さない子ねとポワルは思ってしまう。
ポワルは愛おしくイリスの頭を優しく撫でながら、暫しの幸せの時を過ごしていた。そしてイリスもまた、その暖かな温もりに抱かれ、心がとても落ち着いていった。
だが、無常にもその時がやってきてしまう。
≪イリスさん。そろそろ時間が迫ってきています。ご決断を――≫
――そして少女は"決断"をする。
ポワルは力を行使し、彼女の魂を預かり、身体を天上へ送る。
両手を重ねるように包み込んだその魂は、とても美しく、穢れのない澄んだ魂の色をしていた。本来であれば、この色は絶対にあり得ないと言えるほどの、純白に輝く魂だった。
イリスの身体が消えてしまい戸惑う両親へ、ポワルは現状を話していく。
彼女に降りかかった最悪とも呼べる災厄を。
そしてポワルは説明をする。世界に浸入し、少女を穢した"敵"を。
そしてポワルは説得をする。少女の魂を救う為には、こうするしかないのだと。
複雑な表情で聞き入っていた二人は、言葉を発せずにいた。
しばしの時間を挿み、口にしたのは母エレクトラであった。
「……それがイリスの魂ですか? ポワル様」
「そうです。本来人の魂は、様々な色が混ざり合い、美しく彩られ、一人として同じ色は無いのだとも言われています。
ですが、イリスちゃんの魂は穢れのないまっさらな純白。本当に美しい色。
これは"祝福された子"だからなのかもしれませんね。
こんなに美しい色をした魂を、私は見たことがありません」
そして彼女は、今後の話を続けていく。
「私はこれより天上へ戻り、イリスちゃんの魂を異世界へと導きます。
彼女の魂が世界に適応させるまで時間がありますので、その間に……お別れの言葉を考えておいて下さい」
二人は声を出せず、その美しい魂を眺めていた。
どう答えて良いのかなんて、分る筈がない。
それはポワルもとても良くわかっている事だ。
割り切れる者など、この場にはいないのだから。
「では"天上"に戻ります」
「はい。イリスをどうかよろしくお願いいたします、ポワル様」
声に出したタウマスはとても苦しそうに伝えた。
エレクトラは声を出す事ができず、深々とお辞儀をした。
いくら考えても割り切れる事では無いのだが。
それでも二人には心の整理が必要だろう。
魂が定着するのにまだ時間はかかる。
その間にポワルも仲間達へ報告を聞く必要がある。
最後にもう一度、天上へ向かう旨を二人に知らせ、
ポワルは"管理世界"へと戻っていった。
* *
どれ位振りだろうか、"管理世界"に戻って来たのは。
美しい白い廊下を歩くと、こつこつと心地よい音が響いていく。
まるで宮殿のように広く天井が高い。
少し歩くと目の前に重厚で豪奢な扉が見えてきた。
傍には濃い茶色の髪でがっしりした体系で2メートルを越える男性がいる。
その男性はポワルが近くまで来ると話しかけていく。
「戻ったか、ポワルティーネ」
「ガエウェグフォル、皆は?」
「既に集まっている。後は我々だけだ」
歩みを止めずに会話をし、ポワルは手を翳す事なく力で大きな扉を開いていく。
重々しい音と共に徐々に開いていき、徐々に見えてきたその中は、とても広く白い空間となっている。
その広い空間の中央には円卓がぽつんとあり、そこにはこの世界の全ての神が既に座っていた。
この世界"リヒュジエール"には十三柱の神々が存在する。
九柱は持てる力を封じて、世界にある九つの街にそれぞれ一柱ずつ顕現し、
残りの四柱は天上と呼んでいる"管理世界"で世界の人々を見守り、世界に起こる不具合の調整をしていた。
ポワルを含めた神々の為すべき事は、この世界の人々を心から愛し、慈しみ、大切に見守っていくというものだ。今は遠い、"はじまりの時"に全員で決めた事だ。
ポワルはある想いから、別次元に存在していた者達に声をかけ、自身が想い描く"楽園"を創る仲間を探していた。
彼女の想い描く世界を、鼻で笑う者も少なくは無かった。だが、並々ならぬ想いから、ひとり、またひとりと次第に増えていく仲間が、現在ここにいる十三柱の神々として、この世界を見守っている。
ポワルはそんな仲間達へ待たせてごめんなさいねと言いながら、空いている上座に座る。彼女を正面から見て左側にガエウェグフォルが座った。そしてポワルの右に座っている男性が彼女に話しかける。
「おかえり、ポワルティーネ。現状は聞いたよ。大変だったね」
「大丈夫、もう大分落ち着いたわ。ありがとう、リヒュリジエル」
見た目は二十代前半、白髪長身で美しい顔立ちの男神が穏やかな表情でポワルに語るが、目の奥は全く笑っていない。
いや、彼だけではない。この場にいる全ての者がそうなのだ。あんな事をされて赦す筈がない。絶対に。
「私から報告があるわ」
緑色で美しいグラデーションが煌く腰の下まで届く長い髪。明るい碧の瞳の女神レティジィルブールが言葉を放つ。
レテュレジウェリルと、もう一柱であるレテズレリルグルーヌと共に三女神と呼ばれ、天上で世界の管理をしている三柱のうちの一柱だ。
「イリスさんを襲った敵は、この世界に影響なく入り込める様に、力を最小限にして浸入し襲撃。彼女の身体に呪詛を放ち自滅した。これは我々に回収をさせず、敵の情報を解析させない為と思われる。
だが既にその世界を特定し、今現在は敵の戦力と呪詛の対応策を検討中。問題はイリスさんに撃ち込まれた呪詛にある」
「どういう事ですか? 世界に影響を齎した方が都合が良いのでは?
それにあれは魂を穢し、転生させない為の物で――」
怪訝そうにポワルは聞き返したが、直ぐに思い改める。
いえ、待って。あの時、あれは私を狙っていた? どうなったかは理解出来ていないが、私はイリスちゃんと場所が入れ替わっていたように思える。私が狙われたって事はつまり……。
「そう。あれは、女神である貴女を狙ったもの。そしてあの呪詛は、神をも消滅させ得る力を持っていた"神殺しの呪詛"。つまり――」
『あれを送り込んだ敵は、貴女を殺そうとした』と言いかけてポワルに遮られた。
恐ろしく冷たく、鋭く、重い怒りの声で。
「つまりあれは、神をも殺せる物を、あの可愛い子に撃ち込んだ訳ね――」
一瞬で世界が凍り付いた様な空気へと変わり、凄まじい力の奔流がポワルから溢れ出していた。出した訳ではない、自然と出てしまっていた。こんなに腹立たしい事が未だ嘗てあっただろうか。
一拍、二拍と、時間は過ぎていき、自然と溢れ出していた力に気づき、ごめんなさいと言わんばかりに瞳を閉じる。
ポワルが落ち着きを若干取り戻したと確認して、リヒュリジエルは口を開く。
「ふむ。それで、あの子の力はなんだい?
記録を見た限りでは、どうやらポワルと場所が入れ替わったかの様に見えたが」
その問いに、三女神最後の一柱であるレテズレリルグルーヌが説明していった。
「それに関しては、私から報告させて頂きますわ。
あの力は"願いを力"に転換させたものと推測されますわ。あの時のイリスさんはポワルティーネを救いたいと心から願ったのです。どうにかして救いたい、自分が代わってあげたいという、とても強い願いが力になったと思われますわ。
ですが、これ程までに強い力を普通の人、まして少女であるイリスさんが使えたとも思えませんの。ですので私はこう結論付けましたわ。"祝福された子"であるが故に使えたかもしれない、と。曖昧ではありますし、確実な答えも出ないでしょう。それ程"祝福された子"の存在を我々も把握しておりません。
恐らく限定的に使えた能力と考えられますの。その条件は"祝福された子"であること、ポワルティーネを心から大切に思った"想いの力"などに加え、自分よりも大切な存在を守りたい、身代わりになってでも助けたい、という様々な要素がとても強い"願いを力"として顕現させた事だと推測されます。
我々の良く似た力で言うのなら"互換転移"といった所の現象を体現した。正確には、これに似た性能の力なのでしょうが、神であるポワルティーネを移動させるまでの強大な力として顕現させた。これはつまり――」
「奇跡を体現させたのね」
今まで穏やかに聞いていた、クディエリルジュールが初めて口を開く。
ピンクゴールドの髪をハーフアップにした、少々垂れ目で薄い桃色の優しい眼差しの瞳に穏やかな顔立ちの、とても美しく、穏やかな性格の女神だ。
「だと思われますの」
短く語るレテズレリルグルーヌ。神々は顔を難しい表情をしていた。
「人の身でありながら、それ程の奇跡を体現させたのか。なんて無茶を……。
失敗していれば、魂ごとバラバラになっていたぞ。……いや、それだけの力を行使して無事でいた事の方が奇跡か」
ガエウェグフォルが呆れた顔で話していた。
本来、地上に降りる神は、世界に影響が出ない様に力を制限してから地上へと降りていく。だがそれは、あくまで抑えているのであって、自身が持っている力を天上の"管理世界"へ置いて来た訳ではない。
抑えているだけの力であるのだから、使おうと思えば地上でも強大な力を行使する事は可能だ。イリスはそんなポワルを、自身の力で場所を入れ替えたという。
それは、人では決して辿り着けない領域の力を持つ神を、力で強引に移動させた事と同義である。力の無い者が同じような事をしても、移動させるどころか、神の着ている服を揺らす事ですら出来ないだろう。
それをあの少女は強引な力で、ポワルを自身のいる場所へ強制的に置き換えた。
これはつまりあの一瞬だけとはいえ、神と同等の力を行使した事に他ならない。
ポワルは決して力の弱い神ではない。単純な腕力という意味では最高の存在とは言えないが、それでも十三柱の中で、確実に最上位から揺らぐ事が無い程の実力者だ。
本人が力をひけらかさない事と、とても穏やかな気性の為にあまり力を表に出す事は無いが、十三柱の中では間違いなく最高の実力者だと神々は理解していた。
幾ら思想が素晴らしくとも、幾らそれを実現できる能力があったとしても、
自身の力よりも弱い者に連れ添おうなどという存在はあまりいない。
"リヒュジエール"を創造したリヒュリジエルのように、彼女の思想に惹かれた者達が此処には多いが、それでもポワルにそれなりの力が無ければ、相手にもされなかったかもしれない。
何もない場所に太陽と月と星を創ったリヒュリジエルは、
そのあまりの膨大な力の消失に意識を失い、眠りに落ちてしまったが、
彼の変わりにポワルが残りの大地、空、海を創った経緯があった。
言葉にすれば簡単な事のように聞こえるが、言うほど軽々と出来る事では決して無い。恐らく他に創造する力を顕現出来るのは、十三柱の中でもリヒュリジエルの他はポワルだけだろう。
他の神と比べても、圧倒的とも言えるほどの膨大な力の総量と、とても繊細な力の扱い方に長けた神。だが決して力を振り回すことも、仲間に命令したりする事もしない、穏やかな気性で神々の中で誰よりも世界の人を愛する優しき女神。
それがポワルティーネだ。
……楽しい事が大好きで、その自由奔放な性格が災いして、
よく振り回される神々がいるのは、愛嬌と言った所だろうか。
誰もがイリスの無謀とも呼べる力の体現に言葉を詰まらせる中、
レテズレリルグルーヌは話を続けていく。
「それだけポワルティーネへの"想い"が途方もなく強かった、という事で――って、泣かないで下さいます?」
半目になり呆れた表情のレテズレリルグルーヌは、涙を止め処なく流しているポワルに話を中断させられてしまい、言いくるめるように話しかけた。
尚も涙を止める事が出来ないポワルは、鼻声で彼女に言葉を返していく。
その言い方はとても子供のような表現をしていた。
「だって、そんなに想われてたって知ったら……。凄く、嬉しくなって……」
ぐすっと鼻を鳴らすポワルへ、さりげなくリヒュリジエルが白いハンカチをポワルに差し出し、それを受け取ったポワルが『ありがと』と軽く言いながら涙を拭い、ちーんと鼻をかんだ。
何とも言えない微妙な空気が周囲に漂っていく。
神々が息をつきながら一拍を置いた後、レテズレリルグルーヌは話を戻していった。事はそう単純な話ではないのだ。イリスがそれ程の力を行使したという事実そのものが問題となる。
「ですが問題が出て来ましたの。いえ、不安要素と言った方が正しいでしょうか」
「ふむ。イリスがもう一度、その力を体現させた場合の事だね」
リヒュリジエルは顎に手をあて、考えるように言葉を挟む。
ポワルから返って来たハンカチは異空間に放り込んだようだ。
「ええ。人の身でもう一度あれ程強い想いを籠めて力を行使すれば、次は助からないですわね。寧ろその力に一度耐えただけで、有り得ないほどの奇跡と言えるでしょう。
"願いを力"にする事も、"想いを力"にする事も、ある世界の大賢者や勇者などと呼ばれる存在が扱ったりする力ですので、人でも体現する事自体は可能でしょうが、それでも心の未成熟なあの年齢で使うにはとても危険な行為です。
まして強大な力を二つも同時に使うなど以ての外ですわ。早急に封印するべきかと」
イリスはその力を使ったという自覚はない。力を持っているとも思っていない。
ならば封印しておくのが最も正しい最良の判断と言えるだろう。
その力はあまりにも並みの人間には扱いきれぬほど強大なものだ。
自身の崩壊すら招きかねない力を持つこと自体、とても危険な事だ。
片方の力だけであっても、使い方を誤ればとても悲しい事になるだろう。
イリスには持っているという自覚もないのだから、いつその力が発動するのかもわからない。そんな不安要素を持たせたまま異世界に送る事など、この場にいる誰もが望まない事だ。
あの子には幸せになって貰いたいと一同が思う中、ポワルは大丈夫と口にした。
だが、その言葉を軽々と容認する事は出来ない。
もし何かあれば、かなりの確立で不幸な事に繋がるからだ。
そしてその時、ここにいる神々は誰一人としてそこに居る事が出来ない。
もっと慎重に考えるべき事だと思う一同は、口を噤んでしまう。
不安に包まれた室内に、ポワルの声が皆を安心させるように響いていった。
「大丈夫だよ。イリスちゃんなら、きっと使いこなせるようになるよ。あの子は優しいから」
笑顔で語るポワルに、ジルフォルドグルデが言葉を返していく。
目つきがとても鋭くきつい顔立ちに、声も低くく威圧的な顔で、とても神とは思えないのだが……。
「優しいからこそ、危険なのではないか?」
そうだ。あの子は優しい。
だからこそ、同じような事があれば、再び力を使ってしまうのではないだろうか。
使い方を誤れば自身の崩壊を招く様な、そんな強大な力を持たせたままでいない方が良いのではと思う事は、とても自然な事だろう。
神々の想いとは裏腹にポワルは信じていた。イリスがその力を正しく使ってくれる事を。続けて『正しく使ってくれるし、あの子は闇雲に使ったりもしないから大丈夫だよ』と話していき、ポワルがそこまで言うのならばと、一同は次第に納得していった。
暫く間が空き、赤いショートヘアで目つきが鋭い女神が話しかける。
見た目18歳前後で目つきは悪く見えるが、とても美しく綺麗な声をしていた。
ポワルのいる街から北に位置する街を守護する女神ヴェリルジルディエルだ。
「それで、どうする?」
「どうするも何も、決まっているわ」
今後の話をしていこうとするが、ポワルはそれに即答する。
普段の穏やかな表情は見る影もなく鋭くなり、淡々とした言葉を発しながら今後の方針を皆に伝え、同意を求めていった。
「我等の世界の大切な子。それも"祝福された子"に手をあげ、死亡するに至らしめたその罪は計り知れぬ程重く、万死にすら値しません。よって全戦力を投入しこれを殲滅、敵の"完全消滅"を以って処します。異議のある方は発言をお願いします」
感情を押し殺すも透き通った美しい声、その中に確実に含まれる激しい怒り。
その方針に他の神々は異論などを唱える筈がない。何故なら――。
「異議などある筈がない。我等の子に手を出したのだ」
途轍もなく威圧的な顔でジルフォルドグルデは語る。
いや、この顔は彼にとっては普段と変わらない表情のだが。
「ありがとう、みんな」
「礼を言われる事ではない。
これは我等の総意であり、我々も大切な子に手を出され、憤りを覚えている」
ポワルの言葉に女神レビエグフォレオムが瞳を閉じ腕を組みながら答える。
短い漆黒の髪で、凛として美しく気高い、男神の様な女神だ。
「……まずはイリスと両親を優先でいい」
「そうだね。その間に策を考えておくから、暫くはそっちに集中するといいよ」
幼い少女の姿をしたアシュルベルドテジルが静かに声に出す。
外見は9歳くらいの少女で無口、腰まである紫がかった白いロングヘアに赤い瞳をしている女神だ。
そして続ける眠たそうな表情の少年、ディグレムリムリルムである。見た目15歳前後の眠たそうな少年でとても優秀な策士家だ。彼に任せておけば、どんな状況でも必ず勝てる方法を導き出してくれる事だろう。
「あしゅりん……。でぃぐでぃぐ……」
「……いい加減そのあだ名やめて」
あしゅりん、もとい、アシュルベルドテジルが懇願するように言うが、ポワルには全く聞こえていない。ディグレムリムリルムは苦笑いしか出ないようだった。
「それじゃあポワル待ちって事で一時解散を。
その後、準備が整い次第、敵を殲滅するという事で」
リヒュリジエルの言葉を最後に、それぞれの場所へ転移していく。
ひとり円卓に残ったリヒュリジエルは思う。敵は愚かな事をしたと。
「僕たちの子を穢した罪、"死"では無く"滅"で贖って貰うよ」
そして彼は恐ろしく冷たい瞳と重く低い声で敵に告げていく。
「僕たちを敵に回した事を後悔しながら消滅すると良い――」
* *
地上に戻ったポワルは、噴水前に立ち竦んでいたタウマスとエレクトラに詳しい説明をする。二人はとても悲しそうに、そしてとても辛そうに聞いていた。
その姿にポワルは涙が出そうになるが、ぐっと堪えながら説明を続けていった。
まさか、たったの13年で別れなければならないなんて、誰が思うだろうか。
この世界はとても平和だ。どこぞの世界のように戦争をしてる訳でも、危険な生物が闊歩しているような世界でもない。この世界の死とは"天寿を全うする"という事だ。寿命以外で死ぬ事はない。神々が護っているからだ。
大きな怪我も、命を脅かす病気すらも治し、悲しい想いを出来得るだけ取り除き、その寿命いっぱいまで幸せに暮らしてもらう。
これがこの世界"リヒュジエール"であり、ポワルが想い描いた理想の"楽園"だ。
それがまさかこんな悲しい事になるだなんて誰もが、いや神ですら分らなかった。
「……二人とも。……言葉は、決まったかしら?」
こんな事も言いたくない。それはつまり、伝える言葉を最後に自分自身よりも遥かに大切な子と"お別れ"をさせるという事だから。
「ではポワル様、俺から伝えます」
暫く瞳を閉じていたタウマスは、ゆっくりと瞳を開けながら震える声で語り、私も伝えるための準備をする。
「掌に光が現れたら、言葉を伝えて下さい」
こくんと頷くタウマス。イリスにこちらの不安な気持ちを悟らせてはいけない。
出来るだけゆっくりと、優しい声で。前向きな気持ちで旅立って貰わねばならない。これが最後なのだから。父として言う事が出来る、最後の言葉なのだから。
ポワルの両手が次第に淡い光に包まれていき、タウマスは呼吸を整え、とても優しく、はっきりとした声で話していった。
「――イリス。父さんだ」
最愛の娘が、安心して旅立てるように――。
* *
掌から光が収まっていき、大切な想いを抱きしめるように胸へ持っていったポワルは、とても優しい声で二人に話しかけた。
「二人ともありがとう。お預かりした大切な言葉は、必ずイリスちゃんに届けます」
「こちらこそありがとうございます、ポワル様」
タウマスは頭を深々と頭を下げながら、心からの感謝をポワルに捧げていく。
「イリスちゃんはきっと大丈夫。こんなにも優しく温かい言葉を聞けるのだから。
……だから、どうか泣かないで、エレクトラ」
優しくエレクトラを抱きしめるポワル。
泣くなって言う方が酷だ。そんな事を言われなくても分かってる。
まだ13年。たったの13年しか一緒にいられなかったのだ。
「ポワル、さまぁ……」
泣きじゃくるエレクトラにポワルまで涙が出てしまう。我慢していたが、やっぱりだめだった。
私はこの後イリスちゃんに会う。でも、こんな状態で会う訳にはいかない。
あの子に涙を見せてはいけない。出来るだけ明るく、笑顔で会わなければならない。
ポワルは落ち着きを取り戻したエレクトラをもう一度抱きしめた後、二人と別れ"天上"へと戻っていった。イリスがどの世界に向かったのかを確認するために。
それがまさか選りにも選って、"あの世界"に飛ばされる事になるとは知らずに。
* *
「……なん、ですって……?」
ここは地上から"天上"に戻ってくる時に必ず使う場所。所謂玄関だ。
地上に戻る際はどこからでも行ける様にしているが、戻る時は必ずここに出るように創っている。正直こんな事しなくても何処でも転移出来るようにしても良かったのだが、言うなれば雰囲気作りの為、彼女の感性のままに創ったわけだ。
ポワルはこの仕組みを気に入ってるのだが、何故か仲間には不評だった。
閑話休題。
ポワルは転移した場所で待っていたレテュレジウェリルに報告を受けていた。
イリスが向かうべき、魂が定着する世界の場所を。
そして驚愕して聞えていた筈の言葉を、彼女に聞き直しまっていた。
「イリスさんの向かった世界は、エリエスフィーナの"エリルディール"です」
緑色で美しいグラデーションが煌く、腰の下まで届く長い髪を靡かせながら、彼女は淡々と語る。その青く明るい瞳には、一切の迷いを感じさせない。
あまりの衝撃の事にポワルは取り乱しながら言葉を返していくが、それに反論するかのように、正論を静かにポワルへ話していくレテュレジウェリルだった。
「そんな! あの世界は! "魔物"がいるじゃない!!」
「ですが現状、"エリルディール"が最良だと判断しています。
成功率が七割であればもう二つ候補はありますが、その世界はどちらも戦争中です。
"エリルディール"への転移成功率は九十九パーセント強。戦争もここ数百年なく、魔物を除けば安全な場所です。
大きな街は強固な壁で囲われ、魔物の浸入を許したことがありません。
ここ以上に良い条件は存在しないと判断し、イリスさんの魂を導きました」
額を右手で抑えながら、全力で現状把握に努めるポワル。
だが幾ら考えても同じ答えしか出て来ない。
ポワル自身も分かっている事だ。他に選択肢など無いという事を。
冷静さを取り戻しながら、ポワルはお礼を言った。
「ありがとう、レテュレジウェリル」
「仕事ですので」
淡々と無表情で彼女は語る。そして――。
「私もイリスさんには幸せになって欲しいと思ってますから」
「……うん」
彼女もそうだ。"リヒュジエール"の子達を愛している。
レテュレジウェリルの役割は、異世界から流れて来る魂を浄化し、
相性の良い世界に送り届けるというのが彼女の本来の役目となる。
つまりはこの世界の子を別の世界へ送り出すのは初めてという事だ。
自身が愛した子を別の世界に送り届けなければいけないという事は、
彼女にとって、どれだけの身を切る思いなのかとポワルは考える。
「……そうね、信じましょう。イリスちゃんを。あの子ならきっと大丈夫。幸せに暮らしてくれる」
まるで自分に言い聞かせる様に、とても小さな声でポワルは呟いた。
もうすぐポワルも大切な子とお別れをしなければならない。
別世界に神が顕現をする事は出来ない。そんな事をすれば大変な事態となる。
自分の気持ちだけで身勝手な行動は絶対に出来ない。
これから独りで旅立つ愛しい少女を想い、ポワルは瞳を閉じながら、このままではいけないと自分を戒める。あの子には穏やかな気持ちで旅立って貰わなくてはいけない。悲しんではいけない、不安にさせてはいけない。
出来るだけ楽しく、明るく、前向きな気持ちで送り出してあげたい。
幸いエリーの場所なら、大丈夫だと思う。泣かずに頑張ってお別れ出来る筈だ。
そう心に誓うポワルを、不安そうに見つめているレテュレジウェリルであった。
* *
……なんだろう。すごく、あたたかい。
……まるで、ポワル様に包まれてるみたい。
少女はそのふわふわとした気持ちでいた。
何故こんな気持ちでいるのかも分らなかった。
真っ暗な場所。なのに、不思議と怖くない。
それどころか、居心地の良さを感じている。
少女はふと思い出す。あぁそうか。私、世界を渡るんだっけ。
次第に意識がはっきりしてくると、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
――イリスさん。イリスさん。
とても綺麗で美しい声だった。まるで澄んだ水のような、透き通る女性の声だ。
ポワルとは違うその声の持ち主も、きっと女神なのだとイリスは感じていた。
再び少女の名を呼ぶ声が聞こえてくる。とても優しい、穏やかな声に自分まで心が落ち着いていくようだった。
呼ぶ声に応える様にイリスは重い瞼を開いていった。
瞳を少しだけ開けると光が射し込んで来て、思わず目に力を入れてしまう。
その光はとても眩しく、イリスは目が眩むような感覚に包まれていた。
徐々に光に慣れてきた少女は、次第に視界に誰かの姿が映って見えてきた。
どうやら目の前にいるこの方がイリスを呼んでいたようだ。
朧げだった視界も段々と良く見えてきた。
その女性は、美しく手入れをされた薄水色の髪を腰まで真っ直ぐと伸ばし、その瞳はまるで美しい海を溶かした宝石のような輝きを放ち、目鼻立ちがはっきりとした整った綺麗な顔で、その佇まいを見ただけで理解出来るほどの上品さと、慎ましやかな端麗さを持っているとても美しい方だった。
あまりの素敵な女性の姿に魅了されてしまったイリスは、言葉を発する事ができずにただただそのお方に見蕩れ続けていた。
そんな様子を見ていた女性は、イリスに向かって話を始めていく。
「はじめまして、イリスさん。私はエリエスフィーナ。
この世界、"エリルディール"を創りし者です」
見蕩れながら呆けてしまっていたイリスは、はっと気が付いたように頭を下げながら自己紹介を返していく。
「はじめまして、エリエスフィーナ様。私はイリスと申します」
「ふふ。短くエリーで結構ですよ、イリスさん。長いですからね」
とても優しく目を細めて笑うエリーに、イリスはまた見蕩れてしまう。
本当に綺麗な、いや、とても美しい方だった。
「ここが"エリルディール"なんでしょうか?」
イリスはその世界を見渡してみると、そこは不思議な空間のように感じられた。
全体的にとても淡い水色の空間で、空があるように思えるほど天井が高く、とても壮大な世界のようにイリスは思えた。
美しく透き通るような空気を含んだ、居心地の良い場所だった。
そんな事を思っていた時、
イリスはやっと自分が置かれている状況をはっきりと思い出した。
何者かに襲われ、神様方に救って戴いたんだったと。
イリスは自身に何が起きたのかを理解出来ていない。
ただ、何かに襲われ、世界を渡る事になった、という程度の認識しかしていないようだった。
それはとても悲しい事で、それはとても不安を感じる事だった。
世界を渡るという意味も、正直なところイリスには良く分らない。
ただ、大好きな両親や大切なポワル様ともう会えなくなる、という事実だけは理解できた。
とても悲しくて辛い。寂しいし不安だし、怖い。でも、頑張らないといけない。
もう大切なひとたちにも頼らないで生きていかないといけないのだから。
そんな事を思っていたイリスを察したエリーは、微笑みながら大丈夫ですよと言ってくれた。不思議とその言葉はイリスの胸にすとんと落ちたように感じられた。
時間を挿み、頃合を見計らって、エリーがイリスへと説明を始めていく。
「さて。それでは説明をさせて――」
エリーがそう言いかけた時、その世界の上空の方から、何か小さな音が響いたようにイリスには聞こえた。
まるで薄いガラスが割れたようなパリンという音に、首を傾げながらもその方向を見る少女の瞳に、どこか見慣れた女性の姿が映っていく。
「とあーっ」
とても間の抜けた、聞いただけで脱力しそうな声を放つその女性は、
上空でくるくると何度も回転しながら綺麗に着地をした。
謎の音を声で付け加えながら……。
「しゅたっ」
その見事に降り立つ姿はとても美しく、凛と立ち上がる彼女の横顔は自信に満ちた表情をしていた。自信に満ちたというよりもこれは所謂、したり顔と呼ばれるものではないだろうかと、少女は声に出さず心で思っているようだった。
「うふふ、この程度の結界を破る事なぞ、私にとっては造作もない事なのです」
その聞き慣れない一人称に思うところはあるものの、少女はその降り立った女性に表情を明るくし、大切なひとの名を呼んだ。
「ポワル様っ」
「イリスちゃんっ」
イリスを見るとポワルはすぐさま駆け寄り、ぎゅっと強く抱きしめた。
少女もとても嬉しかったようで、抱かれると彼女に甘えるように瞳を閉じ、
その暖かな温もりを愛おしく感じていた。
その二人の姿はとても微笑ましいのだが、
エリーは表情を曇らせながら何故あれ程の結界を突破出来たのかを考えていた。
正直なところ、エリーには力を抑えるのが苦手だ。ポワルの様に細やかな力配分は出来ない。それ故に彼女がいる"管理世界"を外部の存在から護る為に覆ってある結界も、かなりの強固な物で創ってあった。
その筈だったのだが、それを軽々と壊されるとは思っていなかったエリーは、少々ポワルに苛立ちを覚えてしまう。
「ポワル、貴女……」
「やぁやぁエリーちゃん、おひさ!」
少女を抱きしめたまま、頭だけエリーに向けて挨拶をするポワル。
そんなエリーは、呆れた表情でそんな彼女を見つめているようだ。
イリスは次々と大切なひとから飛び出てくる聞き慣れない言葉に驚いていたが、あまり気にしない方がいいような気がしたので、あえてここは聞かない事にした。
エリーはそんなポワルの自由奔放な姿に、思わず顳顬を押さえながら瞳を閉じていく。せっかくの美しい顔に皺が寄ってしまい、おろおろとするイリス。
そんなイリスをよそに、エリーはポワルへと質問していく。その声はイリスに優しく語り掛けるものとは違い、少々冷たく聞こえる様なものだった。
「何しに来たの、ポワル」
「やだー、決まってるじゃない。愛しいイリスちゃんに会いに来たんだよ?」
瞳を閉じたままポワルに尋ねたエリーの眉がぴくっと動き、イリスには何故か辺りが少々肌寒く感じる様な気がした。何だろうかと考えている少女を抱えたままのポワルに、続けてエリーは質問をしていく。
「私はこれからイリスさんを"エリルディール"に導かねばならないのですが?」
「うん。知ってるよ。どうしたの、エリーちゃん。そんな当たり前の事言って」
急激に温度が下がった様な寒さを感じたイリスは、少しだけ身体を震わせてしまい、それに気が付いたエリーは瞳を閉じて心を落ち着かせていく。
次第に暖かさを取り戻していく空間に、先程とは違うエリーの優しくて美しい声が辺りに心地よく響いていった。
これから大切な話をするので、ポワルも流石にイリスから離れていく。
「イリスさん。貴女はこれから私の世界、"エリルディール"に向かう事になります。私の世界の常識や、言語、流通通貨の価値や年齢相応の知識等は、ここから世界に向かう間にお渡しする事になります。
とは言っても、イリスさんが何かをする必要はありません。ここから"エリルディール"に旅立ち、世界に降り立った時には習得していますので」
まるで至れり尽くせりをして頂いている様に感じるイリスは、驚きのあまり目を見開いてしまった。そんな様子にエリーは微笑ましく思うが、これはあくまで異世界に降り立つ為に必須なものとなるものだ。決して喜ばれるものではない。
ポワルの世界から来たという事は、平和な世界の出身者となる。それはつまり、エリーの世界でイリスが暮らすには、こんな程度のものでは生きて行けないだろうと彼女は思っている。
その点も含めて、エリーは説明をしていった。
「イリスさん。私の世界、"エリルディール"は、貴女がいた世界、"リヒュジエール"とは大きく異なる点が多々あります。いえ、全く違うとも言える世界です。
この世界には、貴女の世界に存在しなかったもの、そして貴女自身を脅かしかねないものが存在しています。俗に"魔物"と呼ばれる存在です」
魔物。その言葉はイリスには全く馴染みのない、いや、聞いた事すらない言葉だった。ポワルからも教えて貰った事が無いその存在にきょとんとするイリスは、どう反応して良いのか分らずにいるようだ。
その様子も想定していたエリーは話を続け、イリスに魔物とはどういった存在かを丁寧に教えていく。
「はい、"魔物"です。魔物とは、言葉が通じず一方的に襲ってくる存在、と言えば良いでしょうか」
その言葉に青ざめ、頭が真っ白になってしまうイリス。
そんな危険な存在がいる世界に行く事に、物凄く不安になってしまう。
恐怖に慄く様な震えたとても小さな声で、エリーに聞き返してしまった。
「……襲って、来るんですか?」
まるでそれは、冗談ですよねと聞いている様に周りには聞こえてしまい、二柱の女神は胸が痛んでしまう。
だが、これはとても大切な事である以上、しっかりと説明を続けねばならないエリーは、尚もイリスへ明らめていった。
「そうです。それはとても危険な存在で、"エリルディール"の住人たちも魔物に倒されてしまう事もあります」
「倒されるって……。それって、つまり……」
言葉を詰まらせるイリスは、心の何処かでそれを理解していたのかもしれない。
だがその言葉を口にする事はとても出来ずに、エリーへとその答えを求めてしまっていた。それはとても恐ろしい言葉で、そして考えたくも無い事だった。
その様子も手に取るように理解する二柱は更に胸が痛くなるも、それを伝える義務があるエリーは、イリスへその事をはっきりと隠さずに伝えていく。
「はい。それは、"命を奪われる"、という事です」
その言葉に真っ青になるイリスは、あまりの恐怖に震えてしまっていた。
そんな様子を感じたポワルはイリスを優しく抱きしめ、
少女の耳元で静かに大丈夫だよと囁きながら頭を撫でていく。
温かく、優しく、穏やかな美しい大好きなひとの声に、イリスは次第に落ち着きを取り戻していった。
少女が落ち着きを取り戻した頃合を見計らい、エリーが話を続けた。
「さて。このまま何も守る術の無い貴女を、"エリルディール"へ送る訳にはいきません。そこで私からイリスさんへ、何か特別な能力を差し上げようと思います」
特別な能力ですか、と聞き返してしまうイリスには少々理解出来ない様子だった。そんな目を丸くする少女に、ポワルが悪戯な目と声で口を挟んでいく。
「むふふー。チートだよ、チート! イリスちゃんが"エリルディール"でも生きていけるように、すんごいのをあげるよ! まぁ、あげるのはエリーちゃんなんだけどね」
チートなる聞き慣れない言葉に呆けてしまうイリスは、今のポワルの言葉を頑張って頑張っている様だった。エリーはそんなポワルの言葉を否定はしないものの、瞳を閉じながら軽く溜息をついてしまう。
どうやら少々考えている様子のエリーに変わり、ポワルがその説明をとても楽しそうにしていった。
「チートって言うのはね、とっても凄い力の事なのです!」
腰に手を当てながら胸を張って答えるポワルにどこか可愛さを感じるイリスは、
そんな凄い力を貰えるんだと、今一理解し切れていない様子で聞いていた。
その言葉にもしやと思ったエリーであったが、念の為に確認の意味を込めて言葉を返していく。
「まぁ、あまり世界に影響を与える様な物はあげられないのだけれどね」
「だいじょーぶだいじょーぶ。エリーちゃんなら調整くらいらくしょーだよ!」
物凄く軽く即答されてしまい、悪い予感が的中してしまったようだ。
あまりにも他人任せな言い方にかなりの苛立ちを覚えるも、何とか気持ちを落ち着かせ、エリーは冷静に言葉を返していった。
「調整って、世界を改変するような強大な力を渡させた挙句、私に全てを丸投げして、まさか貴女は一人でお茶してるつもりじゃないでしょうね」
その表情は呆れた顔でいっぱいであったが、ポワルは更なる追撃をした。
「いぇーす、ざっつらいっ!」
瞬間、世界にひびが入った様な音が聞こえてきた。
その言葉はイリスには聞き覚えの無い言葉であったが、
どうやらエリーには伝わったようだ。悪い意味で。
指をエリーに向かって指しながら、ポワルはまたしたり顔でエリーを見ていた。
そんな彼女はとても素敵な笑顔でポワルへ言葉を返していくも、イリスにはその満面の笑みに怖さを感じていた。イリスですら理解出来る。これは怒っている顔だと。
言いくるめる様に語るエリーは、怒らない様に我慢しながら話していく。
「ここは、私の、世界なの。調整をしない、部外者は、黙ってなさい」
「平気でしょ? エリーちゃん、完璧超神えりりんだもん」
美しい笑顔で語るエリーに、更なる追撃を繰り出すポワル。
どうやらそれは沸点を突破するには十分な威力を含んでいたらしい。
ビシッと凄い音が世界に響くと同時に、エリーの額に青筋が立ってしまった。
その表情は変わらずの満面の笑みのまま青筋が立つという、却って凄まじい表情にイリスには見えた。
どうやらポワルにも今更ながらそれに気が付いたらしく、青ざめながらその場から逃げ出した。
ぬぅっと彼女にエリーの手が伸びた様に近寄り、ポワルが後姿を見せる間もなく、エリーに頭を掴まれてしまった。ポワルは何とかそれを振り解き、逃げようとするも叶わず、そのままエリーに力を込められてしまう。
「"異世界の秘技"その十五。鋼鉄の鉤爪」
「ぎゃあああ~~」
その悲鳴に驚くも、流石に女性がその言葉を使うのはあまり良くないですよと、割と冷静に事の成り行きを見守っていたイリスであった。
じたばたと足をばたつかせながら、頭を掴んでいる手を何とか振り解こうとするポワル。どうやらとてもがっちりと掴んでいるらしく、ポワルが両手を使っても離れる事が出来ないようだ。その姿に、エリーの力が凄まじいのだろうかと、また冷静に考えているイリスだった。
そんな中、ポワルがエリーへ強い口調で言葉を発していった。
「あー! ミシっていった! 今、ミシっていった!!
いけないんだー! こんな音出しちゃいけないんだー!!」
物凄い他人事っぷりに驚きと呆れが半々のイリス。
尚もエリーはポワルの頭を掴み続け、ぎりぎりと手が震えるエリーの瞳の奥は、まるで光って見えるような気がした。
暫く攻防は続き、置いてけぼりの少女は地面に座ってその光景を眺めていった。
十分程続いた後、ポワルは解放されたが、うつ伏せでぐったりとして静かになってしまった。どうやら頭から煙出てるようで、エリーの力の凄さを目の当たりにするようだった。
「イリスさんにお渡しする能力ですが――」
エリーは今の出来事を完全に無かったようにしたいらしい。
近くでひっくり返るポワルを一度も見ることなく、話を続けていった。
「イリスさんは、どんな能力がご希望ですか?」
立ち上がった少女はどんな能力と言われても全く想像もつかなく困ってしまう。
何せこれから必要となる力も、あると良いような力もまるで見当が付かない。
うんうんと考え続けるイリスに、エリーは言葉を補足していった。
「例えばですね、こんな力あったら便利だな、といったものでいいのですよ」
その言葉に考えるイリス。あったら便利な力、便利な。はて、何だろうかと再び考え込んでしまうイリス。
そんな中、ふと何かを思い付いた様な仕草をして、エリーがそれに応えていく。
「何か思い浮かびましたか?」
そのエリーの言葉にイリスは答えて行く。
「洗濯物の頑固な汚れが落ちるのとか欲しいです」
本人の瞳は輝きに満ちているようで、どうやら本気で言っているらしい。
流石にそれを容認出来ないエリーは、何と言っていいのやらという複雑な表情でイリスに説明していく。
「えっと、ですね、イリスさん……。この世界は魔物が蔓延るとても危険な世界でしてね、所謂"倒す力"が無いと"倒されて"しまうんですよ?」
聞き慣れない魔物という存在を忘れていたイリスは思い留まる。
凄く便利な能力なのにと思う一方で、流石にそれを貰ってしまうと危ないのかもしれないと感じた。
だからといって、どういった能力が必要になるのかも見当が付かないイリスは、
一体どういう能力があればいいのだろうかと再び考えてしまう。
悩める少女にエリーは、優しく助け舟を出していく。
「例えば、そうですね。"身体能力上昇"等は如何でしょうか?」
「身体能力上昇、ですか?」
「はい。この能力は――」
「世界最強になれる能力がいいよ!」
エリーの説明を途中でぶった切ったポワルは提案をしていく。
それが助け舟ではなく、泥舟になるとは知らずに。
思わずイリスも耳を疑ってしまった。
完全に目が点となってしまう少女はポワルを見つめ続けるも、
当の本人は話を物凄く楽しそうに続けていった。
「世界最強になれる能力! 剣も魔法も身体も、なーんでも最強!
イリスちゃんの魅力とパンチに、みんなイチコロだよ!
魔法も最強! 一発どかーん! お城とか飛んじゃうくらいの!
剣も最強! 一振りで山とかスパスパ切れちゃう!」
イリスは思っていた。おかしいな、ポワル様って女神様じゃなかったっけ、と。
先ほどから美しい口から発せられる恐ろしい言葉にイリスは戸惑いつつも、未だ楽しそうに話を続けているポワルに、おずおずと手を挙げながら質問してしまった。
「あの、ポワル様、ご質問が……」
「はい! そこの可愛いイリスちゃん、どうぞ!」
凄い勢いで掌をこちらに向けて聞き返すポワル。物凄くノリノリである。
「山をスパスパって、その近くにいる人や動物達はどうなっちゃうのかって、思うん、ですけど……」
徐々に小さくなる声になってしまうイリスの質問に、ぴたっと止まったポワルは考え込む。今自分が何を言ったのかを。
「んん~? うーん。えーっと。……やばいかも?」
半目になるポワル。どうやら気が付いてくれたらしいと思うイリス。
「貴女は――」
近くでとても小さな声が聞こえた様に感じたイリス。
ポワルにもその声が聞こえたらしく、声のする方へ向き直ったようだ。
声の主はとても素敵な笑顔でぷるぷると震えていて、その姿がイリスにはとても可愛らしく見えたが、どうやらポワルにはエリーの逆鱗に触れてしまった様に感じ、笑顔で真っ青な表情をしていた。
青ざめたポワルが逃げようと身体を動かす前に、物凄い速度で近寄ったエリーは
彼女の片腕を掴み、そのままポワルに背を預けるように背中を向け、
腕を引き寄せながら素早くポワルの体を回転させ、地面に叩き付けた。
ズドォォン!
世界の果てまで届くような物凄い音が、凄まじい振動と共に辺りに鳴り響いていった。その凄い音にイリスは驚くよりも、その流れるような美しいエリーの動きに見蕩れていた様だ。素直に格好良いと思え、目を輝かせてしまっていた。
そんな瞳を向けられていると気が付いたエリーは、こほんと咳払いをして、
後ろでみぎゃみぎゃ言いながら転げ回るポワルを、白い目をしながら一瞥して話を戻していった。
「あの女神の言った"世界最強の力"を与える事は出来ません」
そうですよねと普通に納得してしまうイリスだったが、さっきまで転がっていたポワルは勢い良くがばっと起き上がり、強めの勢いでエリーに反論していく。
「なんでー!? それがあればイリスちゃんも安全だし、世界も平和になるんだよ!?」
寧ろそれは危険ではないだろうかと思うイリスは喋らずに黙っていた。
何となく今のポワルには通じない気がしてしまったからだ。
そんなポワルにエリーが真面目に尤もらしい説明をしていった。
「……何がどう平和になるんだかはこの際置いておくとして、
そんな力を持っていたら、悪目立ちしすぎて大変なことになるわよ。
最悪、貴族や王族から狙われかねないわ。
あなたはイリスさんを態々危険に晒したいの?」
最後の一言が止めとなり、ポワルは再びうつ伏せに倒れてしまう。
怪しげな『ぐふっ』という言葉と共に……。
エリーもポワルの気持ちが分らない訳ではない。この子は何よりも、自身よりもずっと大切な子だ。最近はこの管理世界へ来なくなったが、彼女が生まれてから2年位は毎日のようにここへ訪れ、その度にイリスの成長日記を見せられながら、ひたすら朝まで喋り続けていた。
その嬉しそうな顔といったら、形容し難いものがあった程だ。
"祝福された子"とは、余程大切な存在になるのだろう。
だからこそ離れ離れに成らざるを得ない状況にしてしまった自分が赦せなく、憤りを強引に心の奥底へ押し込め、同時にどうしようもない悲しみで溢れてしまう。
分りきった事を説明させたり、知っている事を知らない振りをしたり。
彼女の不安を少しでも取り除き、楽しい気持ちで旅立たせてあげようとする姿を見ているだけで、エリーには痛々しく思えてしまう。
エリーとポワルはとても仲が良い神だ。親友と言って良いほどに。
ポワルに親友という言葉を言われると何故かイラッとするのだが、
それでもエリーにとっては、とても大切な友人である事に変わりは無い。
そんな普段のポワルを知っているからこそ思う。無理をし過ぎている、と。
だがそれを口にする事は出来ない。この少女の前でそれを口にしてしまう事は、
普段から感情を押し込める事が苦手な彼女に対する侮辱と裏切りになるだろう。
私は私の出来る事をするだけねとエリーは思いつつ、これから旅立つ少女への贈り物を話していく。
「イリスさんはどんな能力がいいですか? お勧めは"身体能力上昇"です。
この能力は言葉通り身体機能を上昇させる効果があります。当然、凄まじい能力はありませんが、あると色々便利だと思います。
例えば、ちょっと走った程度では疲れなくなったり、普段よりちょっと重い荷物を持てるようになったり、ある程度の身体的な丈夫さは手に入れる事が出来ますよ。
他は何が良いですかね。……武術能力上昇とかも良いかもしれませんね。旅をしてると出会うであろう魔物に対処するには、ある程度武器を扱う能力が必要になります。
この能力は先ほどの身体能力上昇の、武器や防具の扱いが高くなる能力と思って頂いて構いません」
さりげなく勧めるこの能力は特別製だ。これさえあれば、生きるのに必要な力を全て含めてある。
これを選んでくれるのなら、通常の魔物の扱いをされていない、特殊な強さの魔物でも戦える術を身に付ける事が出来る。
そして、鍛えれば鍛えるだけ強くなれるようにエリーは調整をするつもりだ。あくまで"エリルディール"に生きている人の中でも辿り着ける領域までという制限はあるが、必要以上の強さは却って敵を作りかねない。この辺りが丁度良いだろう。
これは本人の意思次第で強さを手に入れられる能力で、最初から強い訳でもない。流石に行き成り最強の力などを与える事は出来ないが、これなら悪目立ちはしないはず。
丁度良い強さというだけではなく、本人が強く望むのならば、望んだ分だけその強さに辿り着く事が出来る。これならばポワルも安心して送り出せるだろう。
少女は考えていた。何が自分に必要なのかを。
その瞳を見たエリーは不安を感じてしまう。
確証は持てないものの、胸騒ぎがする。
そう思わせる瞳の色をイリスはしていた。
暫し考えていたイリスは、エリーへと質問をした。
「こういった能力は、"エリルディール"にいる人たちも、持っているものなのでしょうか?」
びたっと固まってしまうエリー。
イリスはポワルから賢い賢いとしつこく聞いていたが、どうやらその程度では収まらない聡明さを持っているようだ。
そしてこの子は、心の何処かでそれに気が付いているのだろう。
こんな能力を世界にいる人々は、誰一人として持っていないのだという事実に。
言葉に詰まらせるながらも答えるが、雲行きが怪しくなってきてしまう。
「いいえ、この世界にいる殆どの人は、能力を持っていません」
咄嗟に嘘をついてしまうエリー。なるべく当たり障りの無いように話したつもりではあったのだが、イリスにはそれが通じないようで、どんどん悪い方向へと進んでいってしまう。
「えっと、ということは、つまり……。ずるいことなんじゃ――」
イリスがそう言いかけた瞬間、今まで静かに聴いていたポワルが強い口調でイリスに反論していった。
その瞳と表情はとても必死な、今にも泣きそうな顔をしていた。
「ずるくないよ! イリスちゃんは何にも知らない場所に放り出されるんだよ!?
知識はあっても今までの常識は通用しなくなっちゃうんだよ!?
魔物がいない世界の住人が、行き成りそんな所に落っことされたら、
不安になって怖くなるのが当たり前なんだよ!?
……魔物に追っかけられて逃げるイリスちゃんなんて、見たくないよ……」
次第に勢いが無くなっていくポワル。
その表情はとても寂しそうな顔をしていた。
それはイリスを心から心配している気持ちがはっきりと伝わり、とても嬉しくも思うも悲しい想いをさせてしまっている事に、申し訳なさを感じてしまうイリスだった。
ポワルは心を落ち着かせて言葉を続けていく。
その声はとても悲しそうな声だった。
「お願いだから、そんな風に考えないで?
……ね? 何か能力を持っていないと、本当に危ないから」
「……ポワル様」
今にも泣きそうなポワルの顔に、イリスはズキンと胸が痛くなる。
そんな悲しい顔で懇願されるように言われては、流石に心が揺らぐイリスであったが、どうしても伝えるべき言葉が出来てしまっていた。
イリスはゆっくりと、丁寧に言葉を話し始めていく。
はっきりとした口調で。でも、しっかりと理解して貰えるように。
「ごめんなさい、ポワル様。それでも私は受け取れません。
何か能力を貰ってしまったら、私はきっと後悔するような気がするんです。
"持っていない人たち"がいる世界で、"持っている私"がいると、
私自身が許せなくなるような、そんな気がするんです。
その世界に立つのなら、同じ条件で立ちたいから」
この選択に後悔はしない。自分で考え、選んだことなのだから。
そしてこれはきっと、やってはいけないことなんだ。
そう思いながら、イリスは言葉を丁寧に紡いでいく。
「"努力した"人達が必死で手に入れたものを、
"努力なし"で軽々しく手に入れて良いものではないと思うから」
――だから、とイリスは言葉を続ける。
自分の口から言わなければならない。
これは私の覚悟にもなるのだから。
そしてイリスは、はっきりとした声で、二柱の女神に宣言していく。
「能力はいりません」
しんとした管理世界に響く少女の声と、その名を小さく呼ぶポワルの声。
少女の瞳は今まで過ごしてきた平和な世界の出身者では、
とても出来ない様な美しい決意の色をしていた。
その輝きにポワルは一瞬どきっとするも、しっかりと少女の言葉を聞いていく。
表情はやはり、とても寂しそうな顔をしているようだ。
エリーは少女の、まるで光り輝くようなその美しい瞳を真っ直ぐ見つめていた。
その瞳の奥には揺らがぬ決意の色に見え、彼女の意思はとても固く心を決めてしまっているのが、手に取るように理解出来た。
静かに瞳を閉じ、考えるエリー。
(本当に後悔しない? ……いえ、貴女はきっとしないわね。後悔するのは、きっと私。それなら――)
ゆっくりと静かに口を開いていく。
なるべく優しく、穏やかな声で。
でも、覚悟を確認出来る強さで。
そして少女を怖がらせない様に。
「イリスさん」
「はい」
瞳を開け、エリーは告げる。この世界の"真実"を。
「この世界はイリスさんが思っている以上に、辛く、厳しく、残酷で、無慈悲です。……それでも」
彼女の瞳は、真っ直ぐエリーを見つめていた。その瞳の色になんと美しい色なのだろうかと思うエリー。
それでもエリーは聞かなくてはならない。イリスの意思を。そして覚悟を。
「それでも、能力はいりませんか?」
イリスは瞳を閉じ考える。もし覆したとしても、誰もそれを責められない。
この世界、エリルディールは理不尽だ。努力で為し得たものですら、軽々と踏み躙るほどに。魔物に倒される大人など珍しくない。寧ろ武芸に秀でた者でなければ、退く事が出来ない程の強さだ。
それだけではない。魔物がいる程度では、エリーはここまでの心配はしない。
理由はもっと別にある。だがこの子にはそれを伝えていない。
いや、今のイリスには伝える事が出来ない事実が魔物にはあった。
もしそれを知ればイリスは、心が折れてしまうかもしれない。
ポワルもそれを知っている。だからこそ、"エリルディール"に向かうと知った時、取り乱すように驚いてしまったのだ。
ここで魔物について教えてしまうと、将来の可能性をいくつか消してしまう事になってしまう。エリーは魔物についてイリスに詳しく教えるべきだろうかとポワルを一瞥すると、それを察したように彼女は首を横に少しだけ振る。
そしてその瞳が語っている。イリスなら大丈夫だと。それを信じていると。
信頼している彼女の瞳にも戸惑うエリーは、それでも思わずにはいられない。
能力を貰ってくれた方が安心する、と。それほどまでに厳しい世界なのだから。
ゆっくりと開かれる彼女の瞳には、決して揺らがぬ決意が見て取れた。
エリーは思う。ああ、決意も覚悟も足りないのは私の方なのね、と。
そして少女は答えていく。
「はい。能力はいりません」
その言葉にもう誰も口を挟む事は出来なかった。
「そうですか。わかりました」
瞳を閉じながら、静かに答えるエリー。
そのまま事間を続けていった。
「ではイリスさん。これから貴女を、"エリルディール"へ送ります。
辛く、厳しい事が貴女を待ってるやもしれません。ですが――」
瞳をゆっくりと開き、とても穏やかで優しい表情で伝えていく。
「貴女ならきっと大丈夫。どんな困難に突き当たっても、貴女なら乗り越えられると信じています」
「ありがとうございます」
目を細めて答えるイリスに釣られ、微笑んでしまった。
「イリスちゃん」
「ポワル様」
もうじき別れなければならないと感じてしまい、急に寂しくなってしまう。
そんなイリスへポワルはとても美しい笑顔で微笑みながら話していった。
「タウマスとエレクトラから、言葉を貰って来てるよ」
「え? お父さんとお母さんから?」
言葉とはどういう意味だろうか。お手紙だろうかとイリスは思っていたが、どうやら言葉通りのものらしい。
「ちゃんとした"言葉"を預かっているよ。聞いてあげてね」
「はい」
イリスにその意味は理解出来ないが、暫くするとポワルの胸の前に出した両手がやんわりと優しい光に包まれて、
次第に優しく、大好きな父の声が響いてきた。
『――イリス。父さんだ』
* *
次第に光は収まっていき、大切な"言葉"を受け取ったイリスは、涙が止め処なく流れていた。今まで気が付かなかった。気づく事すら出来なかった、その大切な想いに。
イリスはこんな事になって初めて、自分がこんなにも愛されていたという事を知った。止まらない涙を流しながら瞳を閉じた少女は、胸に両手を当てながら呟くように言葉を紡いでいく。
「ごめんなさい、おとうさん、おかあさん。気づいてあげられなくて。……だいすきです」
ポワルは少女を優しく抱きしめ、撫でていく。
涙を流すイリスの気持ちを落ち着かせるように。
そして彼女自身も、その温もりを忘れない為にポワルを感じていた。
もうじきポワルもお別れをしなければならない。この大切な愛しい子と。
寂しくて、辛くて、でもどうしようもなくて。他に術などなくて……。
離れたくなんて無い。でも、離れなければならない。
ポワルは愛しい子を抱きしめながら、ほんの少しだけ瞳を開けて想う。
自分よりもずっと寂しくて、辛くて、不安な子がここにいる。
そんな子を前にして自分が寂しいだなんて思ってはいけない。今は。
笑顔で送り出さなければいけない。全てはこの子の為に。
とても静かな時間が流れる世界で、抱きしめ合う二人。
だが時は残酷に二人をまるで引き離させるように、無常に過ぎていく。
もうあまり時間が無い。この場所は人にとっては環境がかなり良くない。
このまま管理世界に長時間いれば、肉体も魂も崩壊してしまうだろう。
もう本当にお別れをする準備をしなければいけない。
だが彼女は知ってしまう。イリスの心の叫びを。心からの願いを。
それはとても純粋な想いで、とても美しいものだった。
彼女はただ、ポワルと一緒に居たいと想ってくれていた。
心が引き裂かれる様な痛みを味わってしまう。
本来であるならば女神である自分がどうにかしなければいけないのに、
自分ではどうにも出来ず、他の世界の友人に任せなければならない。
こんな辛い思いを子供のイリスに味合わせる事になるだなんて。
本当にごめんなさい。何も出来ない私を、どうか許して下さい。
ポワルがそう思っていた時、イリスの魂の輝きに変化が見られた。
それは今まであった不安や、寂しさが消えており、
何かを考える事で必死になっているような、集中している輝きに見えた。
急激な変化に戸惑っていると、イリスが何かを思いついたように抱きついていたポワルの胸から勢い良く顔を上げた。
その表情は今まで見た事が無い、とても真剣な顔をしており、名前を呼ばれただけでどきっとしてしまうポワル。
そんな驚きの表情を浮かべた彼女に、イリスは言葉を発していった。
「ポワル様。私、この世界の法則を越えてみせます」
「……え?」
ポワルはイリスの言った意味がまるで理解できず、固まってしまっていた。
横で見守るエリーは目を見開いて驚いている。
こんな表情をする彼女もポワルは見た事が無かった。
イリスの言葉自体を理解できなかった訳ではない。
その本質をポワルは理解出来なかった。
世界の法則を越える。
それがどういう意味を持つのか、少女は理解していない。
明らかな動揺を見せるポワルに、イリスは話を続けていった。
「どうすればいいかも、何をしたらいいかも、今の私には全く分りません。
……でも、このまま離れ離れなんて絶対に嫌だから!」
その言葉にポワルは涙が溢れそうになるも、こんなに小さな子が頑張っているのに自分だけ泣く訳にはいかないと、涙を堪えながらイリスを強く抱きしめる。泣く事は我慢出来たが、言ってはいけない言葉が溢れてしまった。
「わたしも……。わたしも、やだよ……。ずっと一緒に居たいよ……」
想いが溢れてしまう。本当はダメなのに。
この子にはそんな後ろ向きな気持ちを見せてはいけないのに。
でもどうしようもなく、押さえつけていた想いが溢れてしまう。
抱きしめ合い、お互いが落ち着きを取り戻した頃、イリスはしっかりとした口調でポワルに話していった。
「ポワル様。私はこの世界の法則を越えて、必ずあなたの元に行きます! 約束します!」
その言葉に頼もしく思えるも、ポワルはとても複雑な表情をしてしまう。
そしてとても困ったようにイリスへと言葉を返していった。
「イリスちゃん。神様と約束して破っちゃうと大変なんだよ?」
「大丈夫です。必ず会いに行きますから!」
即答されてしまったポワルは思う。
あぁ、なんて嬉しい言葉をかけてくれるのだろうか、この子は。
私は貴女に何もしてあげられていないダメな女神なのに……。
それでも貴女は、そんな私に優しい言葉をかけてくれるのね。
もし、ほんの少しだけ、我侭を言ってもいいのなら……。
「……いいの?」
「はい!」
「ほんとに、待っちゃうよ?」
「大丈夫です! 信じて待っていて下さい!」
「……うん。信じて待ってる」
なんて優しくて美しい子なのだろうか。
未だかつてこれほどの輝きに満ちていた子をポワルは知らなかった。
その瞳に映る輝きは、本当にこの世界の法則を越えてしまうかもしれないと信じさせてくれる程の美しい色をしていた。
もしそんな事が出来るのなら、それはとんでもない事なのだが、幼い少女はそれを理解している様子は微塵も無い。
それでも、本当に何とかしてしまうかもしれないと期待させてくれる程の、美しい輝きに満ちた瞳をしている。
ポワルはもう迷う事はなかった。ずっとイリスを待ち続けると心に決める。
そこには光に満ちた輝きと、優しさに溢れた世界があるのだから。
* *
「ここを潜れば、"エリルディール"に辿り着けるんですか?」
少女の目の前には、扉が開いた大きな門が見えている。ふわぁっと見上げてしまう位とても大きな門だ。
それは硝子の結晶の様な物で出来たとても透明度の高い淡い水色で、まるでエリーの様に美しく綺麗な門だった。
少女の肩には明るい茶色の大きなショルダーバッグ。中には薬や保存食、着替え数点と、多少のお金が入っている。どれも先ほどエリーに戴いたアイテムだ。
そして腰に短剣を携え、準備が整った少女が言葉にしていた。
「はい。このまま門を潜り、光が広がった先が"エリルディール"になります」
「わかりました」
「"エリルディール"に着いたらまずは、目の前に見える街に行くといいでしょう」
世界の常識などの知識については、"エリルディール"に着いた頃には既に記憶出来ていますので、安心して下さいと言われ、イリスは再びお礼を言う。
「はい! エリエスフィーナ様、色々ありがとうございました」
「うふふ、エリーでいいですよ」
元気にお辞儀をしながらお礼を言うイリスは、横に居る大切なひとに向き直り、とても明るい笑顔で言葉にしていく。
「ポワル様、私しばらくの間、離れますね」
「……うん。気をつけてね?」
「はい!」
少女は門へ向きながら、ふぅっと一呼吸していく。
そんな彼女へポワルは話しかけていく。
「……イリスちゃん」
「はい?」
大切なひとへと向き直り、
首を傾げるイリスに一拍置いてポワルは口にした。
最後となる言葉を、今出来る最高の表情で。
大切な子が大好きと言ってくれる最高の笑顔で。
「いってらっしゃい」
「はい! いってきます!」
満面の笑みで門を潜る少女と、それを最高の笑顔で送り出す女神。
少女は次第に光に包まれ、やがて輪郭が見えなくなっていった。
とたんに静けさが当たり一面を包み込んでいく。
恐ろしいほどの静けさに耳が痛くなるポワルは、いなくなった少女の場所を見続けていた。いつまでも、いつまでも……。
「……行ってしまったわね」
「……うん」
静けさに満ちた管理世界に響く、二柱の女神の声。
エリーは思う。なんと美しく、優しい少女なのだろうか。まだたったの十三歳なのに。この先この様な子に、もう出会う事が無いのではないだろうかと思えるほどの光に満ちた子だった。
あれ程の輝きに満ちた子を、エリーもまた知らなかった。
「エリーちゃんのお蔭だよ! あんなに素敵な子に育った所を見られて、妾は満足じゃー!」
悪戯っぽく言うポワルにエリーは話していく。
「ポワル」
「お! なぁに! やる気!? 言っとくけど、異世界秘技はもう見切ったからねー! もう当たらないよー! 今度は私の必殺技を見せてあげる! ふぉおおお……!」
ポワルはエリーから一歩飛び退いて、怪しげなポーズをしながら力を込める仕草をした。だが、エリーは知っている。ポワルがこういった事をして来る時は、必ずと言って良い程、ある感情を溜め込んでいる時だ。
ポワル自身に言われるとイラッとするが、それでもやはりエリーにとっても彼女は親しい友なのだ。それ位は簡単に理解出来る。
エリーは言葉を続けていく。
「……よく、泣かなかったわね」
「……」
「もういいのよ? あの子は旅立ったんだもの。
次に会う時はもっともっと素敵な女性になってるわ。
……だから、今くらい泣いたって良いじゃない」
変なポーズのまま固まるポワル。その表情は少々俯いてしまい、前髪で目元が隠れてしまった。
暫しの時間を挿み、ポワルは言葉を返していく。その表情はとても悲しい色をしていたが、頑張って笑顔にしながら、エリーへ話し始める。
「ううん、大丈夫。ここで泣いたら、あの子に合わせる顔がないよ。
大丈夫。約束したんだもん。少しくらい待つのなんて苦じゃないよ」
まるで自分に言い聞かせるように話すポワルに、胸が締め付けられるような想いを持つエリーだったが、気丈に振舞う親友に心から尊敬の念を抱きながら、一言だけ口にしていった。
「……そうね」
少女は言っていた。
この世界の法則を越えて、必ず会いに行くと。
それがどれだけ難しく、またどれだけ凄い事なのかを、
"エリルディール"に向かった少女は理解していない。
しんとする管理世界に、女神達の声が響いていく。
「あの子は自分がどれだけ凄い事を言ったのか、理解していないでしょうね」
「だろうね」
この世界の法則を越える。
それは即ち、神に等しい力を持つという事だ。
普通の人にそれが出来るなどと聞いた事は全く無かった。
ポワルもエリーも、様々な管理世界を持つ神々と知り合っているが、
人が神と同等の力を持つなど、聞いた事すらなかった。
それでも思ってしまう。あの子ならきっと、という期待を。
それでも願ってしまう。あの子ともう一度会える、という希望を。
「でも」
ポワルは思う。それでも――。
「「あの子なら本当にやってくれそう」」
重なる言葉に顔を合わせてしまった。
どちらからともなく、笑いが出てしまう。
そうだ。あの子ならきっと大丈夫だ。
あの子は賢くて、優しくて、明るくて、とても前向きな子だ。
私の自慢の大切な子なのだから、どんな事があってもきっと大丈夫だろう。
私はただ、あの子の帰りを安心して待てばいいだけなのだから。
* *
少女は目を開くと、とても見通しの良い広い草原に立っていた。
空は青く雲は高く、穏やかな春の風に包まれる美しい世界。
思わず言葉が小さく零れてしまった。
「ここが、"エリルディール"。……綺麗」
エリーに戴いた知識によると、少女の目の前に見える街はフィルベルグ王国という大きな国らしい。緑と水の豊かな大地の国なのだそうだ。まずはその国の冒険者ギルドへ向かう事にした。
魔物の影は見えない。
ホッと安心する少女は歩きながら空を見上げ、両親の言葉を思い出していた。
それはまるで心に刻み込むように、一言一句大切に、とても大切に思い出していた。
『――イリス。父さんだ。
今、ポワル様からお話を伺ったよ。
正直父さんにはよくわからなかった。
頭悪いからなぁ、はははっ……。
でもイリスが今とても大変な事と、
これから先も大変な事だけはよくわかった。
こんな状況になってしまうと、
もう父さんには何にもしてあげられないんだなって、
今更ながら後悔しているよ。
もっと色んなことを教えてあげたかった。
もっと楽しいことを教えてあげたかった。
――イリス。
これからイリスは、父さんと母さんに頼れずに
生きていかなければならなくなってしまったけれど、
イリスなら大丈夫だって信じてる。
イリスは父さんの子で、
そして母さんの子なのだから。
ちょっとやそっとの苦労じゃめげないんだって、
大丈夫なんだって信じてる。
――だからイリス。
自由に生きなさい。
無理なんてしなくていい。
無茶なんかしちゃ駄目だ。
ただ自由に生きなさい。
そして"幸せ"になりなさい。
それが、それこそが、
最高の親孝行なんだよ。
娘が幸せに生きている。
これ以上に喜ばしい事を父さんは知らない。
――イリス。
愛してる。心から。
父さんは、イリスの父親になれたことを誇りに思うよ。
それじゃあ、身体に気をつけるんだよ?』
イリスは想う。私は父に何かをしてあげられたのだろうかと。
何もせず、何も出来ずに別れてしまったのではないだろうかと。
それでも父は、私が幸せになることを心から願ってくれている。
それが最高の親孝行なのだと、優しい声で言ってくれている。
ならば私は、生きなければならない。
そして幸せにならなければならない。
大好きな父を悲しませないように。
『イリス? お母さんよ。
……たーくんが言いたい事を全部言っちゃったから、
言う事がなくなっちゃったじゃない! もー!〔ごめんよ、えーちゃん〕
うーん。そうねー。
……正直お母さんはイリスのこと安心して送り出せるのよねー。
イリスはしっかりしてるし、賢いし、気配りも出来るし、家事も覚えさせたし。
お母さんはイリスがちゃんとやっていけるって信じてるし、
イリスならきっと大丈夫だって思ってるよ。
……そうね。ただひとつ心残りなのは……。
もっとお母さんに甘えて欲しかったな。
いっつもポワル様とべったりなんだもん! お母さん寂しかったんだよー?
……あ、ポワル様が悪いわけでは決してないですからね?
あぁぁ、そんな悲しそうなお顔しないでくださいよっ。
……お母さんね、ずっとイリスとポワル様が羨ましかったんだよ?
一緒に遊んだり、一緒にお出かけしたり、一緒に眠ったり。
私がしたかった事ぜーんぶポワル様に取られちゃうんだもん!
ポワル様は綺麗だし、素敵だし、優しいし、とっても魅力的だよね。
イリスは"祝福された子"だから、
ポワル様と惹かれ合ってしまうのは仕方ないんだけど。
……それでもお母さんは寂しかったよ。
今思えば三人で眠ればよかったのよねー。何で思いつかなかったのかしら!〔えーちゃん、俺は一緒じゃ駄目なの?〕たーくんは男の子なんだから一人でも大丈夫でしょ?〔えぇぇぇ〕
あとはー、そうねー。
――イリス。
頑張らなくていいわ。
イリスは頑張り屋さんだから、
これ以上頑張らなくていい。
のんびりゆっくり歩いていきなさい。
走ってると疲れちゃうんだよ? 知ってた?
イリスはまだ十三歳なんだから、
無理せずゆっくり歩いていきなさい。
それでも――
歩いてても転んじゃう時があると思うの。
辛くて、苦しくて、寂しくて、泣きたくなったら……。
――空を見上げなさい。
顔を下に向けずに空を見上げなさい。
そこにはきっと、美しい青い空が広がっているから。
どうしても辛くなったら、空を見上げて、
またゆっくり歩いて行きなさい。
ポワル様が仰ってた、異世界っていうのは、
あまりよく分らなかったけど。
それでも……。
空は繋がっていると思うから。
どんなに遠く離れていても、
どんなに会えない距離だったとしても、
私は、この空の下で繋がってるって思えるから。
――イリス。
愛してるわ。心から。
あなたのお母さんになれて本当によかった。
……元気でね、イリス――』
「ありがとう。お父さん、お母さん」
少女は呟きながら一路王都を目指す。
この世界に両親はいない。大切なひともいない。
友人も、自分を知る者も誰もいない。
寂しさで押し潰されてしまいそうになる心を奮い立たせ、
それでも前を向いて歩いていった。
少女には託してくれた、たくさんのひとの想いで溢れている。
大丈夫、不安はあるけど、きっと大丈夫。歩いていけるはずだ。
次第に目の前に見えてくる大きな城門を見ながら、
少女は気合を入れ直し歩いていく。
何処を見ても知らない世界。知らない場所。知らない人々。
なら、逆に楽しめばいい。
知らない世界を見て、知らない場所に行き、知らない人達と出会おう。
父は言ってくれた、無理なんてしなくていいと。
母は言ってくれた、ゆっくり歩いていきなさいと。
大切なひとにもう一度会う方法なんて、今はまるで思いも寄らない事だけど、
もしかしたらこの世界のどこかに、その手がかりがあるかもしれない。
世界はとても広いのだから、きっとどこかにあるはずだ。
もし無かったとしても、自分で何とかすれば良い。
どうすればいいのかなんて、今は考えなくて良い。
まずは歩いていこう。ゆっくり、のんびり、無理をせずに。
そうすれば、きっといつかは辿る着ける気がする。
どんな困難な道であったとしても、一歩ずつ前に進めばきっと。
そんな想いを胸に抱きながら、少女は歩いてく。
これから彼女は、様々な人と出会い、様々な人の想いを知り、
そして様々な事を学んでいくだろう。
だがそれは、決して楽な道ではない事となるかもしれない。
辛い事、悲しい事、痛い事、涙が出る事。様々あるだろう。
それでも少女の瞳は真っ直ぐと前を向き、歩いていく。
父と母が残してくれた想いを胸に。
大切なひととの約束を果たす為に――。
この作品は同名連載小説である『この青く美しい空の下で』の序章である第十話までのお話を、若干の加筆修正を加えて書き直し、纏めたものとなります。
私が初めて長文を書いてから、二ヶ月ほど経った頃に直し始め、短編として書き終えるのに2週間以上もかかってしまいました。理由としては本編の方を優先させて頂いておりますので、中々こちらに手が回らなかったという現状がありました。
たった二ヶ月では大した成長は期待出来ませんが、それでも今書く事が出来る精一杯を詰め込んでみたつもりです。
タグにハッピーエンドと載せるつもりでしたが、旅立つというより旅立たされてしまったので、一度はつけたタグを外しました。ハッピーエンドというよりは、旅立ちエンドですよね、これは。
本編の方も辛いお話で終わる予定はございません。ですが、まだまだ先が見えないという事もあり、あえてそのタグを載せておりません。
個人的な意見で申し訳ございませんが、今はもう会えない大切なひとたちをもう一度書く事が出来て、とても嬉しかったです。それはまるでもう逢う事が出来ない自分の子供が逢いに来てくれた様な、そんな温かい気持ちに包まれました。
何となく自分の成長が見たかったという安易な考えで始めた短編ですが、色々と考えさせられる事がとても多かったです。
読んで頂き、本当にありがとうございました。