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下町の猫

作者: 宮本羊一

 僕はある下町に越してきた。その下町は猫が多いことで知られる、小さなそれでいて有名な界隈だった。

下町には風がよく吹いていた。しかしそれは都会のような冷たい、肩を張るような風ではなかった。寧ろ真逆の、太陽のまどろんだ匂いのする柔らかい風であった。  

 風は、住宅の合間をよく縫うように吹く。時折、子供の駆け声が、マダムの井戸端会議が、老人たちの陽気な談笑が風に運ばれ、町に安らぎを与えていた。


 この町で息をするのは軽かった。肺は喜びと平穏で満ちていた。


「なぁ、これからどうすんだよ?」

友人Hが僕に問う。

「さぁ? でも、何とかなるだろう」

僕はそう嘯く。


 僕ら二人は夢追いびとだった。故に安定はなかった。しかし心は誰よりも自由だった。

 僕ら二人は決められたレールを沿うのが嫌で、好きではないこと、納得できないこと、それらを許容できるほどの器を持ち合わせていなかった。気付いた時には羊の群れからはぐれ、風が止むことのない、見知らぬ丘に辿りついていた。

 遮るものは何もなく、葦のそよぎがいつまでも鼓膜に足跡を残した。


 そんな場所に来てしまったから、僕らが見る社会人はまるで機械仕掛けの歯車のように思えた。

 僕の父はそんな社会人だった。けれどいつも自由をぼやいていた。だから僕は自由とは何かと幼少の頃からずっと考えていた。

今でも自由の正体は掴みきれてはいないが、きっと胸の内に柔らかい風が吹いている時、人は自由を詠うのだ。

 どれだけ人の科学が進歩しても、きっとこれは解明できない、いや仮に解明できたとしても解明してはならない禁忌の領域であると僕は思う。もし解明してしまえば、人は文明が作り出した人工物に成り下がってしまうのかもしれない。

 だが、この飢えを知らない二人は、つまるところ世間知らずなのかもしれない。自由とは労働の対価としてそこにあり、自由とは物質的豊かさの中に存在した。自由の定義をまだ測りかねている僕らは、自らの生命を詠うことにただ必死であるだけなのかもしれない。


 ある時、一匹の猫に会った。その猫は少し霞んだ毛並みの黒猫だった。瞳の片方を失っていて、もう片方は秋の月のように燻みを帯びた黄色であった。立ち振る舞いは優雅で機敏。しかし町の風を感じる時だけ無防備な姿を晒した。

 その猫は地元で有名な猫だった。多くの人は、その姿から「クロ」と呼んでいたが、名前は人によってまちまちらしく、猫もさして気にしていないようだった。


 僕はクロをよく見かけた。(僕も例に倣ってそう呼称する)それは郵便局の帰り、それはコンビニの行き、スーパーマーケットからの往復。

 たまたま出る時間が、ちょうどクロの散歩の時間帯と重なっていただけだったのかもしれない。けれど僕はそこに妙な縁と親近感を抱かずにはいられなかった。


 クロは孤高の猫で、クロはいつも一匹でいた。下町の猫はよく群れて行動し、日の影でまどろみ、互いにじゃれあうのに、クロは彼らと連まなかった。特に人前でまどろんでいる姿を、僕はこれまで見たことがない。


 だから、ベンチに座る老人の前で、クロがすやすやと眠っていたとき、僕は正直驚いた。

 そんな僕に老人は気付いたのだろう。老人は優しく微笑むと、僕にこちらに来るよう手招きした。


 老人は近くの公園で猫に餌をあげる、近所では有名とは言わないまでもよく知られた人物だった。老人は決まってお昼時か夕方時に現れ、猫たちにパンくずなどを与えていた。時折、ずる賢い鳩が目を光らせ、餌をつまみ食いすることもまた常であった。


「どうもぉ。お若いの」

そう言いながら、彼は目元の皺を柔和に歪ませ、空いている隣を僕に促した。

 僕は少しためらいがちに、「こんにちは」と小さく返すと、招きに応じベンチに腰掛けた。

 老人は始め喋らなかった。ただ優しげな、しかし憂いた眼差しをクロに向けていた。僕も黙って足元で眠るクロを見る。


 「不思議な猫だと思いになられますかのう?」

ふと、老人が言葉を紡いだ。 

「ええ。……そう思います」

僕は正直に答えた。それ以外の言葉は特になかった。

「そうでしょうなぁ」と老人は笑い、クロを見つめながら老人は独り言のように口を動かした。

「クロは昔からこの町にいるからのう。本当に、昔は群れたり、じゃれたりするのが好きな、人懐こい猫でしたのぅ」

そう語る老人の話に耳を傾けていたせいだろう。彼は孫に昔話を聞かせてくれるかのようにクロの話をし始めた。


 老人によると、クロには一匹の白い猫の連れがいたらしい。どこかに行くときも、眠りにつくときも、お互いに肌を寄せあう、仲睦ましい間柄だったようだ。それ故に町では「クロ」と「シロ」という一組みのつがいとして、多くの人に可愛がられていた。

 だがある時、この下町は大きな火災に見舞われた。幸い死者はなかったが、火災による住宅の被害はひどいものであったらしく、それ故猫も下町から多く姿を消してしまった。

 しかし、住民の呼びかけもあってか、町は比較的早く復興し、それに伴い少しずつではあったが、猫も次第に町に戻って来た。

 当時住民はこれで変わらぬ下町に戻ったと、胸を撫で下ろしていたそうだ。実際町の変化といえば少しばかり目新しくなっただけで、大した変化はこれといってなかったのである。


ただある一匹の猫が片目を失い、つがいを失った、それだけを除いては。

 

 帰りがけに老人はあることを呟いた。

「クロが無くした瞳には、もしかしたら見えているのかもしれませんのぅ」

 僕はつい質問してしまった。

「……なぜそう思いになられるのですか?」

「私がクロと親しくなったのは、つい最近のことですからのぅ」

 そう言って、老人は下町の影に吸い込まれるように消えていった。


 夕日は暮れかかり、公園には紅黒い影が伸びる。そうこうしていると肌寒い風が公園を吹き抜け、気がついたときにはクロの燻んだ月の瞳と、開かない瞳が僕を凝視していた。その開かない瞳がもう掴むことの出来ない影を見据えているような気がして、僕はその場から動けなかった。


 一年前、僕はあるものを失った。それは例えるなら炎で、それは躍動する原動力で、それは胸の内に灯る生命のような輝きだった。

 まだ何も背負わなくて良い頃は、走れば走るだけ道が拓けていった。遮るものは何もなく、情熱の風が僕をその先へと導いた。

 だが、風は突如として止んだ。社会人として企業にその身を預けた僕は次第に腐敗していった。

 好きなことが嫌いになっていく。まるで胸の内に黒い染みが広がっていく感覚。その様はまるで猛毒の蛇がゆっくりと毒を流し込んでいるかのような苦痛を伴った。

 求められたのは見えるものだけだった。それには決められた形が存在した。それが欠けていたり、歪んでいたり、はたまた付随していたりすると彼らは容赦無くそれを否定した。


 気が付けばいつも死を夢想していた。閉じた瞼が一生上がらなければいいとさえ思った。鉄筋が落ちてくれば、電車のホームから落下すればといった死の想像がただ唯一の慰めだった。


 そして面白いことに、毒蛇が自身の内に宿りつつあることも僕は否応無しに理解していたのだ。


 僕は恐ろしかった。この蛇が自身を喰い、何者かに成り替わるような、そんな気がしていたから。

 僕はその蛇に多くを喰い荒らされ、代わりに知恵を授かった。それも気味の悪い邪な知恵を。


 僕は蛇に生命の、情熱の火を奪われた。

 しかし幼心に抱いたことのある、ある憧憬だけがまだ灰として残っていた。

 僕は灰を守ろうとし、蛇から逃げた。その結果、僕はこの下町に流れ着いていた。

 この下町に越してきたのは本当に偶然だった。いや、本当は無意識に僕は安らげる場を探していたのかもしれない。

 

 この町の風は澄んでいて、その音色は優しく木霊していた。猫たちは思い思いに涼しい寝床でくつろいでいる。

 僕は情熱の風を失った。どこに向かえばいいか、それは今でも分からずじまいだ。けれどここには自由の風が吹いていた。そういえば昨日見たテレビで、あるカメラマンがこう口にしていた。

「猫のいるところ、風はあり」と。


どうも、初めましての方は初めまして。

怠惰なる種族、高等遊民こと貴族院遊々です(笑)


今回で三作目と、いやはや疲れました。

しかし書いたことのある人は分かってくれると思うのですが、書き上げた直後って妙な達成感があるものなのです。

疲れているんだけども落ち着けず、部屋をぐるぐる回る、危ない奴になるのはみなさん体験ありますよね?え?ない?


さて、それはそうと今回は雨使わない宣言を致しましたので、私の好きな猫で短編を書かせて頂きました。

風と猫がなんとなくイメージしていただけたなら嬉しい限りです。


と、あれから多くの方に僕の作品を読んで頂いたみたいで、多くのコメント頂きました。

本当に嬉しく、これを励みに頑張ります!!!


次回は詩要素を多くした小説を書きたいと思っています(今回は小説の構成寄りでしたので)ので良ければまたお立ち寄りください。


それではまたお会いしましょ〜。最後まで読んで頂きありがとうございました!


[HP]

『遊人書斎』(アソビトショサイ)

https://asobitosyosai.amebaownd.com

[Twitter]

@kizokuinyuyu

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