眠り姫
眠り姫
部屋を出る前にふとカレンダーを見た。三月十四日。世の中はホワイトデーってちょっとしたお祭り騒ぎ。でもわたしにとって、今日はそんなイベント事の日じゃない。カレンダーの隣にかかる写真に目を移す。中学の時の修学旅行、行きの新幹線で撮った写真。同じ班だった女子三人で撮ってもらった。わたしの右隣で微笑む女の子。今日は彼女の命日だ。
「ただいま」
買い物から帰ってきた母親がいつものように笑顔で声をかける。心なしか、眉が下がっているような、すこし困ったような笑顔にも見えた。わたしも同じように、いつも通りに頷いて返す。わたしはどんな顔をしているだろうか。
「それ、お父さんが」
テーブルに置かれた、ビターの板チョコとピンクのメッセージカード。ホワイトデーだから、ということか。どこまでも父親らしい気遣いに思わず少しだけ頬が緩んだ。それをみた母親も安心したような、そんな表情に変わる。
ビターチョコを砕いて一つ頬張る。口の中に広がるほろ苦さと甘さがわたしのお気に入りだった。もう一つ口に放り、母親にも差し出す。チョコの包みを持ったまま、ドアを指さして少し散歩に行ってくる、ということを伝える。毎日のことだからそれだけで伝わるのだ。明るい行ってらっしゃい、の声を聞きながら外へ出る。三月と言えどまだまだ冷え込む。羽織った上着の中で肩をすくめた。
平日の昼間、閑静な住宅街に響くのは鳥の鳴き声と、時折響く車の音くらい。澄んだ青空を見上げながら、目を瞑っても歩ける生まれ育った町をふらりと歩いていた。いつもなら、あの花咲きそうだなとか、この家の犬今日はおとなしいなとか、そんなこと考えてるのに、今日は違った。ずっと思い出が頭をめぐる。中学の時の思い出だ。それも、わたしの右隣で微笑んでいた彼女との。初めて話しかけた日の事、初めて一緒に出掛けたこと、初めて家にお邪魔した日のこと。一から思い返して、彼女との思い出がこんなに多かったことに初めて気づいた。
彼女との思い出に浸る時間は、けたたましい音ともに途切れた。一気に現実に引き戻されあたりを見渡す。少し先で倒れた自転車が見えた。どうやら派手にこけたようだ。それにしたってすごい音。思わずその自転車と、やっと起き上がった持ち主の元へ駆け寄った。行ったところで自分が何もできないってことも忘れて。
そのことは行ってすぐに思い知らされる。まず、「大丈夫ですか」の一言も言えない。言おうと開いた口からは声が出ず、結局何も言えないでまた口を噤むしかなかった。顔をしかめながら肩のあたりを抑えている高校生くらいの男の子は、わたしにすこしだけ怪訝そうな視線を向けた。それでもわたしが倒れた自転車を起こすと、彼も左足をかばいながら立ち上がった。怪我、しているのかな。
「ありがとう」
制服についた汚れを払いながら、笑顔を向けてくれた。やっぱり私は「どういたしまして」が言えなかった。理由は加えてもう一つ。彼が着ている制服が、わたしの通っている高校のものだったから。もっと言えば、わたしは彼を知っている。彼もわたしを知っているはず。覚えていれば。去年、高一のとき同じクラスだった加藤くん。確か下の名前は、翼くん。
「……倉野?」
覚えていてくれた。わたしの名前を疑問形で呟いた彼に頷いて返すしかなかった。呆気にとられたようにぽかんと私を見つめている。それもそうだ。一年の頃は普通に学校に通っていたのに、二年になってからは一度も行ってないんだから。そんな元クラスメートとこんなところで会うとは思っていなかっただろう。
どうすればいいのかわからなくなって、とりあえず頭を下げて来た道を戻ろうと振り返りかけたところで。
「いった……!」
え、と彼の視線を辿って見てみれば、彼の左足首から血が出ていた。転んだときに擦ったんだろうけど、ただの擦り傷にしてはかなり重傷そうな気もした。このまま帰ってもきっと気にし続けるだろうし、なんて心の中で自分に言い訳を重ねる。カバンの中にティッシュと絆創膏があることを確認して、少し先の遊歩道を指さす。確かあそこはベンチがあったはずだ。
自転車を押す加藤くんと二人で少しの距離を歩く。無言で遊歩道を指さしたわたしにかなり戸惑ったみたいだけど、歩き出したらついてきてくれた。もちろん歩いている途中、会話はない。たまに加藤くんが小さく「いてっ」って言うくらい。
頭の上に浮かぶクエスチョンマークが見えるような加藤くんに、ベンチに座ってもらって勝手に応急処置を施す。応急処置って言ったって、そこの水道でティッシュ濡らして、傷口拭いて絆創膏貼るだけだったんだけど。
一通り手当を終えて、わたしも少し距離をあけて加藤くんの隣に腰かける。ここまでやってから思うのもあれだけど、迷惑だったかな。でもあの状況で無視して帰るのも違うし、とか一人でぐるぐる考えていたら。
「ねえ」
加藤くんが顔をこちらに向けて声をかけた。それに反応して顔を上げる。目を合わせて何度か瞬きを繰り返した。
「なんで喋んないの?」
その言葉に固まってしまった。でも考えてみれば彼が疑問に思うのも当然だ。「大丈夫」も「どういたしまして」もない。何も言わずに歩き出して勝手に手当てを始めて。なにか答えなくちゃいけないとは思うけど、なんて答えればいいのか、どうやって答えればいいのかもわからない。何も言えないくせに開いた口をまた閉じた。
すこし悩んだ末に、ケータイのメール画面を開いて文字を打ち込む。
【声、でないの】
向けられたその無機質な文面に、加藤くんはまた不思議そうに首をかしげる。
「……病気?」
言うのを躊躇うような素振りを見せたあと、伺うように少しだけ声の大きさを落として尋ねられる。また少し考えて、答えを打ち込んだ。
【わからない】
わからない、というのは語弊がある。声が出なくなった原因もわかっている。でもそれは、体のどこかが悪いわけじゃない。何回も病院で検査もしたけれど、何もなかった。出された診断結果は『心因性』。つまり、わたしの心に原因があるってこと。その結果にはわたしも納得だった。
【たぶん、わたしの考えすぎ】
一年前のこの時期に何があったか。
部屋に飾ってある写真の、わたしの右隣で微笑む彼女、奈子が死んだ。
中学一年と三年で同じクラスだった奈子。おとなしくて、あまりしゃべらない子で、喋っても声が小さくて、クラスの子からは苗字で呼ばれるような、そんな子。特別仲がいいってわけでもなかったけれど、クラスでは仲良しに分類されてたと思う。遊びに出掛けたこともあったし、メールのやり取りもして、ほかの友達とも一緒に交換ノートもしていた。
そして奈子は、笑わなかった。何回プリクラを撮っても、写真を撮っても、「笑って」って言っても笑わなかった。本人は笑ってるつもりだったのかもしれない。口角がすこし上がるくらい。部屋にある写真もそう、微笑んでいるだけ。わたしは彼女が歯を見せて笑っているところを見たことがなかった。
高一の春休みの初日。奈子は女子校へ、私は別の共学校へ進学して、会うことも連絡を取ることも無くなっていた。卒業式から約一年経った日、ケータイに知らない番号から電話がかかってきた。本当は切るつもりだったけれど、指が間違って押したのは通話ボタン。出ちゃったものは仕方ない、と応答してみると、奈子のお母さんだった。中学の頃のプリクラとプロフィール帳を見つけて思わず連絡した、と言っていた。はっきりと明言はしなかったけれど、お母さんの言い草だと中学の同級生で声をかけたのはわたしだけみたいだった。中学の時、特定の仲のいい子がいなかった奈子。お母さんも本当は誰も呼ぶつもりはなかったんだろう。明日、お通夜があるから来てほしい。そう言われて、わたしは行くと返事をした。
言われた時間に会場へ行くと、奈子のクラスが歌を歌っていた。中央に置かれた遺影の奈子は、笑っていた。わたしが知ってる奈子は決して見せなかった笑顔。クラスメートの子たちも、泣きながら歌っている子がほとんどだった。
奈子、クラスのみんなに好かれてたんだな。
そう肌で感じて、不謹慎だったかもしれないけど、なぜかわたしは少しだけ嬉しかった。
お母さんに挨拶をして、一通りのことを済ませて家へ帰った。中学の同級生はやっぱりいなかった。
わたしの中で何かがおかしくなったのはその日からだった。死ぬってなんだろう。十六歳で死ぬ。わたしが明日死んだらどうなるんだろう。奈子は何を思っていたんだろう。奈子の中でわたしはなんだったんだろう。答えのない問いかけが頭のなかをぐるぐると廻った。
毎日一人でいればそんなことしか考えてなかった。口数も減った。部屋にこもりがちになって、一人でいる時間も増えた。
奈子のお通夜から一週間。同じように朝起きて、母親に「おはよう」と言われ、同じように返そうとした。
「……」
なにも言葉が出てこなかった。声が出なかった。喉に何かがつっかえてるような、そんな感覚。
声を出すことがなくなってもうすぐ一年経つけれど、なにも変わらない。このまま学校に行くのも嫌で、二年になってから行かなくなってしまった。
「……そっか」
わたしの返事を見て、それからずっとうつむいていたわたしに、加藤くんが小さくそれだけつぶやいた。そのあとになんて続ければいいのか迷ってるような、そんな雰囲気を感じた。
「倉野がなにをそんなに考え過ぎちゃったのかわからないけどさ、多分ね、声が眠らされちゃったんだよ」
さっきの小さな呟きから沈黙が続いた。そろそろ帰ろうかな、そう思い始めていた時、加藤くんが唐突にそう言った。よくわからなくて、首を傾げて見せる。
「だから大丈夫。必要になったら誰かが、何かが、いつか起こしてくれるよ」
わたしの疑問を訴える視線は感じたはずなのに、それには答えず立ち上がってそう続けると、足首の絆創膏を指さして、これありがとうってまた笑顔を見せた。なにか返事しなくちゃ、と焦って頷く。そんな私を見て満足そうな表情を浮かべ、加藤くんは自転車に乗り走っていった。まだ少し左足をかばっていた。早く治るといいけど。
声が眠らされる、か。家への帰り道も、家に帰ってからも、加藤くんが最後に残した言葉をずっと考えていた。言葉が眠るってどういうことだろう。今まで耳にしたことのない表現に戸惑っている自分がいた。でも、『いつか起こしてくれる』、その言葉に少しの希望を抱いたのも事実だった。
心因性とは言え、根本的に何が原因でこうなったのかはわかっていない。ということはどうすれば治るのかもわからない。奈子のことを考える時間も減った。言葉を発さない以外は家でも以前と大して変わらない生活を送っている。それなのにまだ戻らないわたしの声。もうこのまま一生戻らないんじゃないか。そう考えることも少なくなかった。
だからこそ、『眠っているだけ』、『いつかは起きる』、その加藤くんの言葉に少しだけ救われた。
その日、わたしは奈子のこと、不思議な言葉のこと、それから少しだけ加藤くんのことを考えながら眠った。
部屋を出る前にカレンダーを見た。三月二十一日。奈子の命日から一週間。つまり加藤くんと話をした日から一週間。べつにわたしの声が出るようになったとか、そんな劇的なことは何もない。ただ、少し変わったこともある。加藤くんと連絡を取るようになった。メールなら普通に話せるよねっていう彼の気遣いが素直に嬉しかった。
ビターチョコの最後のひとかけを口に放り込み、ケータイを確認して家を出た。口の中で溶けて消えるほろ苦さの余韻を楽しみながら歩く。だいぶ春らしくなってきた。一週間前よりも一枚軽い上半身と、目につく膨らんだ蕾に自然と頬が緩んだ。
いつもの道を今日も歩いていたとき、ふと前を走る自転車に気が付いた。どこかで見たことがあるような気がして、目を細めてその背中を追う。少し先の赤信号で止まった、右を見るその横顔でやっと誰だかわかった。振り返って気づいてくれないかな、もしかしたら赤信号のうちに追いつけないかな。ちょっとだけそんな期待をしながら歩くスピードを速めた。
結局信号が変わるまで、後ろは振り返らないし、わたしも追いつけなかった。あと少しだったのにな、残念。信号待ちをしていた彼が走り出したのをみて、また元のスピードに戻した時だった。
「……?!」
一週間前に聞いた音より何倍も大きな音。金属が擦れる嫌な響き。誰かの悲鳴。忙しく点滅する青信号の元、わたしは立ち尽くしていた。
横転したトラックの少し先に倒れた自転車と、そのまた先に倒れている彼が見えた。
「加藤くん!」
弾かれたように駆け出していた。苦しそうに顔を歪めて倒れ込む加藤くんがそこにはいた。
「しっかりして!」
肩を揺さぶりたい衝動に駆られるもどこか冷静な自分もいて、それをぐっと押さえつけた。投げ出されていた手を握る。なぜだかその手はとても冷たかった。何度も何度も名前を呼んだ。それでも加藤くんが返事をしてくれることはない。時折苦しそうなうめき声がする。
いつのまにか到着した救急隊の人に肩を掴まれ、握っていた手を離された。担架に乗せられ救急車へと運ばれる。
「お友達?」
そう救急隊の人に問いかけられたわたしは、
「はい」
気が付いた時にはそう答え、一緒に病院へと向かっていた。
一度は意識不明の状態に陥るも、病院についてから緊急手術と治療を終え、今は意識も戻ったらしい。病院の先生からもう大丈夫だと聞いた時には、駆け付けた加藤くんのお母さんと一緒に力が抜けてその場にへたり込んだ。お母さんは病室に行っている。なにもしてないのに『ありがとう』って缶コーヒーを奢ってくれた。でもその糖分多めの飲み物は、焦っていたわたしの心を落ち着かせるのにはちょうど良かったみたいだった。
待合室でそれを飲み干し、空いた缶を捨てて帰ろうとしたとき、加藤くんのお母さんが病室から出てきた。『じゃあわたしは失礼します』の一言を言って頭を下げるよりも前に。
「翼が会いたいって」
会ってやって、なんて言われてしまえば無下に断れるわけもなく、病室へ足を踏み入れる。後ろで静かにドアが閉まった。
ベッドの上の加藤くんが、先週となにも変わらない笑顔を浮かべた。そしてベッドの横の椅子へ腰かけるように促す。何も言わずにそれに従って腰かけた。
「聞こえてたよ、倉野の声」
何かを言うよりも前に加藤くんが口を開いた。そしてその言葉を聞いてわたしは初めて気づく。
「……わたし、喋れてる……?」
ここ数時間のことを思い出した。加藤くんの名前を繰り返すわたし、救急隊の人に聞かれたことを答えるわたし、加藤くんのお母さんと話すわたし。そしていま、加藤くんと話しているわたし。
「倉野がずっと俺の事呼んでくれてたの、ずっと聞こえてた。返事、できなくてごめん」
どこか照れくさそうに俯きがちにそう話していたけれど、最後に顔を上げて。
「名前、呼んでてくれてありがとう」
しっかりと見つめてそんなことを言われ、胸が高鳴るのを感じた。なにも言えなくなりそうだった。でも言わなくちゃ。わたしにはもう、声がある。
「違うよ」
緊張と、安心と、ほかにもいろいろな感情が入り混じって声はすこしだけ震えていた。
「加藤くんが、起こしてくれたんだよ」
奈子の死という魔法によって眠らされたわたしの声は、加藤くんへの気持ちと加藤くんの優しさによって起こされました。
起こしてくれてありがとう、王子さま。
Fin,
2015年11月 執筆