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魔物と少女

作者: 椚屋

 かなり以前、電撃文庫の短編小説に応募した物を少し改訂した物です。


 最近の流行とは全く違った、昔の物を引っ張り出すのは黒歴史の朗読みたいですが、読んで戴ければ幸いです。

 ここ数日降り続いていた雨が、朝日の昇るのにあわせてやっと上がった。湿った深緑の青臭さが、森の中に満ちている。

 一匹の“魔物”はそんな匂いと、ねぐらの入り口を覆った毒蔦の隙間から差し込む朝日に眠りを破られた。

 身を屈めて入れる程度の小さなねぐらから顔を突き出す。

 煩わしい虫や物を知らぬ人間を退ける為の、触れただけで酷くかぶれる毒蔦すら“魔物”は意に介さない。人間の大人十人を殺せる果実でさえ“魔物”は平然と食べられる。かぶれる程度の毒など、鱗混じりの皮膚に効きはしない。

 視界一面に広がる深緑の中から、細い煙が幾筋もたなびいているのが見えた。“魔物”の翼ならすぐそこの距離にある、人間達の小さな村のものだ。


 “魔物”は歩くこともできない幼子が少女と言える歳になるくらいの間、この森の奥にある小さな山に住んでいる。その間、村の人間達と諍いを起こしたことなど一度もない。

 それどころか、冬眠しそこねた灰色熊や戦人くずれの山賊が村を襲ったときなど、ちょっと姿を見せて――時には戦って――追い返してあったこともある。

 “魔物”が今まで遭遇した他の魔物に比べれば、人間を襲った挙げ句に魔物狩人達に退治されることもなく、実り多い森の中で平穏無事に過ごしていた。

 中途半端に人間に似ている“魔物”なら、時間をかけていけば村人達とうち解ける事すら出来るかも知れない。

 今のところ、彼等は“魔物”を退治しようとは思っていないだろう。その証拠に、村から少し離れた場所に小さな祠を建て、時々は捧げ物などをしてくれている。最初は生きた牛や果実などを捧げられたのだが、生き物の肉をほとんど食べない“魔物”は、夜のうちに牛だけを村外れの農地に戻してやり、果実だけをありがたく戴いた。何度かそうしていると、村人達も果実やパンだけ捧げるようになった。

 “魔物”は我慢すれば季節一巡りくらいは何も食べずに済むので、この数巡りの間は、村人達からの捧げ物を食べて生きてきた。

 今までは下手に実りの季節に果実など探していると、森へ遊びに出掛けた子供達と遭遇したり、鹿などが“魔物”の気配から逃げ出してしまい、村の猟師達に迷惑をかけることもあったので、これはよいことだった。

 自分の姿が恐ろしいものだと、“魔物”は十分に承知している。頭だけが人間に似ているから、余計に人間達にとって醜く見える事も。戦慣れした山賊の中にさえ、“魔物”の姿を見て子供のように泣きながら逃げていった奴すらいた。

 “魔物”に時の流れは関係ない。少しずつ、ゆっくりと村人達とうち解けていければいい。


 ふと“魔物”はここ数日の眠りの中で見た夢を思い出した。

 昔の夢だ。年経た別の魔物――あれは白虎の変化だったか――と出会ったとき、彼女は“魔物”にこう言った。

『鋭き牙、巨木を打ち折る太き尾、我の毛皮をも引き裂く爪を持ちながら、何故、お前は人の肉を喰らわぬ? 我等は人の肉から力を得る。人を喰らわぬお前が、どうやってそこまでの力を得た?』

 魔物は人を喰うものが多い。肉を喰わぬにせよ、命を奪って己の力にするものもいる。それらは総じて、人をあまり喰わぬ魔物より力が強い。

 “魔物”が知る限り、人を餌食にせずに強い力を持っているものは、遙か北の山脈に住む“銀なる竜”と自分だけだ。

 “銀なる竜”は人や獣を襲うくらいなら、空に満ちる精や魔力を取り込んだ方がよほど力をつけられると言っていた。彼が言うには、生き物を喰らわねばならないなら、それはその者が『存在の階梯』を登り切っていない証らしい。そして自分以外を必要とする者もまた、『存在の階梯』を登り切っていないとも言っていた。

 “魔物”はまだ彼の領域には達していない。それに彼の言う『存在の階梯』を登り切ろうとも思わない。


 たぶんそれは、時々見る夢が原因だ。

 濃い霧の中の様な夢で、“魔物”は沢山の人が自分に笑いかけているのを見る。歯も生え揃わぬ幼子を自分に誇らしげに見せてくれる女がいた。焼きたてのパンを差し出してくれた男がいた。穴の開いた硝子玉を連ねた首飾りをくれた子供達がいた。


 すべて夢だ。


 しかし時間をかけていけば、それは叶うかも知れない。

 “魔物”が今まで住んできたどんな場所でも叶わなかったが、ここでなら叶うかも知れない。

 “魔物”がこの森に来た季節に生まれた少女は、ちょうど灰色熊に襲われかけていたところを助けたせいか、ほかの村人に比べて“魔物”を恐れていない。祠に果実を届けに来るのもほとんどその子だった。

 少女に妹が生まれたときなど『あの子が健やかに暮らせますよう、どうか村を守ってください。おねがいします』と、祠の前で祈っているのを見た。やっと機織りの手伝いが出来るくらいの年なのに、健気に妹の身を案じる少女に、“魔物”は滅多にしないこと――唸り声しか上げられぬ喉を介さず、心を直接相手に飛ばして意志を伝えた。

 心を飛ばすのは魔力を用いて行うので、魔法を嗜んだ人間以外には慣れない感覚だ。案の定少女はとても驚いたが、逃げ出すようなことはなかった。

 震える声だったが『ありがとうございます』と言っていたのを、“魔物”はよく覚えている。

 それから少女の妹が姉の機織りを手伝うくらい成長した今まで、“魔物”は少女に飛ばした言葉を守っている。




 しばらくして“魔物”は濡れた毒蔦をかき分けて、ねぐらの外に出た。夜闇よりなお黒い四つの翼を大きく広げ、両腕と尻尾を伸ばす。


 そろそろ少女が祠にやって来る頃合いだ。

 これから数日は祠の中で過ごさねばいけない。いつ会うと約束を交わした訳でもないので、来そうな時に“魔物”が待っているのだ。ただの勘なので長いときは二十日も待つときもある。しかし村人の作ってくれた祠は、小さいながらも“魔物”が爪で掘ったねぐらより住み心地がよい。


 心を飛ばしたときから、少女とは何度となく話をしている。と言っても、ほとんど少女の話を訊いているだけで、“魔物”が心を飛ばすことは少ない。

 妹のこと、家族のこと、気になる少年のこと、村のこと。少女が話してくれるのはそう言うことだったが、人に話しかけられたことが少ない“魔物”にとっては、どれも興味深い。

 少女はよく、自分で考えた話や旅人が話してくれた物語を、身振りなども交えながら聴かせてくれる。直に顔を見せたことはほとんどなくても、木陰や祠の中からそれを見ていた。

 彼女は十八の誕生日を迎えたら、街に出てみるつもりだと言っていた。街の劇団に入って、語り手として暮らしていくのが夢だと言っていた。その為に、街に用のある村人についていっては、物語の本を買ってきたり劇団を訊ねたりしているらしい。

 劇団を訊ねた時は、いい感触で応対された、街に来たときは顔を見せてくれと言われたと、誇らしげに語っていた。


 最近は少女の妹も姉にくっついて祠にやってくる。

 妹は姉に輪をかけて物怖じしないのか、何度も“魔物”の姿を見ようとする。その度に少女に止められるのだが、懲りることもなく一人で祠にやって来たり、森をうろついているのを幾度か見かけた。

 動物や流れの魔物に襲われはしないか、怪我などはしないかと“魔物”は隠れて見守った。

 少女の妹――名前はウィナと言った――だけが祠に来ると、“魔物”が居る祠の中に入ってこようとしたり、果ては祠の中で待ち伏せていたりする。

 その時は翼から特に綺麗な羽根を一本抜いて、それを渡して諦めてもらっている。


 ウィナはまだ“魔物”の姿を直視するには若すぎる。ウィナの姉――リートでさえ、初めて“魔物”の姿を見たときは気を失ってしまった。

 せめて自分の将来について考えるようになるまでは、ウィナの前に姿を曝すまいと“魔物”は心に決めていた。

 リートとウィナは朝方に祠を訊ねてくることが多い。彼女達より早く祠に着かねばと、“魔物”は翼を羽ばたかせて空へと舞い上がった。



 まず森全体を見下ろせる高さまで上昇すると、早い風の中にかすかな雨の匂いがした。風向きと強さから考えて、明日の夜くらいには再び降りだすだろう。

 彼女達に会ったら教えてやろうと思いつつ、羽ばたくのをやめて真っ逆様に森の中へ落ちていく。

 視界が木々で埋め尽くされる高さで、“魔物”は翼を広げて急停止した。ねぐらにいた時は感じなかった匂いが森の中から漂っている。


 流されたばかりの血の匂いと、自分と同類――他の魔物の匂い。


 ぐるりと見回してもそれらしい姿はない。闇を見通す“魔物”の眼も、茂った木立は見通せない。

 “魔物”が木々の枝葉を突っ切って森の中に降り立つと、より鮮明に匂いが感じられるようになった。ねぐらだと分からなかったのは、枝葉が匂いを遮っていたからだろう。

 森の中では“魔物“の大きな翼は満足に使えないので、両手両足の爪を木の幹に突き立てて猿のように跳び渡る。

 匂いが強くなるにつれ、“魔物”は牙をきつく食いしばった。血と魔物の匂いに混じって、人の匂いがする。場所に残っている匂いではない。そんなものは雨で流されているはずだ。

 それに場所もまずい。

 匂いを追っていくと、次第に祠に近づいていく。

 見据える先に木漏れ日より明るい光が見えた。

 まだ若い木々をへし折りながら光の中に飛び出した“魔物”に細い何かが飛んできた。厚い胸板に弾かれたそれは、“魔物”の顔に鉄臭い飛沫をはねとばして茂みに落ちた。


 一番見たくなかった光景があった。


 湿った土に転がる幾つもの果実と一つの篭。雨水とは違う赤黒い染みの中に横たわる細い身体と、それに覆い被さるような大きく黒い魔物。

 “魔物”はあらん限りの雄叫びを上げながら、黒い魔物に突っ込んだ。

 横殴りの爪を、黒い魔物は軽やかに避けた。“魔物”はすぐさま避けられた爪を掌が破れるほど握りこみ、返して振るう。“魔物”の血を媒介に雷が顕現した。

 が、投網の如き雷は黒い魔物を捕らえながらも弾かれる。

 “魔物”は翼を広げて威嚇の声を張り上げた。

 黒い魔物は人間の掌を灰色熊ほども大きくした姿をしていた。親指と小指の先は太く鋭い爪が生え、残りの指先には人の頭ほどの目玉が収まっている。手首の断面から多くの触手が伸び、掌の中央が人の頭蓋骨のような形に白く盛り上がっている。

 頭蓋骨の顎が激しく開け閉めされた。

 “魔物”はそれを『笑い』だと受け止めた。

 振り返らずとも、後ろに誰が倒れているか匂いで分かる。


 リートだ。

 次の実り多い季節に十八の誕生日を迎えるはずだったリート。この森に来て初めて話しかけてくれたリート。いつも祠に果実を届けてくれたリート。

 “魔物”は怒りの心を黒い魔物に飛ばした。黒い魔物からは何の言葉も心も返ってこなかった代わりに、一層激しく顎が開け閉めされる。

 やはり『笑い』なのだと“魔物”は確信した。

 同類は姿形がどうであろうと、総じて“魔物”の邪魔をしたがるものらしい。腹の底で燃えさかる怒りが呼気に混じり、牙の間から炎の筋となって漏れる。

 “魔物”は牙の先で左の手首を切った。腕に入っていた力を抜くと血が勢いよく吹き出す。地面にほとばしった血を触媒に顕現した何本もの石の槍が、蛇の如くのたうちながら黒い魔物を追っていく。

 三つの眼から伸びる赤い光の槍が、のたうつ石の槍を迎え撃つ。

 石の槍で殺せる相手ではない。それは分かっていた。それにそれだけで済ますつもりもなかった。

 “魔物”は塞がりかけていた傷を開いて、更に石の槍を顕現させると空に舞い上がった。両手を後ろに回して翼の根本を傷つける。血を触媒に羽根の一つ一つが鋼の強さを宿す。地の魔物に向けて羽ばたくと、羽根は突風に乗って雨のように降り注いだ。

 振り回した指や触手を裂いて羽根が突き立つ。黒い魔物は声も上げずに身をよじった。

 幾本もの赤い光の槍が祠を貫く。

 “魔物”はこれで終いだとばかりに黒い魔物に突撃する。

 鉄鎧さえ引き裂く爪が、巨大な掌の中央を抉った。とたんに黒い魔物は身体全体で“魔物”を握りこんだ。

 太い爪が“魔物”の背中にもぐりこんでいく。火筒(ひづつ)の弾でも防ぐ“魔物”の身体は、久しく味わってなかった痛みに震えた。

 食い込んだ親指と小指を、血を触媒に生やした第三第四の腕で引き剥がす。翼が自由になると、黒い魔物に握りしめられたまま再び空に舞い上がる。

 すぐ近くの河の上まで飛んでくると、大きく息を吸い込んだ。

 巨木を一瞬で炭の塊に変える炎の息。

 “魔物”は目を閉じて、抉ったばかりの傷口にそれを吐きかけた。

 閉じた(まぶた)の上からでも視界が白く染まる。

 四散した黒い魔物の破片は、河に落ちる前にすべて燃えかすになった。“魔物”の髪や皮膚も焼けたが、すぐに血を触媒に元に戻り、新しく増やした腕ももげ落ちていった。

 腹の底で燃え残っていた怒りを叫び声と共に吐き出す。

 炎は太陽のように明るく川面を照らした。



 祠にとって返した“魔物”はリートの惨状を目の当たりにした。

 艶やかだった金髪は血にまみれて赤黒く固まっている。瑞々しい肌も至る所が裂けていた。胸から下腹にかけては目を逸らしたくなる有様だ。足りなかった左足は、茂みの中で見つかった。

 ここに飛び出したときにぶつけられたのはこれだった。

 “魔物”はリートの身体を一ヶ所に集め、三度手首を切って溢れる血をかけた。

 血を触媒にすれば、切り落とされた腕さえ繋ぐことが出来る。

 どれほどの血を使えば、リートは生き返ってくれるのだろうか。亡骸へ心を飛ばして呼びかけながら、“魔物”はすぐに塞がる傷を抉り続け血をかけた。

 自分の血臭でむせ返りそうな中、背後に軋むような物音を訊いた。

 半ば崩れた祠の扉が開き、わずかな隙間から白い小さな手が覗いた。

 急ぎ駆け寄った“魔物”は祠の床にうつぶせに倒れているウィナを見つけた。赤い光で脇腹を抉られているが、かろうじて生きてはいる。

 おそらく祠の中で“魔物”を待ち伏せていたから、掌のような魔物に見つからずに済んだのだ。

 “魔物”は手首から流れる血をウィナの傷にかけた。血を触媒に傷は塞がっていくが、量が足りない。

 血の出しすぎで目が霞むが気にする暇はない。今にも永遠に瞑ってしまいそうな眼が、“魔物”を見上げている。

 一気に大量の血をかければ、ウィナは治るはずだ。

 “魔物”はウィナを抱きかかえ、意を決して爪で腹を大きく裂いた。臓物と一緒に溢れ出た血がウィナの身体を染めていく。

 心を飛ばしながらも“魔物”は夢みたいな既視感を覚えた。

 濃い霧の中の景色で同じ様なことをした。その時抱えていたのは、ウィナよりも幼い子供だった気がする。

 気が遠くなっていたのはどの位の間だろうか。

 腹の傷が塞がるころには、ウィナの傷も塞がっていた。まだ意識は戻っていないが、小さな胸は規則正しく動いている。

 事が事だけに今しばらくは寝かせておいた方がよいだろう。

 “魔物”はウィナを祠の床に横たえて外に出る。

 日の高さから見て、ほとんど時は経っていない。

 今度はリートの亡骸の前で腹を裂こうとした矢先、森の中から沢山の匂いと気配――おそらく村人だろう――が近づいてきた。

 十人以上の村人達が弓や(いしゆみ)長火筒(ながひづつ)を携えて森の中から現れた。

 彼等は“魔物”が心を飛ばすより早く、口々に大声を上げた。

 最初は驚きで、次に怒りだ。

 その中の誰かが叫んだ拍子に火筒の銃爪(ひきがね)を引いてしまった。その銃声を銃爪に村人達は罵り声を上げながら携えた武器を“魔物”に向けた。

 必死に心を飛ばして制止するが、それすら彼等の怒りを煽るだけだ。

 一斉に放たれた数本の矢、数個の弾を“魔物”はその身で受け止めた。一つとして“魔物”を傷つけはしない。

 村人達は一瞬怯むも、すぐに新たな矢や弾を準備し始める。

 “魔物”はリートの亡骸に目を落とした。

 生き返るどころか傷すら塞がっていない。

 遅かったのだ。

 瀕死でも、生きてさえいれば、血を触媒に傷は塞がり治すことが出来る。

 生き返らない事は分かっていたのだ。

 遅すぎたのだ。死んでしまってからでは遅すぎたのだ――


 ふと、再び既視感が心を満たす。

『血を触媒にする能力は、ただ魔力を使うより多くの事が出来るが、時を逆しまに流したり失われた命を取り戻すことは出来ない』

 誰かから飛ばされた心だ。

 “銀なる竜”ではない。

 彼はそんな事を教えてくれるほど、他者を気にかけていない。

 思い出せぬ程の昔。そのように教えられた気がする。

 誰に教えられたかは覚えていない。


 ――“魔物”を既視感から引き戻したのは、頭に当たった長火筒の弾だった。

 村人達は半ば自棄になって得物を撃ち続ける。黙って撃たれるに任せていた“魔物”は、四つの翼を広げて村人の前から飛び去った。

 高く高く高く。

 森が黒い塊にしか見えなくなるほどの高みまで上がっていく。

 視界がぼやけていることに気づいて顔を拭うと、透き通った水でしとどに濡れていた。拭っても拭っても濡れていた。

 それが自分の目から流れているのに気づいた。

 “魔物”は吠えた。

 何度も、何度も、吠えた。

 喉が破れても吠え続けた。




 リートの葬儀は次の日に行われた。

 空一面を覆った低い雲と、雨の匂いが混じった冷たい風の下で、男達に抱えられた真新しい棺桶が、村外れの共同墓地へと静かに運ばれていく。

 泣き続ける母親とそれを傍らで支える父親。

 ウィナの姿は見えない。

 森の中に隠れてその様子を見守っていた“魔物”は、ウィナの事を想い、胸苦しさを覚えた。

 角のように固く尖った耳をじっと澄ませば、村人達の会話が訊こえる。

 リートを襲った悲劇を嘆き、気を失ったままのウィナを心配し、今まで崇めていた“魔物”に憤っていた。

 掌のような黒い魔物を粉々にしたのは間違いだった。

 普通に引きちぎっていれば、その死体を見せて村人の誤解を解く事も出来ただろう。

 このままでは魔物狩人(ハンター)が呼ばれるのも、そう遠くない。

 魔物に強い怨みを持つ者達が、魔物を倒す方法に習熟し、魔物を殺しうる武器を携えて、魔物を追い詰める。それが魔物狩人と呼ばれている人間達だ。

 強大な力を持つ“魔物”も彼等だけは苦手にしている。彼等の武器には“魔物”すら傷つける物がある。彼等の追跡を諦めさせるには、人間の手が届かない場所に行くか、返り討ちにするのがいい。

 手早く確実なのは返り討ち。しかし人間は殺したくない。

 前に追われたときは、“銀なる竜”が住む山脈に逃げ込んで事無きことを得た。あそこは遠いが、並の魔物では生き抜けない過酷な環境は人の手を拒絶する。

 でもあそこに行けば、リートとの約束を守れない。

 殺すこともなく殺されることもなく、これまでのように森に留まり続けるにはと、“魔物”は考えを巡らせた。




 夕方に降り始めた雨は小雨だったが、冷たい、嫌な雨だった。

 昨日あんな事があったばかりなので、どの家もしっかりと戸締まりし、室内では明かりを絶やしていない。

 滞り無くすんだ葬儀の後、何人かの村人――その中にはリートとウィナの父親もいた――が村長の家に集まって、夜になっても話し合っていた。

 “魔物”は静かに村長の家の側に降りた。四つの翼で身体を隠し、気配をひそめた。眼は油断無く見回し、耳をそばだてて中の様子を探る。哀しみを紛らわす酒でも入っているのか、村人の声は大きかった。

 昨日や昼間と同じ怒りが誰の言葉からも容易に読みとれる。特に声を荒げているのはやはり、リートの父親だった。

 将来のことで父親と喧嘩が絶えないと言っていたリート。しかし最近は根負けして、街に行くのを認めてくれたと、彼女は嬉しさと申し訳なさが混じった声で教えてくれた。

 あれは確か、前に会ったときだった。

 それから十日ほどでこんな事になるなど、誰も思いはしなかっただろう。

 父親は繰り返し繰り返し、“魔物”への怒りを露わにした。

 最愛の娘の一人は無惨に殺され、残った一人も目を覚まさない。魔物狩人でも軍隊でも呼んで、“魔物”を駆逐しようと訴える。

 おおむね周りも賛成しているが、問題はまだ残っている。

 金と犠牲者の数だ。

 魔物狩人とて無償で仕事はしない。命がかかった仕事で、武装を維持するだけでも高い金が必要だ。

 軍隊を呼ぶには――被害が少なすぎる。これが村人のほとんどが殺される様な事件なら、この地方の領主も軍隊出動を要請するはずだ。殺されたのがたった一人――その人が誰かにとってどんなに大事な人だったとしても――ただの村娘が殺されただけで軍隊は動かせない。せいぜい魔物狩人を頼む程度だ。領主の館から遠いこの村では、それすらおぼつかないかも知れない。

 話し合いは領主に頼んで魔物狩人を呼んでもらう事に決まりかけていく。

 小さな村でも、無理にかき集めればそれなりの金は用意できる。足りない分は領主を説得して出してもらって――出来れば折半という形で収めるべく、次第に具体的な方策が議題に上っていった。

 “魔物”は昼からずっと魔物狩人を呼ばれないようにする案を考えていたが、これと言ったものは思いつかなかった。

 ウィナがリートを殺したのは、森に棲む“魔物”では無いと言ってくれれば問題ない。でもそれにはウィナを目覚めさせなければいけない。

 村人は雨がやみしだい船で河を下って、街にいる領主に頼みに行くだろう。雨が降って無ければ増水した河でも、彼等は船を出しかねない。

 陸路では不便な場所だったことが“魔物”とって幸いした。

 雨がやむまでウィナが目覚めればいい。“魔物”の血を触媒にすれば、目覚めない人間を覚醒させることは容易い。それに忌まわしい記憶だけを忘れさせることも。これは前にもやったことがある。

 難しいのはどうやってウィナの所まで行くか、だ。

 家で寝ているだろうウィナの側には母親がついているはず。そうしている限り、見つからないようにするのは無理だろう。“魔物”は血を触媒に姿を消すことは出来ない。そもそも姿を消しても家には入れない。

 村人達の話し合いも一段落しそうだったので、“魔物”は気配を消したままウィナの家に向かった。

 家人を一人失ったばかりの家は、外から見ただけで重苦しい雰囲気に包まれているのが分かった。

 おおよその見当をつけて、板戸を下ろされた窓の隙間から中を覗いてみる。ランタンの投げかける明かりの下では、椅子に座った母親がテーブルに伏したまま泣いていた。

 居間の中央に置かれた四人掛けのテーブルは、普段なら家族が揃って食事をしたり、リートの将来の事で話し合う場所だっただろう。

 しかしもう、その光景は無くなってしまった。

 いたたまれなくなった“魔物”は、目を逸らして窓から離れた。

 “魔物”は家の裏に回って、別の窓から中を覗く。闇を見通す瞳は、獣脂蝋燭一つ無い部屋の中で眠るウィナを見つけた。

 リートとウィナは同じ部屋を使っていると訊いたことがある。もう一つのきれいに掃除されたベッドと棚に並んだ何冊もの本は、リートのものだったのだろう。

 三回ばかりウィナに心を飛ばしてみるが、目覚める気配はない。

 “魔物”は耳を澄ませて周囲を探る。村長の家ではまだ話し合いが続いていた。居間で泣き伏していた母親は泣きやんでいない。この様子ならしばらく両親が部屋に入ってくることは無いはずだ。

 ならば板戸をこじ開けようかと思ったとき、小雨では流しきれぬ濃い匂いを“魔物”の鼻が捕らえた。

 昨日粉々にしたはずの魔物の匂い。

 匂いはさほど強くなくても、間違えはしない。

 だが、どうやって生き返ったのか。燃やされて砕かれて、最後は河に流されたのだ。これまで戦ったどんな相手も、そこまでされて生き返った奴はいない。


 “魔物”は嗅覚に意識を集中し、匂いの元を辿った。

 警戒しながら村の中を進んでいくと、どんどん村から外れていく。匂いがしてきたのは河とは全く逆――共同墓地のほうだ。立ち止まって耳を澄ませば、微かに湿った物音が墓地から訊こえる。

 大きく息を吸い込んだ“魔物”は曇天の夜空に吠えた。自分がここにいることを村人に知らしめ、警戒を促すためだ。

 もし昨日の魔物だとしても、武器を持った村人が相手なら、そう簡単には殺せないはずだ。どのみちここで闘えば村人の注意を引いてしまう。それなら早くから武器の準備をさせておいた方がいい。

 墓地で蠢いていた気配は、吠え声に反応して動きを早めた。

 逃がすものか。

 粉々にして死なぬのなら、今度は砂粒ほどに砕いてやればいい。

 腹の底に燃えさかる怒りを貯めて、“魔物”は闇の中の気配に向けて走った。

 墓地の中に入った“魔物”は、自然石で作られた新しい墓石が揺れているのを見つけて、またも怒りをかきたてられた。

 リートを殺しただけで飽きたらず、墓を暴いて亡骸までも踏みにじろうというのか。

 と、“魔物”は足を止めた。

 墓は生き返った魔物が暴いていたのではなかった。赤子ほどの大きさの魔物が十何匹も、墓からわいて出ていたのだ。

 小さな魔物は“魔物”の出現に、墓石を倒しつつ蜘蛛の子のように散っていった。

 “魔物”は素早く掌を傷つけ、血を触媒に顕現した雷の網を、濡れた地面に叩きつけた。雨水を伝わって大きく広がった雷に、逃げ遅れた何匹かがたまらず跳ね飛ばされた。

 運良く雷から逃れた十匹以上の小さな魔物達は、“魔物”から一目散に逃げていく。追撃しようと広げた四つの翼を、数条の赤い光が射抜く。雷をくらった魔物達が逃げるのを諦めて反撃に出たのだ。

 それらは大きさの割には手強かったが、皆殺しにするのにさほど手間はかからなかった。しかし、身体が小さな分、昨日の魔物より素早い小さな魔物達は、森の中へ逃がしてしまった。

 運の悪いことに、急に強まった雨足のせいで匂いで追うことも出来ない。

 牙を噛みしめて腹から溢れそうな炎を堪える。

 足元を見ると、掘り返された土が大粒の雨で均されていっている。もう小さな魔物が出てくる様子はない。

 生きた人間の身体に卵を植えつける魔物はいるが、亡骸を栄養にするのは屍喰いと呼ばれる魔物くらいで、一昼夜も経った亡骸から増える魔物など今まで訊いたことがない。

 永く生きて知識を蓄えている“魔物”も、自分の無知を思い知らされた――が、一つだけ思い浮かんだ事がある。

 掌のような魔物は、一昼夜経った亡骸から増えたのではないのかも知れない。

 あれは屍喰いと同じく新鮮な死体から栄養を得て増えるはずなのに、リートの亡骸にかかった“魔物”の血が、植えつけられていた卵に影響を及ぼしたのではないか。

 その証拠に、あれらは生まれたばかりにしては強かった上、成長しすぎていた。

 もしそうなら何てことをしてしまったのだ。

 あれだけの数が成長しきったら、殺し尽くすどころか逆に殺されかねない。

 数が数だけに村を離れることもできない。どの程度の知能を持っているのか分からないので、不意打ちに留まらず数に任せた一斉攻撃や陽動も考えにいれるべきだろう。

 “魔物”がやるべき事は多く、残された手段と時は少ない。

 雨音を制して、ざわめきが“魔物”を取り囲む。

 振り返ると、村の男達が手に手に武器を構えていた。昨日と違うのは長火筒がないのと、人数が倍以上になっている事だ。

 “魔物”は彼等など眼中に入って無いのか、悠然と村へと歩き出す。大量の矢が撃ち放たれても足は止まらない。

 村人達の囲いは、“魔物”が進むにあわせて退いていく。弓矢も弩も罵声も怒号も誰も彼も、“魔物”を止めることなど出来はしない。

 その歩みが止まったのは、ウィナの家の前であった。

 “魔物”の目的を察した村人達は弓矢が効かなければ、と斧や鉈で斬りかかってきたが、そんな物は何の痛痒も与えられない。

 人垣を押しのけた“魔物”は扉に手をかける。中から下ろされた掛け金が“魔物”の力に耐えかねて弾けとぶ。

 身を屈めて扉をくぐったと同時に銃声。

 “魔物”の左眼に熱い塊が飛び込んだ。

 半分になった視界の中、奥の扉から半身を出した父親が、銃口から煙をたなびかせた長火筒を構えていた。

 やったか、という顔の父親の前で、“魔物”は爪を左眼に差し込んで鉛球をえぐり出す。眼窩に溜まった血を触媒に眼球が復元した。

 その様を見ていた父親は腰を抜かして座りこむ。それでも長火筒に弾を込めようと、必死に火薬入れを探っている。

 “魔物”の姿が怖いだろうに。逃げ出したいだろうに。子供を殺された怒りだけが彼をこの場に留まらせているのだ。

 “魔物”が座り込んだ父親の横を通ろうとすると、足にしがみついてまで奥に行かせようとしない。

 しがみつく父親を引きずったまま、“魔物”はウィナの部屋に入った。

 蝋燭のほのかな光だけが輝く部屋の中では、母親が覆い被さって残された娘を“魔物”から庇おうとしている。

 父親が何か叫んでいるが言葉になってない。たぶん、娘は助けてくれとでも言っている筈だ。

 何としてでも娘を守ろうとして、拳で“魔物”を殴り、剥がれるまで爪を立てた。“魔物”はそれを見下ろしながら自分の手首を傷つけ、流れた血を掌にとって父親の指になすりつける。瞬時に血を触媒に剥がれた爪が新しく生えてきた。

 “魔物”の行動に驚いた父親は、呆然と自分の指先を見つめる。

 その間に“魔物”はウィナの枕元に立ち、掌に溜まった血の残りを、ウィナの額にたらした。

 そして心を飛ばして目覚めるように呼びかける。

「あぅ…………」

 ウィナの口から小さなうめきが漏れる。

 ゆっくり目を開けていくウィナに、“魔物”は背を向けた。

 あまりウィナに自分の姿を直視させたくない。忌まわしい記憶は少ない方がいいのだ。

 目を瞑って安堵の息を吐く“魔物”の後ろで、両親はやっと目覚めた愛娘をきつく抱きしめた。




 目覚めたウィナは自分が祠の中から見たことを、すべて村人に語った。

 先に出たウィナを追ってきたリートが、掌のような魔物に殺された事。森から飛び出してきた“魔物”がそれと戦った事。赤い光で怪我をしたウィナを、“魔物”が抱きかかえてくれていた事。

 それに墓地で見つかった小さな魔物の死体がウィナの言葉を裏付けた。

 “魔物”は今、村長の家の中で村人に囲まれている。と言っても武器は向けられていない。誤解を解くために自らここに来たのだ。

 尻尾が邪魔で椅子に座れない“魔物”の横では、ウィナが“魔物”の腕をしっかりと掴んでいた。

 彼女は“魔物”の姿を見ても気を失うことはなかった。それどころか真っ直ぐ“魔物”の眼を見て話をする。子供ながらも肝の据わり具合は姉以上だった。

 誤解が解けた所で、“魔物”は掌のような魔物の事を、ウィナを通して伝えた。直に心を飛ばさなかったのは、“魔物”の心を受け止め慣れている相手の方が、余計な手間がかからないと践んでいたからだ。

 心を受け止めるのは慣れていないと正確な意味を掴みにくい。こう言う時は自分の喉が人の言葉が話せればと痛感する。

 てっきり危難は去ったと思い込んでいた村人達は、最悪の状況に皆、口数が少なくなった。

 “魔物”はウィナに心を飛ばして、ここに来たときから考えていた案を伝えた。少女は“魔物”を見上げて眼を二三度しばたたかせた後、口を開いた。

「ねえ。あいつらをここで押さとくから、村の人みんな、河を下ってくれって言ってるよ」

 即座に幾つもの反対意見が上がった。

 危険すぎる。船が足りない。村はどうなるんだなどと、異口同音にまくしたてる。

 こうなるだろうと思っていた“魔物”はウィナに心を飛ばす。

「いかだを作ればいいって。木はぜんぶ、用意してくれるって」

 そこまで言ってもなお、村人達は逡巡した。

 彼等がここに留まるのは、増水した河を下るより危険が多い。生まれたばかりの魔物達は、成長するために大量の餌を必要とするだろう。獲物であり産卵場所である人間がかたまってる場所を見逃すほど、奴等は寛大じゃない。

 今頃は森の生き物達を襲って“魔物”と戦うために力をつけているはず。

 先の戦いは村人の身を守るという視点からすれば正解だった。

 普通の狩猟生物と魔物の差違は、弱いものから狙って確実に餌を獲とろうとするか、より大量の餌を獲ろうと全力で強いものを殺しにかかるかだ。

 奴等は“魔物”を殺しさえすれば、あとは好きに出来るのを知っている。どうにかして“魔物”に隙をつくろうとするだろう。

 幸い奴等は空を飛べないようだ。下流の街までは大きく曲がった箇所は無いから、河を下れば振り切れる。街と言える大きさなら自衛のために少なくとも一人や二人ではない魔物狩人が雇われていても不思議ではない。

 それでも全員無事に生き残れるとは思ってない。何人かは犠牲になるだろうが、皆殺しになるよりは遙かにましだ。

 “魔物”はウィナを見下ろした。

 リートとの約束は半分以上破ってしまうが、残り半分――せめてウィナだけは守ってやりたい。

 ウィナが“魔物”の眼をじっと見つめる。何を考えているのか小さな唇は固く結ばれていた。

「流れが速いうちに行かないと、追いつかれちゃうんだって。夜のうちに支度しないと絶対逃げられなくなっちゃうから、どうするかすぐに決めてって言ってるよ」

 言葉に嘘はないが、“魔物”はそんな事を伝えてない。煮え切らない村人を焚き付ける為に、ウィナが一人で考えて言ったことだ。

 わき起こったざわめきの中、ウィナは目を丸くする“魔物”を見上げて片目を瞑る。これでいいんでしょ、と表情は物語っていた。

 “魔物”はゆっくりうなずく。

 そしてウィナの話に従って、村人達はすぐに結論を出した。

 一人の反対もなく、全員村を離れることに決まった。




 “魔物”がへし折った木を男達が筏にする。女達は家で旅支度を調えている。突然決まったので大した物は持っていけなくとも、着の身着のまま村を離れるよりはよかった。

 村の動きを察知した魔物達が森の奥で蠢いている気配がある。しかし襲ってくることはなく、じっと動向を伺っているだけだ。

 夜通し準備をして、やっと用意が調った時はもう明け方になっていた。雨が霧雨程度に弱くなったのは幸いだ。

 河岸に移動した村人達は、四艘の船と五艘の筏に分乗して一斉に河を下る事になった。時間を空けると最初の船が出たのを見た魔物達が、船出を待っている村人を襲いかねないからだ。

 出発の前になって、背負い袋を背負ったウィナが“魔物”のところに来た。右手にはいつか渡した“魔物”の羽根を持っていた。

 “魔物”はうつむいているウィナの頭を優しく撫でた。

 これがウィナと会える最後かも知れない。“魔物”はすでに心を決めていた。身体が砕けても、たとえ首だけになってもウィナを守ると。

 こう言うときは心を飛ばさないほうがいい。そんな事をしなくても気持ちは伝わる。

 ウィナは顔を上げ、“魔物”の手に自分の手を添えて言った。

「いっこだけ、おねがいがあるの」

 今まで気丈に耐えてきたのだろう、堰を切ったようにウィナの瞳から涙がこぼれていった。

 無理はない。十にもならぬ年で、あの体験は辛すぎる。血を触媒に記憶を消してあげようかとしたとき、ウィナは涙にむせびながら言葉を紡いだ。

「おね……お姉ちゃんを、あんなにしちゃった奴……っく……やっつけて、ほしいの。絶対に絶対に、やっつけてほしいの。おねがい……」

 ウィナは“魔物”の手をぎゅっと握った。

 心を飛ばしてそれに答える。

 ウィナは手の甲で涙を拭いながら言う。

「ありがとう……」

 “魔物”はウィナを両親の所に送ると、村人に背を向けてぐるりと睥睨した。

 匂いが近づいている。

 腹の底に積もった怒りに火を入れ、大きく開いた口から熱い呼気を漏らした。畳んでいた四つの翼が広がったのを合図に、船と筏は一斉に離岸する。

 そして同時に、二十を超える赤い光の槍が“魔物”めがけて殺到した。

 それらすべてを炎の息でかき消す。

 数が足らない――思うが早いか、下流で悲鳴が上がった。振り向けば河の中から伸びた触手が船に絡みついているのが遠くに見えた。

 “魔物”は翼を羽ばたかせて一目散に船へと急ぎ、その速さのまま河に飛び込む。

 濁った水の中でも奴等の気配と匂いは伝わってくる。厄介なことに相手は三匹。そのうち二匹が船に近い場所にいる。両手首を交互に傷つけ、水に血を溶かしこむ。血を触媒に生き物すら切り裂く流れが顕現。鋭利な流れを気配の方向に叩き込む。

 当たり所がよかった一匹の気配が消える。手負いの二匹から、五条の赤い光の槍が伸びるが、濁った水に散らされて“魔物”を傷つけられない。

 まだ水に溶かしこまれている血を触媒に、凄まじく早い流れを自分の周りに顕現する。“魔物”の身体はその流れに乗って、一気に船へ近づく。

 勢いを生かした爪の一振りが、船に取り付いた奴を両断。

 赤い光の槍が使えないと分かった残る一匹は、“魔物”に殴り合いを挑む。もみ合いながら流される二つの魔物。体格は最初の奴より二回りは小さくとも、力はそれほど劣ってない。

 “魔物”は流れを操って、そのまま水上に飛び出した。横を過ぎる船から悲鳴と歓声が上がった。

 一瞬そちらに気を取られて注意が疎かになる。その隙に赤い光の槍が“魔物”の身体を穿った。

 反撃に指先の目玉を全部噛みちぎる。無言で身体をよじる隙を捉えて、細く絞った炎の息で掌のような魔物を二つに焼き切った。

 安心には早い。

 まだ十匹程度は残っているはず。

 “魔物”は奴等を押しとどめる為に村へと舞い戻った。




 その日の夕方、“魔物”は無人の村に戻った。

 殺した数は十九を数えたが、もう奴等の気配や匂いはない。すべて殺し尽くせたようだった。

 しかし“魔物”の代償も大きかった。

 胸から腹にかけて大きく肉が抉れ、右脚は膝の辺りから無くなっている。尻尾は根本から切られ、四つの翼のうち動くのは一つだけ。牙も欠けたし両腕も満足に動かない。

 血を触媒に傷を塞いで身体を治したいが、触媒にする血もあらかた流し尽くしてしまった。

 ここまで来られたのも奇跡に近い。

 村人が――ウィナが帰って来られるように、村を守らなければならない。その想いが死にかけた身体を動かしていた。

 夢と現実の狭間にいるような頭に、ふと思い浮かぶ懸念。

 自分はリートの墓に花も手向けていないではないか。それに、彼女の墓を誰か直したのだろうか。

 “魔物”は誰かが作った花壇から花を一輪失敬して、村外れの墓地に這いずっていく。

 ――ああ、やはり、直している暇はなかったのか。墓石は倒れて、土は掘り返されたままだ。

 “魔物”はのろのろと墓石を立てなおして土を均していく。全部終わる頃には月が中天に達してしまった。

 魔物達に踏みにじられた花束をかき集め、その中に失敬した一輪の花を加えた。

 これでいい。

 ウィナ達を迎える準備は出来た。

 気懸かりなのは、それまで生きていられるかだ。

 人が神に祈る時のように膝をついた恰好で、“魔物”は静かに瞑目した。

 今日見る夢には誰が出てくるだろうか。

 出来れば、リートとウィナがいい。

 そんな事を考えながら、“魔物”の意識は深く深く落ちていった――




「やっぱり、ここにいてくれたんだ」

 女の声に“魔物”は薄目を開けた。じわじわとはっきりしていく視界には、一面の草花で覆われている。

「ずっと、ここにいたんだね……」

 漆喰を塗られたように固い首を動かして見上げた。

 苔むした墓石の隣に立っていた女は、白っぽい麻の服を着て、頭には草の茎で編まれたつばの大きい帽子をかぶっている。その顔を見て、“魔物”は息を飲んだ。

 リート。

 心を飛ばすことも忘れた“魔物”の前で、女は帽子を取って胸の前に持った。帽子を飾った青いリボンと大きな漆黒の羽根飾り。

 その羽根は――心を飛ばすより先んじて女はうなずく。

「あれから季節が九つも巡ったのよ。今になっても村に帰ってきてる人はいないみたいだけど、私は帰ってきたわ。絶対に待っててくれる人がいるんだもの」

 少女は遠くを見やって続ける。

「……本当はもっと早く帰ってきたかったのに、父さんと母さんが許してくれなくて。だから、十八の誕生日まで待ったの。お姉ちゃんが街に行くのを許してもらった年までね。今では私も、お姉ちゃんがやりたかったのと同じ事をしてるのよ」

 “魔物”はそれを訊いて微笑みたかったが、耳まで裂けた口ではそれもできない。せめて心を飛ばして彼女を祝福した。

「ありがとう。――あの時の約束、守ってくれて嬉しかった。おかげで誰も怪我一つ無く街まで行けたわ。みんな、あの時のことを感謝していたの。私がみんなを代表して、お礼を言わせてもらうわ。……本当にありがとうございました」

 深々と頭を下げられると気恥ずかしい。

 だがそれを訊けただけで十分だった。

 そして“魔物”は生え揃った四つの翼を大きく広げ、身体中の骨を軋ませながら立ち上がる。

「行ってしまうのね?」

 悲しげな声にうなずく。自分のような人でないものが近くにいたら、ここに来る人間も居ないだろう。

 そもそもこの森には長く居すぎた。

「いつか私、あなたの出てくる物語を書くつもりなの。どこかで耳にする機会があれば、ちゃんと全部訊いてね。私の書く、最高の物語にするつもりなんだから」

 “魔物”は最後に、泣き笑いを浮かべる彼女に心を飛ばして別れを告げる。そして振り返ることなく、長く住んだ森から飛び去っていった。

 新しいねぐらは風の向くままに、辿り着いた場所で決めるとしよう。

 某所で背中を押されて投稿してみたものの、初めてのネット投稿というのは緊張しますね。

 これまで人の目に触れる事のなかった習作等、投稿していければなと思います。

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