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その場は熱と闇が支配していた。
石造りの塔。窓のないこの塔も今はしっかりとドアが閉じられていて、光の射す隙間などない。その中で小さな火が燻っていた。
そこにうごめく影が一つ。この火の海の中を、人が生きていたというのか。
塔の中の酸素はなくなる寸前だ。そのおかげで火も消えそうなのだが、塔に一人残された青年も倒れる寸前だった。やっとの思いでドアの前まで辿りつく。弱々しい力で、ドアを一度叩いた。
それを合図に勢いよく扉が開かれる。
「王子……!」
青年はずるりと塔を這い出た。金の髪が月に照らされる。熱された塔の空気が辺りに広まった。青年は流れ込んでくる空気を喘ぎながら吸い込んだ。倒れこもうとする彼を、外にいた人物が支える。
業火の中にいたはずなのに、青年の上等な衣服には焦げ跡一つ付いていなかった。
「王子……」
「大、丈夫だ……」
その顔は真っ青で、どう見ても大丈夫そうではない。彼を支えている人物は、泣きそうな表情を浮かべる。
「どうして……王子がこんな目に……」
王子と呼ばれた青年は、目を閉じるとゆっくり呼吸を整えた。
「全部……俺が悪いんだよ」
その声は乾き切っていた。
*
その少女は建物の陰で、市場を強張った顔で見つめていた。
少し通りに出たら、沢山の人たちで市場は賑わっている。日は昇りきっていて、色とりどりの野菜や果物に朝日が反射していた。市場は売り買いする人々の声で溢れている。戸惑う少女の蒼い目には、賑やかな世界が映っていた。
(こんなところで立ち止まってる場合じゃない……)
そう思うけれど、少女の足は動かない。亜麻色のワンピースの裾は、さっきから揺れることがない。
まさか王都がこんなに人で溢れているものだとは思わなかった。
少女――レインは山の麓の小さな村の出身である。人のあまり訪れることのない、ひっそりと佇む村だ。清らかな川が流れ、牛を引き畑を耕し自給自足で生活してきた。外界から隔たれた場所で生活してきたのだ。
王都には目的を持って出てきたのだが、初っ端から躓くとは思わなかった。こんな人込みには慣れていない
(よーし、行くぞ!)
気合を入れて彼女は足を踏み出した。が、横から歩いてきた人とすぐにぶつかってしまった。レインの小さな体で大人たちに適うはずもなく。
「あぁー!!」
そしてそのまま人込みに流されていった。
*
市場の一角。目深にフードを被った人物が歩いていた。キョロキョロと立ち並ぶ店を見渡して、何かを探しているようだ。
「花……宝石……」
ブツブツと呟いているが、目当ての物は見つからなかったらしい。息を一つついて、路地裏へと入っていった。
路地裏を少し行くと住宅地が立ち並んでいる。古びた建物の遥か上の方から朝日が差し込んでくる。
彼は空き地の塀に腰掛けて、フードを取った。金の髪が日に輝く。力強いその瞳は髪と同じように金の色をしていた。目的が果たせなかったからか、その表情には少し疲れが浮かんでいた。のんびりしている時間はないが、ずっと歩き通しだ。少しだけ休むことにした。
ふと視線をやると、一軒の家から沢山の人が出てきた。その人々は一様に黒い服を着ている。誰もが暗く沈んだ表情をしていて、涙を浮かべる人もいた。
「ママァー!」
棺に縋り付いて泣く少女がいた。葬儀が執り行われるようだ。彼はそれをぼんやりと見つめた。古い記憶が蘇る。
刹那、込み上げてきた熱を彼は止めることができなかった。
ボッと彼の掌から火が上がる。
「イーグル!」
そこに駆け込んできた人物がいた。漆黒の髪を持つその人物の額には、汗が滲んでいる。みるみる炎に包まれていく彼を見て、慌てて駆け寄った。
「いけない……!」
その人物が手をかざすと、燃え盛る彼の周りの空気が変わった。その部分だけ見えない何かに覆われているかのようだ。しかしなお、彼は苦しそうな顔で火に包まれている。
「うぅ……人酔いした……」
そこに青い顔で角を曲がってきたのは、レインだった。火だるまの人物が目に入り、驚いて足を止めた。耳の上で二つに結ったダークブラウンの髪が揺れる。
「あ……か、火事!」
レインは両手の掌を彼に向けた。その蒼い瞳に力強さが宿る。
すると、大粒の雨が降ってきた。彼の頭上だけに。
火は消え雨も止む。金の髪の彼は呆然としていた。傍にいた人物も驚いた顔でレインを見ている。
「あ……大丈夫でしたか?」
二人に見つめられて、レインは焦って聞いた。しかし返事をすることなく、頭から雫が滴り落ちている彼は、ふっと倒れてしまった。
「イーグル! イーグルしっかり!」
傍にいた人物が慌てて彼を抱きとめ、彼の名を呼ぶ。レインは訳も分からず、ただ立ち尽くしていた。
*
焦げ付いた臭いがする。慣れ親しんだ臭いだ。
一生この塔から出られないかもしれない。それも仕方がない。
この火は全てを焼き尽くす――。
そこではっと目が覚めた。
「あ、気が付きました? 今、アルトさんを呼んできますね」
そう言って彼女の手が離れていった。
ドアが閉まって彼女の姿が見えなくなってからも、イーグルは横になったまま彼女が消えた先を見つめていた。
(誰だ……?)
見覚えのない顔だ。しかしまだ掌に彼女のぬくもりが残っていて、イーグルはその手を見つめた。久しぶりによく眠れた気がする。
ギィっと重たい音を立ててドアが開き、従者のアルトが入ってきた。
「イーグル、具合はどうです?」
後ろにさっきの彼女も続く。イーグルは簡素なベッドに身を起こした。
「あぁ、悪くない。ぐっすり眠れた」
アルトはほっとした顔を浮かべる。しかしすぐにきっと眉を吊り上げた。
「なぜ勝手に街へ行ったのですか! 大事になったらどうしてたんですか!」
突然の大声に頭がキーンとなる。イーグルは街で自分の力が暴走したことを思い出した。
「そういえば俺、火は……?」
アルトはふんっと息を一つつくと、後ろを振り返った。
「イーグル、紹介します。こちら助けていただいたレインさん。雨の魔術師です」
この世界には魔術師と呼ばれる者が存在する。
魔術師は風や水など、一つの物体を操ることができる。血筋は関係なく、どのような法則で魔術師が生まれるかはだだはっきりしていない。生まれてから三歳頃にその力は出現し、魔力を持った人間は魔術師として生きていくことになる。
レインは雨の魔術師、イーグルは火の魔術師だった。
「レインさんが通りかからなかったらどうなってたことやら……。まったく、あなたは反省してるんですか!?」
叫ぶアルトにイーグルは耳を塞いで顔を背ける。そしてレインの方を見た。
「助けてもらったようで申し訳ない。ありがとう」
「いえ……」
レインはふいっと目を逸らす。そっけない態度にイーグルは面食らう。何か悪いことをしただろうか?
「時にイーグル、火の力はどうです?」
問われてイーグルは目を瞬かせる。彼の力は十八を超えてなお不安定だ。大きすぎる力を持て余している。イーグルは自分の掌を見つめた。
「そういえば……落ち着いてるな」
それは今までになかった感覚だった。身の内で暴れる力が、今は凪いでいる。
「やっぱり……」
アルトはぽつりと呟いた。
「イーグルの力は並大抵のものではありません。それこそ私が抑えるのも精一杯なくらいに」
アルトは大気の魔術師である。その力はこの国一だ。
「ですがレインさんはあなたの火を消すことができました。そこで、です。あなた今眠ってましたよね?」
「それが何か?」
「燃えてません」
アルトは塔を指した。言われてイーグルの目は見開かれる。
毎夜、イーグルの力は暴走していた。自我を保てる日中は平気だが、寝ている間はコントロールが利かないのだ。周囲を火の海にしてしまう。
だからこそ、この石造りの塔に軟禁されていた。火の力が暴走したとき、塔の酸素が尽きるまで閉じ込められている。薄くなった空気の中で、ただ火が消えるのを朦朧と待つことがイーグルの日常だった。
しかし先ほど、イーグルは「ぐっすり眠れた」と言った。周りが燃えた痕跡もない。
「手を、握ってたんです」
イーグルがアルトの後ろに視線をやった。それまでずっと黙っていたレインが口を開いた。彼女は自分の右手をじっと見つめている。
「あなたの手を握っていると、不思議と落ち着きました。これは何なんでしょう?」
アルトがかつんと靴を鳴らして、レインに向き直った。
「火と水は相反するもの……。お互いがお互いの力を抑制し合っていたのでしょう。イーグル、あなたいつもレインさんの手を握ってなさい」
「はぁ!?」
「肌が触れ合うことで効果は増すようです。あぁ、もちろん寝るときは絶対ですよ」
「えぇ!?」
今度はレインも声を上げた。
アルトはふんっと鼻息荒く言う。
「聞けばレインさんも自分の力をうまく扱えなくて王都に来たというじゃないですか。レインさん、この条件を飲むのなら、この国随一の魔術師である私が、直々に魔力の扱い方をお教えいたしましょう」
二人に拒否権などなかった。にっと笑うアルトに、二人は黙って頷くしかなかった。