第一話
一章ごとにヒロイン攻略予定。
この章のみファミコン等の懐かしネタ、楽屋発言が多いです。
では、よろしくおねがいします。
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日本において老衰で亡くなる割合が10万人中20人程度だというどこかの省の調査結果を見たのは確か新聞の二段抜きされた囲み記事だったなあという記憶だが、同時に頬張っていた豚の角煮を細かく刻んだ特製手作りチャーハンとススキノの中華屋で売っていた本格餃子(5ヶ398円)と近所のスーパーで一度しか並ばなかった激辛四川風春巻きまでを思い出すことが出来た。
ちなみに専門店で『本格』と銘打っている商品ってのは、大抵が言葉どおり本格的な雰囲気を持った出来栄えで納得できる一品なのだが、個人的には特に目立った宣伝文句もないメニュー表の割に、何を頼んでも本格派な料理が出てくる店のほうがよほど本格的だよなあという感想を漏らしていたことも同時に思い出す。
春巻きは新米主婦が匙加減を間違えて激辛にしちゃったラブリィな一品だと考えることも出来るが、熱いのか辛いのかよくわからないレベルだったため、たとえ新妻が裸エプロンで作っていても受け入れ難い品だった。しかし裸エプロンで調理中に旦那と甘いひと時を過ごしていたのならば分量を間違えても仕方がない。ただそれは旦那が食えやとエプロンすらない部屋で妄想に対し憤っていた悲しい記憶は今の状況に全く関係ないため隣に放り投げることにする。
ついででチャーハンであるが、『角煮のうまみだけで作ってみよう』と技能が無いにも関わらず創作料理を始めた結果、角煮の油が混じっただけのギトギト角煮ライスが出来上がったのだが、紛れも無くチャーハンであったという感想しか出てこない時点でそのときの自分に対して深い頷きで返し、思い出さなかったことにした。
話を戻そう。
確かに、老衰での死亡割合を知ったときは驚きがあったものの、頬張っていたチャーハンと餃子と春巻きを喉に詰まらせるほどではなかったことを、これまたはっきりと憶えている。
記事の見出しで誤解されそうなものだが、記事をもっと読めば亡くなった10万人のうちの結果ではなく、無作為抽出されたサンプルを10万人用意し、一年後に確認してみると亡くなった人は770人で老衰が17人ということだった。
その時点での無作為抽出だから、出生届けが出されたばかりの赤子も、死亡届けの出されていない、今まさに病院で亡くなった人物も含まれる。
人が老衰で死ぬのは確率は0.0017%なのかと驚いたのだが、正確に記事を理解したあとでも2%程度だったことに少々驚いていた。
思えば、俺の曾祖母は90歳近くになっても元気な声を上げて野良仕事に精を出していたが、帰り道で転倒し骨折→入院生活で心身ともに弱って病気を併発→死に至った、ということを考えるとなかなか老衰で死んだという人を見た記憶がない。
葬式では大往生だと誰もが言っていたが、病気でもそれはいいものなのだろうか。
同じ時代を長く過ごしてきた祖父母達は死を身近なものとして捉えており、曾祖母の死という事態の受け入れも消化も早かった。
その姿を見ていた親世代もある程度は認識できるようだが、俺の世代になるとあやふやで、どう受け入れていいか難しいものがある。
冷たい、動かない、硬い、喋らない。
そういった状況確認で死を認識することは出来るが、その人物が居なくなるという実感がもたらされるのは後になってからだった。
なにかを思い出し、そこから繋がる会話をしようとしても、対象の相手は死んでいることに気付く。ようやくそこで居ないこと、二度と会えないこと、そしてその重さを実感した。
こういった死と向かい合うことは経験でしかなく、何度も立ち会えば自然と受け入れるようになる。それがどうしようもない現実であるからだ。
テレビでは血すら映すべきではないと言い、寿命が伸びた上に村社会が薄れた現代では葬式にいく回数が減った。死体を触ると穢れてしまうという感覚があり、ストレスの少ない社会で育ってきた子供の側から言うならば、こういった出来事を受け止められないのである。
ストレスの無い社会といえばまず学生時代が挙げられるものの、在学中の生徒にとっては反発したくなることだろう。
確かに社会からは守ってくれるだろう。しかし味方からの攻撃は守ってくれないのだ。
俺にとって学校とは安全と保身という奇妙な壁で覆った監獄のようなものだった。
卒業すると自由の翼を手に入れ、皆その壁を飛び越えられるようになる。しかし翼は得たところでどこへ向かっていけばいいのか分からかった。
分かっている奴は飛ぶ前から羽の強度を確認し、目的地の方角と距離を観測し、耐えうる体力の底上げを図ったりと入念な準備をしていたのだろうが、俺は監獄の中でそれなりの模範囚を役を演じていれば幸せであったから飛ぶことなど考えていなかった。
いや、翼を貰えることすら実感が湧かなかったというほど阿呆な子供であった。
だからこそか、興味本位で空を舞うものの降りる場所など考えず、そして力尽き墜落する。
堕ちる際に恐怖はあったが、翼が折れることはなかった。
いっそのこと折れてしまえばその土地で生きるしかなかったのだが、翼があるうちは空を翔けたかった。
空の美しさ、空を飛ぶ楽しさを知ってしまったからだ。
とはいっても飛ぶことが目的なため、また力尽き墜落した。再び飛び上がる。そうこうしているうちに距離だけは伸びる。
ときおり衝撃的な出来事によって遠くに飛ばされたり、降り立ってしばらく過ごしていたりしたこともあった。
また似たような者たちと協力して本人の思いもしない場所へと移動していたりもする。
そうして得たものは望んだ答えではなかったことが多い。
自分自身が無いと言ってしまえばそれまでだが、どういう結果であったにしろ、それはそれで楽しかったし、人はこうして成長していくものなのだろうと思っていた。
また話が飛んだので元に戻そう。
死亡率についてだ。
記事では10万人のうちの多くが老衰するような年齢ではない。
奇妙な星の下に生まれ20歳で寿命が尽きるような病を抱えたりする人もいるかもしれないが、ここでは深く掘り下げはしない。そういう悲劇的な感動話を希望の人は乙女向けの携帯小説にいくことをお勧めする。
老衰は老齢による身体機能の低下が起こす症状である。
長く生きていれば何かしらの大きな不幸はあるものだし、年齢を重ねるにしたがって老いは付きまとうものだ。交通事故に合う確率は変わらないが、避けるだけの体力や、怪我した際の回復力が変わったりする。
自分が老衰で死ぬ確率は約2%。
雷や隕石が落ちて死ぬ確率よりかは遥かに高い確率だし、具体的に言えば100個の玉を転がせば2個くらいは目当ての穴に入るという割合である。
そう考えれば割と当たりやすそうに見えるが、一クラス30人だとすると三クラス集めても将来老衰で死ねるのは二人いるかどうかという確率なのだ。
思い出に残る同級生は、みんな寿命よりも前に病気か事故で死ぬのである。
人は泣きながら生まれ泣きながら死ぬというが、それは本人のことではなく、両親の感動の涙から始まり、子供や孫たちの悲しみの涙に包まれて死ぬものだと解釈していた。
高い確率で苦しんで死ぬことが前提の世界なのだと理解したあと、実は悔恨と拒絶からこぼれる涙で生まれ、絶望の苦痛で流す涙で終わるのではないかと。
それはあたかもモヒカントゲトゲ肩パットを着るようなの世紀末世界だなという感想を漏らしてしまったことは、死に対する想像力が薄い現代っ子はそういうものなんだろうというご理解をいただきたい。
とまあ、である。
このように飛び飛びな上に感情論に満ちた話でウェブスペースを盛大に埋めることになっているのだが、これにはもちろん原因があるのだ。
何が言いたいかといえば、まず俺こと高屋敷甚平たかやしき・じんぺいはまだ20代であり、老衰するよりも事故死のほうが確率は高いということだ。
そして、エレベーターの閉まりぎわにスライディングしながら入ってきた中年サラリーマンと狭い箱の中で二人きりになってしまった乙女のような動揺をしているからであり、現状を把握するならば、胸部から腹部にかけて七つの創痕がある世紀末の拳法家に言われるまでもなく『俺はもう死んでいる』らしいのである。
正直、わけがわからなかった。
初投稿でビクビクしている石川先生に励ましのお便りを!