第五話 戻らない理由と、静かな勝利
花を置いたのは、最初の子どもだった。
朝、レインが外へ出ると、子どもは少し気まずそうに立っていた。
「これ……母ちゃんが。昨日、ありがとうって」
花の下の紙片には気づいていない。子どもはただ、花を渡したかっただけだ。
レインは紙片を拾い、子どもには見せずに懐へ入れた。
「母ちゃん、元気になった?」
子どもは胸を張った。
「うん! 笑うようになった!」
それだけで、レインは十分だった。
王都の公布など、恐ろしい。噂が立てば、村にも迷惑がかかる。自分の静けさが壊れる。
けれど、目の前の笑顔が、心の奥の恐怖を少しだけ押し返した。
昼、村長が店に来た。普段は穏やかな男が、今日は珍しく硬い顔をしている。
「王都から、妙な話が回ってきた」
レインは黙って頷いた。
村長は机に手を置き、言う。
「……この村に、居続けてくれないか。噂が来ても、守る。お前がここで作る一皿は、もう“村の火”だ」
村の火。
その言葉が、胸の奥で静かに燃えた。
レインはゆっくり言った。
「一日一皿なら」
村長は笑った。
笑いながら、少しだけ目を潤ませた。
「それでいい。毎日じゃなくていい。続くなら、それでいい」
その夜、王都から最後の書簡が届いた。
名誉、地位、復帰。
ただし、従わなければ追放理由を公布する――と、遠回しに脅している。
レインは書簡を開いた。
そこに書かれていた“追放理由”は、あまりに醜かった。
「王を軽んじた」
「晩餐会を侮辱した」
事実ではない。だが、事実かどうかは王都では重要ではない。重要なのは、誰が語るかだ。
レインは深く息を吸い、厨房の火を入れた。
鍋ではない。暖炉の火だ。
書簡を折り、火にくべる。
紙が燃える音は、驚くほど静かだった。
静かで、優しい音だった。
――脅しが消えたわけではない。
だが、レインの心から「揺さぶり」が消えた。
翌朝、村の広場で小さな騒ぎが起きた。
王都から来た商人が叫んでいる。
「王都の晩餐会、また失敗だ! 王が倒れたって噂だぞ!」
村人たちがざわめく。
レインは立ち止まり、胸の奥に沈むものを感じた。
自分の料理が合っていた。だから邪魔だった。
その結果、王都は“派手さ”で王を壊した。
村の子どもがレインの袖を引く。
「ねえ、今日の一皿は?」
レインは顔を上げた。
王都の崩壊は王都の問題だ。
ここで火を守ることが、自分の選択だ。
「……豆の煮込みにしよう。今日は寒いから」
子どもが笑う。
その笑い声が、王都の喧騒よりずっと重かった。
レインは厨房へ戻り、火を弱める。
塩をひとつまみ。
今日を壊さない一皿を作る。
――そのとき、戸の外で蹄の音が止まった。
昨日のような高級な馬ではない。
もっと重く、軍の匂いがする足音。
扉の向こうで、低い声が言った。
「王命だ。レイン・アルド。開けろ」




