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追放された宮廷料理人ですが、辺境で一日一皿だけ作って生きます  作者: 百花繚乱


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第5話 判断できない日

市場は、止まっていなかった。

だが、流れが乱れていた。

夜半から吹き続けた風で、港の荷が遅れた。

冷え込みが強く、野菜の一部が凍みた。

道が混み、到着時刻がずれ、「いつもの順番」が崩れた。

崩れたのは順番だけではない。

匂いの層が、読めない。

レインは市場の端に立ち、箱のふたを開ける前に、空気を吸った。

いつもなら分かる湿りの違いが、今日は曖昧だ。

乾きも、水分も、混ざっている。

青果商が肩をすくめた。

「今日は読みにくいな」

レインは頷いた。

「ええ」

読みにくい。その一言で済む日は、滅多にない。

宿に戻ると、厨房はざわついていた。

仕入れの一部がまだ届かない。

代替品を手配するか、待つか。

若い料理人が言う。

「どうします?」

その問いは、いつもより早い。

いつもなら、レインが先に線を引く。

今日は、線を引く材料が揃っていない。

仕入れ表を開く。

数字は予定通りだが、現物が違う。

予定は、昨日の空気で書かれたものだ。

「……少し待ちます」

レインは言った。

待つ。

それは、止めるよりも難しい。

「でも、宴会は夜です」

「分かっています」

焦りが、厨房に薄く広がる。

焦りは判断を急がせる。

昼の営業が始まる。届いた素材で回すしかない。

量は足りるが、質が揃わない。

若い料理人がまた聞く。

「線は?」

線。

その言葉が、胸に重く落ちる。

レインは箱を一つ持ち上げ、ゆっくり戻した。

今日は、線が引けない。

理由が見えない。天候か、運搬か、

あるいは自分の読み違いか。

「今日は、引きません」

静かに言う。

厨房の音が止まる。

「引かない?」

「全部、使います」

使わない判断で成立していた現場に、逆の指示が出る。

「大丈夫ですか」

「分かりません」

正直な言葉だった。

夜の宴会は、問題なく終わった。

だが、達成感は薄い。

偶然うまくいっただけかもしれない。

捨て場に立つ。今日は廃棄が少ない。

だが、その少なさに確信がない。

若い料理人が小さく言う。

「線がなくても、回るんですね」

レインは首を振る。

「今日は、たまたまです」

判断は、当たる日と外れる日がある。

外れた日でも、事故にならないことがある。

市場へ戻ると、北通りの店の料理人が立っていた。

「うちも、今日は読めなかった」

男は疲れた顔で言う。

「真似とか関係なく、今日は難しかった」

レインはその顔を見た。

焦りは消えている。

代わりに、慎重さが戻っている。

「線は、毎日同じじゃない」

レインは初めて、少しだけ長く言葉を出す。

「昨日引けた線は、今日には消えます」

男は黙って頷いた。

「それでも、線は必要ですか」

問いが、静かに落ちる。

レインは市場の箱を見た。

今日は、どれも少しずつ違う。

「必要です」

「でも、奪われる」

「形だけです」

男は苦く笑う。

「形が広がると、本物も疑われる」

その通りだ。

レインは市場の端に立ち、自分の手を見る。

線を引く手が、今日は震えていない。

引けなかった。それでも、崩れなかった。

奪われるとは、盗まれることではない。

揺らされることだ。

揺らされても、戻せるかどうか。

次の日、レインは市場の最初の箱に触れた。

ゆっくりと、新しい線を引く。

昨日とは違う位置に。

判断は、奪われない。

奪われたように見えても、引き直せる。

だがその線を、守れる人間は限られている。

火に立たない料理人の仕事は、ここからさらに、孤独になる。

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― 新着の感想 ―
シリーズの中でいちばん“人間らしい”回だと感じました。線を引けない日がある、そして「分かりません」と言うレインの姿がとても誠実で重い。判断の強さではなく、揺らされても引き直せることが本質だと示された回…
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