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追放された宮廷料理人ですが、辺境で一日一皿だけ作って生きます  作者: 百花繚乱


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【第8部】 判断が奪われる編 第1話 「あなたのやり方ですよね」

市場の朝は、季節の境目ほど音が鈍くなる。

寒さのせいで声が伸びないのではない。人の口数が減るのでもない。

“余計なことを言わない”空気が、自然にできる。

荷車が石畳を鳴らし、氷の削れる音がどこかで続いている。

青果の箱が積まれ、魚の桶が並び、粉の袋が壁のように立つ。

いつも通りの景色のはずなのに、レインは足を踏み入れた瞬間から違和感を覚えた。

視線が、増えている。

露骨ではない。噂があるときの市場は、むしろ露骨さを避ける。

「見ていないふり」をしながら、目の端で追う。

声をかけるべきか迷って、結局、隣の客に話しかける。

そういう視線が増える。

レインは袋を持たずに歩く。

箱を開ける手は出さない。匂いの流れを読むように、棚の前に立つだけだ。

買う日も買わない日も、まずは見る。

ここに来てから変わらない動き。だが、周囲の受け取り方が変わっている。

青果商が、いつもより早く声をかけてきた。

帳面を閉じる前の、忙しさがまだ指に残っている手で、レインを招く。

「来たな」

言い方が妙に短い。

親しみでも敵意でもない。“話がある”という合図の短さだ。

レインは棚の前に立ち、野菜の表面を見た。

土の色、葉の張り、根の乾き。今日は買える日だ。だが買う前に、聞くべきことがある顔を青果商はしている。

「噂になってるぞ」

青果商が言った。

「お前のやり方」

やり方。

料理人の世界で、その言葉は便利だ。技術、哲学、癖、全部をひとまとめにできる。

「ロスが減るってさ」

青果商は続ける。

「火に立たない料理人がいる、って話も含めてな」

レインは視線を上げないまま答えた。

「火に立たないわけじゃない。立たない仕事が増えただけです」

青果商は鼻で笑った。

「そういう理屈はどうでもいい。問題は、“真似する奴が出た”ってことだ」

真似。

その言葉に、レインの中で何かが小さく鳴った。

料理の技術が真似されるのは当たり前だ。

味の組み立て、火の入れ方、盛り付け、全部真似される。

だが、判断の真似は、形だけが先に歩く。

「どこが?」

レインは短く聞いた。

青果商は顎で市場の端を示した。

見切り箱が集まる場所。日当たりの悪い角。

そこに今日は、妙に整った木箱が積まれていた。

見切りの箱は、本来、雑然としている。

売れないものが集まり、行き場のないものが重なる場所だからだ。

だが今日の箱は、まるで“商品”のように並んでいる。

売れないものが、売れる形に整えられている。

「最近、あそこが動く」

青果商が言う。

「前なら捨てる分が、全部出ていく。しかも、決まった店に」

レインは箱の前に立ち、目だけで中身を追った。

見切りの野菜は確かにある。傷、歪み、色ムラ。

だが、その扱いが荒い。

束ね方が強すぎる。箱の底が湿っている。風が通らない詰め方だ。

売れないものを“売るために”押し込んだ詰め方。

「これを取る店がいるのか」

青果商は声を潜めた。

「いる。しかも、“ロス削減”って言ってな。うちの若いのが聞いてきた。『あの線引き、教えてくれませんか』って」

線引き。

言葉が一つだけ残っている。

理由も責任も抜けたまま、形だけが残るときの言葉だ。

レインは箱の端の一本を持ち上げ、すぐ戻した。

触った瞬間に分かる。今日中に終わらせなければいけない素材が、明日に回される匂いがついている。

善意の匂い。節約の匂い。だが一番強いのは、現場の焦りの匂いだった。

「誰の店だ」

レインが聞くと、青果商は少しだけ目を逸らした。

「……あんまり言いたくない」

それは守りたいというより、巻き込みたくない顔だった。

市場はつながっている。名前が出れば、その人間の売り買いが揺れる。

「ただ」

青果商は言葉を続けた。

「その店、最近やけに客が増えてる。“無駄を出さない店”って評判でな。お前の名前も、絡めて話してるらしい」

レインの喉の奥が、少しだけ乾いた。

名前が絡む。

関与していないのに、関与したことになる入口だ。

市場から戻る途中、レインは契約先の宿へ寄った。

厨房の入口に立つと、以前よりも空気が整っている。

動きが速いわけではない。だが、迷いの音が減っている。

若い料理人がレインを見つけ、近づいてきた。

目が少し明るい。現場がうまく回り始めている証拠だ。

「聞いてください」

若い料理人は、嬉しさを抑えきれない声で言った。

「他の店も、同じことやってるみたいです」

レインは返事をせず、仕入れ表を受け取った。

数字は改善している。廃棄は減っている。

ここまでは良い。

「その店、うちのやり方を参考にしてるって」

若い料理人は続ける。

「“線を引けばいい”って」

線。

またその言葉だ。

「誰が言った」

「経営の人が。『レインさんの手法が市場で話題になってる』って。だから、うちも誇っていいって」

誇る、という言葉は甘い。

甘い言葉は、現場の注意を鈍らせる。

レインは表の端に指を置き、ゆっくりなぞった。

線は、引くためにあるのではない。

守るためにある。

守れない線は、最初から引かない方がいい。

厨房の奥で、別の料理人が会話しているのが聞こえた。

「ロスが減るなら、やりゃいいじゃん」

「でも、下処理しないって…怖くない?」

「怖いなら、念のためやっとけばさ」

念のため。

以前に事故が生まれた言葉。

短くて、便利で、最も危うい言葉。

レインは仕入れ表に線を引き、短く言った。

「今日は、ここまで」

若い料理人が頷く。

だが、その頷きは“理解”ではなく“安心”に近い。

仕事が終わり、宿を出ると、夕方の空気が冷たかった。

帰り道、レインは市場の端をもう一度通った。

見切り箱が、いくつか空になっている。

誰かが持っていった。

しかも、今日のうちに。

それ自体は悪くない。

だが、持っていった先がどこで、どう終わるのかが見えない。

「ねえ」

背後から、聞き慣れない声がした。

振り返ると、見知らぬ男が立っている。料理人の手だ。

指に小さな火傷跡があり、爪の間が薄く黒い。

最近火を強く使っている手だ。

男は遠慮のない距離で言った。

「あなたがレインさん?」

レインは答えなかった。

市場で名前を聞かれるとき、たいてい良いことは起きない。

男は笑った。

「俺、あなたのやり方、真似してるんですよ」

真似している。

胸の奥が、さらに乾く。

「ロス、減りました。評判もいい」

男は続ける。

「だから、ちょっと聞きたいんですけど」

男は簡単な顔で言った。

「線って、どこに引けばいいんですか?」

その問いは軽い。軽すぎる。

軽い問いに、重い答えは乗らない。

レインは男を見た。目が輝いている。成功の目だ。

だが成功は、事故の直前ほど輝く。

「線は——」

レインは言いかけて、止めた。

言葉にした瞬間、その線は別の形で持ち運ばれてしまう。

代わりに、レインは短く言った。

「あなたの現場を見ないと、引けません」

男は一瞬、顔を曇らせた。

期待していたのは、簡単な答えだ。紙に書けるルールだ。

それがないと分かると、人はすぐ別の場所へ行く。

「じゃあ、いいです」

男は肩をすくめた。

「うちは、うちでやるんで」

男は去っていった。その背中は軽い。

軽いまま、線を引いてしまう背中だ。

レインは市場の端に立ち、空になりかけた箱を見つめた。

素材は今日、確かに救われたかもしれない。

だが、終わり方は救われたのか。

判断は奪われる。盗まれるのではない。

持ち運べる形にされて、別の場所で使われる。

そのとき、責任だけが置き去りになる。

帰り道、レインは自分の指先を見た。火傷の跡はない。

火に立っていない証拠だ。

それでも、今夜は妙に手が熱かった。

火に立たなくても、燃えるものがある。

それが、いま始まった。

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― 新着の感想 ―
“ロス削減”という正しそうな言葉が、判断や責任を削ぎ落としていく怖さが印象的。「線は守るためにある」というテーマがはっきりしていて、レインが簡単な答えを渡さなかった場面が特に良かったです。
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