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追放された宮廷料理人ですが、辺境で一日一皿だけ作って生きます  作者: 百花繚乱


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第五話 それでも火には立たない(第七部・完)

契約書に署名したのは、朝だった。

事務室の窓は開けられておらず、紙の音だけがはっきりと響いた。

――判断責任者。

その肩書きは、料理人という言葉よりも軽く、同時に、はるかに重かった。

火に立たない。鍋を振らない。

だが、失敗の説明からは逃げられない。レインはペンを置き、紙を返した。

経営側の男はそれを受け取り、何も言わずに一度だけ頭を下げた。

「今日からです」

その言葉に、開始の実感はなかった。

始まるというより、すでに始まってしまっている感覚の方が近い。

厨房に入ると、空気がわずかに変わっていた。

音は同じだが、手の動きが慎重になっている。

仕入れが届く。箱を開ける前に、全員が一瞬だけレインを見る。

「今日は、ここまで」

レインは短く言い、仕入れ表に線を引く。

昨日よりも、ほんの少し短い線。

誰も異を唱えなかった。代わりに、確認の声が出る。

「これは、触らないですね」

「はい」

「下処理も?」

「しません」

会話は短く、正確だった。

先日のような“念のため”が、まだ言葉になる前で止まっている。

昼の営業が終わる頃、若い料理人がレインに近づいた。

「……今日は、楽でした」

楽、という言葉に、レインはわずかに驚いた。

「何をしていいか、分からない時間が減りました」

作らない判断は、手を奪う。

だが、判断の持ち主がはっきりすると、手は迷わなくなる。

夕方、廃棄予定の箱は一つも出なかった。

数は少ない。売上も、劇的には伸びていない。

だが、捨て場は静かだった。

経営側の男が帳面を閉じて言う。

「派手ではありませんね」

「派手にすると、壊れます」

レインはそれだけ答えた。

夜、厨房の片付けが終わる。誰もが帰り支度を始める中、一人の料理人が鍋を指差した。

「……レインさん、一度も火を触ってないですね」

それは責めでも皮肉でもなかった。ただの確認だった。

「触りません」

レインは即答する。

「ここでは、火を入れる前に終わっている仕事の方が多い」

料理人は少し考え、ゆっくり頷いた。

「じゃあ、俺たちは火の番ですね」

その言葉に、役割が静かに分かれた気がした。

夜、食堂に戻る途中、市場の前を通る。仕入れ先が声をかけてきた。

「最近、ずいぶん静かに買うようになったな」

レインは立ち止まり、答える。

「人の現場なので」

「面倒じゃないか」

「面倒な方が、壊れません」

仕入れ先は鼻で笑った。だがその笑いは、以前よりも柔らかい。

食堂に戻ると、扉は閉まったままだった。今日も、火は入れていない。

それでも、レインは確かに料理人だった。

判断を引き受け、判断を譲らず、それでも作らない。

その姿は、次の仕事を呼び始めている。

雇われる。契約される。だが、どこまで引き受けるのか。

火に立たない料理人の仕事は、ここから、さらに厄介になる。

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― 新着の感想 ―
「火に立たない」という選択を貫きながら、判断を引き受けるレインの姿がとても鮮明です。派手な成功も劇的な変化もないのに、厨房の空気や言葉の精度が変わっていく描写が見事。「面倒な方が、壊れません」という一…
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