第三話 客ではない立場
市場の青果商は、朝から機嫌が悪かった。
理由は簡単だ。忙しいのに、忙しさが報われる気配がない。野菜は動く。金も動く。だが最後に残る疲労だけが重い。そういう季節がある。
そこへ、またあの料理人が来た。
袋を持たず、目だけで品を測る男。
買うのか買わないのか分からず、買わないなら来なくていいと言いたくなる男。
青果商は、先回りするように言った。
「今日は何だ。昨日みたいに眺めて帰るのか」
レインは棚の前で立ち止まり、頷きもしない。
手を伸ばさず、距離を保ったまま、黙って見る。
その沈黙が、青果商には一番腹が立つ。
値段を聞いてくるなら、こちらも値段で戦える。
「全部ください」なら、笑って荷を積める。
「安くして」なら、ため息をつきながらも交渉はできる。
だがこの男は、買わない理由を曖昧にしない。
誤魔化さない。だから腹が立つのに、納得もしてしまう。
レインは一つの籠の前で止まり、ようやく口を開いた。
「今日は、使い切れません」
青果商は噛みつくように言う。
「使い切れないって、そんなの料理人の都合だろ。商売は都合で回ってんだよ」
「都合で回るから、失敗が捨てられる」
レインは淡々と言った。
「捨てる前提で回すなら、最初から買わない」
その言い方は、責めているようで責めていない。
ただ、線を引いているだけだ。
青果商はふと、レインの指先を見た。今日も袋がない。手が空いている。空いているのに、目だけは忙しい。
他の料理人たちは、早口で注文し、札束みたいに材料を積んでいく。
店が回るからだ。客が多いからだ。人気があるからだ。
それは正しい。正しいが、正しさの裏で、失敗が静かに増える。
その失敗を誰が拾うのか。拾う者は、商売向きではない。
青果商は苛立ちのまま、棚の奥の荷を指した。
「じゃあ何だ。買うなら言え」
レインは視線を移し、少し間を置いた。
「今日は、これを少し」
少し――その言葉に、青果商の肩から力が抜けた。
少し買う客は面倒だ。だがこの男の場合、少しが「逃げ」ではない。
少ししか買わないからこそ、全部を見る。
全部を見るからこそ、今日買わない理由を言い切れる。
青果商は荷を渡しながら思う。
この男は、素材の失敗を背負う覚悟がある。
背負う覚悟がある者は、背負わないための買い方をする。
だから大量に買わない。だから値切らない。だから、嘘をつかない。
荷を受け取ったレインは礼も言わず、ただ去ろうとした。
青果商は咄嗟に声をかけた。
「次は……最初に声をかける」
言ってから、自分でも驚いた。
商売の世界で、最初に声をかけるのは「得意客」への扱いだ。
だがレインは得意客ではない。
客ではない立場で、ここに立っている。
レインは振り返らずに、短く返した。
「助かります」
その一言に、媚びがない。
だから青果商は、妙に気持ちが軽くなった。
売る側も、誰かに誠実であっていいのだと思えた。




