【第六部】材料を選ぶ仕事編 第一話 火を入れる前の仕事
夜明けの街は、まだ寝返りの途中みたいに静かだった。
石畳に薄い霜が残り、軒先の看板は夜露を乾かしきれずにいる。
食堂の扉に手をかけたレインは、いつものように鍵を回さなかった。
代わりに、厨房の窓から差し込む白い光だけを一度見て、背を向ける。
今日、火は使わない。
それは怠けでも休みでもなく、段取りの一部だった。
街の端へ向かう小道を歩く。裏通りの水路からは湿った匂いが上がり、遠くで荷車の軋む音が鳴る。
市場はまだ完全には起きていない。だが、早起きの者たちが先に呼吸を始めている。
青果の棚は布で覆われ、魚の桶は蓋をされ、粉屋の袋だけが整然と積み上がっている。
レインはその間を、買い物袋を持たずに歩いた。
最初に顔を出したのは青果商の屋台だった。
男はまだ手袋をはめながら、いつものように言う。
「お、今日は早いな。何にする?」
レインは返事をせず、棚の端から端まで視線を滑らせる。
葉物の先が微かに丸まり、根菜の土がいつもより白い。触れずに分かることがある。棚の前に立つだけで、荷の旅路が見える日がある。
「……何も買わないのか?」
男の声が少しだけ固くなる。
レインはようやく顔を上げた。
「土が乾きすぎてる」
男は眉をひそめ、怒りか笑いか分からない息を漏らした。
「乾いてる方がいいだろ。泥だらけで来たら文句言うくせに」
レインは首を振る。
「乾き方が違う。風に当たって乾いたんじゃない。水が切れて乾いた」
言い切ると、そのまま屋台を離れた。
青果商は追いかけてこない。追いかけるほどの理屈が、まだ自分の手の中にないことを知っている。
理屈のない不満だけが残り、次の客の声に押し流される。
次は漁師の荷が集まる場所だった。まだ氷の塊が解けきらず、桶の縁に白く貼りついている。
魚の目は澄んでいるのに、匂いが少し違う。水が、昨日と違う。
レインは桶のそばにしゃがみ、手の甲で空気をすくうように嗅いだ。
「買わないのかよ」
漁師が言う。声の奥に疲れがある。顔色が悪い。寒さではない色だった。
「水温が変わってる」
レインは桶の水面を見ながら言う。
「そんなの海の気分だろ」
「海の気分じゃない。人の都合だ」
レインの視線は漁師の頬の影に止まった。睡眠不足の顔。焦りの呼吸。
昨日とは違う手の動き。――水温が違うのではなく、持ってきた者の夜が違う。
漁師は舌打ちし、桶の蓋を乱暴に閉めた。
「買わないなら来なくていいだろ」
市場の言葉は簡単だ。売るか、買うか。
その二つの線で世界を切るから、生きていける。
レインは立ち上がり、静かに言う。
「見るのも、仕事です」
その言葉だけが、冷たい空気に残った。漁師は鼻で笑ったが、笑い切れていなかった。笑ってしまうと、今の自分の顔色まで笑われる気がしたからだ。
最後に農家の荷車へ向かった。
根のついたままの葱、籠に詰められた芋、表面に薄い霜を纏った林檎。
農家の手は良い。爪の中に土が残っていても、指先の動きに乱れがない。
だが今日の荷には、微かな「急ぎ」が混ざっていた。結び目が強すぎる。籠の布がきつい。運んだ後の手が、まだ戻っていない。
レインは荷の横に立ち、少しだけ目を閉じる。
土の匂いは正直だった。湿りが足りない。雨が少ない。だが、それだけではない。
畑が疲れている匂いだ。季節の無理が染みついた匂い。
農家は、何も言わずに待った。
レインは何も買わずに、その場を去った。
市場を一巡して、レインの手は空のままだった。
誰にも説明しない。説明は、買う側の言い訳になるからだ。言い訳は軽い火を生む。軽い火は、材料の弱りを誤魔化す方向に向かう。
食堂に戻る道すがら、街はようやく起き始めていた。
窓が開き、湯気が上がり、子どもの声が道に落ちる。
いつものなら、レインの食堂の煙突にも薄い煙が上がっている時間だ。
だが今日は、扉は閉まったままだった。
看板も出さない。椅子も並べない。厨房の火口は冷たい。
「今日は休みか」
通りがかりの常連が、扉の前で小さく呟いた。
返事のない木の扉は、ただ立っている。
昼、レインは一度も鍋を触らなかった。
代わりに、水を汲み、布を洗い、刃を研ぎ、棚を拭き、空気の流れを整えた。
何かを作るための動きではない。作らない日を成立させるための動きだった。
夕方、空が灰色から青へ戻り始める頃。
レインは台所の窓辺に立って、指先で何度も同じ場所を撫でた。
市場の端で見た、ある素材の感触が、指に残って離れない。
夜。食堂は閉めたまま。
けれど頭の中だけが、ひとつの素材を何度も持ち上げ、角度を変え、光に透かし、戻す。
――今日は何も起きなかったはずなのに。
起きなかったからこそ、離れない。




