第四話 守られない一日一皿
その日は、朝から空気が落ち着かなかった。
店の前に人が集まる速度が、いつもより早い。
誰も声を荒げてはいないが、視線の動きが忙しい。
鍋の火を見つめながら、男は何度も外を確認していた。
「今日は、多いですね」
レインが声をかけると、男は小さく笑った。
「ええ。たぶん、選ばれない前提で来ている人が多い」
その言葉の意味は、すぐに分かった。
客たちは順番を期待していない。
ただ、ここに来て、待つこと自体を選んでいる。
鍋の中では、根菜が静かに煮えている。
香りは控えめで、強さはない。
だが、焦りもない。
昼を少し過ぎた頃、二人の客が同時に姿を見せた。
どちらも、明らかに余裕がなかった。
一人は若い女で、目の下に濃い影がある。
もう一人は中年の男で、手を落ち着きなく動かしている。
二人とも、ほぼ同時に言った。
「今日は、どうしても」
周囲が息を呑む。
一日一皿である以上、選べるのは一人だ。
男はしばらく二人を見ていたが、すぐに決めなかった。
代わりに、椅子を二つ並べる。
「少し、座ってください」
それだけだ。
時間が流れる。
女は何度も指を組み替え、男は膝を叩く。
やがて女が言った。
「……選ばれないんですか」
男は首を横に振る。
「今日は、選べません」
その言葉に、ざわめきが走る。
「どういう意味だ」
「それは、逃げじゃないのか」
中年の男が声を荒げる。
男は、初めて深く息を吸った。
「今日は、二人とも“待てない側”です」
静かな声だった。
だが、逃げではない。
「だから、一日一皿では足りない」
レインは、その言葉に眉をわずかに動かした。
それは明確な逸脱だった。
男は鍋に向き直り、火を強める。
そして、器を二つ並べた。
「今日は、二皿出します」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「ルール違反だ」
「それでいいのか」
誰かが言う。
男は頷いた。
「よくはありません」
「でも、今日はこれしか選べなかった」
料理は、急いで作られたものではない。
だが、慎重でもなかった。
若い女は食べながら、何度も息を整える。
中年の男は、無言で噛みしめる。
どちらも、劇的に救われたわけではない。
ただ、倒れなかった。
食べ終えたあと、二人は深く頭を下げた。
「助かりました」
「……間に合いました」
それだけだ。
客が去ったあと、店の前に沈黙が落ちる。
誰かが言った。
「本物じゃないな」
別の誰かが、すぐに返す。
「でも、壊れてはいない」
レインは、男の横に立った。
「破りましたね」
「はい」
「後悔は?」
男は、少し考えた。
「あります」
「でも、守っていたら、今日は何も残らなかった」
レインは、それ以上何も言わなかった。
破られた一日一皿は、価値を失ったわけではない。
むしろ、使われた。
正解ではない選択が、
その日を越えるために選ばれただけだ。
夜、鍋を洗いながら、男は言った。
「守られない思想でも、意味はありますか」
レインは、少しだけ考えてから答えた。
「破られるから、考え続けられます」
火を落とした店に、静かな夜が戻る。
一日一皿は、今日、確かに壊れた。
だが同時に、生き延びた。




