第二話 噂は、鍋の湯気から
この話は、
主人公が何かを成し遂げる回ではありません。
一日一皿という選択が、
少しずつ人に伝わり、
空気を変え始める回です。
料理は、言葉よりも早く噂になります。
良い意味でも、悪い意味でも。
静かな選択ほど、
遠くまで届いてしまうことがある。
それを、
まだ本人だけが知らない――
そんな段階のお話です。
翌日、子どもは母親を連れてきた。母親は恐縮した顔で、代金より先に頭を下げた。
「うちの子、最近あまり食べなくて……でも昨日は、帰ってから機嫌が良くて。すみません、変なお願いを」
レインは首を振り、今日の一皿を出した。昨日の出汁を少し濃くし、根菜の甘みを引き出すように火を入れる。母親は一口すすって、目を瞬いた。涙ではなく、驚きで。
「……温かい」
それは味の感想というより、体の奥がほどける感覚に対する言葉だった。
噂は、鍋の湯気のように広がる。大きくはならないが、消えない。
狩人が来たのはその次の日だ。肩に獲物の袋を下げ、椅子に乱暴に腰を下ろす。
「昨日のスープ、妙に腹に残る。しかも重くない。どうなってる」
レインは困惑した。特別な魔法はない。素材を無駄にせず、火を急がず、塩を少なく、温度を丁寧に整えただけだ。だが、その「だけ」が王宮では軽蔑され、ここでは歓迎される。
食堂が賑わい始めると、レインは最初に決めた制限を守り続けた。
一日一皿。それ以上は作らない。並んでいても断る。断られた者が怒らないのが、この村の良さだった。
「明日でいい」
「次はうちの番な」
そう言って帰っていく背中を見送るたび、胸が少し軽くなる。王宮で聞いたのは「今すぐ」「もっと」「派手に」だけだった。ここでは、人が自分の欲を少しだけ後回しにできる。それだけで、料理は争いから解放されるのだと気づき始める。
ある夕方、狩人がぽつりと漏らした。
「王都の飯は豪華だ。でも、帰り道がつらい。腹が満たされても、何かが削れる」
レインは返事をしなかった。自分も、そうだったから。
その夜、店の前に馬が止まった。立派な鞍、手入れの行き届いた蹄。村の者の馬ではない。
扉が開き、王都式の服装の男が入ってくる。背筋がまっすぐで、目が笑っていない。
「噂を聞いた」
それだけ言い、席に座る。
レインは鍋を見て、火を落ち着かせる。客が誰であっても、火の扱いは変えない。変えれば、料理が“相手”に支配されるからだ。
男は一皿を黙って食べた。咀嚼の音がやけに大きく響く。食べ終えると、箸を置き、短く言った。
「宮廷料理人だな」
否定しなかった。
男は続ける。
「なぜ、こんな場所にいる」
レインは少し考えた。言い訳はできる。追放だから、と言えば同情が買える。けれど、同情を入口にしたくなかった。
「……静かだからです」
男は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「静かさは厄介だ。人を、戻れなくする」
そう言い、男は名も告げずに去った。
扉が閉まった後、店の中に残るのは鍋の匂いと、胸の奥の小さな不安だけ。
翌朝、棚の上に置いたはずの包丁が、わずかに位置を変えていた。
――誰かが、店の中を見た。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第2話では、
「一日一皿」という選択が
レイン一人の問題ではなくなり始めました。
喜ぶ人がいる。
待てる人がいる。
そして、見ている人もいる。
静かさは、守りになりますが、
同時に目立つものでもあります。
次話では、
この“噂”がもう少しだけ、
形を持ち始めます。
よろしければ、続きをお読みください。




