キスされるのかと思った
静謐な夜に、テレビから流れる音だけが染み込んでいく。
今、僕と榊さんはベッドに背を預け、ぼぅっとテレビを見つめている。
ちなみに、榊さんは僕の真横に座っている。なんなら彼女は首を傾け、自分の頭を僕の頭にくっつけるように体重を乗せている。
はなれたりくっついたり、僕は榊さんの距離感がわからない。本当に、気まぐれな猫みたいだ。
この人、「別に好きじゃないが?」みたいな雰囲気を出しながらめちゃくちゃ僕に迫ってくるのズルくないか?
彼女が少し肩を揺らす度、髪から漂うほのかな紫煙の香りが僕の理性を溶かしていく。
この接近は、酒のせいなのだろうか? 彼女は酒に強いから、わざとという可能性も大いにあり得るが。
「酔ってますか」
「酔ってない」
食い気味で言われてしまう。
そうだった。お酒を飲む人に投げるこの質問は意味がないのだ。
「本当に酔ってない。まだビール二本しか飲んでないし」
言われて、ローテーブルの上を確認する。500mlの缶ビールの空き缶が置いてあった。僕からしたら既に結構な量に思えるのだが、榊さんからすれば酔うにはほど遠いのであろう。
ちなみに、今榊さんの手には三本目のビールが握られている。
「なんか、近く、ないスか」
「嫌か?」
「嫌じゃないです」
「じゃ、このままで」
「……」
なにこれ?
全くテレビの内容が入ってこないのだが。
「明日は学校あんのか?」
「えっと、はい」
僕らの間に流れる空気は、いつもとなにも変わらなかった。
榊さんが普段通りに接してくるから、僕もあまり気にしないことにしよう。この人普通に僕のベッドに潜り込んできたりするし、これくらいの接触、今更だよな。
「午前中で終わりなので、昼くらいには帰れます」
「ん。あたしは明日休みだから、明日大家に言いにいくか。同じ部屋に一緒に住んでもいいかって。金はまあ、全然二部屋分払ってもいいしな」
改めて言葉にされて、やっと実感が湧き始める。
そうか、僕。
これからずっと、榊さんと一緒に住むんだ……。
改まってそのことを考えると、なんだかいてもたってもいられなくなり、勢いよく立ち上がってしまった。
「うぉっ!?」
榊さんの声が下から聞こえた。
僕が急に立ち上がったものだから、僕に体重を預けていた彼女はバランスを崩してしまったのだ。
「急にどうしたんだよ?」
榊さんは、心配そうに僕を見上げている。
「あ、いや」
僕は今どんな顔をしているだろう。きっと、嬉しさやら恥ずかしさで溶けた、情けない顔をしているに決まっている。
そんな顔を見られたくなくて、僕は榊さんに背中を向ける。
「どうした? あたしの言動が嫌だったら、ちゃんと言えよ?」
「そうじゃなくて」
「なんだよ」
「うれっ、嬉、しくて……」
「あん? あたしと一緒に暮らせるのがか?」
「はい」
「んだそれ」
僕の後ろで、榊さんが柔らかく笑ったような気がした。
「興奮しただけかよ。心配して損した」
背後から、榊さんの立ち上がる音がする。
今の自分の顔を見られたくない僕は、彼女に背を向けたまま壁際に一歩進んだ。
「なんで逃げるんだ?」
「いや、別に」
「あたしに顔見られたくねぇんだろ?」
酒入ってるくせに、この人なんでこんなに鋭いんだよ!
トイレにでも逃げ込もうかと足を踏み出そうとした瞬間。後ろから、僕の両手首を榊さんに掴まれてしまった。
目の前に壁が迫る。
榊さんに、壁に押し付けられたのだ。
力、強っ!?
「じゃあ、公太郎の欲情顔を見せてもらおーか」
「欲情はしてませんっ!」
たこ焼きでもひっくり返すかのような気軽さで、僕の体は榊さんにより百八十度回転。そして、すぐに再び両手を拘束された。全く抵抗ができない。
くそ、恥ずかしい。きっと、僕は今赤らんだ情けない顔をしていることだろう。
晒された僕の顔を見た榊さんは、一瞬両目を広げ、すぐに頬を持ち上げた。
「公太郎って、結構かわいい顔してるよな。興奮してるときは特に」
榊さんの瞳の奥に、鋭利な光が弾けた。
これは完全に、獲物を狩る獣の目だ。
「イタズラしたくなる」
「えぇっ!?」
榊さんは、壁に僕を拘束したまま少しずつ顔を近づけてくる。彼女の長い睫毛が、僕の眼球に迫る。
や、やばい!
一体なにされちゃうんだ、僕!?
目を瞑ろうと、瞼に力を入れた瞬間。
「やめた」
もう少しで口と口が触れてしまうという距離で、榊さんが手の力を緩めた。
「お前の期待に満ちた目見ると、お預けくらわせていじめたくなるんだよな」
いい笑顔でそう言って、榊さんは僕の拘束を解いてくれた。
というか僕、また物欲しそうな顔してたのか? やばすぎる。
「ほんじゃな。シャワー浴びてくるわ」
何事もなかったかのように、その場を去る榊さん。
一人取り残された僕は、爆音を立てて鳴る心臓を上から押さえつけながらなんとか息を整えた。
たぶん榊さんは、僕をからかいたかっただけで、なにかをするつもりなんてなかったはずだ。
しかし、それはそれとして。
「キ、キスされるのかと思った……っ!」




