駄目イド
「お前の突っ込みが、あたしのボケを復活させた。お前といると、あたしは自然とボケられた。あたしは、お前を利用するために同棲を提案した」
雨だれのように淡々としたその言葉が、僕の鼓膜を撫で続ける。
「本当に、ごめんな。許してくれとは言わない。殴ってくれても、構わない」
深々と、榊さんが僕に向かって頭を下げる。
「公太郎とお前の友達が一緒に歩いてるとこを見て、あたしの中の罪悪感がピークに達したんだ。お前は、あたしみたいな自己中極まりないやつと一緒じゃなくて、もっとちゃんとしたやつと一緒にいるべきだと、そう思った。だから、あたしはお前から急に距離を取った。……自分から近づいといて、はなれるときも自分からって、最低だよな、あたし」
自嘲気味に、榊さんは笑う。
彼女らしくない、なんとも力ない笑顔であった。
「幻滅したろ? あたしのこと、嫌いになったろ? もう、会いたくもなくなったろ? ……だから、あたしはお前の元から姿を消すよ。芸人の道も……もう、諦める。もう、誰も笑わせられねぇよ」
榊さんの声は、震えている。
「なんて、なんて自分勝手なんだろうな。自分が、嫌になる……」
彼女の綺麗な瞳が、薄い膜で滲んでいるように見える。
それは、僕の涙なのか、榊さんの涙なのか。わからない。
「じゃあな。公太郎」
「榊さん……」
まだ吸いかけの煙草を無理やり潰して、榊さんは立ち上がる。
そして、彼女は屋上の入り口に足を向けた。
その場には、彼女の好きな煙草の残り香だけが残される。
なんとなく、ここで榊さんと別れると、もう二度と彼女とは会えないような気がした。
彼女の背に声をかけようして、榊さんが僕に言った言葉が思い出される。
榊さんが僕に告げた真実。
彼女が僕に近づいたのは。
僕に同棲を持ちかけたのは。
自分が再び、芸人という道に戻るため。
自分が信じる面白さを、取り戻すため。
もう一度戦うために、彼女は僕を利用した。
心臓が、痛い。体の異常な興奮で、破れてしまいそうだ。
もしかして榊さんは、僕の恋心にも気が付いていたのだろうか?
彼女は、それさえも利用した?
そんなの。
そんなのって……っ!
「榊さん」
僕が声を溢すと、屋上の扉に手を伸ばしかけていた榊さんはびくりと肩を跳ねさせ動きを止めた。そして、体ごと僕の方を向く。
しかし榊さんは僕の顔を見ることができないようで、所在なげに視線を下に落としていた。
正面から榊さんと向かい合いながら、僕は、自分の心臓を落ち着かせるために胸に手を当てる。
「榊さんが自分のために僕を利用してただなんて……。そ、そんなの……」
恐る恐るといった風にこちらを見る榊さんに、僕は大真面目な顔でこう言うのだ。
「──正直、めちゃくちゃ興奮しますけど?」
「は?」
唖然とした表情で、榊さんの口がぽっかりと開く。
先ほどまでの張り詰めたような空気は一瞬で消えうせ、アホみたいな沈黙が流れる。
僕のこの異常なまでの心臓の鼓動は──。
──そう。シンプルに大興奮しているからなのであった。
榊さんは何度か瞬きをしたあとに冷静にこう告げた。
「お、お前な……。よくこの状況で茶化せるな?」
「茶化してないですッ!」
「ぅえっ!?」
僕の大声に榊さんが飛び跳ね、一歩後ずさった。
「年上のやさぐれお姉さんにたぶらかされてたとか、死ぬほど興奮してしゃあないです!」
「そんな真面目な顔で、んなこと言うなよ!?」
榊さんは、普通に僕に引いていた。
別に、今更引かれてもどうでもいい。僕に引いてるその顔も、素敵で、美しくて、好きだから。あと、興奮するし。
榊さんはドン引きした視線を僕に送っている。
ああ、いい……その目……。
「これは強がりなんかじゃありません! 僕は、あなたに弄られると興奮する変態です! あなたに罵倒されると喜ぶマゾヒストなんです!」
「なんなんだよその最悪の自己紹介は!」
「僕はド変態なんですよ!」
「知ってるよッ!」
僕の鼓動が更に早くなる。
僕の言葉が急加速する。
それとともに、榊さんの声量も上がっていった。
「榊さんは、僕を弄る天才です! 僕をいじめる天才なんです!」
「はぁ!?」
「榊さんも、弄られて喜ぶ僕を見て喜んでたじゃないですか!」
「そ、そんなこと……。ね、ねぇよ!」
今、言葉に詰まったな?
「てか、なんで今そんな話すんだよ!?」
「僕らはめちゃくちゃ相性がいいって言いたいんですよ!」
「はぁぁっ!?」
彼女に負けないよう、僕は脳のリミッターを外す。
榊さんに、どこかにいってほしくない。
榊さんに、罪悪感を覚えてほしくない。
榊さんに、僕の傍にいてほしい!
もう、榊さんにどう思われたっていいから、自分の思いを全部伝えるんだ!
爪が刺さって血が滲むくらいに、僕は両の拳を強く強く握り込む。
「だから、僕の傍をはなれるとか言わないでください! 一人で生きようとしないでください! 僕は、あなたが心配です! だから、僕があなたの傍にいます! あなたの隣にいられるのは僕だけです! あなたの全てを受け入れられるのは僕だけなんです! 別に、利用してくれたっていい! あなたが面白くなるのならば! いいんです! 僕が、あなたの傍にいたいんですから!」
「公太郎……」
僕らの双眸には今、どちらも海ができている。
それは、嵐がきたときのような震える海。
涙も心も魂も。
全てを削って吐き出す覚悟で僕は言葉を紡ぐ。
「酒クズなところも、ヤニカスなところも、ギャン中なところも! ずっとメイド服を着てるところも! たまに風呂に入らないところも! 全部全部受け入れてます! 興奮します! 僕は、あなたみたいなかっこいい人が……! 面白い人が……! 駄目女が……!」
そこで強く目を瞑り。
僕は、裏返った声とともに思いの丈を榊さんにぶつけた。
「好きだからッ!!」
「……っ。お前……」
なんて、なんて汚い告白なんだろう。
……いや待て。
これ、ただの性癖発表だろ。全く告白になっていないではないか。
いつもの僕のキモイ発言となにも変わらない。
自分でも、自分に飽きれてしまう。
でも、僕にしては頑張った方なのではないだろうか。
榊さんが、唇を引き結ぶ。
その表情には、どんな意味が含まれているんだろう?
「だから……。もう少し。もう少しだけでもいいです。あなたが、芸人に復帰するまででもいいです。……もう少しだけ、僕の傍にいてくれませんか? 同棲は、別にしなくてもいいです。ただ、傍にいてくれるだけで……」
「……」
涙が、涙がとまらなかった。
僕は、昔からそうだ。
嬉しいとか、悲しいとか、関係なく。
自分の本心を語ると自然と涙が出てしまう。
嫌なものも、大切なものも。全て涙とともに流れていくような感覚があった。
どの感情由来なのかわからない震えが、全身を襲っている。
ああ、怖い。怖い怖い怖い。
榊さんは、僕になんて言うだろうか。
急にこんなことを言って、困らせてしまったかな。
嫌な沈黙の中、榊さんの返答を待っていると。
「……ありがとな」
不意に、僕の頭に榊さんの手が置かれる。
それは、温かい手であった。
そして、榊さんは僕の耳元でぼそりと言うのだ。
「……実はな。公太郎とはなれたこの数日、ちょっと寂しかったんだ。誰もあたしに突っ込んでくれないしよ」
榊さんの瞳は、本当に寂しそうに揺れていた。
気丈な人に見えるが、やっぱり根は寂しがり屋なのだろう。
「もう、お前が隣にいない生活は想像できねぇ。公太郎と一緒にいる楽しい時間を知っちまったからな」
榊さんの澄んだ瞳が、涙の波で濁っていく。
「あたしも、公太郎と一緒にいたい」
そんな優しい声が、僕の心と体を包んだ。
そこで榊さんは一度深呼吸をして。
「こんな駄目イドでよければ、これからもお前の傍においてくれるか?」
そのとき、僕の頭頂部に、温かな雨が降った。
でも、空は晴れているだろう。
今の、僕の心のように。
「勿論、です……」
榊さんはぎゅっと僕を抱き寄せる。
僕も優しく彼女の背に腕を回す。
ビルの屋上で抱きしめ合いながら。
僕らは絶えず、晴れた東京に雨を降らせ続けた。




