榊さんが好きだから
ザリガニを釣ってはリリース。ザリガニを釣ってはリリースを繰り返す。
特に変化のないその一連の流れであったが、無為のように過ぎるその時間が僕には心地よかった。
それは、隣にいるのが榊さんだからであろう。
僕一人では虚しいだけだと思うし、隣にいるのがほかの人間であっても、ここまでは楽しくないはずだ。
しばらく二人とも無言でザリガニを釣っていると、不意に榊さんがこんなことを言い始めた。
「その……公太郎。最近どうなんだ。大学生活の方は」
「急にお父さんみたいなこと言って、どうしたんです?」
「……。ふっ……」
初めは耐えていた榊さんだったが、ツボに入ったらしくぷるぷる震えながら笑っていた。
「真面目な話なんだから、突っ込むなよな」
「ボケといてその言い分は無理があるでしょ」
「お前が拾うから小ボケもボケになるんだよ。あ、褒めてるからな、これ」
水面を見たまま、榊さんが白い歯を見せる。彼女は、横顔もとても美しい。
「んで、どうなん? 大学。友達できたか?」
これは本当にただの質問なのだろう。僕は真面目に答えることにした。
「なんというか、できかけました」
「初めて聞く言い回しだな」
小さく笑った後、彼女は僕に続きを促す。
「どういうこった?」
「今日ゼミがあったんですけど、そのときにカラオケに誘われたんですよ。懇親会みたいなものらしいんですけど」
「おお、よかったじゃんか」
心底嬉しそうに、榊さんは目の奥に光を呼んだ。
「まあ断ったんですけど」
「なんでだよ」
一瞬にして榊さんの瞳の光が消える。
「いや、カラオケは今日だって聞いたんで。今日は榊さんと楽しいことするって約束したじゃないですか」
ぴくりと、榊さんの眉が一瞬動いたのを僕は見逃さなかった。
彼女は少しだけ目を伏せる。榊さんの長い睫毛が、彼女の瞳に影を落とした。
「お前、学校よりあたしを優先したのかよ」
「……。はい」
榊さんの声は、今までに聞いたことのないくらいにトーンダウンしていた。その声の調子からは、彼女の静かな怒りのような色が窺えた。
「公太郎。お前が所属してんのは、大学だ。あたしじゃねぇ。あたしなんか気にせず、大学で友達作ってきたらいいんだぞ?」
そこまで言って、彼女はなぜだかバツの悪そうな顔になる。
「……いや、お前と一緒に住みたいって言い始めたあたしが、こんなこと言えた義理はねえか……」
榊さんは、もどかしそうに首の辺りを掻いた。
なんだか、榊さんの様子がおかしいように感じる。
彼女がなにを思っているのか、なにを言いたいのか。僕にはわからない。僕は彼女みたいに、人間の感情の機微に鋭くはないから。
「まー、なにが言いたいのかというとだな。大学生なんだから、もっと自由に楽しんだらいいんだぞ。あたしとこんな、変なことばっかしてないでさ」
どこか投げやりにも聞こえるその言い方が、少しだけ気になってしまった。
「変なことなんかじゃ……」
榊さんの言葉を否定しようとして、僕は口をつぐむ。メイドとちくわでザリガニを釣るのは、間違いなく変なことだからだ。
でも、僕はその変なことを、変なメイドさんと一緒に最高に楽しんでいる。
それの、なにがいけないのだろうか。
なんだか、行き場のない怒りのようなものが湧いてきた。
それを僕は、榊さんにぶつけるのではなく、自分にぶつけるつもりで言葉を編んだ。
「榊さんがなにを言いたいのか、正直僕にはわかりません。でも、今、僕は最高に楽しいです。あなたといるから、こんな変なことも……ザリガニ釣りも最高に楽しくなるんです。だって、僕は──」
──榊さんが好きだから。
その言葉を口にする勇気を、今の僕は有していない。
「ごめんなさい。急に変なこと言って」
榊さんの前で、初めて感情を昂らせてしまった。
遅れて、羞恥心が全身を走り出す。
「いや、先に変なこと言ったのはあたしだ、すまん」
「あ、いえ。別にそれは」
「あとお前さ。ホントあたしのこと好きな」
「え」
今のは、からかわれたのだろうか。それとも、本当に僕の気持ちがばバレてしまっているのだろうか。それか、バレた上でからかわれてる?
榊さんはずっと真面目な顔をしているから、判断がつかない。
「お前が楽しいなら、あたしはそれでいいんだ。公太郎が楽しいと、あたしも楽しいからさ」
そうして現れた榊さんの微笑は、少しの憂いも含まれていないように思われた。
榊さんが無言でザリガニを釣り上げながら、顔を俯ける。
「な、なあ、公太郎」
横髪で彼女の表情は窺えないが、髪の間から微かに覗く彼女の頬はわずかに茜に色づいていた。
「……一週間経ったあとのこととかって、ちょっとは考えてたりするか?」
それは、約束の日がきたあとということだろうか。
一週間後、僕たちの限定的な同棲期間は終わりを迎える。
「いえ、特に考えてないです」
「そ、そか」
彼女はなにやら言いづらそうに、時折言葉に詰まりながらも言葉を紡ぐ。
「あ、えっと。前も言ったけど、お前といると楽しいしさ。公太郎はどうか知らねぇけど、今ンところ一緒に住んでても不満ねぇし。その、家賃の負担も減るし……。ええっと」
口をまごつかせながらも、榊さんはやがて顔を上げて僕の方を見据えた。
そして。
「……一週間一緒に住んで、特に問題なかったらさ。その先も、試しに一緒に住んでみるか……?」
一瞬、風が止まった。
世界から音が消えた気がした。
僕の心も、波のない湖のように凪いでいた。
真剣だけど、少し恥ずかしそうに口を曲げる榊さんを見て。
僕は。
「はい」
真顔で即答したのだった。
「即答かよ」
榊さんは嘆息しつつも、どこか安心したような微笑みを頬に乗せた。
「いや、もっとなにか葛藤とかあれよ。恥ずかしがったり嬉しがったりしろよ。なにか悩んだりしろよ」
「あ、いや……。まだ脳の処理が追いついてなくて……。というか、逆に断る理由あります?」
「ありまくりだろ」
「なんでだよ」
お前が言うなよ。
あ、お前って言っちゃった。まあツッコミだし、脳内だし、いっか。
「いや、だって、お前は大学生なりたてで新生活始めたてだしさ。そんな、今からなににでもなれるようなやつが、早々にあたしなんかと一緒にいる道選ぶなんて──」
「榊さん」
真剣な声音で僕が言うと、榊さんは驚いたように肩を上げた。
「どうして榊さんが自分の自己評価が低いのか知りませんが、榊さんは僕にとってはとても素敵な人です。僕が、榊さんと一緒にいたいんです。それじゃ、駄目ですか?」
僕らは、正面から見つめ合った。
僕の瞳を見た榊さんの表情が、徐々に引き締まっていく。僕の言葉が本気だとわかってくれたのだろうか。
そして彼女は、その言葉を噛みしめるかのように何度も瞬きをした。
遅れて恥ずかしさが追いかけてきたのか、彼女は微かに赤面しながらかぶりをふった。
「駄目じゃ、ない……」
「榊さん」
「なんだよ」
「めちゃくちゃかわいいです」
「はぁっ!?」
ぎょっとして、猫みたいに跳び上がる榊さん。なんだか、彼女の目も猫の目のような形に広がっている。
「そ、そのかわいいっての、禁止!」
「かわいい」
「せめて綺麗とか」
「かわいい」
「マジでこいつは……」
「かわいい」
「も、もう好きにしろや……」
じゃれ合いながら、僕たちは陽が沈むまでザリガニ釣りを続けていたのだった。




