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09

 ウオの、あまりにも淡々とした、残酷なまでの宣告が、静まり返った広場に響き渡った。

 次の瞬間、魔王の体から、黒い魔剣が、カラン、と力なく滑り落ちる。

 そして、その巨体は、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと、空中から、地上へと、落下していった。

 ドッシャアアアン!!!

 凄まじい音を立てて、魔王の体は、広場の中央に叩きつけられた。衝撃で、石畳が、さらに大きく砕け散る。

 静寂。

 誰もが、目の前で起きたことを、理解できずにいた。

 この広場を埋め尽くしていた、数千の民衆も。

 そして、私、エミールも。

 魔王が、負けた。

 あの、絶対的な存在としか思えなかった、魔王が。

 私の息子、ウオに。

 たった、一人に。

 しかも、ほとんど、一瞬で。

 圧勝、という言葉ですら、生ぬるい。それは、もはや、戦いですらなかった。大人が、子供の腕を捻るかのような、一方的な、蹂躙。

 やがて、その信じがたい現実を、民衆の脳が理解し始めた。

 そして、広場は、新たな、別の種類の喧騒に、包まれ始めた。

「ま……魔王様が……」

「嘘だろ……」

「あ、あの子供は……一体……」

 それは、先ほどまでの熱狂とは、全く質の違う、恐怖と、混乱からくる、ざわめきだった。

 彼らが信じていた、絶対的な救世主が、目の前で、得体の知れない子供に、赤子のように捻り潰されたのだ。彼らの価値観が、再び、音を立てて崩壊していく。

「に、逃げろ!」

「あいつは、悪魔だ!」

「本当の魔王は、あの子の方だ!」

 誰かが叫んだのをきっかけに、民衆は、パニックに陥った。我先にと、広場から逃げ出そうとし、将棋倒しが起き、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 私は、その混乱の中心で、ただ、立ち尽くしていた。

 ゆっくりと、空から降りてきたウオが、私の隣に着地する。

 その体には、傷一つついていなかった。呼吸の乱れすら、ない。まるで、散歩でもしてきたかのような、涼しい顔だった。

 彼は、血に濡れた聖剣アスカロンを、無造作に肩に担ぐと、倒れて微かに痙攣している魔王を一瞥し、そして、私に向き直った。

 その顔には、先ほどまでの、無機質な表情はなかった。

 代わりに浮かんでいたのは、純粋な、子供のような、無邪気な笑顔だった。

 そして、彼は、まるで、母親に、今日の出来事を報告する子供のような口調で、私に、尋ねた。

「エミール」

 その呼び方に、私の胸が、ちくり、と痛んだ。いつから、彼は、私のことを『父さん』と呼ばなくなったのだろうか。

「こいつ、殺していい?」

 ウオは、親指で、倒れている魔王を指し示した。

「こいつは、魔族だから、良いよね? レイザーの時みたいに、元は人間、とかじゃないもんね?」

 その言葉に、私は、ハッと我に返った。

 そうだ。

 ウオの精神は、まだ、ひどく危ういバランスの上で、成り立っている。

 彼の強さは、あまりにも純粋で、そして、あまりにも、無垢なのだ。善と悪の区別も、命の重みも、彼の中では、まだ、明確な形を結んでいない。ただ、目の前の事象を、『敵』か、そうでないか、で判断しているに過ぎない。

 このまま、彼に、殺戮を続けさせてはならない。

 それは、勇者としてではなく、彼の父親としての、私の、最後の責務だった。

 私は、ウオの前に、一歩、踏み出した。そして、彼の肩に、優しく、しかし、力強く、手を置いた。

「待て」

 私の、静かな、しかし、有無を言わさぬ声に、ウオは、きょとんとした顔で、私を見上げた。

「どうして? 早く殺さないと、また何か、厄介なことになるかもしれないよ? レイザーみたいに、翼が生えたりとか」

「その前に、こいつに、聞いておかなければならないことがある」

 私は、ウオの隣を通り過ぎ、倒れている魔王の前に、膝をついた。

 魔王は、まだ、生きていた。心臓を貫かれているが、その強靭な生命力で、かろうじて、意識を保っている。その瞳には、もはや、先ほどの傲慢さはない。ただ、敗北という、初めて味わうであろう感情に、戸惑っているかのようだった。

 私は、彼の、血走った目を見据え、言った。

「お前を、殺す前に、いくつか、質問に答えてもらう」

 魔王は、何も答えない。ただ、荒い息を繰り返すだけだ。

「なぜ、お前は、民達に愛されている? お前が、彼らに、何をした?」

 私の問いに、魔王は、答えなかった。

「どうして、我々との間に、これほどの認識の齟齬が生まれている? 我々が信じてきた正義と、この王都で起きていた現実。何が、真実なんだ?」

 私は、畳み掛けるように、問うた。

 これが、今、私が、最も知りたいことだった。力では、もはや、息子に遥か及ばない。だが、この真実を追求することこそが、今の私にできる、唯一の、そして最大の戦いだった。

 私は、魔王の胸倉を掴み、その顔を、自分の目の前まで、引き寄せた。

 そして、できるだけ、冷徹な声で、最後の言葉を、告げた。

「質問次第では、生かしてやる。言え」

 私の言葉に、魔王の瞳が、僅かに、揺らめいた。

 絶望的な状況の中で、初めて見えた、生存への、僅かな光。

 彼は、血の泡を吹きながらも、かすれた声で、何かを、答えようとしていた。

 この狂った王都の、全ての謎が、今、解き明かされようとしていた。


 第一部第九章 反転する世界

 私の問いかけは、静まり返った広場に、重く響き渡った。

『質問次第では、生かしてやる。言え』

 それは、命乞いの機会を与えてやるという、勝者の傲慢からくる言葉ではなかった。私自身の、崩壊しかけた精神を、勇者としての矜持を、かろうじて繋ぎとめるための、最後の問いだった。この狂った世界の真実を知ることなくして、私は、もはや一歩も前に進むことなどできそうになかったからだ。

 私の胸倉を掴まれたまま、倒れ伏していた魔王の瞳が、僅かに揺れた。その巨躯を貫く聖剣の傷口からは、絶えず黒い血が溢れ出し、彼の命の灯火が、今まさに消えようとしていることは明らかだった。

 しかし、彼は死の恐怖に怯える代わりに、私の目を、じっと見つめ返してきた。その瞳に宿っていたのは、驚くべきことに、安堵の色だった。まるで、私のこの問いを、待ち望んでいたとでも言うかのように。

 血の泡を吹きながらも、魔王は、かすれた、しかし確かな意志のこもった声で、語り始めた。

 その第一声は、私の理解の範疇を、あまりにも、そして唐突に、超えていた。

「私は、ただ……罪滅ぼしが、したかったのだ……」

 罪滅ぼし?

 その言葉の意味を、私の脳は、処理することを拒絶した。

 こいつが? 魔王が? 全ての悪の化身であるはずのこいつが、一体、何を、誰に対して、『罪滅ぼし』をするというのだ。民を虐げ、世界を恐怖に陥れることこそが、魔王の存在理由ではなかったのか。

「……何を、言っている……?」

 私は、思わず、問い返していた。

 魔王は、苦しげに顔を歪めながら、続けた。

「確かに……私は、『今回』も、反乱分子を数千人も殺してしまった……。許されることではない……。だが、あれは……私の本意では……」

『今回も』。

 その、何気ない一言が、私の心に、鉛の杭のように打ち込まれた。まるで、過去にも、同じようなことを繰り返してきたとでも言いたげな口ぶり。そして、数千人もの命を奪っておきながら、それを『本意ではなかった』と、彼は言うのだ。

「ふざけるな……!!」

 私は、激昂し、彼の胸倉を、さらに強く掴み上げた。

「貴様の意思でなければ、一体、誰の意思だというのだ! 言い訳は聞き飽きたぞ、魔王!」

「言い訳ではない……!」

 魔王は、叫んだ。その声は、もはや絶命寸前とは思えぬほどの、悲痛な響きを帯びていた。

「『あの反転魔法』が、完全でない以上……私には、抗うことができなかった……。この身に宿る、破壊の本能に……逆らえなかったのだ……!」

 反転魔法。

 まただ。ファイナルタワーで倒したレイザーも、それに類する言葉を口にしていた。いや、彼が口にしたのは『どす黒い救世主』だったか。だが、今、魔王の口から、はっきりとその名が告げられた。

 反転魔法。

 その言葉の響きは、不吉で、禍々しく、そして、この王都に渦巻く、全ての狂気の根源であるかのように、私には思えた。

「だが……!! せめて、この王都の、私の声に耳を傾けてくれた人々だけは……幸せにしようとした!! 貧しい者には富を分け与え、不当に虐げられていた者たちを解放し、誰もが笑って暮らせる国を、作ろうとした! 幸せに、したかった……!!」

 彼の独白は、もはや、私に向けられたものではなかった。天を仰ぎ、己の無力さを嘆く、一人の男の、懺悔のようだった。

 私は、混乱していた。

 目の前の男が、わからない。彼が語る言葉の、一つ一つが、私の知る『魔王』のイメージから、かけ離れていく。彼は、悪の化身などではない。むしろ、歪んだ、あまりにも歪んだ理想を追い求めた、一人の革命家のようだった。

 だが、彼は、次の瞬間、その懺悔を中断し、再び、私へと、その血走った視線を向けた。

 そして、その瞳に、今度は、明確な『懇願』の色を宿して、言った。

「勇者よ!! どうか、頼む!!」

 彼は、私の腕を、その巨大な手で、掴み返してきた。その力は、死にかけとは思えぬほど、強かった。

「この、呪われた地から、今すぐ、逃げ出してくれ!!」


「……何を、言っている?」

「頼む! 息子と共に、どこか遠くへ!! この魔法の影響が、及ばない場所へ!!」

 魔王の懇願は、常軌を逸していた。勝利した私に、敵であるはずの彼が、逃げろ、と訴えている。

「お前が……お前が、この地を、破壊し尽くす前に!!」

 その言葉は、私の混乱を、頂点へと押し上げた。

 私が、この地を、破壊する?

 勇者である私が?

 何を、言っているんだ、こいつは。

 呪いの正体、反転する勇者

「どういうことだ……? 全く、意味がわからん……! 説明しろ!」

 私は、魔王の肩を掴み、激しく揺さぶった。彼の言葉は、支離滅裂にしか聞こえない。しかし、その瞳は、狂人のそれではない。真剣に、心の底から、私の身を案じている。それが、かえって、私の恐怖を煽った。

 魔王は、激しく咳き込み、さらに大量の血を吐き出した。もう、彼に残された時間は、いくらもないだろう。彼は、最後の力を振り絞り、この世界の、そして、私の未来に関わる、絶望的な真実を、語り始めた。

「……反転魔法は……まだ、完成していない……。だが、完成の時は、近い……」

「その魔法が、一体、何だというのだ!」

「あれは……世界の理を、覆す魔法……。光と闇、聖と魔、善と悪……存在する、全ての対極にある概念を、強制的に、入れ替える、大魔法だ……」

 世界の、理を、覆す。

 その、あまりにも壮大で、馬鹿げた言葉に、私は、一瞬、思考が追いつかなかった。

「そんな、馬鹿なことが……」

「現に、起きているだろう……」

 魔王は、私の背後、逃げ惑いながらも、遠巻きに私たちを見つめている民衆へと、視線を向けた。

「彼らが、私を『救世主』と崇め、君を『悪』だと断じる……。それこそが、反転魔法の、不完全ながらも、強力な効果の表れだ……。この地の人間は、既に、善悪の価値観が、反転しかけているのだ……」

 その言葉は、雷となって、私の脳天を撃ち抜いた。

 宿の女将が言っていた、『異常者』の集まり。民衆の、あの狂信的な瞳。全ての辻褄が、今、合わさっていく。

 彼らは、狂っていたのではない。彼らにとっての『正義』が、私たちとは、全く別のものに、すり替わってしまっていたのだ。

「そして……」

 魔王は、再び、私へと視線を戻した。その瞳には、深い、深い憐れみの色が浮かんでいた。

「この地に張られた反転魔法が完全になり……勇者であるお前にも、その魔法が及ぶようになると……」

 彼の言葉は、そこで、一度、途切れた。まるで、その先の未来を、口にすることを、躊躇うかのように。

「……なると、どうなる?」

 私は、ゴクリ、と唾を飲み込んだ。

 魔王は、意を決したように、言った。

「お前は……勇者では、いられなくなるのだ……!!!」

 その言葉は、宣告だった。私の存在そのものを、否定する、死刑宣告。

「勇者の持つ、聖なる光の力は、邪悪な闇の魔力へと……。人々を守ろうとする正義の心は、全てを破壊し尽くさんとする、邪悪な衝動へと……。その全てが、反転する……!」

 私は、息をすることが、できなかった。

 目の前が、真っ暗になっていく。

「理性を、失う!!」

 魔王の叫びが、私の耳の中で、木霊する。

「かつての、私のようになってしまう!! だから……!!!」

 かつての、彼のように?

 その言葉は、あまりにも衝撃的な、一つの可能性を示唆していた。

 目の前で死にかけている、この魔王も。

 かつては、私と、同じ……。

 いや、それ以上、考えるな。私の脳が、そのおぞましい結論に、蓋をしようとする。

「逃げろ、勇者……。君が、君で、いられるうちに……。息子を連れて……。私のような、化け物を、これ以上、増やしては……」

 魔王の懇願は、もはや、懇願ではなかった。それは、同じ道を歩んだ、あるいは、歩まされるであろう、後続の者に対する、先輩からの、血を吐くような、最後の忠告だった。

 私が、理性を失い、破壊の化身となる。

 ウオや、妻や、村の皆を、この手で……。

 その、おぞましい光景を想像し、私の全身から、血の気が引いていくのがわかった。ウオを守る。そう誓ったばかりなのに。その私が、ウオにとって、最大の脅威になるというのか。

 私は、無意識のうちに、隣に立つ、ウオの顔を見上げていた。

 ウオは、この、絶望的な会話を、黙って聞いていた。その表情は、相変わらず、何も読み取ることができない。彼は、この、世界の根幹を揺るがすような真実を、理解しているのだろうか。それとも、ただ、無関心なだけなのだろうか。

 その、凪いだ水面のような瞳が、今は、ひどく、恐ろしいもののように、私には思えた。

 炎の幕引き、最悪の再会

 魔王は、最後の力を振り絞り、何かを、さらに私に伝えようとしていた。

「魔法を、完成させようとしている、黒幕が……いる……。そいつは……」

 しかし、彼が、その黒幕の名を口にするよりも、早く。

 一つの、冷徹な声が、私たちの間に、割り込んできた。

「喋りすぎです。魔王殿」

 その声は、女の声だった。

 凛として、美しく、しかし、絶対零度の氷のように、冷たい響きを持っていた。

 ハッとして、私は周囲を見回す。だが、声の主の姿は見えない。民衆は、遠巻きに私たちを見ているだけだ。一体、どこから……?

 その答えは、私の想像を、遥かに超えた場所から、示された。

 魔王の、すぐ、背後。

 そこに、いつの間にか、一人の女が、音もなく、立っていたのだ。

 黒い、フード付きのローブを、深く被っている。その姿は、まるで、影そのものが、人の形をとったかのようだった。

「……貴様……は……」

 魔王が、信じられないものを見るかのように、目を見開き、呻いた。彼も、女の接近に、全く気づいていなかったのだ。

 女は、魔王の言葉を、鼻で笑うかのように、あしらった。

「ええ。ご苦労様でした。貴方には、勇者をここまで誘い込み、反転魔法の贄とするための、素晴らしい『駒』として、働いていただきました。ですが、もう、役目は終わりです。余計なことまで話してくれましたしね」

 駒。

 その一言で、私は、全てを理解した。

 魔王ですら、ただの、捨て駒に過ぎなかったのだ。この、狂った世界の、本当の支配者は、この女。魔王が、最後に、その名を告げようとしていた、黒幕。

「さようなら。出来損ないの、先代様」

 女が、優雅な仕草で、指を、パチン、と鳴らした。

 次の瞬間。

 ゴウッ!!!!

 魔王の巨体が、何の前触れもなく、紅蓮の炎に、包まれた。

「ぐ……ぎゃあああああああああああああああああ!!!!」

 魔王の、断末魔の絶叫が、広場に響き渡った。

 それは、どんな高熱の炎なのか。彼の、魔族としての強靭な肉体も、強大な魔力も、何の意味もなさず、ただ、燃え盛る、人の形をした、松明と化していた。

 肉の焼ける、おぞましい匂い。

 黒い煙が、天へと昇っていく。

 遠巻きに見ていた民衆から、悲鳴が上がる。彼らが『国王』と信じた存在が、目の前で、あまりにも無惨に、焼き尽くされていく。その光景は、彼らの、最後の正気すらも、焼き切ってしまったようだった。彼らは、蜘蛛の子を散らすように、泣き叫びながら、逃げ惑い始めた。

 私は、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。

 炎は、数十秒も経たないうちに、勢いを失い、やがて、消え失せた。

 後に残されたのは、人の形をした、黒い炭と、僅かに残った、魔王の角の残骸だけだった。

 魔王の「罪滅ぼし」も、私への「警告」も。その全てが、今、完全な形で、無に帰した。

 静寂が、戻る。

 逃げ惑う人々の、遠ざかっていく悲鳴だけが、BGMのように、響いていた。

 黒いローブの女は、魔王がいた場所を一瞥すると、興味を失ったかのように、ゆっくりと、私たちの方へと、向き直った。

 一歩、また一歩と、近づいてくる。

 その足音は、聞こえない。まるで、地面の上を、滑るように、移動してくる。

 私は、咄嗟に、ウオの前に立ち、彼を背中にかばった。聖剣は、ウオが持ったままだ。私は、素手だった。だが、それでも、この得体の知れない存在から、息子を守らなければならない。

 女は、私たちの数メートル手前で、足を止めた。

 そして、ゆっくりと、その顔を覆っていたフードを、自らの手で、下ろした。

 その瞬間、私の時間は、完全に、停止した。

 風が、彼女の髪を、優しく、なびかせる。

 夕陽に照らされた、その横顔。

 白い肌。

 通った鼻筋。

 長い睫毛に縁取られた、大きな瞳。

 そして、慈愛に満ちた、優しい微笑み。

 その顔を、私は、知っていた。

 知っているどころではない。

 この世の、誰よりも、何よりも、愛した顔。

 忘れるはずがない。

 毎朝、「おはよう」と、私に微笑みかけてくれる顔。

 私が作った、不格好な木彫りの人形を、「宝物よ」と言って、喜んでくれた顔。

 ウオを拾った時、幸せそうに、涙を流していた顔。

「……あ……」

 私の喉から、声にならない、空気が漏れた。

 思考が、停止する。

 心臓が、止まったかと思った。

 目の前にいるのは。

 魔王を、指先一つで、塵へと変えた、この、残虐非道な女は。

「どう……して……」

 なぜ、お前が、ここにいるんだ。

「……リリア……」

 私の、最愛の、妻だった。

 リリアは、私の、絶望に満ちた表情を、楽しむかのように、見つめていた。

 そして、その、私が愛したはずの唇から、私が、一度も聞いたことのない、氷のように冷たい声で、言った。

「久しぶりだね。ウオ」

 彼女の視線は、私を通り越し、私の背後にいる、息子へと、注がれていた。

「……そして、私の夫、『エミール』」

 その声は、かつて、私の全てを癒してくれた、優しい声色ではなかった。

 まるで、路傍の石でも見るかのような、何の感情もこもっていない、冷徹な響き。

 愛する妻が、敵として、目の前に、立っている。

 しかも、魔王すら、容易く葬り去るほどの、圧倒的な力を持って。

 私の、信じてきた世界の、最後の欠片が、今、この瞬間、粉々に、砕け散った。





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