06
僕の声は、自分でも驚くほど、冷たく、落ち着いていた。
もう、泣き叫ぶ子供の僕はいなかった。
そこに立っていたのは、父を殺させないという、ただ一つの目的のためだけに存在する、一人の戦士だった。
レイザーは、血を流す自らの腕を押さえながら、僕を睨みつけた。
その瞳には、もはや侮りはない。
明確な、敵意と警戒が宿っていた。
「……面白い。
あの男の息子もまた、『化け物』というわけか」
僕とレイザー。
膝をつき、か細い命を繋ぎとめている父の背後で。
勇者の息子と、勇者を裏切った預言者。
究極の、命の取り合いが、今、始まろうとしていた。
第六章 獣と人、そして父と子
僕の手の中に、聖剣アスカロンがあった。
父の、勇者エミールの魂とも言うべき、伝説の剣。
子供の僕にはあまりにも不釣り合いな、重く、長大な剣。
だが、不思議なことに、その重さは苦にならなかった。
まるで、この剣が僕自身の一部であるかのように、しっくりと手に馴染んでいる。
刀身から伝わる微かな温もりは、まるで父の温もりのようであり、同時に、僕自身の燃え盛る感情に呼応しているかのようでもあった。
目の前には、レイザーが立っていた。
片腕から血を流し、その顔には驚愕と警戒の色を浮かべている。
その背に生えた漆黒の片翼が、彼の存在がもはや人のものではないことを雄弁に物語っていた。
背後には、父がいる。
心臓を貫かれ、魔力だけでかろうじて命を繋ぎとめている、僕のたった一人の父親が。
僕の思考は、驚くほど単純だった。
目の前の敵を、殺す。
父を傷つけた、あの男を、殺す。
それ以外の感情も、思考も、僕の世界からは消え失せていた。
悲しみも、怒りも、今はもうない。
ただ、目的を遂行するための、氷のように冷たい衝動だけが、僕の全身を支配していた。
「……面白い。
あの男の息子もまた、『化け物』というわけか」
レイザーが吐き捨てるように言った。
その声には、先ほどまでの余裕は微塵も感じられなかった。
彼は、僕を子供としてではなく、明確な『敵』として認識し、その全身から禍々しい魔力を放ち始めた。
僕は、答えない。
言葉を交わす必要など、どこにもなかった。
ただ、聖剣を構え、一歩、前に踏み出した。
その瞬間、僕の体は、思考よりも速く、レイザーへと向かって駆け出していた。
僕の戦い方は、父のそれとは全く異なっていた。
父の剣は、鍛え上げられた剣技と経験に裏打ちされた、王者の剣。
一振り一振りに無駄がなく、力と速さ、そして技が完璧な調和をもって繰り出される。
それは、芸術の域にまで達した『武』だった。
対して、僕の動きは、ただの『暴力』の奔流だった。
剣技の型など、知らない。
防御という概念も、僕の頭にはなかった。
ただ、僕の進化した視界が捉える、敵の急所。
喉、心臓、目、腱。
そこに、最短距離で、最大の威力を叩き込む。
そのためならば、どんな不格好な体勢になろうと、どんな無謀な動きになろうと、一切の躊躇はなかった。
それは、まるで飢えた獣の動きだった。
レイザーは、僕の初撃を、魔剣ネメシスで受け止めた。
キィン、と甲高い金属音が響き、火花が散る。
「ぐっ……!?」
レイザーの顔が、驚きに歪んだ。
子供の腕力ではない。
聖剣アスカロンが持つ本来の力に、僕の純粋な殺意が上乗せされ、とてつもない質量を持った一撃と化していたのだ。
僕は、一撃目が受け止められると、即座に聖剣を手放し、がら空きになったレイザーの懐に潜り込んだ。
そして、腰のナイフを引き抜き、彼の脇腹を深々と抉る。
「がっ……この、ガキがァ!」
レイザーが苦痛に顔を歪め、僕を蹴り飛ばそうとする。
僕は、その蹴りを、転がるようにして回避し、その勢いのまま、床に落ちた聖剣を再び拾い上げた。
一連の動作に、淀みは一切ない。
生き残るため、そして殺すためだけに最適化された、効率的な動き。
「クク……クハハハハ!」
傷を負ったレイザーは、しかし、何故か狂ったように笑い始めた。
「そうだ……これだ! この、躊躇いのない暴力! 純粋な破壊衝動! なんと美しい!」
彼の瞳は、狂気に満ちた輝きを放っていた。
僕の攻撃を受けながら、まるで恍惚とした表情すら浮かべている。
「光の勇者エミール! 奴の剣は、あまりに綺麗すぎた! 慈悲があり、情があり、守るべきもののために振るわれる剣! そんなものでは、この腐った世界は救えんのだよ!」
レイザーは叫びながら、その漆黒の片翼を大きく広げた。
翼から、闇の力が溢れ出し、彼の傷がみるみるうちに塞がっていく。
先ほど僕が負わせた腕と脇腹の傷が、黒い煙と共に消え失せた。
「真の救済には、破壊が必要なのだ! 全てを一度更地に戻す、圧倒的な破壊が! 偽りの平和も、欺瞞に満ちた秩序も、全てを喰らい尽くす、絶対的な闇が!」
彼の言葉の意味を、僕は理解しようともしなかった。
僕の目には、傷を再生させた厄介な敵、という情報しか映っていない。
僕は再び突進する。
今度は、真正面からではない。
部屋の柱や瓦礫を巧みに利用し、三次元的な軌道で、彼の死角を狙う。
壁を蹴り、天井から奇襲をかける。
彼の視線が上を向けば、足元の瓦礫を蹴り上げて注意を逸らす。
常識にも、剣術のセオリーにも囚われない僕の攻撃に、さすがのレイザーも翻弄され始めた。
「素晴らしい! その戦い方! その瞳! お前には恐怖というものがないのか! 命のやり取りに対する、生物としての根源的な恐怖が!」
レイザーは、僕の猛攻を捌きながら、嬉々として叫び続けた。
「そうだ、それでいい! お前こそが、我らが……いや、あの方がずっと待ち望んでおられた、『救世主』の姿だ!」
救世主。
その言葉が、僕の耳に奇妙な不協和音として響いた。
僕が? 救世主? ふざけるな。
僕はただ、父の仇を討ちたいだけだ。
「お前は、光ではない! まばゆい光の勇者の息子でありながら、その魂に宿すのは、何よりも深く、そして純粋な闇! 光を喰らう闇! 世界をリセットする、どす黒い救世主だ!」
レイザーの狂気は、頂点に達していた。
彼はもはや、僕を殺そうとしているのではない。
僕という存在の誕生を、心から祝福し、その力を試しているかのようだった。
だが、僕の心は、そんな彼の狂気に微動だにしなかった。
僕は、彼の言葉の隙間を縫って、その防御の僅かな綻びを見逃さなかった。
彼が、大きく口を開けて叫んだ、その瞬間。
僕は、聖剣アスカロンを、槍のように投げ放った。
「なっ!?」
聖剣を投擲するなど、常軌を逸した行動。
レイザーの予測の、さらに外側を行く一撃。
彼は咄嗟に、魔剣でそれを弾こうとした。
しかし、聖剣は彼の魔剣に触れる寸前で、まるで意思を持っているかのように、僅かに軌道を変えた。
僕が、投げる瞬間に、回転を加えていたのだ。
聖剣の切っ先は、レイザーの魔剣を掠め、その勢いのまま、彼の片翼の付け根に深々と突き刺さった。
「ぐ……あああああっ!」
レイザーの絶叫が響き渡る。
翼は、彼の魔力の源の一つだったのだろう。
そこを破壊され、彼の体から力が抜け、魔力の奔流が乱れるのがわかった。
僕は、その隙を見逃さない。
聖剣を失った僕の右手には、再びあの小さなナイフが握られていた。
レイザーが翼の痛みに悶え、体勢を崩した、その一瞬。
僕は、彼の足元に滑り込み、アキレス腱を、躊躇なく両足とも断ち切った。
「ぎっ……!?」
悲鳴すら上げられず、レイザーはその場に崩れ落ちた。
両足の腱を切られ、彼はもう立つことすらできない。
翼を破壊され、魔力の制御もままならない。
戦闘能力は、完全に奪った。
僕は、ゆっくりと立ち上がり、彼の翼に突き刺さった聖剣アスカロンを引き抜いた。
翼が根本から引き千切られ、レイザーの背中から大量の血が噴き出す。
彼は床に突っ伏し、荒い息を繰り返している。
もはや、抵抗する力は残っていない。
僕は、そんな彼を、冷たい目で見下ろした。
狂喜に満ちていた彼の顔は、今は苦痛と、そしてなぜか、満足げな表情が入り混じった、奇妙なものになっていた。
「……はぁ……はぁ……見事だ……。
やはり、お前は……本物だ……」
彼は、僕を見上げ、途切れ途切れに言った。
「俺の負けだ……。
これで、預言は……成就する……。
どす黒い救世主の手によって、古い世界は……終わる……」
僕は、彼の言葉を黙って聞いていた。
そして、聖剣を、ゆっくりと振りかぶる。
その切っ先を、彼の首筋に、正確に狙い定めて。
これで、終わりだ。
父さんの苦しみも、僕のこの訳のわからない衝動も、全て。
僕は、感情のこもらない、ただ事実を告げるだけの声で、呟いた。
「殺す」
聖剣アスカロンが、レイザーの首筋めがけて、振り下ろされる。
その、刹那だった。
背後から、温かい何かが、僕の体を強く、しかし優しく包み込んだ。
「……っ!?」
驚いて動きを止めると、僕の肩に、ぽた、ぽたと生温かい雫が落ちてきた。
それは、血だった。
「もう……いいんだ……ウオ……」
聞こえてきたのは、父の声だった。
か細く、途切れ途切れで、血の混じった咳をしながらも、それは間違いなく、僕の父さんの声だった。
いつの間に、僕の背後に。
あれほどの重傷で、動けるはずが……。
父は、僕が振り下ろそうとしていた剣ごと、僕の体を、後ろから抱きしめていた。
その体は、ひどく震えていた。
「お前が……強いのは、よくわかった……。
父さんを……守ってくれて、ありがとう……。
本当に……ありがとう……!!」
父の言葉が、氷のように凍てついていた僕の心に、小さなひびを入れる。
ありがとう? 違う。
僕のせいだ。
僕が叫んだから、父さんは……。
「でも……」
父は、僕を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。
「お前には……人を殺してほしくないんだ……」
その言葉が、僕の脳天を、鈍器で殴られたかのように揺さぶった。
「確かに……こいつは、魔族に魂を売ったのかもしれない……。
俺を裏切り、殺そうとした……。
許されないことをした……。
でも、元は……人なんだ……。
俺たちが、村で会った、あのレイザーさんなんだ……」
父の言葉が、僕の記憶の扉をこじ開ける。
そうだ。
彼は、レイザーさんだった。
村に来ては、僕の頭を撫でて、「大きくなったな」と笑ってくれた。
父と、人類の未来について、夜通し語り合っていた。
その瞳は、いつも優しさに満ちていた。
目の前で血を流し、死にかけているこの男と、記憶の中の優しい預言者が、どうしても結びつかない。
「だから……お前は、そいつを殺さないでくれ……!! 頼む……!!!」
父の懇願は、もはや叫びに近かった。
それは、勇者としてではなく、ただ一人の父親としての、魂からの叫びだった。
自分の息子に、人殺しになってほしくない。
その、当たり前で、切実な願い。
その願いが、僕の心を支配していた獣の衝動を、少しずつ、しかし確実に、溶かしていく。
僕の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
これまで見えていた、敵の急所、力の流れ、殺意のベクトル。
そんな、戦闘のためだけの色を失った世界が、元の、ただの崩れた部屋へと戻っていく。
聖剣を握っていた僕の手から、力が抜けていく。
カラン、という軽い音を立てて、アスカロンが床に滑り落ちた。
その瞬間、僕の目から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。
「う……うわあああああああああああああああああああん!!!!」
僕は、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
父の腕の中で、これまで張り詰めていたものが、全て切れてしまったかのように。
怖かった。
父さんが死んでしまうのが、本当に怖かった。
レイザーが憎かった。
自分が何をしているのか、わからなかった。
ただ、目の前のものを壊すことしか考えられなかった。
「父さん……ごめん……ごめんなさい……っ!」
僕は、何度も何度も謝った。
何に対して謝っているのかも、もうわからなかった。
ただ、涙と嗚咽が止まらなかった。
僕の顔に、僕の心に、失われていたはずの『光』が、ゆっくりと戻ってくるのがわかった。
それは、父の温もりという名の、光だった。
新たな約束
父は、僕が泣き止むまで、何も言わず、ただ黙って僕を抱きしめ続けてくれた。
その背中を、優しく、何度も何度もさすってくれた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
僕の涙がようやく枯れかけた頃、父はゆっくりと僕の体から腕を離した。
そして、僕の前に回り込み、膝をついて、僕と視線を合わせてくれた。
「……よく、頑張ったな、ウオ」
父は、そう言って、優しく僕の頭を撫でた。
その手は、血と汗にまみれ、酷く震えていたが、僕が知っている、父さんの、大きくて温かい手だった。
父の顔は、死人のように青ざめていた。
心臓の傷は、彼の自己治癒魔法で塞がってはいたが、失った血と魔力は計り知れない。
今も、時折、口の端から血が滲んでいる。
立っていることすら、奇跡に近い状態だった。
「父さん、もう大丈夫なの……?」
僕は、しゃくりあげながら尋ねた。
「ああ……なんとかな。
お前が、時間を稼いでくれたおかげだ」
父は、そう言って、力なく笑った。
僕たちの背後では、倒れたレイザーが、浅い息を繰り返していた。
彼は、僕たちのやり取りを、ただ静かに見つめているようだった。
その瞳に、もう狂気の色はなかった。
ただ、深い、深い疲労と、何かを諦めたような、空虚な色が浮かんでいるだけだった。
父は、そのレイザーに一瞥をくれると、再び僕に向き直り、そして、ゆっくりと立ち上がった。
その足取りは、ひどくおぼつかなかった。
満身創痍という言葉ですら、生ぬるい。
それでも、父の背筋は、確かに、まっすぐに伸びていた。
彼の瞳に、新たな決意の光が宿るのを、僕は見た。




