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彼女の全身から、それまでとは比較にならないほどの、禍々しい神気が噴き上がった。
それは、俺達がこれまで対峙してきた、どんな敵の魔力とも、次元が違っていた。
リリア母さんの冠位装填ですら、この神気の前では、蝋燭の炎に等しい。
これは、世界の理そのものに干渉する、原初の力。
俺達は、じりじりと後退る。
勝てない。
戦いにすら、ならない。
魂が、その絶対的な力の差を、理解してしまっていた。
ロザールさんが、それでも、前に出ようとする。
「行くしかねえだろ!」
「待て、ロザール!」
俺は、彼の肩を掴んで、止めた。
フィボナッチとの戦いで、俺は、ほとんどの力を使い果たしてしまっている。冠位装填を発動させるほどの力は、もう残っていない。ロザールさんを主戦力とするギルド・ロザールの他のメンバーも、ここまでの旅路で、魂を大きく消耗している。
今の俺達では、この神に、一矢報いることすらできない。
その、絶望的な事実を、俺達全員が、悟っていた。
だが、その時だった。
『――待たせたな、小童ども』
冥王の思念が、再び、俺達の魂に響き渡った。
見ると、彼は、いつの間にか、俺達とアシレの間に、立ちはだかっていた。
『儂の気まぐれに、付き合わせる以上、ただ死なせるわけにはいかんからのう。少しだけ、時間を稼いでやる。その間に、体勢を立て直せ』
「冥王……!」
『感謝は無用じゃ。これは、儂の賭けでもあるからのう』
冥王の、巨大な影の体躯が、アシレの前に、立ちはだかる。
二柱の神が、この冥界の大図書館で、対峙する。
「……面白い。冥府の王自らが、人間の子供を守るか。地に堕ちたものだな」
『黙れ、小娘。お主こそ、骸の連中に担ぎ上げられ、再び現世に災厄を齎そうとは。神としての誇りを忘れたか』
二人の間に、目に見えないほどの、凄まじい力の応酬が始まる。
空間が歪み、図書館のアーカイブが、嵐のように乱れ飛ぶ。
俺達は、その神々の戦いの余波に、ただ、吹き飛ばされないように、耐えることしかできなかった。
戦いは、拮抗しているように見えた。
だが、俺には分かった。
冥王が、押されている。
アシレの力は、冥界の王である彼をも、凌駕しつつあるのだ。
やがて、その均衡が、破れる。
アシレの放った、白銀の光の槍が、冥王の影の体を、貫いたのだ。
『ぐ……っ!』
冥王の、苦悶の思念。
彼は、大きくよろめき、その場に、膝をついた。
「終わりだ、王よ」
アシレが、冷たく、宣告する。
彼女は、冥王にとどめを刺すべく、その手に、さらに強大な光を収束させていく。
もう、ダメだ。
俺達の、最後の希望が、今、潰えようとしている。
そう、誰もが絶望した、その時だった。
俺と、ロザールさんが、同時に、動いていた。
俺達は、アシレの、無防備な背後へと、最後の力を振り絞り、駆け出していた。
「「うおおおおおおおおっ!!!!」」
俺の魔剣と、ロザールさんの炎の剣。
二つの刃が、アシレの背中に、同時に、叩き込まれる。
だが、俺達の渾身の一撃は、彼女に届く寸前で、見えない壁に阻まれ、甲高い音を立てて弾き返された。
「――愚かな」
アシレは、振り返りもせずに、呟いた。
そして、彼女の手から放たれた、二条の光の鞭が、俺とロザールさんの魂を、同時に、打ち据えた。
「「ぐあああああああああっ!!!!」」
絶叫。
魂が、引き裂かれるような、激痛。
俺とロザールさんの体は、くの字に折れ曲がり、黒曜石の床を転がった。
傷口から、魂の光が、粒子となって、流れ出していく。
ナターシャさんの治癒魔法でも、すぐに塞がるような傷ではない。完全に回復させるには、数時間はかかるだろう。
致命傷だった。
「これで、邪魔者はいなくなったな」
アシレは、再び、膝をつく冥王へと向き直った。
ナターシャさんとメアリー、そして母さんの、絶望の叫びが聞こえる。
もう、誰も、この神を、止めることはできない。
「我が冠位装填の元に散れ。マイダ・ウオ……そして、その仲間達よ」
アシレが、その最後の宣告と共に、詠唱を始めた。
彼女の赤い瞳が、不気味なほどの輝きを放つ。
俺が、キミシダイ帝国でラザールさんに見せた、あの狂気の瞳。
背理ノ章。
だが、彼女のそれは、ラザールさんのものとは、比較にならないほどの、純度と、強度を持っていた。
あれこそが、原初の『心眼』。
そして、遂にアシレの冠位装填である心眼の真の力がお披露目となる。
その呪いの瞳が、俺達一人ひとりを、捉えた。
「「「「あ……ああ……っ」」」」
ロザールさんが、ナターシャさんが、メアリーが、母さんが、同時に、呻き声を上げた。
彼らの魂が、内側から、崩壊していくのが、俺には見えた。
ロザールさんの魂は、復讐の炎に焼かれ、灰となっていく。
ナターシャさんの魂は、自らの無力感という、冷たい水の中に、沈んでいく。
メアリーの魂は、過去の罪悪感という、闇に、喰らい尽くされていく。
母さんの魂は、息子を救えなかった後悔という、永遠の牢獄に、閉じ込められていく。
仲間たちが、次々と、その場に崩れ落ち、意識を失っていく。
だが、俺はまだ立つ。
俺の魂だけが、アシレの心眼の呪いに、耐えていた。
大魔王としての闇と、勇者としての光。その二つが、俺の中でせめぎ合い、奇跡的なバランスで、彼女の呪いを中和していたのだ。
俺は、満身創痍の体を引きずり、アシレの前に、立ちはだかった。
ただ一人。
「マイダ・ウオ。何故、まだ抗う? お前達の努力の全ては、無駄だというのに」
アシレの、感情のない声。
俺は、血反吐を吐きながらも、笑ってみせた。
俺のその答えは、すでに決まっている。
「それは……約束したんだ。レシアと。花火大会を見に行くって。それに、俺のワガママに乗っかってくれた、大切な仲間達もいる。だから、負けられない」
俺の、魂からの叫び。
しかし、アシレは冷徹だった。表情すら変えやしない。
「そうか……死ね」
彼女の指先から、一つの黒い点が、生み出される。
それは、瞬く間に、凝縮され、全ての光を飲み込む、漆黒の魔弾へと変わった。
神アシレが俺を確実に葬るために放った、絶対的な、破壊の一撃。
避けられない。
死んでしまう。
俺の魂が、今度こそ、完全に消滅する。
そう、覚悟した、次の刹那。
俺の目の前に、一つの影が、割り込んできた。
それは、俺を守るように、両腕を広げた、母さんの姿だった。
彼女は、最後の力を振り絞り、俺の盾となったのだ。
「リリア母さん…?」
黒魔術の魔弾が、彼女の魂を、直撃する。
光も、音もなかった。
ただ、彼女の魂が、その中心から、黒い染みとなって、侵食され、崩壊していく。
血飛沫の代わりに、彼女の魂の光の粒子が、キラキラと舞い散った。
そこには、俺を庇い、血塗れになった母の姿があった。
いや、血よりも、もっと、どうしようもなく、致命的な、魂の傷を負った、母の姿が。
第五章:母の鎮魂歌
闇が、母さんの魂を喰らい尽くしていく。
アシレが放った黒魔術の魔弾。それは、ただ魂を破壊するだけの力ではない。存在そのものを、因果の理から抹消する、絶対的な虚無の力だった。
母さんの魂は、その中心から、黒い染みのように侵食され、輪郭を失い、ゆっくりと、しかし確実に、この冥界の空間へと溶けていく。
光の粒子が、彼女の体から、キラキラと舞い散る。それは、血飛沫よりも、ずっと、悲しく、そして美しかった。
「……母さん……?」
俺の喉から、掠れた声が漏れた。
何が起きたのか、理解できなかった。理解したくなかった。
ついさっきまで、アシレの心眼の呪いによって、意識を失っていたはずの母さんが。
なぜ、俺の前に。
なぜ、俺を、庇った。
「……ウ……オ……」
崩れ落ちていく母さんの体を、俺は、咄嗟に、抱きかかえた。
その魂は、驚くほど、冷たく、そして、軽かった。もう、ほとんど、その形を、保っていられない。
「……なんで……なんで、こんなことを……!」
俺は叫んだ。
それは、怒りではなかった。
ただ、どうしようもない、悲しみと、混乱だった。
母さんは、俺の腕の中で、ゆっくりと、その顔を上げた。
彼女の瞳。
かつて、俺に、絶対的な絶望を見せつけた、あの氷のように冷たい瞳は、どこにもなかった。
代わりに、そこにあったのは。
俺が、忘れていたはずの、幼い頃の記憶の片隅に残る、どこまでも優しくて、温かい、母親の瞳だった。
その瞳から、一筋、光の涙が、こぼれ落ちる。
「……良かった……。間に……合って……」
彼女は、微笑んだ。
その、あまりにも、穏やかで、美しい笑顔に、俺の胸は、張り裂けそうになった。
「……貴方を……守れて……本当に……良かった……」
「……母さん……!」
嗚咽が、漏れる。
俺は、彼女の、消えかけていく体を、ただ、強く、強く、抱きしめることしかできなかった。
「私……ずっと……見ていたのよ……。あの子の……レシアの、心眼を通して……」
母さんは、途切れ途切れに、語り始めた。
それは、彼女の、最後の、告白だった。
「あの子が、貴方の魂を、救おうとした時……。私も、一緒に、貴方の心の中に、いた。……そして、思い出したの。……全てを。……私が、貴方の、母親だったことを。……貴方を、どれほど、愛していたかを……」
ラザールに、記憶を消され、心を操られ、ただの駒として生きてきた彼女。
だが、レシアの愛が、ウオの魂を救った、あの瞬間に。
その光は、母さんの魂にも届き、彼女を、呪縛から、解放していたのだ。
アシレの心眼によって、再び、絶望の淵に突き落とされた時も、彼女は、意識の奥底で、戦っていた。
息子を、守るためだけに。
そして、最後の、最後の、瞬間に、彼女の愛は、神の呪いさえも、打ち破ったのだ。
「……ごめんなさい……ウオ……。……私……貴方に……なんて、酷いことを……」
彼女の瞳から、後悔の涙が、溢れ出す。
「いいんだ……!」俺は、首を振った。「もう、いいんだ、母さん……! 母さんは、悪くない! 全部、あいつらが……!」
「ううん……」彼女は、俺の言葉を遮った。「私の、弱さが、招いたこと。……貴方を、失った、悲しみに耐えきれず、悪魔に魂を売った、私の罪……」
彼女は、苦しげに、咳き込んだ。
そのたびに、彼女の魂の輪郭が、さらに、薄れていく。
もう、時間がない。
その、残酷な事実が、俺の心を、締め付けた。
「ウオ……」
彼女は、俺の頬に、その、消えかけていく手を、伸ばした。
その手は、もう、ほとんど、透き通っていた。
「……強く……なったのね……。……立派な、男に……。……あの子……レシアが、惚れるのも……分かるわ……」
彼女は、悪戯っぽく、笑った。
その笑顔は、俺が、ずっと、心のどこかで、求めていた、母親の、笑顔だった。
「……レシアを……お願いね……。……あの子は、貴方がいないと……駄目だから……。……絶対に……幸せにしてあげて……」
「……ああ……!」俺は、頷いた。「約束する……! 絶対に……!」
「……良かった……」
母さんは、満足げに、微笑んだ。
そして、その瞳から、最後の、光が、消えようとしていた。
「……愛してるわ……。私の……可愛い……宝物……」
それが、彼女の、最後の言葉だった。
彼女の手が、俺の頬から、力なく、滑り落ちる。
そして、彼女の魂は、無数の、温かい光の粒子となって、俺の腕の中で、霧散していった。
後に残されたのは、彼女の、最後の、微笑みの残像と。
そして、俺の心に刻まれた、決して消えることのない、母の愛の記憶だけだった。
俺は、天を仰ぎ、絶叫した。
声にならない、魂の、慟哭だった。
母さん。
母さん。
母さん……!
俺は、生まれて初めて、その名を、心から、呼んだ。
この、親子の、悲しい別れの光景を。
神は、ただ、冷徹に、見下ろしていた。
「……茶番は、終わりか」
アシレの、感情のない声。
彼女は、俺が、悲しみに暮れている、その隙を、見逃しはしなかった。
再び、その指先に、漆黒の魔弾を、生み出す。
今度こそ、誰も、俺を守る者はいない。
だが、俺はもう、絶望していなかった。
母さんが、俺に遺してくれたもの。
それは、ただの悲しみではなかった。
絶望の淵から、立ち上がるための、最後の、そして、最強の力だった。
俺は、ゆっくりと、立ち上がった。
母さんの光の粒子が、まだ、舞い散る中で。
俺は、アシレを、真っ直ぐに、睨みつけた。
その瞳に、宿っていたのは、憎しみではなかった。
ただ静かな、そして、燃えるような、決意。
愛する者たちの想いを、全て。
この身に背負い、それでもなお、未来を掴み取ろうとする、一人の英雄の光だった。




