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 終章 反転魔法編

 第三章:冥王の賭け

 落下は、永遠に続くかと思われた。

 母さんの禁術によって肉体から引き剥がされた俺達の魂は、生と死の境界線を越え、ただひたすらに、底なしの闇の中へと堕ちていく。仲間たちの気配はすぐそばにあるはずなのに、この絶対的な虚無の中では、互いの存在を確かめることすら叶わない。

 レシア。

 俺は、心の中で、何度も彼女の名を呼んだ。

 君がいない世界で、俺は、君を救うために、死の世界へと向かっている。

 この矛盾を、この胸の痛みを、君なら笑ってくれるだろうか。

 どれほどの時間が過ぎたのか。

 不意に、落下が止まった。

 いや、違う。

 俺達の魂が、音もなく、静かに、黒曜石を磨き上げたかのような、冷たい床の上に着地したのだ。

 目を開ける。

 そこは、俺が想像していたような、炎と硫黄の匂いが満ちる地獄ではなかった。

 静寂。

 世界の全ての音が死に絶えたかのような、絶対的な静寂が、この場所を支配していた。

 見渡す限り広がるのは、どこまでも続く、巨大な広間。天井は遥か高く、星々が瞬く夜空そのものが、そこに広がっているかのようだ。床も、壁も、巨大な柱も、全てが光を吸い込む漆黒の石でできており、時折その表面を流れる、青白い光の筋だけが、この空間の輪郭を朧げに示していた。

 空気は、冷たく、そして重い。

 魂だけの存在であるはずなのに、呼吸をするたびに、肺が、無数の記憶の重みで押し潰されそうになる。

 ここが、冥界。

「……ウオ……」

「ロザールさん……」

 仲間たちの声が聞こえる。見ると、ロザールさん、ナターシャさん、メアリー、そして母さんも、俺のすぐ近くで、呆然と立ち尽くしていた。俺達は、魂だけの、半透明な姿になっていた。互いの体の向こう側が、ぼんやりと透けて見える。

 その、あまりにも非現実的な光景が、ここがもはや、俺達の知る世界ではないことを、雄弁に物語っていた。

 広間の、その最も奥。

 途方もなく巨大な玉座に、一つの影が座していた。

 それは、人ではなかった。

 闇そのものが、人の形をとったかのような、巨大な存在。その輪郭は絶えず揺らめき、その内側には、銀河が渦巻いているかのようだった。顔と呼べるものはなく、ただ、二つの恒星が、赤い光を放ちながら、静かに、俺達を見据えていた。

 あれが、冥界の王。

 父さんが、契約を結んだという、絶対的な存在。

 その、神々しくも、恐ろしいほどの威圧感に、俺達は、ただ、息を呑むことしかできなかった。

 俺達は冥界に着いてから、冥界の王に謁見して、事情を話し、レシアの魂を反転魔法とアシレから解放し、生き返らせたいと訴えた。

 俺が、代表して、一歩前に出た。

 恐怖はあった。だが、それ以上に、俺の心には、レシアを救いたいという、燃えるような想いがあった。

 俺は、これまでの、全ての経緯を話した。

 俺が、何者であるのか。

 レシアが、どうして消えてしまったのか。

 そして、俺達が、何を望んでいるのか。

 俺の、魂からの叫びは、この、静寂の広間に、虚しく響き渡った。

 もちろん、俺達は、冥界の王から条件を提示させられると覚悟した。

 死者の蘇生。それは、世界の理を覆す、最大の禁忌。相応の対価を求められて、当然だった。俺の、この魂か。仲間たちの、未来か。どんな、過酷な要求を突きつけられても、俺は、受け入れるつもりでいた。

 しかし、冥界の王は特に何の条件も提示せずに、承諾した。

『――よかろう』

 その声は、声ではなかった。

 俺達の、魂に直接響き渡る、地殻変動のような、重い、思念の波動。

『その願い、聞き届けよう』

 困惑する俺達に、冥界の王はその理由を話す。

 俺達は、顔を見合わせた。

 あまりにも、あっけない。

 なぜだ。

 なぜ、この王は、何の対価も求めずに、俺達の願いを。

『――そもそも、フィボナッチは、反転魔法を作り出したアシレの魂が現世から消えた時点で、反転魔法と元邪神のアシレを同化させる作戦に変更したわけだ』

 王の思念が、俺達の脳内に、世界の真実を、直接、描き出していく。

『――そして、レシアが、ウオと自分自身という個人間の繋がりを対象とした小さな反転魔法を使ったことによって、アシレと反転魔法の同化は成功した。そして、そのアシレと反転魔法が同化したアーカイブはこの大書庫に保存されている。フィボナッチとアシレの作り出した本来の反転魔法が完全に消える前に、このアーカイブにそれを移し、冥界の骸の手によって、アシレは自らと反転魔法の現世の復活を企んだというわけだ』

 俺の脳裏に、レシアが消える、あの瞬間の光景が、鮮明に蘇る。

 彼女の愛が、結果として、敵の計画を、完成させてしまった。

 その、あまりにも、皮肉で、残酷な真実に、俺の胸は、張り裂けそうだった。

『――でも。それでも、お前達なら、反転魔法を止められると……そう思ったからだ。だから、俺は賭けてみようと思ったのだ。君達の可能性に。まあ、失敗すれば、俺も君達も骸に殺されるが、俺は君達が成功すると信じている』

 王の思念に、初めて、感情らしきものが、混じった。

 それは、面白がっているかのようでもあり、そして、どこか、期待しているかのようでもあった。

 この、悠久の時を生きる王にとって、俺達の、ちっぽけな、運命への反逆は、退屈を紛らわす、最高の娯楽なのかもしれない。

 だが、それでも、良かった。

 俺達は、この王に、賭けてもらえたのだ。

『――……だから、俺は君達をこの冥界の大書庫に連れて行くことにした。その無数のアーカイブの中から、レシアのアーカイブを探し出し、レシアと、反転魔法と同化した邪神の魂……つまり、アシレの魂を分離させるためにな』

 王の赤い恒星の瞳が、俺達を、射抜く。

『――君たちならできる。英雄の卵達……いや。君達は、もう救世の英雄達なんだから』

 その、あまりにも、力強い言葉。

 俺達は、ただ、その言葉を、胸に刻み込むことしかできなかった。

 そして、俺達は冥王に連れられて、大広間の裏の扉の奥にある大書庫へと歩き出した。

 王が、玉座から、ゆっくりと、立ち上がる。

 その、巨体が、動くだけで、冥界そのものが、震えた。

 彼は、俺達に背を向け、広間の奥へと、歩き始める。

 玉座の裏に隠されていた、一つの巨大な扉。

 それは、どんな金属よりも硬く、そして、どんな闇よりも深い色をした、未知の素材で、できていた。

 王が、その扉に手を触れると、扉は音もなく、内側へと、開かれていった。

 扉の、向こう側から、眩いほどの、光が、溢れ出してくる。

 そこが、大書庫の、入り口。

 全ては、レシアを救う為に。

 そして、二度と反転魔法が世界に蘇らないようにするために。

 俺は、仲間たちの顔を見回した。

 もう、誰の瞳にも、迷いはなかった。

 俺達は、頷き合うと、王の大きな背中に、続いて、その光の中へと、足を踏み入れた。

 俺達の最後の、そして、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。



 終章 反転魔法編

 第四章:魂だけの旅路

 冥界の大図書館。

 そこは、世界の全ての記憶と概念が眠る場所。

 俺達の魂が足を踏み入れたその空間は、荘厳という言葉ですら陳腐に聞こえるほど、圧倒的な静寂と知識の重みに満ちていた。見渡す限り続く本棚。それは木や石でできた物理的なものではない。光そのものが編み上げられたかのような、半透明の棚が無数に林立し、その一つ一つに、星々のように輝く無数の『本』――アーカイブが収められている。

 天井という概念はなく、代わりに本物の銀河が渦を巻き、時折流れ星が知識の尾を引きながら走り抜けていく。床は黒曜石を磨き上げたように滑らかで、俺達の魂の姿をぼんやりと映し出していた。空気は冷たく、そして重い。呼吸をするたびに、忘れ去られた神々の嘆きや、滅びた王国の最後の歌が、魂に直接流れ込んでくるかのようだった。

「ここが、大図書館……」

 ナターシャさんが、息を呑んで呟いた。彼女の魂は、この場所に満ちる膨大な情報の圧力に、僅かに揺らめいている。ロザールさんも、メアリーも、そして母さんも、誰もが言葉を失い、この異質な空間に圧倒されていた。

 俺達を導いてきた冥王は、その巨大な影のような体躯で、俺達の前に立ちはだかるように佇んでいた。彼の顔のない顔が、図書館の深淵をじっと見据えている。

『――ここより先は、儂の領域であっても、完全な支配は及ばぬ場所』

 王の思念が、俺達の魂に直接響き渡る。

『全ての概念は等しく、そして混沌としている。お主らの目的である「反転魔法」のアーカイブもまた、この無数の記憶の海の中に眠っておる』

 その言葉に、俺はごくりと喉を鳴らした。この中から、たった一つのアーカイブを探し出す。それは、砂漠の中から一粒の砂金を見つけ出すような、途方もない作業に思えた。

『だが、儂にはその在り処が分かる。あやつは、あまりにも強大な力を持つが故に、他のアーカイブとは比較にならぬほどの存在感を放っておるからのう』

 冥王が、その影の腕をゆっくりと上げた。彼が指し示した先、図書館の最も奥深くで、一つのアーカイブだけが、他のどの光よりも禍々しく、そして強力な紫色の光を放っていた。それはまるで、図書館そのものを蝕む、悪性の腫瘍のようだった。

 あれが、レシアを奪った元凶。

 憎しみが、腹の底から込み上げてくる。俺は、今にも駆け出しそうになる衝動を、必死に抑えつけた。

『――待て。様子がおかしい』

 冥王の、鋭い思念。

 その言葉と同時だった。

 禍々しい紫色の光を放っていたアーカイブが、にわかにその輝きを増し始めたのだ。

 そして、その光は、まるで意思を持ったかのように、俺達とは別の方向――図書館のさらに深い闇の中へと、凄まじい速度で吸い込まれていった。

『……ちっ。遅かったか』

 冥王の思念に、初めて焦りの色が混じる。

『骸の連中め。儂の結界を破り、既にこの図書館に侵入しておったとはな。奴ら、アーカイブを強制的に現世へ送還させ、邪神を復活させるつもりじゃ』

 絶望的な知らせ。

 俺達の目の前で、レシアを救う唯一の希望が、奪われようとしている。

「そんな……!」

 俺が叫んだ、その時だった。

『――ならば、こちらも手荒な真似をさせてもらうまで』

 冥王の纏う闇が、さらに色濃くなる。

 彼は、アーカイブが吸い込まれていった闇の深淵に向かって、その巨大な影の腕を突き出した。

『本来ならば、アーカイブに保存された概念を、儂の独断で現世の理に干渉させることなど、許されぬ禁忌。だが、緊急事態じゃ。冥界の秩序を守るため、そして、お前達という面白い存在に賭けた儂の気まぐれのため。特別に、力を貸してやろう』

 王の言葉の意味を、俺は理解できなかった。

 だが、次の瞬間、俺達は、神の御業を目の当たりにすることになる。

『――いでよ。アーカイブNo.4649。原初の心眼を持つ者。邪神アシレよ』

 王がそう宣言した瞬間、図書館の深淵から、一つのアーカイブが、王の手に引かれるようにして、凄まじい速度で飛び出してきた。それは、紫色の光ではなく、どこまでも純粋で、そして悲しいほどに美しい、白銀の光を放っていた。

 その光が、俺達の目の前で、ゆっくりと人の形を成していく。

 腰まで伸びた、月光のような白銀の髪。

 陶器のように白い肌に浮かぶ、幾何学的な赤い紋様。

 そして、その瞳。

 血のように赤く、この世の全てを見透かすかのような、二つの瞳。

 その姿を、俺は見間違えるはずもなかった。

 王都の処刑台で、俺達を守るために、その命を燃やし尽くした、三人目の仲間の姿。

「……ライア……?」

 俺の唇から、か細い声が漏れた。

 だが、彼女は、俺の声に反応しなかった。

 その赤い瞳は、俺達ではなく、ただ、冥王だけを、静かに見据えている。そして、その唇から紡がれたのは、俺が一度も聞いたことのない、古の神の響きを持った、荘厳な声だった。

「――我を呼び起こしたのは、汝か。冥府の王よ」

 違う。

 あれは、ライアじゃない。

 彼女の姿を借りた、別の何か。

 冥王が呼んだ名。邪神アシレ。

 彼女こそが、レシアの魂を縛り、骸の連中が復活させようとしている、全ての元凶。

「いかにも」冥王が答える。「骸の小童どもが、お主の成れの果てである『反転魔法』のアーカイブを使って、現世で悪さを企んでおる。故に、お主自身の魂を、こうして一時的に呼び起こさせてもらった。お主の成れの果てを、お主自身の手で、始末してもらうためにな」

 その言葉に、アシレと名乗った神は、初めてその表情を僅かに変えた。

 面白そうに、その美しい唇の端を吊り上げる。

「……なるほど。毒を以て毒を制す、か。悪くない趣向だ。だが、王よ。一つ、勘違いをしているな」

「何じゃ」

「我は、誰の指図も受けぬ。我が動くのは、我が意志によってのみ。そして、今の我が意志は、一つ」

 アシレの赤い瞳が、初めて、俺達を捉えた。

 その視線は、絶対零度の氷のように冷たく、俺の魂を、直接凍てつかせた。

「――そこにいる、矮小なる者共の魂を、喰らうことだ」

 その言葉が、戦いの合図だった。

 アシレの姿が、掻き消える。

 速い。

 母さんや、ラザールさんの空間転移とは違う。

 純粋な、物理的な速度。魂だけの存在である俺達の認識を、遥かに超越した神速。

 まずい。

 そう思った時には、もう遅かった。

 俺の目の前に、アシレがいた。

 その白魚のような手が、俺の魂の中心――魂核へと、寸分の狂いもなく突き込まれようとしていた。

 死ぬ。

 そう覚悟した、俺の体を、横から突き飛ばす影があった。

 ロザールさんだった。

 彼は、俺の代わりに、アシレの一撃を、その身に受けようとしていた。

「ロザールさん!」

「リーダーがお前を守るのは、当然だろ!」

 だが、その彼の覚悟も、神の前では無力だった。

 アシレの手は、ロザールさんの体を、まるで幻影のようにすり抜けた。

「――標的は、貴様ではない」

 アシレの冷たい声。

 彼女の狙いは、最初から、俺ただ一人。

 再び、その手が、俺の魂核へと迫る。

 もう、誰も、助けには来れない。

 その絶対的な死を前にして、俺の魂が、最後の抵抗を試みた。

 フィボナッチとの戦いで消耗しきっていたはずの、大魔王の力が、迸る。

 金と黒のオーラが、俺の周囲に渦を巻き、アシレの一撃を、かろうじて弾き返した。

 凄まじい衝撃。

 俺の魂は、大きく吹き飛ばされ、図書館の光の本棚に叩きつけられた。アーカイブが数冊、キラキラと輝きながら崩れ落ちる。

「……ほう。面白い」

 アシレが、初めて、感心したような声を漏らした。「その魂……ただの人間のそれではないな。ダイマ・オウの残滓と、勇者の光……そして、何よりも、あの忌々しい『反転』の力が混じり合っている。実に、美味そうだ」

 彼女は、舌なめずりをした。その仕草は、あまりにも妖艶で、そして、あまりにも冒涜的だった。

 俺は、傷ついた魂を押さえながら、必死に立ち上がった。

 仲間たちが、俺の前に立ちはだかるように、陣形を組む。

 ロザールさんが、剣を。

 ナターシャさんが、光の杖を。

 メアリーが、闇の短剣を。

 母さんが、聖と魔のオーラを。

 それぞれが、死力を尽くす覚悟を決めていた。

 だが、アシレは、そんな俺達を、鼻で笑った。

「烏合の衆が、束になって、神に挑むか。良いだろう。その愚かな勇気に免じて、少しだけ、遊んでやる」


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