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終章 反転魔法編
第一章:冥界の図書館
世界は、終わった。
俺の世界は、確かに。
レシアがいない。父さんがいない。ジェイクさんも、ライアも。
俺の光だったもの、俺の道標だったもの、その全てが、この数日の間に、あまりにもあっけなく、俺の手の中からこぼれ落ちていった。
俺達は、キミシダイ帝国が崩壊した跡地の、その境界線にいた。
背後では、かつて一つの世界であった場所が、今やただの巨大なクレーターとなり、存在しないはずの『無』が静かに渦を巻いている。その虚無から吹き付ける風は、冷たく、何の匂いもしなかった。まるで、世界の記憶そのものが、そこから失われてしまったかのように。
空は、感情のない、のっぺりとした灰色だった。
俺達は、その灰色の空の下で、ただ、立ち尽くしていた。
キミシダイ帝国によって作られたライアと、冥界の王によって蘇らされたエミール父さんが消えた中、ウオの代わりにこの世界から消えたレシアを、俺達が嗚咽したり、泣きじゃくったりして、哀しんでいる。
ロザールさんは、地面に膝をつき、その拳で何度も何度も大地を殴りつけていた。血が滲み、骨が軋む音が聞こえる。だが、彼はやめない。肉体的な痛みなど、師と仲間を同時に失った彼の心の痛みに比べれば、無に等しいのだろう。
ナターシャさんは、そんな彼の背中にそっと寄り添い、声を殺して泣いていた。彼女の光魔法は、もう、誰も癒すことはできない。
メアリーは、一人、少し離れた場所で、膝を抱えてうずくまっていた。彼女の闇は、今、彼女自身の心を覆い尽くし、外界の全てを拒絶しているかのようだった。
そして俺は。
俺は、ただ、空っぽだった。
涙も、怒りも、悲しみさえも、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。レシアが消えた瞬間、俺の魂の半分も一緒に消えてしまったのだ。俺は、ただ呼吸をするだけの、肉の塊だった。
「……っ……う……」
隣から、苦しげな呻き声が聞こえた。
母さんだった。リリア母さん。
彼女もまた、この戦いで全てを失った一人だ。信じていた正義が偽りであったことを知り、愛した息子の前で、その罪を償うこともできずに倒れた。彼女の体はボロボロで、今もその胸からは、癒えることのない傷の痛みが滲み出ているはずだった。
だが、彼女は、立ち上がった。
瓦礫に手をつき、震える足で、ゆっくりと、しかし、確かに。
その姿は、俺達の絶望を、その一身に背負うかのようだった。
リリア母さんは、言う。
その声は、掠れていたが、不思議なほどの、力強さに満ちていた。
「……まだ、終わりじゃないわ」
その言葉に、俺達は、ハッとして顔を上げた。
「まだレシアを救える方法があるとすれば、貴方達はどうする?」
レシアを、救える?
その言葉が、俺の、死んでいた心に、小さな、小さな火花を散らした。
ありえない。
だって、彼女は、俺の身代わりとなって、反転魔法そのものと一体化し、この世界から、その存在ごと消滅したのだ。
蘇るはずがない。
「反転魔法という概念がこの世界から消えた以上、レシアは確かに蘇らない」
母さんは、俺の心を読んだかのように、続けた。
「この現世の理の中では、もう、二度と。でも」
彼女の瞳が、俺を、ロザールさんを、仲間たち全員を、真っ直ぐに捉えた。
その瞳には、狂気でも、絶望でもない、一つの確かな『知識』が宿っていた。
ラザールと共に、世界の理を研究し続けた彼女だけが知る、禁断の知識。
「だけど、レシアが依り代となり、そしてレシアと共に世界から消えた反転魔法という概念は、死んではいない。ただ、この世界から、『在り処』を移しただけ。……冥界の大図書館アーカイブに、それは保存されている」
冥界の大図書館アーカイブ。
初めて聞く言葉だった。
「それは、全ての記憶と概念が眠る場所。忘れ去られた物語、消え去った魔法、ありえたかもしれない未来。その全てが、『情報』として記録され、保管されている、魂の墓場よ」
母さんの説明は、俺達の常識を遥かに超えていた。
だが、その言葉には、嘘偽りのない、絶対的な確信があった。
「レシアの魂は、反転魔法という概念と強く結びついて、そのアーカイブの中に、今も存在しているはず。だから、その反転魔法のアーカイブからレシアの魂だけを抽出して、彼女を救い出し、彼女といっしょに現世まで、冥界から逃げ切ることができれば……!」
逃げ切る?
何から?
俺の疑問に、母さんは答える。
「冥界の一大勢力にして、冥界の王と対立している冥界の反生者派閥の軍団“骸”からよ。彼らは、生命そのものを憎み、魂が現世へ帰還することを、何よりも嫌う存在。私達がレシアを連れ出そうとすれば、必ず、奴らが追ってくるわ」
骸。
その、不吉な響き。
だが、そんな危険を冒してでも。
もし、本当に、レシアが。
「逃げ切れば、レシアは救われ、彼女はまた普通の人間として生きることができる」
「……なんで、そんなことが……」
俺の唇から、か細い声が漏れた。
「だって、彼女は、反転魔法そのものに……」
「違うわ」
母さんは、きっぱりと否定した。
「何故なら、レシアやウオのような反転魔法という概念の器の魂と、反転魔法に与えられた魂は全くの別物だから。器は、あくまで器。中身の概念とは、繋がってはいても、決して混じり合うことはない。だから、魂だけを取り出すことが可能なの」
その言葉は、俺達にとって、暗闇の中に差し込んだ、唯一の、そしてあまりにも眩しい、希望の光だった。
レシアに、もう一度、会える。
彼女を、この腕に、もう一度、抱きしめることができる。
その可能性が、ある。
「……本当……なのか……?」
ロザールさんの声も、震えていた。
仲間たちの瞳に、再び、光が灯り始めていた。
俺も、そうだ。
空っぽだったはずの心が、熱い、熱い、何かで満たされていく。
そうだ。
まだ、終われない。
終わらせない。
俺は、レシアを、迎えに行くんだ。
しかし、ここで問題が生じてくる。
母さんの顔が、再び、厳しいものへと変わった。
「ただし、そのためには、一つの、あまりにも高い壁を乗り越えなければならない」
それは、反転魔法からレシアの魂を抽出する為には、避けられない試練。
「反転魔法という名の概念と、私達が、戦わなければならないからよ」
終章 反転魔法編
第二章:魂だけの旅路
希望。
その言葉は、あまりにも甘美で、そして、あまりにも残酷だった。
レシアを救えるかもしれない。
母さんが口にしたその可能性は、俺達の凍てついた心に、確かに火を灯した。だが、同時に、その火は、俺達がこれから進むべき道のりが、どれほど暗く、そして険しいものであるかを、容赦なく照らし出していた。
「反転魔法という名の概念と、私達が、戦わなければならない」
母さんのその言葉は、静まり返った廃墟に重く響き渡った。
概念と戦う?
どうやって。
剣で斬れるのか。魔法で燃やせるのか。
そもそも、冥界にはどうやって行けばいいのか。
俺の、いや、俺達全員の疑問を代弁するように、俺はリリア母さんに問う。
すると、リリア母さんは、その美しい顔に、深い苦悩と、そして、一つの覚悟の色を浮かべ、かなり賭けとなるような答えを出した。
「それは、今から私の行う禁忌の呪文で、貴方達を仮死状態にして、魂だけを冥界に送ることよ」
その言葉が放たれた瞬間、灯ったばかりの希望の火が、冷たい風に吹かれて激しく揺らめいた。
仮死状態。
魂だけを、冥界に。
それは、もはや旅というよりも、自殺行為に等しい響きを持っていた。
「ふざけるな!」
最初に反発したのは、ロザールさんだった。彼の瞳に、怒りと、そして、俺達を案じるが故の、強い警戒の色が宿る。
「あんたの言うことを、どうやって信じろって言うんだ! 俺達を眠らせて、その隙に、また何か企んでるんじゃないだろうな!」
彼の疑念は、もっともだった。母さんは、俺達の敵だったのだ。その罪は、決して消えることはない。
「私も、反対です!」ナターシャさんが、震える声で続く。「そんな危険な呪文、もし失敗したら……みんな、二度と目を覚まさないかもしれないんですよ!」
彼女はヒーラーだ。生命を預かる者として、その提案は、到底受け入れられるものではなかったのだろう。
メアリーもまた、青ざめた顔で、小さく首を横に振っていた。彼女は、一度、死の淵を彷徨った。魂だけの存在になるということが、どれほど恐ろしいことか、身をもって知っているのだ。
反発するロザール、ナターシャ、メアリー。
三人の言うことは、全て正しかった。
危険すぎる。
あまりにも、リスクが高すぎる。
だが、俺は、何も言えなかった。
ただ、黙って、母さんの顔を、じっと見つめていた。
彼女の瞳は、揺らいでいなかった。
そこには、嘘も、欺瞞もなかった。
ただ、息子を、そして息子の愛した少女を、救いたいという、母親としての、あまりにも純粋で、切実な願いだけが、宿っていた。
しかし、リリア母さんは本気だった。それがなんとなく、親に対する子の勘っていうか…そういう不思議なもので分かった。
言葉では説明できない。
理屈じゃない。
俺の魂が、彼女の魂と共鳴し、その真意を理解していたのだ。
彼女は、自分の命さえも、この賭けに含めている。
その覚悟が、痛いほど伝わってきた。
だから、俺はリリア母さんの言うことを信じてみることにした。
俺が、この希望に、賭けなくて、誰が賭けるというのだ。
「リリア母さん、俺は行く。行かせてくれ。冥界に」
俺の静かな、しかし、揺るぎない声が、その場の空気を支配した。
反発していたロザール、ナターシャ、メアリーも、俺がそういうならと、言葉を失い、俺の顔を見つめていた。
彼らの瞳が、「本気なのか」と、問いかけてくる。
俺は、黙って、頷いた。
その、頷きだけで、俺の覚悟は、伝わったようだった。
「……ちっ。分かったよ」ロザールさんが、悪態をつくように、しかし、その声には、覚悟を決めた者の力強さがあった。「お前が行くって言うなら、俺も行く。リーダーがお前の無茶に付き合ってやるのは、当然だろ」
「ロザール……」ナターシャさんが、彼の名を呼ぶ。そして、彼女もまた、微笑んだ。「ええ、私も行きます。ウオさんと、レシアさんのためだもの」
「私も……!」メアリーが、続く。「もう、逃げません。みんなと、一緒なら……怖くない」
みんな、覚悟はできているようだ。
俺は、仲間たち一人ひとりの顔を見回した。
その瞳には、恐怖を乗り越えた、本物の戦士の光が宿っていた。
俺は、一人じゃない。
そして、長い儀式が始まり、俺達の魂は冥界に飛ばされた。
母さんは、自らの指を傷つけ、その血を使って、地面に、巨大で複雑な魔法陣を描き出した。
それは、俺が今まで見たどんな魔法陣とも違う、古代の、失われた言語で構成された、神聖でありながら、どこか冒涜的な、禁忌の術式。
「この魔法陣の上に、横になって。呪文を唱え始めたら、決して、意識を保とうとしないで。体の力を抜き、ただ、眠りに落ちるように、魂を委ねなさい」
母さんの、真剣な声。
俺達は、言われた通りに、魔法陣の上に、横になった。
冷たい地面の感触。
血と、魔力の、鉄錆のような匂い。
見上げた灰色の空が、やけに、遠く感じられた。
レシア、今、行くからな。
俺は、心の中で、彼女の名を呼んだ。
母さんの、詠唱が始まった。
それは、歌のように、美しく、そして、鎮魂歌のように、悲しい響きを持っていた。
彼女の声が、世界の理に干渉し、生と死の境界線を、曖昧にしていく。
意識が、遠のいていく。
体の感覚が、なくなっていく。
温かい、水の中に、沈んでいくような、心地よさ。
仲間たちの気配が、すぐ隣にある。
大丈夫だ。
俺達は、繋がっている。
不意に、体が、軽くなった。
ふわり、と、魂が、肉体から、抜け出す、感覚。
俺は、目を開けた。
いや、開けたというよりは、新しい『視界』を得た、と言うべきか。
俺は、そこにいた。
魔法陣の上で、穏やかな顔で眠る、俺自身の体を、見下ろしていた。
銀色に輝く、魂の糸が、俺の魂と、肉体を、繋いでいる。
ロザールさん達も、俺と同じように、自らの抜け殻を見下ろし、戸惑っているようだった。
母さんの、詠唱が、クライマックスに達する。
「――今、魂の旅路を開け! 黄泉路の扉よ、開かれよ!」
その言葉と共に、俺達の魂と肉体を繋いでいた銀色の糸が、ぷつり、と切れた。
その瞬間、俺達の足元が、崩れ落ちた。
いや、違う。
俺達の魂が、底なしの闇の中へと、凄まじい速度で、落下していく。
仲間たちの、驚愕の声。
俺自身の、声にならない叫び。
それは、死よりも深く、そして、冷たい、絶対的な虚無への、落下だった。
俺達の魂は冥界に飛ばされた。




