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第七部 キミシダイ決戦編

第五章:悪魔の鎮魂歌、英雄の産声

闇。

どこまでも続く、絶対的な無。

音も、光も、匂いも、温度もない。手足の感覚すら曖昧で、俺が俺という存在としてここに在るのかどうかさえ、定かではなかった。

ただ、思考だけが冷たい事実としてそこにあった。

俺は、死んだのだ。

俺自身の顔をした、俺の中に巣食う化け物――大魔王ダイマ・オウに、その心臓をえぐり出され、握り潰された。

愛するレシアと、ようやく正気を取り戻したライアの、魂を裂くような絶叫を聞きながら。

これが死後の世界か。

だとしたら、あまりにも静かで、そして空虚だ。父さんやジェイクさん、ライアの魂はどこにあるのだろう。会いたい。謝りたい。そして、ありがとうと伝えたい。

そんな感傷が、霧のように生まれては、この虚無の中に溶けていく。

どれほどの時間が過ぎたのか。

一秒か、百年か。

時間という概念すら失われたこの場所で、俺は永遠に漂い続けるのだと思っていた。

その時だった。

闇の中に、一つの影が揺らめいた。

それは徐々に輪郭を成し、やがて一人の男の姿をとった。

漆黒の鎧をその身にまとい、夜空そのものを切り取ったかのような六対の翼を背負う、荘厳な姿。

俺の顔をしていながら、その真紅の瞳には、何千年も生きてきたかのような深い叡智と、そして今は、どうしようもないほどの疲労と後悔の色を宿していた。

「……ウオ」

その声は、俺自身の声でありながら、俺のものではない、重く、威厳に満ちた声だった。

大魔王ダイマ・オウ。

俺の肉体を乗っ取り、俺を殺した元凶。

憎しみが湧き上がるはずだった。

だが、不思議と、俺の心は凪いでいた。目の前の彼から、あの時感じたような絶対的な悪意や破壊衝動が、今は嘘のように消え失せていたからだ。

そこにいたのは、ただ、敗北した王の、静かな魂だった。

「ここは、俺の精神の最も深い場所。俺だけが知る、魂の隠れ家だ」

ダイマ・オウは静かに語り始めた。

「お前の魂は、まだ肉体と完全には切り離されてはいない。俺が最後の力で、お前をここに引きずり込んだからだ」

「……何のために」

俺の問いに、彼は自嘲するように、その唇を歪めた。

「……話をするためだ。お前に、そして俺自身に、何が起きたのかを。そして、これから何をすべきかを」

彼は、俺に背を向けた。その視線の先、虚無の闇の中に、一つの光景が映し出される。それはまるで、水面に映る月のように、静かに揺らめいていた。

俺の肉体が見える。

俺の顔をした大魔王が、カリム村の広場で天を仰いでいる。

その足元には、倒れた仲間たちと、そして、絶望に打ちひしがれるレシアとライアの姿があった。

そして、大魔王が詠唱した、あの禍々しい言葉。

「――第二幕。"死海逆夢・生命滅色・刹那ノ終ワリノ始マリ"」

その詠唱に応えるように、世界の理が悲鳴を上げた。

空が裂け、大地が腐り、生命の色が失われていく。

だが、その破壊は、俺が想像していたような爆発的なものではなかった。

もっと、静かで、陰湿で、そして、根本的な侵食。

世界の法則そのものが、ゆっくりと、しかし確実に、死へと向かって書き換えられていく。

「あれが、ラスボス反転の終幕か……」俺は呻いた。

「いや、違う」ダイマ・オウは首を振った。「あれは終幕ではない。序曲だ」

「……どういうことだ」

「ラスボス反転の本当の終幕は、邪神アシレの完全なる復活によってのみ、成し遂げられる。あの詠唱は、そのための下準備に過ぎん。世界の理を緩め、神が降臨するための土壌を整えるためのな」

彼の言葉に、俺は息を呑んだ。

闇の中に映し出された光景が、さらに変わっていく。

詠唱を終えた俺の肉体は、その場に崩れ落ちた。

そして、その前に、あの男が再び姿を現す。

フィボナッチ。

彼は満足げに頷くと、倒れているレシアの体を、まるで宝物のように抱き上げた。

彼女の体から、禍々しい紫色のオーラが立ち上っている。邪神アシレの力が、彼女の魂を完全に喰らい尽くそうとしていた。

「フィボナッチは、レシアを連れてキミシダイ帝国へと戻った。そして、邪神アシレを完全に降臨させるための、最後の儀式を始めようとしている。協力者である奴の助力もあって、ラスボス反転の終幕は、もう目前だ」

ダイマ・オウの声には、深い絶望が滲んでいた。

「我ら魔族が夢見た理想郷。人間との共存でもなく、人間を支配することでもない、ただ誇り高く生きられる世界の夢は、完全に潰えた。それどころか、これから始まるのは、人間と魔族、その双方にとっての終わりだ。アシレとフィボナッチによって生み出された天使や神兵を中心とする新たな共同体”愛眼”によって、この星の全ての知的生命体は、平等に、そして無慈悲に、殲滅されるだろう」

俺は言葉を失った。

あまりにも巨大すぎる絶望。

俺達の戦いは、全て、無意味だったというのか。

「……なぜ、こうなった」俺は絞り出すように言った。「お前も、母さんも、ラザールさんも……みんな、魔族の未来のために戦っていたんじゃないのか」

その問いに、ダイマ・オウはゆっくりと振り返った。

その真紅の瞳には、俺が今まで見たことのない、深い深い悲しみの色が、底なしの沼のように広がっていた。

「……過ちだったのだ」

彼は、全ての罪を認めるかのように、静かに告白した。

「俺も、リリアも、ラザールも、そして全ての魔族が、大きな過ちを犯していた。いや、犯させられていた、と言うべきか。今まで何者かに操られ、我々魔族はおかしくなっていたのだ」

彼は語り始めた。

それは、俺の知らない、魔族という種族の、悲しい歴史だった。

「もともと魔族は、人間と同じく、理性のある種族だった。独自の文化を持ち、社会を築き、時には人間と争い、時には手を取り合って、この世界で生きてきた。善も悪も、光も闇も、その両方を内包する、ただの一つの種族としてな」

闇の中の光景が変わる。

そこに映し出されたのは、俺が想像していたような禍々しい魔境ではなかった。

美しい建築物が立ち並び、様々な姿の魔族たちが穏やかに暮らす、活気のある街の姿。

「だが、全てが変わった。邪神アシレが、フィボナッチという協力者を得て、再びこの世界に干渉を始めたあの日から。アシレが神の座につき、フィボナッチが神の帝国である愛眼の宰相の座についてから、すべてが変わった。奴らは、まず、俺達魔族の精神を汚染した」

ダイマ・オウの声が、憎しみに震える。

「魔族の理性が、アシレとフィボナッチに壊されることによって、魔族が反転してしまったのだ。誇りは傲慢へ、力への渇望は破壊衝動へ、種族への愛は排他的な憎悪へと。俺達は、奴らの手によって、人間が恐れる『悪魔』へと、作り変えられてしまった。俺が、父である先代魔王を殺し、この玉座を奪ったのも、全ては奴らの筋書き通り。俺は、最も強く、最も邪悪な『大魔王』という駒として、完璧に仕立て上げられていたに過ぎん」

俺は、そのあまりにも残酷な真実に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

魔族もまた、被害者だったのだ。

この世界の、最初の犠牲者だった。

「だからこそ、だ」

ダイマ・オウの真紅の瞳が、俺を真っ直ぐに捉えた。

その瞳には、もう後悔の色はない。

最後の王として、全ての責務を果たす覚悟を決めた者の、揺るぎない光が宿っていた。

「我々の最後の敵である邪神アシレが完全に顕現する前に、レシアの反転を止めなければならない。彼女の魂を、アシレの呪縛から解放するのだ」

「……そんなこと、どうやって……」

「それができるのは、ウオ……お前だけだ」

彼は、闇の中に差し込む、一筋の光を指差した。

その光は、温かく、そしてどこか懐かしい匂いがした。

「あの光が、俺の隠れ家の出口だ。この俺だけが知っている精神の隠れ家にいたお前だけが、この世界の魔族で、唯一、完全な反転を免れている。まあ、お前が魔族化の実験を受けた今もなお、人間の血を半分引いていることもあるがな」

彼は、俺の前に立った。

その巨大な影が、俺を包み込む。

「……さあ、征け。ウオよ。お前だけが、魔族と人間の子として、世界を、お前の愛するレシアを救えるのだ。だから」

彼は、俺の肩に、その手を置いた。

それは、王の手ではなかった。

もう一人の自分に、未来を託す、友の手だった。

「頼んだぞ。もう一人の俺、マイダ・ウオよ」

その言葉を残して、ダイマ・オウの体は、無数の光の粒子となって、霧散していった。

それは、王の鎮魂歌。

そして、一人の英雄の産声だった。

闇の中に、俺は一人取り残された。

だが、もう孤独ではなかった。

俺の中には、父さんの想いが、ジェイクさんの教えが、ライアの願いが、仲間たちの絆が、そして、ダイマ・オウが託した、魔族の未来が、息づいている。

俺は、マイダ・ウオ。

勇者の心と、魔王の力。

その両方を、この身に宿す者。

俺は光の差す方向へ、ゆっくりと、しかし、確かな足取りで、歩き出す。

全ては、世界を救い……俺を救ってくれた、愛するレシアとの約束を果たすために。

もう一度、あの港町で、二人で花火を見に行くために。



 第七部 キミシダイ決戦編

 第六章:君が為の反転世界

 レシアの視点

 闇。

 どこまでも続く、絶対的な無。

 光も、音も、匂いも、温度もない。手足の感覚すら曖昧で、私が私という存在としてここに在るのかどうかさえ、定かではなかった。

 ただ、思考だけが冷たい事実としてそこにあった。

 私は一人、この果てしない暗闇の中で泣いている。

 声も、涙も、もう枯れ果てたはずなのに。私の魂が、その奥底から嗚咽を漏らし続けていた。

 終わったのだ。何もかも。

 私の光が、私の希望が、私の愛した世界が、私の手によって、終わってしまった。

 脳裏に焼き付いて離れない。

 あの絶望の光景。

 ウオの胸を、ウオ自身の顔をした化け物の腕が貫いた。

 彼の心臓が、無慈悲にえぐり出され、握り潰された。

 その引き金を引いたのは、私だ。

 ダイマ・オウにウオの心臓を潰すように、ダイマ・オウを心眼で操作したのは、私だ。

 違う。そうじゃない。そんなつもりじゃなかった。

 私はただ、ウオを助けたい一心で、彼の心に巣食う大魔王の呪縛を解こうとした。私の心眼の力で、彼の魂に直接語りかけ、彼を闇から引き戻そうと。

 だが、その力が、私の純粋な願いが、邪神アシレによって利用された。

 私の心眼がウオの魂へと繋がったその瞬間、アシレは私の力を乗っ取り、逆流させたのだ。

『ウオを救え』という私の祈りを、『ウオを殺せ』という呪いへと反転させて。

 私の愛が、大魔王ダイマ・オウを操るための、最悪の凶器へと変わってしまった。

 私は、アシレの魂胆に気づけなかった。私の内側に潜む、神の悪意に。

 そして、なすすべもなく、殺してしまった。

 私が、この手で。

 ……私のせいだ。

 私がウオを、殺したんだ…!!

「ああ……あああああああああああっ……!」

 声にならない叫びが、この虚無の空間に木霊する。

 許せない。

 私が、私自身を、許せない。

 私は、何度も、何度も、自分の胸をえぐった。

 爪を立て、肉を抉り、肋骨の隙間から、その奥にあるはずの、罪深い心臓を探す。

 暗くてよくわからないけど、指先に生暖かい、脈打つ感触が近い。

 後もう少し。

 後もう少しで、何もかもが終わる。

 私は、これで地獄に堕ちれる。

 ウオを殺した、大罪人として。

 私は、できる限り……苦しんで死にたい。

 この苦しみは、私がその存在すら忘れていた、本当のお父さんであるラザール父さんと、お母さんであるアイお母さんが、私のせいで、苦しんだ分。

 この痛みは、私を拾い育ててくれたエミール父さんが、私のせいで、思い出してしまった過去の痛み。

 この寂しさは、命に代えても守ると決めたのに、ウオを守れなかった罪。

 私だけの罪。

 死んでしまえ。

 私なんて、もっと苦しんで、もっと惨めに、死んでしまえ。

 私が悪い。

 私のせいだ。

 私が、いなければ。

 ウオは、死なずに済んだ。

 みんな、苦しまずに済んだ。

 ………ウオ、私。

 もう、罪を償えない。

 指先に力を込める。

 心臓を覆う、最後の薄皮を突き破る。

 ………これで、最後。

 この心臓の感触。

 これを貫けば……

「レシア!! レシア!!」

 ……?

 声がする。

 この何もないはずの暗闇の中で、誰かが、私を呼んでいる。

 小さな、小さな声が、水面に落ちた雫の波紋のように、ゆっくりと、大きくなっていく。

 その声は、忘れるはずがない。

 私の魂に、光をくれた、たった一人の人の声。

 ウオの声だ。私を呼んでる。

 なんで…? 君は死んだはずなのに。

 私のせいで。私が、この手で。

 私は……

 ………いや。

 これは、幻聴。

 死ぬ間際に見るという、都合の良い私の、そんな都合の良い夢。

 心が壊れてしまった私が見せる、最後の悪足掻き。

 都合の……良い。

 夢。

「レシア!!!!! こっちを見ろ!!!!」

 雷鳴のような、声。

 それはもう、幻聴などではなかった。

 私の魂を直接掴み、揺さぶるような、絶対的な命令。

 抗うことなどできなかった。

 私は、その声がするところを見た。

 そして、私の時間は、永遠に、停止した。

 暗闇が、裂ける。

 そこにあったのは、夜。

 でも、それは絶望の闇じゃない。

 祭りの夜の、賑やかで、温かい、優しい闇。

 ヒュルルルルル……という、懐かしい音。

 ドン!!!!

 という、腹の底に響く轟音と共に、闇が、色とりどりの光で塗りつぶされていく。

 赤、青、緑、金。

 巨大な光の花が、咲いては消え、咲いては消え、私の灰色の世界に、鮮やかな色を取り戻していく。

 港町の、夏祭り。

 私が、ウオの心を、絶望から救い出した、あの夜。

 その、光の奔流の中心に。

 君がいた。

 傷一つない体で。

 大魔王の影も、悲しみの色も、どこにもない。

 ただ、少しだけ照れくさそうに、でも、心の底から嬉しそうに、私を見て。

「ウ……オ…?」

 涙が溢れて、止まらなくなった。

 だって、そこにいたのは。

 花火の光に照らされながら、「ようやく会えたな!! レシア!!」と言い、あの時と同じ、太陽のように微笑む君だったから。

 ……そうか。

 そうだったんだ。

 この夢の中の景色を見て、ようやく思い出せた。

 全て、繋がった。

 最初にカリム村でウオと出会った時に感じた……あの違和感。

 初めて会ったはずなのに、どこか懐かしくて、愛おしくて、そして、ひどく悲しい。

 まるで、ずっと昔に失くしてしまった、自分の半身を見つけたような。

 何か、壮大な物語の一部を、夢として見ているような、そんな違和感。

 旅を続けるうちに、君との絆が深まるほどに、その感覚はだんだん薄れていってたけど、そういうことだったのか。

 ねえ、ウオ。

 君が、君こそが、この世界の反転魔法そのものだったんだね。


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