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第六部 ファイナルタワー編
第八章:存在しない記憶、愛の残骸
ラザールの視点
ここはどこだ?
儂の意識は穏やかな光の中に浮上した。
全身を包むのは柔らかな温もり。
微かに木の匂いがする。
乾燥した薪が燃える暖炉の匂い。
そして淹れたての珈琲の芳しい香り。
儂はゆっくりと瞼を持ち上げた。
見慣れた天井がそこにあった。
使い込まれて飴色になった太い梁。
所々に見える木目の渦。
儂がレシアと共に暮らしたあの森の隠れ家の寝室。
間違いない。
儂は死んだのか?
体の感覚が曖昧だ。
エミールとかいう小僧の一撃。
あの聖剣の光が儂の首を刎ねたはず。
だが痛みはない。
血の匂いもしない。
ただ心地よい疲労感だけがそこにあった。
まるで長い旅路の果てにようやく我が家へと帰り着いた旅人のように。
おかしいな……さっきまで娘のレシアと一緒に添い寝していたはずなのにレシアがいない。
儂はゆっくりと身を起こした。
ベッドの隣はもぬけの殻だった。
彼女の温もりだけがシーツにかすかに残っている。
どこへ行ったのだあの子は。
まだ日は高い。
窓の外からは柔らかな陽光が差し込み部屋の床に温かい光だまりを作っていた。
小鳥のさえずりが聞こえる。
風が木々の葉を揺らす音がする。
平和だ。
あまりにも穏やかで完璧な昼下がり。
それ故に儂の心の奥底で警鐘が鳴り響いていた。
何かがおかしい。
この完璧すぎる平穏は儂の知る現実とはあまりにもかけ離れている。
それに、おかしい。
さっきまで儂は取り返しのつかないことをたくさんしていたような……
断片的な記憶が脳裏をよぎる。
血。
絶叫。
崩れ落ちる塔。
憎悪に満ちた瞳。
黄金のオーラを放つ出来損ないの弟子。
そして儂を見上げるレシアの悲しげな顔。
そうだ。
儂は戦っていたはずだ。
儂の計画の全てを懸けて。
世界の理を覆すために。
なのに何故儂はこんな場所にいる。
この温かい寝室で。
まるで全ての悪夢が終わった後のような安らぎの中で。
「きっと夢を見ていたんだよ。お父さん」
その声に儂はハッとした。
ドアの向こうからレシアの声がする。
いつもの優しい声。
儂の心を溶かす太陽のような声。
その声を聞いた瞬間儂の心に渦巻いていた不安や疑念は霧のように晴れていった。
そうか夢だったのか。
全ては。
儂が世界を滅ぼそうとしたことも。
エミールやジェイクと戦ったことも。
ウオという少年を絶望の淵に突き落としたことも。
全てはただの悪夢。
長い長い悪夢を見ていただけなのだ。
なんだ……そこにいたのかレシア。
安堵感が全身を駆け巡る。
儂はベッドから降りた。
足元がおぼつかない。
だが心は驚くほど軽かった。
早くあの子の顔が見たい。
その笑顔に触れたい。
そしてもう二度と離さないと固く抱きしめたい。
儂はドアへと向かった。
一歩一歩が愛おしい。
この平和な日常が何よりも尊い宝物なのだと魂が理解していた。
早くドアを開けないと。
儂はドアノブに手をかけた。
ひんやりとした金属の感触。
この扉の向こうに儂の幸せの全てがある。
そう思った瞬間だった。
しかし儂がドアを開けようとすると一人の女性が俺のその手を止めた。
その手は白く滑らかだった。
だが驚くほど力強かった。
儂の手を掴むその指は僅かに震えていた。
儂はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのはレシアではなかった。
儂がこの世で最も会いたくてそして最も会ってはいけないはずの女性だった。
艶やかな黒い髪。
深い慈愛とそしてそれと同じくらい深い悲しみを湛えた黒い瞳。
白い肌。
通った鼻筋。
儂がかつてその全てを愛した女性。
儂がその手で未来を奪った女性。
「貴方…!! もうこんなことはやめて!!」
彼女の名前はミカ・アイ。
儂の人生でたった一人の妻で一生かけて愛し抜くなどと遠吠えを吹くほどに愛おしい女性だった。
何故忘れていたのだろう。
彼女の姿を認めた瞬間。
儂の脳内で何かが砕け散る音がした。
儂がレシアの記憶と共に自らの魂の奥底に封じ込めていたパンドラの箱。
その蓋が今開かれたのだ。
忘れていた記憶が濁流のように儂の意識へと雪崩れ込んでくる。
アイとの出会い。
魔族である儂と人間である彼女。
許されざる恋だった。
世界の全てを敵に回しても儂らは共に生きることを選んだ。
森の奥深くで誰にも知られず二人だけのささやかな家庭を築いた。
そしてレシアが生まれた。
ミカ・レシア。
儂らの愛の結晶。
儂の人生で最も輝かしい光だった。
だがその光は同時に深い影を落とした。
レシアは儂の魔族の血とアイの人間の血その両方を色濃く受け継いでしまった。
彼女の心眼の力は儂らの想像を遥かに超えていた。
そしてその力は彼女の幼い精神を少しずつ蝕んでいった。
儂らは恐怖した。
このままではこの子は壊れてしまうと。
儂は彼女を救うために禁断の研究に手を出した。
あの方。
太古の神と接触し世界反転魔法の知識を得た。
この世界の理を覆しレシアが苦しむことのない新しい世界を作るために。
だがその研究は儂自身をも狂わせていった。
儂は目的のためなら手段を選ばなくなった。
邪魔者は全て排除した。
多くの罪を犯した。
多くの血を流した。
そんな儂をアイは悲しい目で見つめていた。
そして彼女は言ったのだ。
「やめて」と。
「もうこれ以上罪を重ねないで」と。
だが儂は止まれなかった。
全てはレシアのためなのだと自分に言い聞かせ。
そして儂は彼女を………
守れなかったどころか。
殺してしまったのだ。
第六部 ファイナルタワー編
第七章:存在しない記憶、愛の残骸
ラザールの視点(過去)
一
何故忘れていたのだろう。
私の人生には確かに光があった。
レシアだけではない。
彼女が生まれるよりもずっと前に私の世界を照らした太陽のような存在が。
その記憶の蓋が今開かれる。
私が私でなくなる前の物語。
私がまだ一人の男として愛を信じ未来を夢見ていた頃の青臭くも美しい日々の記憶。
その物語は一人の人間の娘との出会いから始まった。
私はまだ若かった。
魔族の中でもエリートとされる賢者の一族に生まれその将来を嘱望されていた。
だが私はそんな決められたレールの上を歩む人生を退屈に感じていた。
私は知識を求めた。
世界の理魔力の根源魂の在り処。
書庫に籠り古文書を読み解く日々。
何千冊もの書物を読破し何百もの古代魔法を解明した。
一族の誰もが私を賞賛した。
次代の賢者長はラザール様で決まりだと。
だが私の心は満たされなかった。
知識はただの文字の羅列だった。
そこに魂の渇きを癒すものは何もなかった。
そんなある日私は禁断の領域に足を踏み入れた。
人間界への転移魔法。
魔族にとって人間は蔑むべき下等な存在。
関わることすら禁忌とされていた。
弱く脆く感情的で不合理。
それが我々魔族が人間に対して抱く共通認識だった。
だが私は好奇心を抑えきれなかった。
私達の敵であり私達が支配すべき存在である人間とは一体何なのか。
この目で確かめてみたかったのだ。
初めて降り立った人間界の街は混沌としていた。
様々な匂い様々な音様々な感情が渦巻いている。
魔族の国のような静寂と秩序はない。
だがそこには生命力があった。
生きるという純粋で力強いエネルギーが満ち溢れていた。
私はフードを目深に被りその雑踏の中を歩いた。
市場で交わされる威勢の良い声。
酒場で響く陽気な歌声。
路地裏で駆け回る子供たちの笑い声。
その全てが私にとって新鮮で刺激的だった。
そんな中で私は彼女と出会った。
街の中心にある広場。
噴水の縁に腰掛け一冊の本を熱心に読んでいる娘がいた。
夕陽に照らされたその横顔は私が今まで見たどんな宝石よりも美しかった。
艶やかな黒い髪。
雪のように白い肌。
長い睫毛に縁取られた大きな黒い瞳。
彼女は私の存在に気づくと驚いたように顔を上げた。
その瞬間私の時間が止まった。
彼女の瞳に吸い込まれそうになった。
その瞳の奥には私がずっと探し求めていた何かがあるような気がしたのだ。
純粋な魂の輝き。
それが私とミカ・アイとの出会いだった。
二
私達は恋に落ちた。
魔族である私と人間である彼女。
それは許されざる恋だった。
私の一族は私の行動を知ると激怒した。
「人間の娘などにうつつを抜かしおって! 一族の恥さらしめが!」
父は私を勘当した。
アイの両親も私達の関係を知ると猛反対した。
「どこの馬の骨とも分からん男に娘はやらん! ましてや魔族など!」
彼女の父親は私に剣を突きつけてきた。
私は抵抗しなかった。
ただ頭を下げ続けた。
アイを愛していると。
彼女なしでは生きていけないと。
親の反対を押し切りアイにプロポーズして結婚する。
私達は全てを捨てた。
故郷も家族も地位も名誉も。
そして二人で生きることを選んだ。
森の奥深く誰にも知られない場所に小さな家を建てた。
私達のささやかな城だった。
私は魔法で畑を耕しアイはそこで野菜を育てた。
私は狩りで獲物を捕りアイはそれを美味しい料理に変えてくれた。
貧しいけれど幸せな日々だった。
互いの温もりだけが私達の全てだった。
そして結婚して一年が過ぎた頃。
アイがレシアを産む。
私達の愛の結晶がこの世に生を受けたのだ。
初めてその小さな体を腕に抱いた時の感動を私は生涯忘れることはないだろう。
アイの黒髪と私の銀髪。
その両方を受け継いだ美しい髪。
アイの黒い瞳と私の金色の瞳。
その両方の色を宿した神秘的な瞳。
私達の娘ミカ・レシア。
私の人生で最も輝かしい光だった。
幸せな生活が3年間続く。
それは私にとって夢のような時間だった。
レシアはすくすくと育った。
彼女は私の魔族の血とアイの人間の血その両方を色濃く受け継いでいた。
幼いながらも強力な魔力をその身に宿しそして何よりもアイ譲りの優しい心を持っていた。
私は彼女にたくさんの魔法を教えた。
彼女はどんな複雑な術式も一度見ただけで理解し自らのものとしてしまう。
その才能は私を遥かに凌駕していた。
だが私は彼女のその力を少し恐れてもいた。
あまりにも強大すぎる力。
それがいつか彼女自身を傷つけるのではないかと。
そんな私の不安をアイはいつも笑い飛ばした。
「大丈夫よあなた。この子は私達の子だもの。きっとその力を正しく使う優しい子になるわ」
彼女のその言葉が私の唯一の救いだった。
だがその幸せは唐突に終わりを告げた。
レシアが三歳になった年のこと。
王国の憲兵と国王が現れる。
その日私達の小さな家に突然武装した一団が押し寄せてきたのだ。
彼らは王国の紋章を掲げていた。
そしてその中心には威厳のある壮年の男。
この国の王その人だった。
「賢者ラザール殿とお見受けする」
国王は言った。
「貴殿の噂はかねがね。まさかこのような場所に隠れ住んでおられるとは」
私は咄嗟にアイとレシアを背後にかばった。
何故私達の居場所が。
「ご安心めされよ。危害を加えるつもりはない」
国王はそう言うと衝撃的な事実を告げたのだ。
国王にレシアの中にかつて残虐な神…つまり邪神と呼ばれていた神アシレがいてアシレは再び神となるために世界反転計画を企んでいると明かされる。
「貴殿の娘ミカ・レシア。その魂には古の邪神アシレが宿っておる」
邪神。
その言葉に私は息を呑んだ。
アシレ。
それは魔族の古文書にのみ記されている禁忌の存在。
世界が生まれる以前に存在したという原初の神。
その力は世界の理そのものを覆し善悪光闇全てを反転させるという。
その邪神がなぜ私の娘に。
「アシレはかつて先代の勇者によってその魂を砕かれ世界各地に封印された。だがその最も大きな欠片が巡り巡って貴殿の娘の魂に宿ってしまったのじゃ。おそらく貴殿の強大な魔力に引かれてな」
国王は続けた。
「そしてアシレは今再び神としてこの世界に復権しようと企んでおる。そのために必要なのが世界反転計画。娘御の体を乗っ取りその強大な魔力を使って世界の理を反転させるつもりなのじゃ」
私は言葉を失った。
レシアの中に眠る強大すぎる力。
私が漠然と抱いていた不安。
その正体がこれだったというのか。
私の娘が悪魔ではなく神の器。
それも世界を滅ぼす邪神の。
「故に我らはその娘をここで処刑せねばならん」
国王は冷徹に言い放った。
「世界の平和のために」
その言葉が引き金だった。
私の中で何かが切れた。
「ふざけるな!」
私は絶叫した。
「この子は私の娘だ! 邪神などではない! お前達にこの子を殺させはしない!」
私の全身から魔力が噴き上がる。
だが国王は動じなかった。
彼はただ静かに手を上げた。
その合図で憲兵たちが私に襲いかかってくる。
私は抵抗した。
だが彼らはあまりにも強すぎた。
国王直属の精鋭部隊。
その連携の前に中級魔族に過ぎなかった私はなすすべもなく打ちのめされた。
そしてレシアは処刑場に魔法によって空を飛ぶ馬車で連行される。
アイが泣き叫びながら馬車を追いかける。
私は地面に押さえつけられその光景をただ見ていることしかできなかった。




