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第六部 ファイナルタワー編
第三章:狂人の茶会 悪魔の闖入
一
絶望には形がある。
今私の目の前に立つラザールさんという存在がそれだった。彼の心に渦巻く完璧な幾何学模様の狂気。それはもはや比喩ではない。彼の全身から放たれる魔力は目に見えるほどの幾何学的なパターンを描きながら空間そのものを歪ませていた。
床の石畳が彼の足元からひび割れていく。それは物理的な圧力によるものではない。彼の存在そのものがこの世界の理を拒絶し破壊しているかのようだった。
「来るぞ!」
ロザールさんが叫び私達の前に立ちはだかった。彼の剣が炎を纏いナターシャさんの両手から聖なる光が溢れ出す。メアリーは私達の後方で闇の障壁を展開しようと詠唱を始めていた。
だがその全てが間に合わない。
ラザールさんはただ静かに杖を振るった。
たったそれだけ。
だがその瞬間私達と彼との間にあった空間が爆発した。
ゴオオオオオオオオオッ!!!!
凄まじい轟音と衝撃波。
それはもはや魔法というよりも天変地異そのものだった。ロザールさんの炎もナターシャさんの光もメアリーの闇もその絶対的な力の奔流の前に何の抵抗もできずにかき消されていく。
「ぐっ……あああああああっ!」
私達の体は木の葉のように吹き飛ばされホールの壁に叩きつけられた。全身を打つ激痛。呼吸ができない。意識が遠のいていく。
「……これで終わりか」
ラザールさんの冷たい声が聞こえる。
「実に脆い。ジェイクが鍛えたと聞いて少しは期待したのじゃがな。所詮は有象無象か」
彼はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。その一歩一歩が私達の命の終わりを告げる足音だった。
もうダメだ。
私達はここで終わるのか。
ジェイクさんの想いもライアの願いもそしてウオとの約束も何一つ果たせないまま。
悔し涙が頬を伝う。
その時だった。
ドドドドドドドドドド!!!!!!
塔全体を揺るがすほどの凄まじい破壊音。
私達が叩きつけられた壁とは反対側の壁。
その分厚い石の壁が内側から爆発するように粉々に砕け散ったのだ。
土煙と瓦礫の嵐がホールを覆い尽くす。
何が起きたのか誰にも分からなかった。
ラザールさんですら驚いたようにその方向を見つめている。
やがて土煙がゆっくりと晴れていく。
そしてその中心。
破壊された壁の向こうに広がる夜空を背に一人の人影が立っていた。
その姿を認めた瞬間私の心臓が凍り付いた。
ウオ。
いやウオの姿をした大魔王ダイマ・オウ。
その真紅の瞳は何の感情も映さずただこの場の全てを見下していた。
「……どうやらこの場所は大魔王ダイマ・オウにバレたようじゃな」
ラザールさんが忌々しげに呟いた。その完璧な心の幾何学模様に初めて僅かな乱れが生じたのを私の心眼は捉えていた。それは焦り。彼の計画に狂いが生じたことへの苛立ち。
大魔王はゆっくりと破壊された壁からホールの中へと足を踏み入れた。その一歩一歩は王の威厳に満ちておりこの場の空気を完全に支配していく。
リリアさんが彼の前に駆け寄りうっとりとした表情でひざまずいた。
「お待ちしておりましたわが君。この者達が貴方様の覚醒を妨げる最後の障害です」
だが大魔王は彼女を一瞥だにしなかった。
彼の視線はただ一人ラザールさんだけに注がれていた。
そして彼はラザールさんに向かって静かに言った。
「大魔王ダイマ・オウよ。このリリアという用済みをまず始末せよ」
ラザールさんのその冷徹な命令。
それは私達だけでなくリリアさんにとっても予想外の言葉だった。
大魔王はラザールさんをじっと見つめていた。その真紅の瞳の奥で何を考えているのか誰にも分からない。
やがて彼はゆっくりと頷いた。
「ああもちろんだ。主よ」
その言葉が放たれた瞬間。
リリアさんの世界が崩壊する音を私は確かに聞いた。
二
「……え?」
リリアさんの唇から漏れたのは声というよりもただの空気の塊だった。
彼女の顔から表情が抜け落ちる。
信じられないといった驚愕。
裏切られたという絶望。
そして何よりも敬愛する主から「用済み」と言い渡された深い深い悲しみ。
それら全ての感情が彼女の美しい顔の上で渦を巻きやがて完全な無へと帰した。
「なんで?? 大魔王様? ……私の父様」
彼女のか細い声が静まり返ったホールに虚しく響く。
彼女にとって大魔王ダイマ・オウは父の仇を討つための道具であると同時に失われた父の代わりとなるべき崇拝の対象でもあったのだ。その両方から同時に見捨てられた彼女の心は完全に壊れてしまったのだろう。
大魔王はそんな彼女の悲痛な叫びを意にも介さなかった。
彼はただラザールさんから与えられた命令を遂行する機械のようにその手に黒い魔剣を出現させた。
そして何の躊躇いもなくその切っ先をリリアさんの心臓へと突き立てた。
ザシュッ。
という生々しい水音。
私の目の前でウオのお母さんの体がゆっくりと崩れ落ちていく。
鮮血が彼女の黒いドレスをさらに深く染め上げた。
誰もが息を呑んだ。
あまりにも唐突でそしてあまりにも無慈悲な裏切りの光景。
魔族同士の仲間割れ。
いやこれは違う。
これはただの駒の処分だ。
ラザールさんという絶対的な支配者による。
リリアさんは倒れるかと思われた。
だが彼女は倒れない。
その胸を貫く魔剣。そこから金色の光が溢れ出したのだ。
「……これは……」
ロザールさんが呻く。
私も見覚えがあった。
王都の処刑台でウオのお父さんであるエミールさんが見せたあの奇跡の力。
圧倒的な自己治癒魔法。
リリアさんの心臓はエミールさんと同じように圧倒的な自己治癒魔法によって作られた黄金の心臓でなんとか動きを止めなかったのだ。
傷口がみるみるうちに塞がっていく。
ラザールさんはその光景を見て楽しそうに笑った。
そして残酷な言葉を放つ。
「この自己治癒魔法……やはり勇者エミールの妹なわけはあるな。人間の子リリアよ」
その一言は静寂の中に投じられた爆弾だった。
「は?? ラザール……貴方今……なんて?」
リリアさんが震える声で聞き返す。
彼女は魔剣をその手で掴み無理やり自分の体から引き抜いた。そしてよろめきながらも立ち上がりラザールさんを睨みつけた。
その瞳にはもう悲しみの色はない。
ただ純粋な怒りと混乱だけが渦巻いていた。
「だからお前の親は人間だったっていうことよ」
ラザールさんは残酷な真実を告げる。
「お前の親は魔族の最高傑作であるこの儂ラザールとダイマ・オウによって殺された。どっちも優しい人間だったそうじゃないか。魔族の適合手術を受けている時お前はそのことばかり言って泣いていたぞ」
嘘だ。
リリアさんの心がそう絶叫しているのが私の心眼には見えた。
彼女の記憶。
彼女の信念。
彼女の人生そのもの。
その全てが今この瞬間にラザールさんの言葉によって否定されようとしていた。
彼女の父は偉大な魔王だったはずだ。
人間である勇者ジェイクに無念の死を遂げさせられた悲劇の王だったはずだ。
その復讐のためだけに彼女は生きてきたのだ。
それが全て嘘だったというのか。
自分が信じてきた正義が実は悪魔に植え付けられた偽りの記憶だったというのか。
「ふざけるなぁぁぁ!!!!」
リリアさんの絶叫が塔全体を揺るがした。
彼女の心臓は完全に治り終わっていた。
その全身から憎悪と絶望が入り混じった凄まじい魔力が噴き上がる。
彼女はラザールさんに向かって一直線に突っ込んでいった。
その動きはもはや憎しみという感情の奔流そのものだった。
しかし。
ラザールさんは微動だにしなかった。
彼はただ静かに杖を振るった。
その瞬間。
凄まじい風圧がリリアさんの体をそして私達の体を襲った。
あまりの風圧でファイナルタワーの最上階が内側から爆発するように崩壊していく。
床が抜け壁が砕け散り天井が落ちてくる。
私達はなすすべもなく崩壊する塔の瓦礫と共に地上へと叩き落とされていった。
リリアさんも例外ではなかった。
風圧に吹き飛ばされ彼女は空中で木の葉のように舞う。
そして彼女は悟ったのだろう。
瓦礫と共に落ちていく私達そしてその遥か上空で静かにこちらを見下ろすラザールさんの姿を見て。
これは……こんなの。
勝てない。
彼女の心に初めて絶対的な敗北という感情が刻み込まれた。
そしてラザールさんはさらに絶望的な真実を告げる。
その声は崩壊する塔の轟音の中にあってなおはっきりと私達の耳に届いた。
「さらに真実を教えてやろう…! お前はかつて人間と結婚して人間の子供を産んでいる。まあその後の適合手術によって人間ではなくなったがな…!!」
その言葉にリリアさんの瞳が大きく見開かれた。
忘れていた記憶。
封印されていた過去。
「やめろ…!!」
彼女の悲痛な叫び。
だがラザールさんは止まらない。
彼は最後のそして最も残酷なとどめを刺した。
「そしてその子供の名前は…!!」
「マイダ・ウオだ!!!!」
その名前を聞いた瞬間。
私の世界もまた音を立てて崩れ落ちていった。
二
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
頬を撫でる冷たい風の感触で俺はゆっくりと意識を取り戻した。
目を開けるとそこは瓦礫の山だった。
ファイナルタワーが完全に崩壊したその残骸の上。
空には不気味な紫色の月が浮かんでいる。
「……っ……ここは……」
体を起こそうとして全身に激痛が走った。
落下した時の衝撃であちこち骨が折れているのかもしれない。
だが不思議と命に別状はなさそうだった。
おそらくナターシャが気絶する最後の瞬間に俺達に防御魔法をかけてくれたのだろう。
周囲を見回すとナターシャ メアリー そしてレシアも俺のすぐ近くで倒れていた。
三人も俺と同じように深い傷を負ってはいるがかろうじて息はあるようだった。
そして少し離れた場所にリリアが倒れていた。
彼女はもう動かなかった。
その胸には大きな風穴が空いている。
ラザールの風の魔法による致命傷だろう。
彼女は最期まで駒として踊らされそして用済みとなればあっさりと捨てられたのだ。
その哀れな最期に俺は憎しみよりも深い虚無感を覚えた。
だが、あの二人の姿はどこにもなかった。
ラザールと大魔王と化したウオ。
奴らはどこへ行ったのか。
その時俺の脳裏に直接声が響いた。
それはラザールの声だった。
『――聞こえるかね我が出来損ないの弟子ロザールよ』
その声は嘲笑に満ちていた。
『お主達にはまだ役割が残っておる。この世界の終焉を見届けるという特等席の観客としての役割がな。まあ精々生き延びて絶望するが良い』
その言葉を最後にラザールの気配は完全に消え失せた。
後に残されたのは半壊した仲間たちとそしてどうしようもないほどの絶望感だけだった。
「……ロザール……」
ナターシャが呻きながら目を覚ました。
メアリーとレシアもそれに続く。
俺達は互いの無事を確認し合うと言葉もなくただ互いの傷だらけの顔を見つめ合った。
これからどうすればいいのか。
ラザールは言った。
俺達は観客だと。
世界の終わりを見届けるだけの。
そんなこと認められるものか。
俺は震える手で地面に落ちていた自分の剣を拾い上げた。
まだだ。
まだ終わっていない。
俺の心の中の復讐の炎はまだ消えてはいない。
いやむしろその炎は新たな燃料を得てさらに激しく燃え上がっていた。
ラザール。
あの男だけは絶対に許さない。
俺の両親のジェイクさんのライアのそしてウオの。
全ての想いを踏みにじったあの男を俺はこの手で必ず……!
そう俺が決意を新たにしたその時だった。
俺達のすぐ近くに転がっていたリリアの亡骸。
その体がぴくりと動いた。
「……!?」
俺達は咄嗟に身構えた。
だが彼女の体から魔力が感じられることはなかった。
ただその胸の風穴から金色の光が溢れ出している。
自己治癒魔法。
だがその光はこれまで見たどんなものよりも弱々しくそして儚かった。
彼女は最後の生命力を振り絞り何かをしようとしている。
やがてその光は一つの小さな光の球となって彼女の体から離れゆっくりと宙に浮かび上がった。
そしてその光の球はまるで意思を持っているかのように俺達の目の前で止まった。
光が収まるとそこには一枚の古びた羊皮紙が浮かんでいた。
それは手紙のようだった。
リリアの最後の想いがそこに込められている。
俺は恐る恐るその手紙を受け取った。
そこには震える文字でこう記されていた。
『――お願い。……あの子を……ウオを……助けて……』
それは母としての最後の願いだった。
彼女もまたラザールという悪魔に人生を狂わされた一人の哀れな被害者だったのだ。
その悲痛な願いを目にした瞬間。
俺の心の中の何かが決壊した。
そうだ。
俺は何をしていたんだ。
復讐?
憎しみ?
そんなものに囚われている場合じゃない。
俺達にはまだやらなければならないことがある。
ウオを助け出す。
レシアとの約束。
ライアとの誓い。
そしてジェイクさんから託された未来。
その全てを果たすために。
「……行こう」
俺は立ち上がった。
まだ体は痛む。
だが心は決まった。
「ウオを追いかけるんだ」
俺の言葉にナターシャもメアリーもそしてレシアも力強く頷いた。
私達の旅はまだ終わらない。
いや本当の意味で始まったのは今この瞬間からなのかもしれない。
偽りの英雄譚に終止符を打ち本当の希望を掴み取るための旅が。
三
俺達は再び歩き出した。
その足取りは重かったがもう迷いはなかった。
俺達の心は今確かに一つになっていた。
ウオを救い出す。
そのただ一つの目的のために。
ラザールと大魔王はどこへ向かったのか。
手がかりは何もない。
だが俺には確信があった。
奴らが向かう先は一つしかないと。
「……カリム村だ」
俺の呟きにレシアがハッとしたように顔を上げた。
「私とウオの故郷……」
「ああ」俺は頷いた。「ラザールは言っていた。俺達は観客だと。そしてレシアお前がウオを完全に覚醒させるための最後の鍵だとも。奴は必ずお前とウオを引き合わせる。そのための最高の舞台を用意してな」
その最高の舞台。
それはウオにとって最も愛しくそして最も失いたくない場所。
彼の原点であり彼が守ろうとした全て。
カリム村。
「なんて残酷なことを……」
ナターシャが唇を噛み締める。
そうだ。
ラザールのやり方は常にそうだ。
人の最も大切なものを踏みにじることでその心を折り絶望させる。
俺の両親もジェイクさんもリリアも皆そうだった。
そして今度の標的はウオとレシアなのだ。
俺達は急いだ。
残された時間は少ない。
二百日というタイムリミットももう半分以上が過ぎ去っている。
俺達は傷ついた体を引きずりながらただひたすらにカリム村を目指した。
数週間後。
俺達の目の前に見覚えのある穏やかな丘陵地帯が広がった。
カリム村はもうすぐそこだ。
だが村に近づくにつれて俺達の胸は言いようのない不安に包まれていった。
村が静かすぎるのだ。
いつもなら聞こえてくるはずの子供たちの笑い声も家畜の鳴き声も鍛冶屋の槌の音も何も聞こえてこない。
ただ不気味なほどの静寂が村全体を覆っていた。
そして村の入り口にたどり着いた時俺達は息を呑んだ。
村は無傷だった。
家々も畑も全てが俺達が旅立つ前のまま。
だがそこに人の気配だけが完全に消え失せていたのだ。
「……どういうこと……?」
メアリーが震える声で呟く。
俺達は恐る恐る村の中へと足を踏み入れた。
家々の扉は全て開け放たれ中には食べかけの食事がテーブルの上にそのまま残されている。
まるで村人たちがついさっきまでそこにいて突然神隠しにでもあったかのようだった。
俺とレシアの家も同じだった。
全てが旅立つ前のまま。
だがそこに温もりだけがなかった。
俺達は村の広場へと向かった。
そして見てしまった。
広場の中央に建てられた一つの巨大な黒い十字架を。
そしてその十字架に磔にされている村人たちの姿を。
村長も鍛冶屋の親方も食堂のおばさんも俺達の友達も。
村の全ての人間がそこで意識のないまま鎖に繋がれていた。
そしてその十字架の一番高い場所に磔にされていたのは。
レシアの両親だった。
「お父さん……! お母さん……!」
レシアの悲痛な叫びが静まり返った村に木霊する。
彼女は泣きながら十字架へと駆け寄ろうとした。
だが俺はその腕を掴んで止めた。
「待てレシア! 罠だ!」




