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 彼は椅子に腰掛け静かに私を見つめていた。

 その瞳は夜の闇の中でも変わらず穏やかで、そして全てを見透かすように澄み渡っていた。

 彼は私が悪夢にうなされているのに気づいて、ずっと傍にいてくれたのだろうか。

 そのさりげない優しさに私の心の最後のダムが決壊した。

 私はもう何も言えなかった。

 ただ子供のように声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。

 ジェイクさんはそんな私を咎めなかった。

 ただ静かに私が泣き止むのを待っていてくれた。

 その無言の温かさが私の荒れ狂う心を、少しずつ少しずつ凪がせていくのだった。



 第五部 ジェイク編

 第七章:英雄の鎮魂歌と、悪魔の産声

 一

 私の絶叫じみた嗚咽は、静まり返った宿屋の一室に虚しく響き渡っていた。

 悪夢。

 それはただの夢だと頭では分かっているのに、魂に刻み込まれた恐怖は現実の冷気となって私の全身を苛んでいた。ウオが死ぬ夢。私がウオを殺す夢。ウオが世界を滅ぼす夢。そして何よりも辛い、闇の底で助けを求める彼の夢。

 私は毛布の中で体を丸め子供のように震えることしかできなかった。

「レシア嬢ちゃん。大丈夫か?」

 その聞き慣れた優しい声で私はハッとして顔を上げた。

 暗闇の中に一つの人影が立っていた。いつの間にそこに。

 気づけばそこにはジェイクさんがいた。彼は椅子に腰掛け静かに私を見つめていた。その瞳は夜の闇の中でも変わらず穏やかで、そして全てを見透かすように澄み渡っていた。

 彼は私が悪夢にうなされているのに気づいて、ずっと傍にいてくれたのだろうか。

 そのさりげない優しさに私の心の最後のダムが決壊した。私はもう何も言えなかった。ただ子供のように声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。

 ジェイクさんはそんな私を咎めなかった。

 ただ静かに私が泣き止むのを待っていてくれた。

 その無言の温かさが私の荒れ狂う心を、少しずつ少しずつ凪がせていくのだった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。私の嗚咽がようやく穏やかな呼吸に変わった頃、ジェイクさんは静かに口を開いた。

「儂も昔はレシア嬢ちゃんのように苦しんでいた」

 その言葉はあまりにも唐突で、そしてあまりにも静かだった。

 私は涙に濡れた顔を上げ、驚いて彼を見つめた。伝説の勇者であるこの人が、私のように?

 彼は遠い昔を懐かしむように目を細めた。その瞳の奥には私が到底想像もできないほどの、長く深い時間の流れと、そして癒えることのない悲しみの色が宿っていた。

「儂には昔命に変えても守りたかった仲間が四人いた。剣の腕は立つが猪突猛進な戦士のダリオ。口は悪いが誰よりも仲間思いな魔法使いのセレナ。臆病だが土壇場で誰よりも勇気を出す僧侶のピピン。そして……」

 彼はそこで一度言葉を切り、夜空に浮かぶ月を見上げた。

「そして太陽のように笑う、一人の姫がおった」

 ジェイクさんは続けた。

「儂らは五人で旅に出た。当時世界を脅かしていた大魔王を討伐するためにな。だが旅路は過酷じゃった。儂らは若く未熟で、そして敵はあまりにも強大じゃった。仲間はそのうち三人が冒険の序盤で死んだ。戦士のダリオは儂を庇って。魔法使いのセレナは村を守って。僧侶のピピンは自らの命と引き換えに仲間を蘇生させてな」

 彼の声には感情がなかった。だがその無感情さこそが、彼の心の奥底に刻まれた傷の深さを物語っていた。

「だがリリだけは生きていた」

「リリ?」

 私は思わず聞き返した。初めて聞く名だった。

「ああ」ジェイクさんの顔に、今まで一度も見たことのない表情が浮かんだ。それは後悔と愛しさと、そしてどうしようもないほどの郷愁が入り混じった、ひどく人間臭い顔だった。

「儂の……いや俺が恋した……大切な仲間だ。ロード・ア・リリ。この王国の王族だ。彼女と俺だけが生き残った」

 リリ。王族。そしてジェイクさんが恋した人。

 彼の独白は私の想像を遥かに超えていた。

「仲間を三人失い俺の心は折れかけていた。もう旅をやめてしまおうとさえ思った。だがリリだけは違った。彼女は涙を拭い前を向いてこう言ったんじゃ。『彼らの死を無駄にしてはならない。私達が世界を救うのだ』と。その気高い姿に俺は救われた。そして誓ったんじゃ」

 ジェイクさんは続けた。

「だからこそ俺はなんとしてでも、その子だけは守らなくてはならないと思った」

 彼の声が僅かに震えた。

「しかし彼女は大魔王ダイマ・オウの自爆に巻き込まれて死んだ。守りたいと思っていたあの子は俺を守って死んだ。……俺の腕の中でな。最後に『ありがとう』と、そう笑って」

 私は言葉を失った。

 伝説の勇者の旅路。その結末がそんなにも悲劇的なものだったなんて。彼もまた私と同じように守りたいものを守れなかった、深い喪失感を抱えて生きてきたのだ。六十年というあまりにも長い時間、たった一人で。

「……だけどな」

 ジェイクさんは私に向き直った。

 その瞳はもう悲しげではなかった。老将としての厳しくも温かい光が宿っていた。

「お前さんには一番守りたい人がまだ生きているのだろ? それに他にもたくさん仲間がいる。ロザール坊にナターシャ嬢、そしてメアリー嬢も。お前さんは一人じゃない。儂もいる」

 彼の大きな手が私の頭にそっと置かれた。

「だからこそ言いたい。レシア嬢ちゃん。アンタはまだ何も終わっちゃいない」

 その力強い言葉が、私の心の最も深い場所に突き刺さった。

 そうだ。

 私は一人じゃない。

 そしてウオはまだ生きている。

 彼の魂はまだ闇の中で戦っている。

 終わっていない。何も。

「大魔王ダイマ・オウ……」私は呟いた。「ジェイクさん達が六十年前に戦った相手が、ウオの中に……」

「うむ」ジェイクさんは頷いた。「おそらくウオの母であるリリアという女が、儂らが施した封印を解きウオ坊を新たな器として蘇らせたのじゃろう。だが封印は完全には解けておらん。ウオ坊自身の魂が抵抗しておるからじゃ。お主が悪夢で見るのはその証拠。彼の魂がお主に助けを求めとるんじゃ」

 その言葉は私を苛んでいた悪夢に、新しい意味を与えてくれた。

 あれはただ私を苦しめるためのものではない。

 ウオからのSOSなのだ。

「だからこそお主は強くならねばならん」ジェイクさんは言った。「彼の魂を闇から引きずり出すにはそれ相応の覚悟と力が必要となる。今のままのお主では闇に呑まれて共倒れになるだけじゃ」

 ジェイクさんの過去と言葉に心を動かされた私。彼の壮絶な人生に比べれば私の悩みなどなんてちっぽけなのだろう。

 私は涙を拭った。そして彼に深々と頭を下げた。

「ジェイクさん……ありがとうございます。私……もう迷いません」

「うむ。それで良い」

 彼は満足げに頷くと私の頭をもう一度優しく撫でてくれた。

 その夜私は久しぶりに悪夢を見ることなく、深く穏やかな眠りに落ちた。

 二

 次の朝。

 宿屋の一室には三ヶ月ぶりとなる穏やかな光が差し込んでいた。

 ロザールさん達は昨夜の疲れも見せず朝から元気いっぱいだった。

「いやーよく寝た! やっぱりふかふかのベッドは最高だな!」

「本当ね。お肌の調子も良いみたい」

「私……こんなにぐっすり眠れたの初めてです……」

 ロザールさんナターシャさんそしてメアリーが口々にそう言いながら旅の支度をしている。その光景がたまらなく愛おしかった。

 私の顔つきが変わったことにナターシャさんが気づいた。

「レシアちゃん何か良いことでもあったの? すごくすっきりした顔をしてる」

「うん」私は頷いた。「ジェイクさんと少し話をしただけだよ」

 私のその答えにジェイクさんは少し照れくさそうに「儂は何もしておらんよ」とそっぽを向いた。

 私達は宿の主人にお礼を言うと、王都へと向けて再び歩き出した。

 空は快晴。秋の澄んだ空気が心地よい。

 道中私達は何気ない会話をしながら歩いた。

「なあジェイクさん」ロザールさんが尋ねる。「アンタが昔使ってたっていう聖剣はどこにあるんだ? やっぱりどこかに封印でもされてるのか?」

「さあな」ジェイクさんは答えた。「とうの昔にそこらの湖にでも捨てたわい。儂にはこの木刀一本あれば十分じゃ」

「ええーっ! もったいない!」

「本当ですよジェイクさん! 伝説の勇者の剣なんて国宝級のお宝じゃないですか!」

 ナターシャさんとメアリーも口を揃える。

 そんな四人のやり取りを私は微笑ましく思いながら聞いていた。

 そうだ。これが日常。

 私が守りたかった当たり前の温かい時間。

 王都に着いたらこの日常は終わる。

 私達は世界の命運を懸けた過酷な戦いに身を投じることになる。

 だからこそ今この瞬間を大切に心に刻みつけておきたかった。

 しかしそんな私達のささやかな平穏は、あまりにも唐突にそしてあまりにも無慈悲に引き裂かれた。

 街道の緩やかなカーブを曲がったその時だった。

 道の真ん中に一人の女性が立っていた。

 黒い豪奢なドレス。月光を編み込んだかのような美しい銀髪。そして全てを見下すかのような冷たい微笑み。

 その姿を私が見間違えるはずがなかった。

「……リリア……さん……!」

 私の喉から掠れた声が漏れた。

 ウオのお母さん。

『愛眼』の長。

 私達の全ての元凶。

 彼女がなぜここに。

「久しぶりね。大魔王様のお友達……レシアよ」

 リリアさんは楽しそうにそう言った。


その声が聞こえた瞬間私達の間に緊張が走る。

ロザールさんナターシャさんメアリーは即座に武器を構え戦闘態勢に入った。私も世界樹の杖を強く握りしめる。

だがジェイクさんだけは違った。

彼は武器を構えるどころかその場に立ち尽くしたまま、目の前のリリアさんの姿を信じられないといった表情で見つめていた。

彼の顔から血の気が引きその瞳が激しく揺れ動いている。

「リリ……?」

彼の唇からか細い声が漏れた。

それは六十年という長い長い間彼の心の奥底に封じ込めてきた、愛する人の名前だった。

「お前なのか? お前……なのか?」

ジェイクさんのそのあまりにも痛々しい問いかけ。

それに対してリリアさんはその冷たい微笑みを崩さなかった。

彼女は正直だった。

そしてその正直さこそが何よりも残酷だった。

「私はリリなんかじゃありません」

彼女は静かに告げた。

「リリは私の母さんです。私は魔族の父さんと人間の母さんから生まれたのですからね」

その言葉が放たれた瞬間、ジェイクさんの世界が音を立てて崩れ落ちるのが私には分かった。

そして同時に私達の戦いが想像を絶するほど根深く、そして悲劇的なものであることを思い知らされた。

私達の本当の英雄譚はまだ始まったばかりなのだと。


ジェイクさんの世界が崩壊する音を私は確かに聞いた。

六十年というあまりにも長い時間、彼の心を支え続けてきたであろう、たった一つの聖域。愛した女性リリの記憶。それが今目の前で、彼女自身の娘を名乗る女によって無慈悲に踏み躙られようとしていた。

「……なんだと……?」

ジェイクさんの唇から漏れたのは、声というよりはただの空気の塊だった。彼の顔は蒼白を通り越して土気色になり、その百戦錬磨の体躯が僅かに揺らいだのを私は見逃さなかった。

伝説の勇者が動揺している。目の前の女が放つ言葉の毒が、それほどまでに強力だということだ。

リリアさんはそんなジェイクさんの姿を心底楽しむかのように眺めていた。

「驚きましたか? 伝説の勇者ジェイク・ローデルベルク。貴方が愛した聖女リリが、敵であるはずの魔族と交わり、私のような忌むべき半魔を産み落としていたとは。さぞかし幻滅したことでしょう」

その言葉の一つ一つが鋭い棘となってジェイクさんの心に突き刺さっていく。

ロザールさんが耐えきれずに叫んだ。

「ふざけるな! お前の母親が誰であろうと関係ない! お前が俺の両親を殺し、レシアの大切な人を奪った元凶であることに変わりはないんだ!」

彼は剣を構え今にも飛びかからんばかりの勢いだ。ナターシャさんとメアリーもそれに続く。

だがジェイクさんは動かなかった。彼はただ呆然とリリアさんを見つめ、震える声で問い詰めた。

「……リリは……。お前の母さんは、なぜそんなことを……。あいつは誰よりも人間を愛し、この世界の平和を願っていたはずだ! 魔族との共存などという甘っちょろい理想を掲げながらも、その根底にあったのは人間への深い愛情だったはずだ! なぜお前のような……!」

誰よりも人類のことを思っていたリリの娘であったリリアに、何故このような事をしたのか問い詰めるジェイク。

しかしその事がリリアの虎の尾を踏んだ。

怒りを買ったのだ。

それまで浮かべていた冷たい微笑みが、すっと消える。

代わりにその美しい顔に浮かんだのは、純粋な、そして底なしの憎悪だった。

部屋の温度が数度下がったかのような錯覚。彼女の全身から放たれる禍々しいオーラが、私達の肌をビリビリと刺激する。

「あれは…母さんじゃない」

リリアさんの声は低く、地を這うようだった。

「私の親は…!! 父さんだけだ!!」


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