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第五部 ジェイク編

第五章:心に響くは、始まりの歌

ジェイクさんとダインという二つの巨大な力の衝突を背に感じながら、私達はそれぞれの戦場へと駆け出した。

恐怖はもうない。

私の心の中にはただ仲間を信じそしてウオを救い出すという、揺るぎない誓いだけがあった。

私の本当の戦いはここから始まるのだ。

私が向かったのは砦の中央に位置する最も大きな部屋へと続く、長い石造りの廊下だった。ひんやりとした空気が肌を撫で、壁に灯された松明の炎が私の影を長くそして頼りなげに揺らしている。

ロザールさんは右翼へ、ナターシャさんは左翼へ。私達は三手に分かれた。ジェイクさんが伝説の英雄であるならば、私達は彼の剣であり盾だ。彼が敵の王将を討ち取るまでの時間を稼ぎ、そして勝利への道を切り拓く。それが私達『ギルド・ロザール』の最初の、そして最も重要な任務。

私の心眼は、この廊下の先にある巨大な扉の向こうに、一つの心の気配を明確に捉えていた。

ダイン親衛隊の幹部。その一人。

ロザールさんが向かった先にいるであろう幹部の心は、鍛え上げられた鋼のように硬く揺るぎない自信に満ちている。

ナターシャさんが向かった先の幹部の心は、冷たい氷のように静かだがその奥に狡猾な罠を張り巡らせているのが感じられた。

どちらも強敵だ。ロザールさんとナターシャさんならきっと大丈夫。そう信じてはいても、胸の奥で小さな不安が疼く。

だが私が今から対峙する相手は、その二人とは明らかに異質だった。

その心の波紋は、まるで嵐の夜の海のようだった。激しい怒りや憎しみといった感情の奔流の中に、ぽつんと取り残されたような深い悲しみと、そしてどうしようもない恐怖が混沌とした渦を巻いている。

心が迷っている。戦うことそのものに疑念を抱いている。

ジェイクさんは言った。『その心の揺らぎを勝機とせよ』と。

私は知らず知らずのうちに、腰に下げた短剣の柄を強く握りしめていた。

勝機。そうだこれは勝機なのだ。

でも本当に?

心が揺らいでいる相手を討つ。それは戦いにおいて当然のことなのかもしれない。

だが私の心は、その『正しさ』に小さく「待った」をかけていた。

なぜならその心の揺らぎは、私にとってあまりにも他人事とは思えなかったからだ。

ウオを救いたいと願いながら、自分の無力さに打ちひしがれたあの日の私。

ライアの優しさに救われながら、その裏で醜い嫉妬心に苛まれたあの日の私。

迷い苦しみそれでも前に進むしかないと、必死にもがいていたあの日の私。

扉の向こうにいる敵の心は、そんなかつての私の心とどこか似ているような気がしたのだ。

考えている暇はなかった。

巨大な両開きの扉が私の目の前に立ちはだかる。深呼吸を一つ。私は震える手でその冷たい鉄の扉をゆっくりと押し開けた。

部屋は広かった。

高い天井からは豪奢なシャンデリアが吊り下がり、床には真紅の絨毯が敷き詰められている。謁見の間とでも呼ぶべき場所なのだろう。

そしてその部屋の中央。

玉座のような大きな椅子に一人の女性が腰掛けていた。

彼女こそが私が追い求めてきた三つ目の心の気配の主だった。

全身を漆黒の体にぴったりとフィットした軽装の鎧で覆い、その顔は銀色の仮面で隠されている。腰には細身のレイピアが一振り。その立ち姿からはただならぬ手練れの雰囲気が漂っていた。

「……来たか。ネズミが一匹」

仮面の奥からくぐもった、しかし若い女性の声がした。

彼女はゆっくりと立ち上がると、そのレイピアを静かに抜き放った。

「私はダイン様が親衛隊隊長No.3。名は、ない。貴様のような弱者が足を踏み入れて良い場所ではなかったな」

No.3。それが彼女の名前。

名は、ない。その言葉が私の胸に小さく突き刺さった。

彼女は静かにこちらへと歩み寄ってくる。

その心の波紋が近づくにつれてより鮮明に私の心眼に映し出された。

やはり間違いない。

彼女の心は悲鳴を上げている。

恐怖と後悔とそして誰にも言えない、助けを求めるか細い声。

きっと無理やりこの場所で戦わされているんだ。

私は短剣を抜いた。

だがその切っ先を彼女には向けなかった。

「……始めようかお嬢ちゃん。すぐに楽にしてやる」

No.3がそう呟いた瞬間、彼女の姿が掻き消えた。

速い。

だが今の私には見える。

心眼が彼女の殺意の流れを正確に捉えていた。

右から来る。

レイピアの鋭い突き。

私は半身になってそれをかわす。

私の頬を銀色の閃光が掠めていった。数本の髪がはらりと舞い落ちる。

彼女は驚いたように目を見開いた。私の動きを見切られたことが信じられないといった表情。

「……ほう。ただのネズミではないようだな」

彼女は一度距離を取ると今度は魔法の詠唱を始めた。

その全身から禍々しい闇の魔力が溢れ出す。

「闇よ集え。敵を貫く無数の棘となれ! 『ダーク・ニードル』!」

彼女の両手から数十本もの黒い氷の棘が放たれた。

その一本一本が人の体を容易く貫くであろう必殺の魔法。

だが私はその場から動かなかった。

心眼が全ての棘の軌道を完璧に見切っていたからだ。

そして私の体はジェイクさんの教えを忠実に再現する。

『避けるな。流すのじゃ』

私はラザールさんから授かった世界樹の杖を静かに構えた。

そして杖の先端から柔らかな翠色の光を放つ。

それは攻撃魔法ではない。

ただの魔力の流れ。

その流れが迫りくる闇の棘の軌道を僅かに逸らしていく。

全ての棘が私の体をまるで避けるかのように通り過ぎ、背後の壁に突き刺さった。

「なっ……!?」

No.3が絶句する。

自分の魔法が全て防がれたのではない。

まるで最初から当たらなかったかのように受け流されたのだ。

その事実に彼女の心の波紋がさらに激しく乱れた。

驚愕そして焦り。

私は杖を下ろした。

そして仮面の奥の彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

「君は、本当にここで戦いたいの?」


私のその問いかけは、静まり返った謁見の間に重く響き渡った。

仮面をつけた幹部――No.3の動きが完全に止まる。彼女の心の波紋が驚きと混乱で大きく揺れ動いているのが、私の心眼にははっきりと見えていた。

「………なんで」

仮面の奥からようやく絞り出すような声がした。

それは先ほどまでの冷徹な戦士の声ではなかった。

ただ戸惑う一人の少女の声だった。

「なんでそんなことを聞く……? 貴様は私の敵だろう……?」

「敵だからだよ」私は静かに答えた。「敵だからこそ聞きたい。あなたの本当の心が」

私は一歩彼女へと近づいた。彼女は反射的にレイピアをこちらへ向けたが、その切っ先は僅かに震えていた。

「君の心の揺らぎを感じ取った。私の『心眼』っていう特性の力で」

私は自分の力を正直に打ち明けた。もう駆け引きは必要ない。必要なのはただ心と心で向き合うことだけだ。

「君は本当はこの戦場にいたくないんじゃないかなって……。本当はこんなことしたくないんじゃないかって……。そう私には見えるんだ」

その言葉が引き金だった。

彼女の心のダムが決壊した。

「うるさあああああい!!!!」

彼女の絶叫と共に凄まじい魔力の嵐が部屋中を吹き荒れた。

仮面の奥の瞳が憎悪と恐怖そして絶望の色に染まる。

「うるさい!!! うるさい!!! うるさい!!!」

彼女は子供のように駄々をこねるようにただその言葉を繰り返しながら、闇雲に魔法を乱射し始めた。

巨大な闇の球体。

空間を切り裂く黒い刃。

床から突き出す無数の影の槍。

その全てが部屋を破壊し尽くさんとする凄まじい威力を持っていた。

だがその全ての攻撃は私を狙ってはいなかった。

ただ八つ当たりをするかのように私の周囲の壁や床へと叩きつけられていく。

彼女は私を傷つけたいのではない。

ただ私を遠ざけたいのだ。

私の言葉から自分の心から逃げるために。

私はその魔法を避けなかった。

後退りしながらも一歩また一歩と私は彼女に近づいていく。

暴風のような魔力の余波が私の肌を切り裂き服を焦がす。

痛い。

熱い。

苦しい。

だが私は足を止めなかった。

今私がここで引いてしまったら、彼女の心は完全に闇に閉ざされてしまうだろう。

私の心は不思議と穏やかだった。ラザールさんから授かった世界樹の杖が、私の精神を守るように温かい光を放っている。そして何より私の心眼が彼女の本当の心を見ている。その魔法の嵐は、助けを求める彼女の悲鳴なのだと。

「来るな!」彼女が叫ぶ。「私に近づくな!」

「嫌だ」

私は首を振った。

彼女との距離はもう数メートル。

「どうして分かってくれないの!?」

彼女の声はもはや悲鳴に近かった。

「私はもう後戻りできないのよ!!! たくさん人を殺したし!!! もう人間じゃないのよ!!? 私は!!!」

その魂からの叫び。

その言葉で私は全てを悟った。

彼女が元は人間だったということを。

そしてその心を失うほどの深い絶望を味わってきたのだということを。

彼女もまた私達と同じように、理不尽な力に全てを奪われた被害者なのかもしれない。

私はついに彼女の目の前までたどり着いた。

そして世界樹の杖を手放し、その震える体を力一杯抱きしめた。

「……っ!?」

彼女の体がびくりと跳ねる。

抵抗しようともがくその腕はしかしひどく弱々しかった。

「いや、まだ貴女はやり直せる」

私は彼女の耳元で囁いた。

私の持てる全ての想いを込めて。

「……え?」

「だって貴女には……まだ心の揺らぎがある。まだ迷いがある。後悔している。苦しんでいる」

私は彼女を抱きしめる腕にさらに力を込めた。

「確かに貴女のしたことは許されないかもしれない。たくさんの人の命を奪ったその罪は、一生かけても償えないかもしれない。でも」

私は続ける。それは彼女に言い聞かせると同時に、私自身にも言い聞かせる言葉だった。

「まだ迷いがある。まだ人を救える余地はある。だからもう人間に戻れないとしても、貴女はまだやり直せるよ。その心がある限り、何度だって」

私の言葉に彼女の体から力が抜けていくのが分かった。

それまで張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのようだった。

「……私…!!」

彼女の声が震えている。

「まだ……やり直せるの……?」

その声はあまりにもか細く、そして救いを求める迷子の子供のようだった。

「うん」私は力強く頷いた。「これからたくさんの人を救っていこうね。私と一緒に。貴女が奪ってしまった命の分まで、私達が救える命がきっとあるから」

その言葉を聞いた瞬間、彼女の体から全ての魔力が消え失せた。

そして私の腕の中で彼女はついに声を上げて泣きじゃくり始めた。

「う……うわあああああああああああああああああん!!!!」

それは長い長い間心の奥底に溜め込んできた、全ての悲しみと苦しみを吐き出すかのような激しい慟哭だった。

どれくらいの時間そうしていただろうか。

私の腕の中で彼女の慟哭はやがて穏やかな嗚咽へと変わっていった。私は彼女が泣き止むまで何も言わず、ただその小さな背中を優しく撫で続けた。

部屋の中は彼女が放った魔法によって壁や床が抉られ、見るも無惨な状態になっていた。だが私達二人を包む空気は不思議なほど静かでそして温かかった。

やがて彼女はしゃくりあげながらゆっくりと顔を上げた。

銀色の仮面は涙でぐしょぐしょになっていた。彼女はおずおずとその仮面に手をかけゆっくりと外した。

仮面の下から現れたのは私が想像していたような、魔族の恐ろしい形相ではなかった。

そこにいたのはただ泣き腫らした瞳を持つ、私と同じくらいの歳の一人の可憐な少女だった。

少し癖のある栗色の髪。そばかすの浮いたあどけない顔立ち。ただその瞳だけがその年齢には不釣り合いなほど深い絶望の色を宿していた。

「……ありがとう」

彼女は消え入りそうな声でそう言った。

「……レシアって言うんだよね? 私を助けてくれてありがとう……」

「うん」私は微笑み返した。「どういたしまして」

私は彼女を抱きしめていた腕をそっと解いた。

彼女はまだ少し戸惑っているようだった。長い間忘れていた人の温もりに、どう反応していいのか分からないといった様子で。

「……ところで」私は尋ねた。「君の人間だった頃の名前は? 私は貴女の親衛隊としての番号なんかじゃなくてそっちが知りたいな」

私のその問いに彼女は驚いたように目を見開いた。

そしてその瞳から再びぽろりと涙が一粒こぼれ落ちた。

それは先ほどまでの絶望の涙ではない。

温かい光を宿した涙だった。

彼女は恥ずかしそうに俯くと、蚊の鳴くような小さな声でその名を告げた。

「……メアリー」

彼女は言った。

「メアリー・ティンゼル」

メアリー。

その可愛らしい響きは彼女の雰囲気にぴったりだった。

「そっか」私は心の底から笑った。「よろしくね! メアリー!!」

私は涙でぐしゃぐしゃのメアリーに、とびっきりの笑顔で微笑みかけた。

私のその笑顔を見てメアリーもつられてふわりと笑った。

それはまだぎこちなくて悲しげな笑顔だったけれど。

それでもその笑顔は彼女の心が再び光を取り戻し始めた確かな証だった。

私達は新しい仲間を手に入れた。

いや違う。

私達は絶望の淵にいた一人の魂を救い出したのだ。

それはどんな戦いの勝利よりも尊くそして温かい奇跡だった。

私の心眼はもう迷わない。

この力は敵の弱点を見抜くためだけにあるのではない。

苦しんでいる人の心に寄り添い、その魂を救うためにあるのだと。

私はそう確信した。

私達の戦いはまだ始まったばかり。

だが私達の進むべき道には今、確かに新しい光が灯っていた。

メアリーという名の強くそして優しい光が。




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