30
師匠?
「他に方法がありますか!」ロザールさんは声を荒らげた。「あの人はこの王国で最強の魔法使いだ! かつて勇者と共に国を救った、あの人ならきっとリリアを止められるはずだ!」
王国最強の魔法使い。
かつての勇者パーティーのメンバー。
そんなすごい人がこの国にいたなんて。
「……その方は……?」私が、おずおずと尋ねると、ロザールさんは私に向き直り言った。
「俺の剣の師匠だ。名をラザール。かつて勇者パーティーに所属し国を救った大英雄。今は一線を退いて北の大都市ハーメルンで静かに暮らしている。……人々はあの人をこう呼ぶ、『老将』と」
ラザール。その名前に私は聞き覚えがなかった。
だがその響きは私達にとって新たな、そして唯一の希望の光のように思えた。
「その人に会って助けを求めよう」ロザールさんは決意を固めたようだった。「俺が頼めばきっと力を貸してくれるはずだ。あの人はそういう人だ」
「駄目じゃ」
ジェイクさんが静かに、しかしきっぱりとその提案を否定した。
「なぜです!」ロザールさんが食ってかかる。
「ラザール殿が力を貸してくれんと言っているのではない。むしろ逆じゃ」ジェイクさんは静かに首を振った。「あの男は義に厚い。お主の頼みとあらば二つ返事で引き受けるだろう。だがそれこそが敵の思う壺じゃ」
「どういうことですか?」
「考えてみろ」ジェイクさんは私達一人ひとりの顔を見回した。「敵はなぜレシア嬢を生かしておいた? なぜロザール坊の存在をこれまで放置してきた? お主らの存在は奴らにとって計画の邪魔にこそなれ利はないはずじゃ」
その問いに私はハッとした。
言われてみればそうだ。
リリアさんは私を殺せたはずだ。ロザールさんの両親を殺したように、彼の息の根を止めることもできたはず。
なのに、なぜ私達は生かされている?
「奴らは待っておるのじゃ」ジェイクさんは続けた。「お主らが助けを求め各地に散らばるかつての英雄たちを、探し出し一つに集めるのを。そしてそこを一網打尽にするつもりなのじゃよ」
その言葉はあまりにも冷徹で、そして的確な分析だった。
私達は敵の掌の上で踊らされているに過ぎなかったのだ。
私達の希望を求める行動そのものが、さらなる絶望を呼び寄せる罠だったなんて。
「そんな……」ナターシャさんの顔から血の気が引く。
「じゃあどうすればいいんだ……」ロザールさんも言葉を失っていた。「ラザールさんの力も借りられないとなると、俺達にはもう打つ手がない……」
部屋が再び絶望的な沈黙に包まれた。
希望の光は見えたと思った瞬間に、さらに深い闇へと姿を変えてしまった。
もうダメなのかもしれない。
ウオを救うことなんてやっぱり不可能だったんだ。
そう私が諦めかけたその時だった。
「いや、手はある」
ジェイクさんが静かに言った。
その瞳には先ほどまでの諦観とは違う。
確かな勝機を見出した者の鋭い光が宿っていた。
「ラザール殿は確かに切り札じゃ。だがその切り札を切るタイミングが重要になる。今ではない。敵の戦力が完全に明らかになり、奴らの計画が最終段階に入った時。その時こそ彼の力が必要となる」
「じゃあそれまではどうするんですか!」
「決まっておる」ジェイクさんは私達を見回し、そしてにやりと笑った。「力をつけるのじゃ。儂ら自身がな」
彼はゆっくりと立ち上がった。
そして部屋の隅に立てかけてあった一本の古い木の棒を手に取った。
それは彼が腰に差していた木刀だった。
「儂がお主らを鍛え上げてやる。リリアと対峙しても生き残れるだけの力を儂が授けよう。時間はない。だがやるしかあるまい」
その言葉には絶対的な自信が満ち溢れていた。
この老人は一体何者なんだ。
その底知れない存在感に私達はただ圧倒されるだけだった。
「よし決まりじゃな」ジェイクさんは満足げに頷いた。「まずはこの街を出る。目的地は予定通りハーメルンじゃ。道中儂がお主らに戦いの全てを叩き込んでやる。覚悟は良いな?」
その力強い言葉に私達の心に再び希望の炎が灯った。
そうだ。
諦めるのはまだ早い。
私達にはこの頼れる仲間がいる。
「はい!」
私とロザールさんナターシャさんは声を揃えて頷いた。
私達の新しいギルド『ギルド・ロザール』が本当の意味で産声を上げた瞬間だった。
私達は旅の支度を整え部屋を出ようとした。
明日から始まる厳しい修行に胸を高鳴らせながら。
その時だった。
ジェイクさんが不意に立ち止まり扉に手をかけたまま言った。
「……待て」
その声は低くそして鋭かった。
私達は怪訝な顔で彼を見る。
彼はゆっくりと部屋の中を見回した。
その目は何か見えない敵を探しているかのようだった。
「この部屋……」
彼は静かに呟いた。
「……恐らく愛眼の手下共に監視されてますぜ…?」
三
ジェイクさんのその一言が、部屋の空気を一瞬で凍り付かせた。
監視?
どこに?
誰が?
私とロザールさんナターシャさんは咄嗟に身構え周囲を見回した。だが部屋の中には私達四人以外誰もいない。窓の外も静かな夜の街並みが広がっているだけだ。
「ジェイクさん本気ですか……?」ロザールさんが声を潜めて尋ねる。
「ああ」ジェイクさんは頷いた。「儂の勘がそう告げておる。この部屋には儂らの他に百ほどの気配がある。おそらくリリアの手の者……魔族じゃろうな」
百。
その数に私は息を呑んだ。
この狭い部屋のどこにそんな大軍が潜んでいるというのか。
「姿が見えません。まさか……」
「透明化じゃろうな」ジェイクさんはこともなげに言った。「厄介な魔法を使いおるわい」
その言葉が引き金だった。
部屋の空気が陽炎のように揺らめき始めた。
そして何もないはずの空間から一体また一体と、異形の姿が浮かび上がってくる。
それはまさしく魔族だった。
全身を黒い甲殻で覆い昆虫のような複眼を持つ者。
影そのものが人の形をとったかのような不定形の怪物。
壁や天井に張り付くようにして無数の魔族が、その邪悪な気配を剥き出しにして私達を取り囲んでいた。
「……っ!」
私は悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえた。
ロザールさんとナターシャさんも顔面蒼白になりながら、それぞれの武器を構えている。
戦慄が背筋を駆け上る。
完全に包囲されている。
逃げ場はない。
絶望的な状況。
だがその中で一人だけジェイクさんは冷静だった。
彼は驚くでもなく怯えるでもなく、ただやれやれと肩をすくめて言った。
「悪いな」
彼は私達を振り返り少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「俺は魔族相手には手加減できねェんだ」
その言葉と同時に、彼が腰に差していた古びた木刀が鞘から抜き放たれた。
次の瞬間、私は信じられない光景を目の当たりにすることになる。
ジェイクさんの姿が消えた。
そう認識した時にはもう全てが終わっていた。
部屋の中をただ一陣の風が吹き抜けたかのようだった。
風が通り過ぎた跡には音もなく崩れ落ちていく魔族たちの骸、骸、骸。
何が起きたのか私には全く理解できなかった。
ただジェイクさんが一度だけ木刀を振るったように見えた。
たった一振り。
その一振りだけでこの部屋を埋め尽くしていた百体ほどの魔族が、一瞬にして塵と化していたのだ。
壁にも床にも一滴の血もついていない。
斬られたという感覚すらないまま魔族たちは、その存在を完全に抹消されていた。
静寂が戻る。
後に残されたのは呆然と立ち尽くす私達三人と、そして部屋の中心でゆっくりと木刀を鞘に収めるジェイクさんの姿だけだった。
彼はふうと一つ息をつくと、まるで庭の草むしりでも終えたかのような気軽な口調で言った。
「やはり木刀は切れが悪い。少し斬るのに時間がかかってしまった」
その言葉に私達はもはや驚愕を通り越して、呆然とするしかなかった。
時間がかかった?
今の神速の虐殺が?
この人は一体どれほどの次元で生きているのだ。
ジェイクさんは困惑する私達に向き直ると、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「ああそうじゃった」
彼は咳払いを一つすると改めて私達に向き直り、その背筋をぴんと伸ばした。
その立ち姿はもはや好々爺のそれではない。
百戦錬磨の伝説の英雄の風格がそこにはあった。
「申し遅れました」
彼は深々と頭を下げた。
「儂の名前はジェイク・ローデルベルク。六十年前、勇者をやっていた者です」
その言葉は最後のとどめだった。
私のちっぽけな常識など完全に粉々に打ち砕かれた。
勇者。
この老人がかつての勇者。
エミールさんよりもさらに古い世代の伝説の存在。
私達はとんでもない人物を仲間に引き入れてしまったのだ。
絶望の淵で私達が掴んだ一本の蜘蛛の糸。
それは天界から垂らされた神々の救いの手だったのかもしれない。
私の新しい旅路。
それは伝説と共に歩む、とてつもない物語の始まりを告げていた。
第五部 ジェイク編
第三章:老将の教えと、死地への招待状
一
私達の新しい旅路は希望と同時に、新たなそしてより根深い謎を抱えたまま幕を開けた。
私達の四人目の仲間、ジェイク・ローデルベルクと名乗ったこの老人は、六十年前に世界を救ったという伝説の勇者。
その事実は私のちっぽけな常識など完全に粉々に打ち砕き、そして暗闇の中にいた私達に一条のあまりにも眩しい光を投げかけてくれた。
あの日ドワーダルのギルドの一室で、百体もの魔族を瞬く間に葬り去ったジェイクさんの圧倒的な力。それは絶望的な状況にいた私達にとって何よりも雄弁な希望の証だった。この人がいればあるいは。この人ならあの大魔王と化したウオを、そしてその背後で糸を引く『愛眼』とウオのお母さんであるリリアさんを、止めることができるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、私達『ギルド・ロザール』の本当の活動が始まったのだ。
「さて、才能の卵達よ」
ジェイクさんは私、ロザールさん、ナターシャさんの三人を前に、いつもの好々爺然とした笑顔で言った。だがその瞳の奥には百戦錬磨の老将だけが持つ鋭い輝きが宿っていた。
「目的地は北の大都市ハーメルン。そこにいるロザール坊の師匠ラザール殿の力を借りる。その方針は変わらん。じゃが今のままのお主らでは、ハーメルンにたどり着く前に野垂れ死ぬのが関の山じゃろうな」
その容赦のない言葉に私達は息を呑んだ。
ロザールさんはドワーダルでも指折りの剣士だ。ナターシャさんの支援魔法も決して未熟ではない。私だってこの旅を通して少しは成長できたと思っていた。
だがジェイクさんは静かに首を振った。
「お主らの敵はチンピラでもそこらの魔物でもない。世界の理を覆そうとする神にも等しい力を持つ存在じゃ。その敵と渡り合うには今のお主らの力はあまりにも脆弱すぎる」
彼は私達一人ひとりの顔をじっと見つめた。その視線はまるで私達の魂の奥底まで見透かしているかのようだった。
「だから儂がお主らを鍛え上げてやる。ハーメルンまでのこの道中がお主らにとっての最初のそして最後の試練の場となる。儂の稽古は厳しいぞ。泣き言を言う暇もない。死ぬかもしれん。それでもついてくるか?」
その問いに私達は迷いなく頷いた。
死ぬ覚悟などとうに出来ている。
ウオを救い出すためなら。
仲間たちの無念を晴らすためなら。
「良い目じゃ」
ジェイクさんは満足げに頷いた。
こうして私達の地獄のような、しかし希望に満ちた修行の旅が始まったのだ。
ジェイクさんの教えは私達が今まで学んできた「戦い」の常識を根底から覆すものだった。
ロザールさんは剣の天才だった。その剣筋は荒削りながらも復讐の炎を宿した鋭い破壊力を秘めていた。だがジェイクさんはその戦い方を一刀両断した。
「お主の剣はただ怒りをぶつけているだけじゃ。それでは格下には勝てても本当の強者には届かん。剣とはもっと静かで冷たいものじゃ。怒りではなくただ斬るという純粋な意志だけを乗せるのじゃ」
ジェイクさんはロザールさんに木刀を持たせ、ただひたすらに素振りをさせた。
来る日も来る日も朝から晩まで。
ロザールさんは最初反発した。だがジェイクさんが一度だけ手本を見せた時彼は言葉を失った。
ジェイクさんの振るう木刀。
それは音も風も起こさなかった。
ただ静かに木刀が空間を滑るだけ。
だがその一振りは私達の目の前にあった巨大な岩を、まるで豆腐のように真っ二つに切り裂いていた。
「これが儂の言う『斬る』ということじゃ。力ではない。技でもない。ただそこにある理を断ち切る意志の力。お主にもその才能はある。その復讐の炎をただの怒りではなく鋼の意志へと昇華させるのじゃ」
その日からロザールさんの剣筋は変わった。
彼の剣から荒々しさが消え、代わりに氷のような静けさと洗練された鋭さが宿り始めたのだ。
ナターシャさんの修行も過酷を極めた。
彼女は優れた治癒魔法の使い手だった。だがジェイクさんは彼女に治癒魔法を使うことを禁じた。
「お主は優しすぎる。仲間が傷つくのを恐れるあまりその本来の力を防御にしか使っていない。だがなナターシャ嬢。本当の優しさとはただ傷を癒すことではない。仲間を傷つけさせない力。それこそが本当の優しさじゃ」
ジェイクさんはナターシャさんに光魔法の攻撃的な側面を教え込んだ。
彼女が本来持っていた聖なる光の魔力を、ただの癒しではなく敵を浄化し打ち破るための力へと変えさせたのだ。
最初は戸惑っていたナターシャさん。
だがロザールさんが修行中に危険な魔物に襲われた時彼女は覚醒した。
「私の大切な人を傷つけさせない!」
彼女の叫びと共に放たれた光の槍は、巨大な魔熊の体を一瞬で貫き浄化してしまった。
その威力は並の攻撃魔法とは比較にならない。
彼女の優しさが愛がそのまま力へと転化したかのような神々しい光だった。
そして私。
私の修行は二人とは全く違うものだった。
私は剣も攻撃魔法も使えない。ただの村娘。
その事実に私はずっと焦りと無力感を感じていた。
そんな私にジェイクさんは言った。
「レシア嬢。お主は自分が弱いと思っておるな?」
「……はい」
「それは大きな間違いじゃ」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「お主にはロザール坊にもナターシャ嬢にもない最強の武器がある。それはその瞳じゃ」
私の瞳?
「お主は人の心の機微に驚くほど敏感じゃ。言葉にしない感情をその翠色の瞳でくい上げてしまう。それは戦場において何よりも強力な武器となる。敵の嘘を見抜き仲間の危機を察知し、戦いの流れそのものを読む力。儂はそれを『心眼』と呼んでおる」
心眼。
そんな大それた力が私に……。
「だが今のお主はその力を恐れて目を閉じておる。自分の弱さに囚われ他人の心と向き合うことから逃げている。違うか?」
ジェイクさんの言葉は私の心の最も柔らかい部分を容赦なく抉り出した。
そうだ。
私は怖かったのだ。
人の心に踏み込むことが。
ウオの苦しみに寄り添うことも、ライアの孤独に気づいてあげることもできなかった。
私は自分の弱さから目を逸らしていただけなのだ。
「儂が教えるのは一つだけじゃ」
ジェイクさんは私の両肩にその皺だらけの大きな手を置いた。
「恐れるなレシア嬢。見るのじゃ。敵の心も仲間の心も、そして何よりもお主自身の弱さも。その全てを受け入れ見つめきった時、お主のその瞳は真の力を開花させるじゃろう」
その日から私の修行が始まった。
それは剣を振るうことでも魔法を唱えることでもなかった。
ただひたすらに「見る」こと。
森の木々の葉脈の流れ。
風の音に混じる獣の気配。
ロザールさんの剣筋に宿る僅かな迷い。
ナターシャさんの笑顔の裏に隠された小さな不安。
最初は何も分からなかった。
だがジェイクさんの導きで私は少しずつ、世界の解像度が上がっていくのを感じていた。
今まで見えていなかったものが見える。
聞こえていなかった音が聞こえる。
そして感じられなかった心が感じられる。
それは恐ろしくもありそしてどこまでも澄み渡った新しい感覚だった。
そうして私達は旅を続けた。
昼は過酷な修行に明け暮れ、夜は焚き火を囲み語り合う。
ジェイクさんは時折昔の話をしてくれた。
六十年前に世界を救ったという勇者としての旅路。
彼と共に戦った仲間たちのこと。
その話は壮大で英雄的でありながらどこか物悲しさを帯びていた。
「儂の仲間は皆死んだ」
ある夜彼は静かにそう呟いた。
「魔王を倒し世界に平和をもたらした。だがその代償はあまりにも大きかった。儂だけが生き残った。英雄と呼ばれ長い時を一人で生きてきた。……それはなかなかに骨の折れる人生じゃったよ」
その横顔に浮かんでいた深い孤独の色。
私はその時初めてこの伝説の英雄の本当の痛みに触れたような気がした。
私達は互いの傷を分かち合い支え合いながら強くなっていった。
ロザールさんの剣は復讐の炎を鎮め、守るための鋼の意志を宿した。
ナターシャさんの光は癒しと浄化の両方を司る慈愛の力となった。
そして私の瞳は少しずつその奥に眠る本当の力を見出し始めていた。
旅を始めてから一ヶ月が過ぎた頃。
私達は北の山脈地帯に差し掛かっていた。ハーメルンはもう目前だったが、ジェイクさんは不意に立ち止まり私達に告げた。
「稽古はここまでじゃ。これより実戦に移る」




