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三
酒場の外はちょっとした人だかりができていた。
その中心で何かが起きている。
私達は人垣をかき分けて前へと進んだ。
そしてそこに広がっていた光景に私は目を疑った。
数人のチンピラ風の男たち。この街の悪ガキだろう。
彼らが一人の老人を取り囲み、殴る蹴るの暴行を加えていたのだ。
老人は地面にうずくまりただ黙ってその暴力受けていた。
抵抗するそぶりも見せない。
「……やめなさい!」
ナターシャが悲鳴に近い声を上げた。
その光景を見た瞬間ロザールの纏う空気が変わった。
彼の瞳に静かなしかし燃えるような怒りの炎が宿る。
「……てめえら……」
ロザールは低い声で呟くと、チンピラたちの輪の中へと歩みを進めていった。
「なんだあ兄ちゃん。邪魔すんじゃねえよ。このジジイが俺達にぶつかってきて謝りもしねえから、少し灸を据えてやってるだけだ」
リーダー格らしき男が下卑た笑みを浮かべる。
ロザールは何も答えなかった。
ただ一歩また一歩とその間合いを詰めていく。
そのただならぬ気配にチンピラたちがようやく気づいた。
「な、なんだよやる気か……!?」
彼らがナイフを取り出す。
だがそれよりも速く。
ロザールの姿が掻き消えた。
いや消えたのではない。
常人には捉えきれない速度で動いたのだ。
ドゴッ!
という鈍い音と共にリーダー格の男がくの字に体を折り曲げ、地面に倒れた。ロザールの拳がその鳩尾にめり込んでいた。
「なっ!?」
残りのチンピラたちが驚愕に目を見開く。
だが彼らが反応する隙もなかった。
ロザールは流れるような動きで次々とチンピラたちを無力化していく。
殴らず蹴らずただ関節を極め急所を打ち、戦意だけを的確に奪っていく。
その動きは洗練されていて一切の無駄がなかった。
強い。
この人は本当に強い。
数秒後、全てのチンピラたちが地面に伸びていた。
ロザールはそんな彼らを冷たい目で見下ろすと静かに、しかしはっきりと言った。
「俺の仲間に手を出すな」
その言葉に私はハッとした。
まさかこのうずくまっている老人が。
「……ってかそれ以前に爺さんをいじめちゃいけねえだろ。むしろ助けろよ」
ロザールはそう吐き捨てると、倒れている老人へと駆け寄った。
「大丈夫ですかジェイクさん! 遅くなってすみません!」
やはりこの人がジェイクさんだったのだ。
「おおロザール坊か。いやはや助かったわい。最近の若者は元気が良すぎていかんなあ」
ジェイクさんは何事もなかったかのようにからからと笑った。
その顔は好々爺そのものだった。
白髪に深い皺。その瞳はどこか全てを見透かすような不思議な輝きを宿していた。
「もうロザールったら無茶するんだから!」
ナターシャがどこからか救急箱を持ってきた。その中から絆創膏を取り出し、ジェイクさんの元へ駆け寄る。
「ジェイクさん大丈夫ですか!? どこか痛むところは……!」
彼女は心配そうにジェイクさんの体を見回している。
ロザールも彼の肩を支えその身を案じている。
その光景を見て私の心は温かい何かで満たされた。
ああ私は本当に良い仲間と巡り会えたのだと。
ウオを救うための希望の光が今確かにここにある。
そう思ったその時だった。
私はある異常な点に気づいてしまった。
ナターシャがジェイクさんの額に絆創膏を貼ろうとしている。
チンピラに蹴られていた場所だ。
だが。
「……あれ……?」
ナターシャが不思議そうな声を上げた。
彼女の指がジェイクさんの額に触れている。
「ジェイクさん……血出てませんよ……? 擦り傷もない……」
その言葉に私もロザールもハッとしてジェイクさんの体を見た。
嘘だろ。
私は息を呑んだ。
彼の服は泥で汚れところどころ破けている。
だがその下に見える肌。
顔も腕もどこを見ても。
傷が一つもない。
あれだけボコボコに殴られたり蹴られたりしていたというのに。
打ち身の跡すら見当たらない。
血も一滴も流れていない。
ありえない。
そんなこと人間業では絶対にありえない。
この人…あんだけボコ-ボコに殴られたり蹴られたりしてたのに一切怪我がない。
私の脳裏に最悪の可能性が浮かび上がった。
まさかこの人も。
『愛眼』の手の者……?
私達を油断させるための罠……?
疑念が黒い霧となって私の心を覆い尽くそうとする。
そんな私の視線に気づいたのだろうか。
ジェイクさんはこちらを見るとにこりと人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「はっはっは。儂は昔からちいと体が頑丈でのう。心配には及ばんよお嬢ちゃん」
その笑顔はどこまでも穏やかで温かかった。
だが今の私には。
その笑顔の奥に何か得体の知れない底なしの闇が広がっているように思えてならなかった。
私達の四人目の仲間。
ジェイクと名乗ったこの老人は一体何者なのだ。
私の新しい旅路は希望と同時、に新たなそしてより根深い謎を抱えたまま幕を開けようとしていた。
第五部 ジェイク編
第二章:絶望の底で、手を取るということ
一
希望と同時に新たなそしてより根深い謎を抱えたまま、私の新しい旅路は幕を開けた。
私達の四人目の仲間、ジェイクと名乗ったこの老人は一体何者なのだろうか。
あの衝撃的な出会いから数時間後。私達はドワーダルの街にある『ギルド・ロザール』の本拠地、と言っても寂れた酒場の二階を間借りしているだけの小さな一部屋に集まっていた。部屋の中は質素だった。数個のベッドと一つの大きな木製テーブル。それだけがこのギルドの全財産らしかった。
だが部屋は綺麗に掃除されていて、窓辺に飾られた一輪の小さな花が、この場所にも確かな生活と温もりがあることを示していた。ナターシャさんが飾ったのだろうか。そのささやかな彩りが、私のささくれ立った心を少しだけ癒してくれた。
テーブルを囲み、私、ロザールさん、ナターシャさん、そしてジェイクさんが向かい合って座る。先ほどの騒動で集まった野次馬も既に散り、街はいつもの活気を取り戻していたが、この部屋の中だけは張り詰めたような静寂に包まれていた。
視線が、ジェイクさんに集まる。
あのチンピラたちに一方的に殴られ蹴られていたはずの彼の体には、やはり傷一つ見当たらない。服こそ破れ泥に汚れてはいるが、その下の肌には打ち身の痣すら浮かんではいなかった。
その異常な光景を目の当たりにしたロザールさんとナターシャさんも、私と同じように彼に対して警戒と疑念を抱いているようだった。
沈黙を破ったのはロザールさんだった。彼は単刀直入に切り出した。
「ジェイクさん。あんた一体何者なんだ?」
その声には、年長者に対する敬意よりも、仲間になるかもしれない存在の正体を見極めようとする、鋭い剣のような響きがあった。
「さっきの連中の攻撃、あんたには一切効いていなかった。普通の人間じゃありえない。あんた、まさか……魔族、じゃないだろうな」
魔族。その言葉に、私の心臓がどきりと跳ねた。そうだ。人間離れした身体能力。それは魔族の特徴でもある。ウオのお母さんであるリリアさんも、そして覚醒してしまったウオも、人知を超えた力を持っていた。このジェイクさんも、もしかしたら……。
私達を油断させるために近づいてきた、『愛眼』の手の者……?
黒い霧となって私の心を覆い尽くそうとする疑念。私は咄嗟に腰の短剣の柄に手をかけた。
だがジェイクさんは私達の警戒を意に介した様子もなく、ただ人の良さそうな笑顔でからからと笑った。
「はっはっは。魔族とはたまげたわい。儂のような好々爺が、そんな恐ろしいものに見えるかのう?」
彼は湯気の立つお茶を一口すすると、穏やかな口調で続けた。
「儂は昔からちいと体が頑丈でのう。若い頃は『金剛のジェイク』なんて呼ばれたもんじゃ。心配には及ばんよ、お嬢ちゃん」
その笑顔はどこまでも穏やかで温かかった。だが今の私にはその笑顔の奥に何か得体の知れない、底なしの闇が広がっているように思えてならなかった。
ロザールさんも納得していないようだった。彼はさらに何かを問い詰めようと口を開きかけた。だがそれを遮るように、ジェイクさんはその視線を私に向けた。
「それよりも、だ」
彼の瞳が、私を真っ直ぐに捉える。その瞳は、先ほどまでの好々爺然としたものとは違う。全てを見透かすような深く澄んだ輝きを宿していた。
「そちらのお嬢ちゃん。レシア、と言ったかの。あんたの話を聞かせてもらおうか。あんたが依頼書に書いた『愛眼』。そしてその長、リリア。儂も、その名には少しばかり、因縁があってのう」
彼の言葉に、今度は私が息を呑む番だった。
この人も、リリアさんのことを知っている。
ロザールさんと同じように。
ロザールさんが、私に視線で促した。「話してやってくれ、レシア。ジェイクさんは信用できる。俺が保証する」
その力強い言葉に、私は迷った。
本当に、この人を信用していいのだろうか。
だが私にはもう、選択肢はなかった。藁にもすがる思いで、私はこの三日間を過ごしてきたのだ。この人たちが差し伸べてくれた手が、たとえ蜘蛛の糸であったとしても、私はそれにすがるしかない。
私は覚悟を決めた。
そして私の知る全ての情報を、洗いざらい話すことにした。
それは、私の心を、もう一度引き裂くような、痛みを伴う作業だった。
「……私の、故郷は、王都から遠く離れた、カリム村という小さな村でした」
私は、ぽつりぽつりと、語り始めた。
それは、もう遠い昔のように感じられる、幸福だった日々の記憶。
ウオとの出会い。村のガキ大将たちにいじめられていた私を、彼がたった一人で助けてくれた、あの日のこと。泥だらけになりながらも、私のスケッチブックを必死に守ってくれた、その小さな背中。私にとって、彼が最初の『勇者様』だった。
彼の父、勇者エミールさんのこと。村の皆から愛され、尊敬されていた、偉大な英雄。時折見せる不器用な笑顔と、その大きな手の温もり。彼がいるだけで、村は安心感に包まれていた。
そして、彼の妻であり、ウオのお母さんである、リリアさんのこと。
「リリアさんは……ウオのお母さんは、いつも優しくて、花のように美しい、私の憧れの女性でした。私にとって、本当のお母さんのように、温かくて……」
言葉が、詰まる。あの人のことを語るだけで、喉の奥が灼けるように痛んだ。信じていた。心の底から。彼女の優しさも、その微笑みも、全てが本物なのだと。
あの穏やかな村で、三人で暮らす彼らの姿は、村の誰もが羨む、幸せの象徴そのものだった。
「その幸せが、ある日、唐突に終わりを告げたんです」
魔王の復活。王都の壊滅。
父の跡を継ぎ、たった一人で戦地へ向かったウオを、私がこっそりと追いかけたこと。
彼の、想像を絶する、過酷な戦いを、私は語った。
強力な四天王との死闘。そして、エミールさんの親友であり、私達も信頼していた預言者レイザーの、残酷な裏切り。その全てを、ウオが、たった一人で乗り越えていく姿を、私は、ただ、見ていることしかできなかった。
私の話に、ロザールさんとナターシャさんは、息を呑んだまま、聞き入っていた。
ロザールさんの瞳に宿る復讐の炎が、私の言葉によって、さらに激しく燃え上がっていくのが分かった。
ナターシャさんは、その優しい青い瞳に涙を浮かべ、テーブルの下で、私の手をそっと握ってくれた。その温もりが、かろうじて、私の心を繋ぎとめていた。
ジェイクさんだけは、表情を変えず、ただ目を閉じて、静かに耳を傾けていた。まるで、既知の物語を、確認するかのように。
私は、続けた。
王都での、絶望的な光景。
民衆が、魔王を『救世主』と崇め、ウオとエミールさんを『悪』だと断じた、あの狂気の坩堝。
そして、全ての黒幕が、ウオの、実の母であるはずの、リリアさんだったこと。
彼女が、『愛眼』という組織を率い、『世界反転計画』なる、恐ろしい企みを進めていること。
「リリアさんは……あの人は言いました。この世界は欠陥品だと。人間がいる限り、戦争も貧困も憎しみもなくならない。だから、一度全てをリセットするのだと……!」
その言葉を口にするたびに、吐き気がした。
私が憧れた、あの聖母のような女性が、そんな狂気に満ちた思想の持ち主だったなんて。
そして、私は、最も話したくなかった、核心部分へと、足を踏み入れた。
ライアのこと。
私達の、三人目の、仲間。
彼女が、『愛眼』の執行者でありながら、私達を裏切りきれず、最後は、その命を懸けて、私達を守ってくれたこと。
「ライアは……死ぬ間際に、言ったんです。『幸せになることを、諦めないで』って……!」
涙が、溢れてきた。
彼女の、最後の、笑顔が、脳裏に焼き付いて、離れない。
あの時、もっと、私にできることがあったのではないか。彼女の苦しみに、もっと早く、気づいてあげられたのではないか。後悔が、毒のように、心を蝕む。
そして、最後の、絶望。
キミシダイ帝国での、出来事。
フィボナッチという王が、『愛眼』の手先であり、その力によって、死んだはずの魔王と、そして、エミールさんの偽物を、作り出したこと。
「ウオは……自分の、お父さんの姿をした、何かに……心臓を、貫かれて……」
もう、声が、続かなかった。
嗚咽が、漏れる。
「……そして、彼の、中に眠っていた、大魔王ダイマ・オウが、完全に、覚醒してしまったんです……。私の、愛した、ウオは、もう、どこにも、いない……。あの、冷たい化け物に、体を、乗っ取られて……!」
私は、テーブルに突っ伏し、子供のように泣きじゃくった。
話すことで、心の傷が再び抉られ、血を流していた。
もう、限界だった。
しばらく、部屋には私の嗚咽だけが響いていた。
やがて私が少し落ち着いた頃、ロザールさんが静かに口を開いた。
「……辛かったな、レシア」
その声は驚くほど優しかった。
彼の瞳の奥に燃えていた復讐の炎が、今は深い共感と悲しみの色に変わっていた。
「あんたの痛み、分かるよ。俺も同じだからな。理不尽な力に大切なものを奪われる、その悔しさも憎しみも、そしてどうしようもない無力感も」
彼は立ち上がると私の隣に来て、その大きな手で私の頭をわしわしと撫でた。
その不器用な優しさがどこかウオに似ていて、私はまた涙が溢れそうになった。
「だが、あんたは間違っちゃいない」
ロザールさんは力強く言った。
「あんたは諦めなかった。絶望の底でそれでも仲間を探して、ここまで来た。そいつは誰にでもできることじゃねえ。あんたは弱いどころか、誰よりも強い女だ」
その言葉が私の凍てついた心をじんわりと溶かしてくれた。
「だからもう一人で背負うな。あんたの戦いは今日から俺達の戦いだ。ギルド・ロザールの総力を挙げて、あんたの大切な人を必ず救い出してみせる」
ナターシャさんも涙を拭い、力強く頷いた。
「そうだよ、レシアちゃん! 私達がついてるから! 一緒に頑張ろう!」
温かい言葉。
心強い仲間。
私は本当にこの人達と出会えて良かった。
そう思ったその時だった。
それまでずっと黙って目を閉じていたジェイクさんが、ゆっくりとその瞼を持ち上げた。
「……なるほどな」
彼は深くため息をついた。
「話は全て分かった。……どうやら儂の思った以上に、事態は深刻なようじゃわい」
その声にはこれまでの好々爺然とした雰囲気とは全く違う。
全てを知り尽くした賢者のような重みがあった。
「レシアと言ったな。あんたの話で点と点がようやく線で繋がった。リリアという女……そして『愛眼』の本当の目的が」




