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第五部 ジェイク編
第一章:絶望の底で、手を取るということ
一
私の本当の英雄譚はあの日あの場所から始まったのだと、今にして思う。
愛する人の亡骸を背に彼の魂を救うと誓った、あの漆黒の城門の前から。
キミシダイ帝国を脱出した私の体は疲労の限界を超えていた。だが私の心はかつてないほど軽く、そして力強く未来を見据えていた。
ウオを必ず救い出す。
その誓いだけが燃え盛る炎のように私の魂を照らし、一歩また一歩と足を前に進める原動力となっていた。
あの日ウオの最後の抵抗によって大魔王ダイマ・オウは私を見逃した。それは気まぐれか、あるいはウオが残した最後の愛情の欠片が、あの怪物の心に何らかの影響を与えたのか。理由は分からない。だが私は生かされた。その事実だけが重い重い意味を持って私の両肩にのしかかっていた。
私は走った。
街を飛び出し森を駆け抜け、ただひたすらに東へ東へと。
リリアと『愛眼』の支配が及ばない遠い地を目指して。
最初の数日間は記憶が曖昧だ。
空腹も喉の渇きも体の痛みも感じなかった。ただ脳裏に焼き付いたウオの最後の涙に濡れた笑顔と、交わした約束だけが私を突き動かしていた。
『私が絶対救け出すから』
『そしたらさ、また夏祭り行こ? 今度は友達としてじゃなくて、恋人として!!』
『ああ……必ず……っ! レシア……っ!!』
あの言葉があの温もりが消えてしまう前に。
私がこの絶望に完全に心が折れてしまう前に。
何かをしなければならなかった。
私一人では勝てない。
それは嫌というほど理解していた。
大魔王ダイマ・オウ。母リリア。そしてその背後にいる『愛眼』という得体の知れない組織。それらはあまりにも巨大であまりにも強大すぎる。
ただの村娘である私が一人で立ち向かえるような相手ではない。
だから仲間を探さなければならない。
情報を集め力を蓄え、ウオを救い出すための確かな力を。
それが今の私にできる唯一のそして最善の選択。
私は帝国から最も近い隣国の都市へとたどり着いた。
その街の名はアルゴス。自由都市同盟の一つで多くの冒険者や傭兵が集まる、活気とそして危険な匂いに満ちた場所だった。
私はフードを目深に被り人々の視線を避けながら、街の最も大きな建物――冒険者ギルドの扉を叩いた。
これが私の絶望的な三日間の始まりだった。
【一日目】
ギルドの中は汗と酒そして鉄の匂いが混じり合った、むせ返るような熱気に包まれていた。屈強な男たちが大声で笑い合いジョッキを打ち鳴らしている。そのあまりにも場違いな場所に私は一瞬足をすくませた。
だが迷っている暇はない。
私は意を決してカウンターへと向かった。
「……あの、お願いがあります」
私のか細い声は周囲の喧騒にかき消されそうだった。
カウンターの傷だらけの顔をしたギルドマスターらしき男が、気だるげに私を一瞥する。
「なんだ嬢ちゃん。ここはおままごとをする場所じゃねえぞ。ゴブリン退治の依頼ならあっちの掲示板だ」
「違うんです!」私は声を張り上げた。「もっと大きな話です! この世界を裏から支配しようとしている邪悪な組織と、戦うための仲間を探しているんです!」
私の必死の訴え。
その言葉が放たれた瞬間、ギルドの空気が一瞬だけ凍り付いた。
一拍の沈黙。
そして次の瞬間。
「「「ぶはははははははははっ!!!!」」」
腹を抱えた爆笑が酒場全体を揺るがした。
「おい聞いたかよ! 世界を救うだとさ!」
「どこのお貴族様のごっこ遊びだ!」
「嬢ちゃん夢を見るなら寝てからにしな!」
嘲笑の嵐。
顔が熱くなる。悔しさと惨めさで涙が滲んできた。
ギルドマスターはやれやれと肩をすくめると、「悪いがうちはそういう妄想の類は扱ってねえんだ。帰んな嬢ちゃん」と冷たく言い放った。
私は何も言い返せなかった。
ただ唇をきつく噛み締め、逃げるようにギルドを後にした。
背中に突き刺さる笑い声がいつまでも耳から離れなかった。
その夜私は街の裏路地の冷たい石畳の上で、膝を抱えて眠った。
寒さと空腹よりも人の無関心と嘲笑が、私の心を深く深く凍えさせていた。
【二日目】
アルゴスの街ではもう相手にされない。
私は次の街へと向かった。歩いて半日ほどの距離にある商業都市『ポルト』。
昨日の失敗を繰り返さないために私は作戦を変えた。
今度は感情に訴えるのではなく実利で釣るしかない。
ポルトの冒険者ギルド。
私は震える手でなけなしの銅貨をカウンターに置いた。
「依頼を出したいんです。超高額の護衛依頼です」
今度の受付嬢は若い女性だった。彼女は私の言葉に少しだけ興味を示したようだった。
「ほう超高額ですか。どのような内容で?」
「……ある重要人物を邪悪な組織から救出するというものです。成功すれば報酬は望むままに。金貨千枚でも一万枚でも」
金貨一万枚。
それは普通の冒険者が一生かかっても稼げないような大金だ。
案の定その言葉に周囲で聞き耳を立てていた、何人かの冒険者がざわめいた。
「それでその重要人物とは?」受付嬢が尋ねる。
「……それは言えません」
「では敵となる組織の名前は?」
「……『愛眼』と」
「証拠はおありで?」
「……ありません」
私の答えに受付嬢の顔がみるみるうちに胡散臭いものを見る目に変わっていく。
周囲の冒険者たちも興味を失ったようにそっぽを向いてしまった。
「……お嬢さん。あなたもしかしてどこかの詐欺師に騙されてるんじゃありませんか? そんな夢物語のような依頼、誰も受けませんよ」
「本当なんです! 本当に世界が危ないんです!」
私の必死の訴えも虚しかった。
結局私はその日も誰にも相手にされずギルドを追い出された。
嘘つき。
詐欺師。
頭のおかしい女。
そう罵られ石を投げつけられそうになった。
私はまた逃げ出した。
その夜は雨が降っていた。
私は古い教会の軒下で雨宿りをしながら、冷たくなった体を抱きしめた。
雨粒が私の頬を伝う。
それが雨なのか涙なのかもう私には分からなかった。
ウオ。
私は心の中で彼の名を呼んだ。
君は今どうしているの?
あの冷たい城の中で一人で苦しんでいるの?
ごめんね。私全然ダメだよ。
君との約束守れそうにない。
心が折れそうだった。
全てを投げ出して村へ帰ってしまいたい。
そんな弱い気持ちが鎌首をもたげる。
だがそのたびに思い出すのだ。
ライアの最後の笑顔を。
そしてウオの涙を。
ダメだ。
諦めるわけにはいかない。
私が諦めたら本当に全てが終わってしまう。
私は冷たい雨の中で固く固く誓った。
明日こそは必ず。
【三日目】
三日目の朝私はポルトからさらに西にある鉱山都市『ドワーダル』にいた。
もう後がない。
今日ここで仲間を見つけられなければ、私の心は完全に壊れてしまうだろう。
ドワルダルの冒険者ギルドは前の二つとは雰囲気が違っていた。
屈強なドワーフの鉱夫たちが多く、皆無口で実直な気風のようだった。
ここならあるいは。
そんな淡い期待を胸に私はギルドの掲示板の前に立った。
そして震える手で一枚の羊皮紙を張り出した。
『助けてください。
私の大切な人が邪悪な魔法使いに心を奪われ囚われています。
その魔法使いは『愛眼』という組織の一員です。
彼らは世界を滅ぼそうとしています。
どうか力を貸してください。
報酬は私の命です』
なりふり構っていられなかった。
私に出せるものはもうこれくらいしか無かったから。
私のその悲痛な依頼書を周囲の冒険者たちは遠巻きに眺めているだけだった。
誰もが関わり合いになりたくないと言わんばかりに目を逸らす。
やはりここでもダメなのか。
絶望が私の心を完全に黒く塗りつぶそうとした、その時だった。
「……おい、あんた」
背後から低い声がかかった。
振り返るとそこに一人の若い男が立っていた。
私と同じくらいの歳だろうか。
黒い髪を無造作に伸ばし、その瞳はまるで燃え盛る炎のように鋭く、そして深い悲しみの色を宿していた。
着古した革の鎧。その腰には一振りの長剣が差されている。
「……何の用ですか」
私は警戒しながら答えた。
もう誰の言葉も信じられなかった。
男は私の依頼書を指差した。
「この『愛眼』ってのは本当か」
「……ええ」
「その組織のトップはリリアという女か」
その名前に私の心臓が凍り付いた。
なぜこの男がリリアの名前を。
「……どうしてその名前を……」
「答えろ」
男の声には有無を言わさぬ凄みがあった。
私は頷くことしかできなかった。
その瞬間男の纏う空気が変わった。
それまで抑えられていた憎悪と復讐心が黒い炎となって、その全身から噴き上がるのが見えた。
「……そうか。……やはり生きていたか。……あの女狐……!」
男は歯ぎしりしながらそう呟いた。
そして彼は再び私へと向き直る。
その瞳にもう疑いの色はなかった。
代わりに宿っていたのは同じ敵を持つ者としての、確かな共感と連帯感だった。
「……話がしたい。少し良いか」
それは私が三日間探し求め続けた希望の言葉だった。
二
男に導かれるまま私はギルドの喧騒を離れ、近くの寂れた酒場の個室へと通された。
個室にはもう一人少女が待っていた。
腰まで伸びた美しい金色の髪。穏やかで優しい青い瞳。それはどこかライアを彷彿とさせる少女だった。
「私はロザール」
男が名乗った。
「こいつはナターシャ。俺の幼馴染だ」
「……レシアと申します」
私達はテーブルを挟んで向かい合った。
重い沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのはロザールだった。
「単刀直入に聞く。あんたが探している『愛眼』という組織。そのトップであるリリアという女はどんな奴だ」
彼の問いに私は迷った。
どこまで話すべきか。
だが彼の瞳の奥に燃える復讐の炎を見て私は覚悟を決めた。
この人は信じられる。
私はこれまでの経緯を全て話した。
父エミールの死。
ウオの母リリアの裏切り。
ウオが大魔王ダイマ・オウであること。
ライアの自己犠牲。
そしてキミシダイ帝国での絶望的な戦い。
ウオが今大魔王として覚醒してしまったこと。
私の話をロザールとナターシャは一言も口を挟まず、ただ黙って聞いていた。
ロザールは時折苦しそうに顔を歪め、その拳を強く握りしめていた。
ナターシャはその青い瞳に涙を浮かべ、私の手をそっと握ってくれた。
全てを話し終えた時、部屋には再び重い沈黙が落ちた。
やがてロザールがぽつりと呟いた。
「……そうか。……あいつはそんな大それたことを企んでいたのか……」
そして彼は自らの過去を語り始めた。
「俺の両親もリリアに殺された」
その告白はあまりにも衝撃的だった。
「十年前だ。俺がまだガキだった頃、俺の村は平和な場所だった。だが、ある日突然あの女が現れた。たった一人で。そして村を焼き人々を殺した。理由もなく。ただ戯れのように」
彼の声には感情がなかった。
だがその無感情さこそが彼がどれほど深い傷を負っているのかを雄弁に物語っていた。
「俺の両親は俺を庇って死んだ。あの女は泣き叫ぶ俺を見て楽しそうに笑っていたよ。『お前は生かしてやろう。その憎しみを糧に強くなれ。そしていつか俺の前に立て。その時がお前の最期だ』と」
私は言葉を失った。
リリア。
ウオの母。
彼女はそんな残酷なことを……。
「俺はその日から復讐のためだけに生きてきた。剣を学び力を求め、いつかあの女をこの手で殺すと。そんな俺をずっとそばで支えてくれたのがナターシャだ」
ロザールは隣にいる少女を見つめた。その瞳には確かな信頼と愛情が宿っていた。
ナターシャは恥ずかしそうに微笑み返した。
「私達は決めたんだ」ロザールは続けた。「俺達だけでギルドを作ろうって。公式なもんじゃない。ただ同じように理不尽な力に全てを奪われた者たちが集まる小さな寄り合いだ。名を『ギルド・ロザール』」
ギルド・ロザール。
それは復讐者たちのギルド。
「俺達はずっと探していた。リリアと『愛眼』に繋がる手がかりを。そして共闘できる仲間を。……レシア。あんたは俺達が探し求めていた最後のピースだ」
ロザールは私に手を差し伸べた。
「俺達と一緒に来てくれないか。あんたの大切な人を救うために。そして俺達の復讐を果たすために」
その手は力強くそして温かかった。
私は涙をこらえきれなかった。
三日間誰にも相手にされず孤独と絶望の中にいた私に差し伸べられた、初めての救いの手。
私はその手を強く強く握り返した。
「……はい……! よろしくお願いします!」
その瞬間私達の間に確かな絆が生まれた。
私はもう一人じゃない。
私には仲間がいるのだ。
「ああ。よろしくなレシア」
ロザールは初めて穏やかに笑った。
その笑顔はどこかウオに似ていた。
私達は意気投合した。
互いの目的は違う。
私はウオを救うため。
彼らはリリアに復讐するため。
だが倒すべき敵は同じだ。
「実はな」ロザールが言った。「俺達のギルドにはもう一人仲間がいるんだ。いや仲間になる予定の男が」
「仲間……?」
「ああ。ジェイクという爺さんだ。少し変わった人だが腕は確かだ。それにあの女……リリアのことを何か知っているそぶりだった。志は同じはずだ。今この酒場で落ち合う約束になっているんだが……少し遅いな」
ジェイク。
その名前を私は心に刻んだ。
私達の四人目の仲間。
そう私達が話しているその時だった。
酒場の外から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
怒声と罵声そして誰かを嘲笑うかのような下品な笑い声。
「……なんだ?」
ロザールが眉をひそめる。
私達は顔を見合わせると急いで酒場の外へと飛び出した。




