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時間が止まった。

目の前の光景が現実のものだと脳が理解することを拒絶する。

魔王。

あの王都で母リリアによって跡形もなく焼き尽くされたはずの男。

そいつが今俺の目の前にいる。

傷一つないその体。その顔に浮かんでいるのは王都で見た民を憂う革命家のような悲壮な表情ではない。全てを見下し嘲笑う絶対的な悪の化身としての顔だった。

「……どうして生きている……」

俺の唇からかろうじて言葉が漏れた。

魔王は心底楽しそうに肩をすくめてみせた。

「さてどうしてだろうな。俺にもよく分からん。気づいたらここにいた。もっともあの女……リリア様が俺をここに転移させたと考えるのが妥当な線だろうがな。あの女の魔法は常軌を逸している」

リリアがこいつをここに?

一体何のために。

俺の混乱を見透かすかのように魔王は続けた。

その声はもはや完全に俺達を見下す王のそれだった。

「どうやら反転しかけていた世界の善悪がまた元に戻ったらしくてな」

彼はまるで他人事のように言った。

「お前達があの小娘……ライアの命懸けの一撃でリリア様の魔法を破ったのだろう? おかげで王都の民共もすっかり正気に戻ってしまった。俺をあれほど『救世主』だと崇めていたくせに今じゃ『残虐非道な侵略者』だと手のひらを返しているそうだ。全く人間とは愚かで哀れな生き物だ」

世界の善悪が元に戻った。

その言葉の意味を俺はまだ完全には理解できなかった。

だが一つだけ確かなことがある。

目の前のこの男はもはや俺達が王都で対峙したあの歪んだ理想を抱いていた魔王ではない。

「あのリリア様でもう一度世界をあの状態に持って行くには二年ほどかかるらしい」

そう笑う魔王には民達から慕われていた時の一欠片の善意も感じられなかった。

そこにいたのはただ純粋な悪意と破壊の衝動だけをその身に宿した怪物だった。

「……貴様は一体何なんだ」

俺は剣を構え直し問い詰めた。

「お前は王都で俺に言ったはずだ。『罪滅ぼしがしたかった』と。『人々を幸せにしたかった』と。あの言葉は全て嘘だったのか」

「嘘?」

魔王は心底不思議そうに首を傾げた。

「あああれか。あれは嘘ではないぞ。あの時の俺は本気でそう思っていたからな」

「……どういうことだ」

「説明してもお前には理解できんだろうな。簡単に言えば俺はあの時リリア様の反転魔法の影響を不完全に受けていたということだ。俺の中に宿る絶対的な『悪』としての本能と無理やり植え付けられた偽りの『善』としての意識。その二つがせめぎ合っていた不安定な状態だったのだよ」

彼は楽しそうに続けた。

「だがお前達が魔法を破ってくれたおかげで俺もようやく本来の自分を取り戻すことができた。感謝しているぞ勇者の息子よ」

本来の自分。

つまり目の前にいるこの邪悪な存在こそがこいつの本性だというのか。

俺は愕然とした。

「さて余興はここまでだ」

魔王はゆっくりと立ち上がった。

その巨体から禍々しい魔力が溢れ出す。それは王都で感じた圧力とは比較にならない純粋な破壊のオーラだった。

「リリア様から言伝を預かっている。『息子に試練を与えよ』と。どうやら俺はこの国の王フィボナッチの代わりにお前達の相手を務めることになったらしい」

「フィボナッチはどこだ!」

「さあな。もう用済みになったからどこぞで野垂れ死んでいるのではないか? あの男も哀れな操り人形だったからな。俺と同じように」

魔王はその手の中に漆黒の大剣を出現させた。

その切っ先が真っ直ぐに俺の心臓を捉える。

「始めようかウオ。お前の父エミールを超える英雄譚の続きを。この俺がお前の最後の敵として幕を引いてやろう」

絶望。

またしても俺達の前に立ちはだかる圧倒的な絶望。

だが俺の心はもう折れてはいなかった。

俺はレシアを背中にかばい剣を構える。

隣でレシアも短剣を握りしめる気配がした。彼女の瞳にももう迷いはなかった。

「……望むところだ魔王」

俺の声は震えていなかった。

「お前を倒し俺達は先に進む。ライアとの約束を果たすために」

俺の言葉に魔王は満足げに頷いた。

「良い目だ。それでこそ殺しがいがあるというもの」

漆黒の城門を背に。

勇者の息子と復活した魔王。

二つの宿命が今再び交差する。

俺達のキミダイ帝国での最初の戦いの火蓋が切って落とされた。




第四部 キミシダイ帝国編

第一章:偽りの英雄譚

漆黒の城門を背に絶望が再び立ち上がった。

復活した魔王。その巨体から放たれる禍々しい魔力は、王都で対峙した時の比ではなかった。あの時の奴が相反する善悪の概念に苛まれ自らの力を十全に発揮できていなかったのだとすれば、今俺の目の前にいるこいつは純粋な『悪』として完成された存在だった。空気が歪み地面が悲鳴を上げる。ただそこにいるだけで世界の理を捻じ曲げるかのような絶対的な圧力。

「始めようかウオ。お前の父エミールを超える英雄譚の続きを。この俺がお前の最後の敵として幕を引いてやろう」

魔王の嘲笑が俺の鼓膜を揺さぶる。

だが俺の心はもう折れてはいなかった。恐怖はある。足は鉛のように重く、心臓は破裂しそうなほど速く脈打っている。だがそれ以上に強い感情が俺の魂を支配していた。

怒りだ。

ライアをあんな形で失ったことへの怒り。彼女の人生を弄び踏みにじった『愛眼』という理不尽な存在への怒り。そして俺達のささやかな幸せをことごとく破壊し続ける、この歪んだ運命そのものへのどうしようもない怒り。

俺はレシアを背中にかばい剣を構えた。隣でレシアも短剣を握りしめる気配がする。彼女の瞳にももう迷いはなかった。

「……望むところだ、魔王」

俺の声は自分でも驚くほど静かで、そして揺るぎなかった。

「お前を倒し俺達は先に進む。ライアとの約束を果たすために」


俺の言葉に魔王は満足げに頷いた。

「良い目だ。それでこそ殺しがいがあるというもの」

その言葉が戦いの合図だった。

俺は地面を蹴った。一直線に魔王の懐へと飛び込む。父さんに教わった勇者の剣術の基本。初太刀は相手の意表を突く最速の一撃。

だが魔王は俺の動きをまるでスローモーションで見るかのように、その漆黒の大剣で軽々と受け止めた。

ガァンッ!!!!

鼓膜が破れるかと思うほどの凄まじい衝撃音。俺の剣を通して腕に肩に全身に、城壁に叩きつけられたかのような衝撃が走る。なんだこの重さは。王都で対峙した時とは桁が違う。あの時はまだ技で凌げる隙があった。だが今のこいつの剣は純粋な質量と破壊力だけで俺の全てを粉砕しようとしてくる。

「ぐっ……!」

体勢を崩した俺に魔王の追撃が襲いかかる。大剣が嵐のように上下左右から俺を襲う。一撃また一撃が致命傷になりかねない絶対的な破壊力。俺はそれを必死に捌くので精一杯だった。剣と剣が交錯するたびに火花が散り、衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。

「どうした勇者の息子! その程度か! あの小娘を失った悲しみで腕が鈍ったか!」

魔王の嘲笑が俺の集中力を乱そうとする。だが俺は歯を食いしばり、その言葉を怒りの炎へと変えた。

俺は戦いながら確信していた。

こいつははるかに強化されている。

王都で戦った時のデータが頭の中で警鐘を鳴らす。あの時の剣速、パワー、魔力量。その全てが今のこいつの前では児戯に等しい。まるで別人だ。いや別人になったのだ。偽りの善性を剥ぎ取り純粋な悪として完成されてしまった。

「レシア!」

俺は後方にいる彼女の名を叫んだ。

「うん!」

彼女の声が俺の背中を押す。次の瞬間俺の全身が温かい光に包まれた。それはレシアが放つ支援の魔法。王都を発ってから俺達が旅を続ける中で彼女が必死に習得した、ささやかな、しかし今の俺達にとっては唯一の希望の光。

「彼の者に勇気の祝福を! 『ブレイブ・ソウル』!」

力が漲る。疲弊しきっていたはずの筋肉が再び躍動を始める。心の奥底から恐怖を塗り潰すような熱い闘志が湧き上がってくる。

「彼の剣に聖なる祈りを! 『ホーリー・エンチャント』!」

俺が握る村の親方が打ってくれた剣が淡い金色の光を放ち始めた。ただの鋼の剣がまるで聖剣のような神々しいオーラを纏う。

レシアのバフ魔法。そしてエンチャント魔法。

彼女は戦えない。だが彼女は無力じゃない。彼女の祈りと覚悟が俺を強化してくれる。俺は一人で戦っているんじゃない。

「うおおおおおおおおっ!!!!」

俺は雄叫びを上げた。

強化された身体能力で魔王の嵐のような連撃を今度は互角に渡り合う。金色の光を纏った俺の剣は魔王の漆黒の大剣と激しく火花を散らした。

「ほう、面白い。あの娘そのような芸当ができたのか」

魔王が初めて感心したような声を漏らした。だがその顔にはまだ余裕の笑みが浮かんでいる。

「だが所詮は付け焼き刃だ!」

魔王の魔力がさらに膨れ上がる。その巨体から黒い雷が迸り始めた。

「魔王剣――『終焉の雷鳴』!」

大剣が黒い雷を纏い凄まじい轟音と共に振り下ろされる。それはもはや斬撃というよりも天変地異そのものだった。

俺は咄嗟に剣を十字に構え、その一撃を防御する。

ズドオオオオオオオオオン!!!!

凄まじい衝撃。

足元の石畳が粉々に砕け散り、俺の体は数メートル後方まで吹き飛ばされた。両腕が痺れ剣を取り落としそうになる。

「がはっ……!」

口の中に鉄の味が広がる。内臓が揺さぶられたのだ。

「ウオ!」

レシアの悲鳴が聞こえる。彼女はすぐに回復魔法の詠唱を始めようとしてくれた。だが魔王はその隙を見逃しはしなかった。

「小賢しい真似を」

魔王の姿が掻き消える。次の瞬間には彼はレシアの目前に肉薄していた。

まずい。

そう思った時にはもう遅かった。魔王の巨大な手がレシアの華奢な首を鷲掴みにしていた。

「……っ……く……」

レシアの顔から血の気が引き、そのか細い喉から苦悶の声が漏れる。

「やめろぉぉぉ!!!!!」

俺は絶叫し地面を蹴った。だが俺とレシアとの間には絶望的な距離がある。

「動くな、勇者の息子よ」

魔王は俺を冷たく一瞥した。

「動けばこの娘の首が折れるぞ」

俺の足がその場に縫い付けられる。

「良いか? 小娘。お前が次に魔法を使おうとした瞬間、お前は死ぬ。理解したな?」

魔王はレシアの耳元でそう囁いた。レシアは恐怖と屈辱に涙を浮かべながら、かろうじて頷いた。

魔王は満足げに頷くと、まるで汚物でも払うかのようにレシアを俺の方へと放り投げた。

俺は慌てて彼女を受け止める。

「……ごめん……ウオ……私……」

「謝るな! お前は悪くない!」

俺は彼女を背後に隠し再び魔王と対峙する。

だが状況は最悪だった。レシアの支援魔法が封じられてしまった。俺は再び一人でこの化け物と戦わなければならない。

勝機はない。

それでも戦うしかないのだ。

俺は再び剣を構えた。だが魔王の次の一撃は俺の予想を遥かに超えていた。

彼は大剣を地面に突き立てると、その両腕を天に掲げた。

「見せてやろう。俺の新しい力を。このキミシダイ帝国で手に入れた新しい権能を」

彼の周囲の空間がぐにゃりと歪む。

「絶対王権――『汝、ひれ伏せ』」

その言葉が放たれた瞬間、俺の全身に凄まじい圧力がのしかかった。

それは物理的な圧力ではない。

魂そのものを押さえつけるような絶対的な強制力。

俺の膝ががくりと折れた。体が言うことを聞かない。まるで見えない何万もの鎖に縛り付けられたかのようだ。

「……な……んだ……これは……」

俺は歯を食いしばり必死にその圧力に抗おうとする。だが無駄だった。俺の意識とは無関係に俺の体は地面にひれ伏そうとする。

「無駄だ。俺の権能の前では何人たりとも逆らうことはできん。この空間にいる限り全ての生命は俺にひれ伏す。王である俺にな」

これが『独裁』のフィボナッチの力。

それをこいつは奪い取ったというのか。

俺は地面に片膝をつき、屈辱に顔を歪めた。

もはや抵抗する術はない。

魔王はゆっくりと俺の前に歩み寄ってきた。

そして俺の目の前で立ち止まる。

彼は俺の顎をその巨大な手で掴み、無理やり上を向かせた。

その瞳には絶対的な勝利者の傲慢な光が宿っていた。

「どうした勇者の息子。もう終わりか? ライアとの約束とやらはどうした?」

俺は何も言い返せなかった。

悔しさに唇を噛み締め、血の味が口の中に広がる。

「安心しろ。すぐには殺さん。お前には絶望をたっぷりと味わってもらう。お前の目の前であの小娘を八つ裂きにした後で、ゆっくりと嬲り殺しにしてやろう」

魔王は俺の背後で震えているレシアへとその視線を向けた。

やめろ。

やめてくれ。

レシアにだけは手を出すな。

俺は心の中で絶叫した。

だが声にはならない。

魔王は俺を解放するとゆっくりとレシアの方へと歩き始めた。

一歩また一歩と死神が近づいてくる。

レシアは恐怖に腰を抜かし、その場にへたり込んでいた。

「……いや……来ないで……!」

俺は動けなかった。

ただ目の前で繰り広げられる絶望的な光景を見ていることしかできない。

俺の無力さが憎かった。

父さん。

ライア。

ごめん。

俺は結局また何も守れない。

魔王がレシアの目の前で立ち止まり、その漆黒の大剣を振り上げた。

その刃が月明かりを反射して不吉にきらめく。

「終わりだ」

魔王の冷たい宣告が響き渡った。

その瞬間だった。

「いやあああああああああああああああああっ!!!!!」

絶叫しなんとか俺を助けようと走り出すレシア。

だがそのか細い足が魔王の元へとたどり着くよりも、俺の体が再び自由を取り戻すよりも、魔王の凶刃が振り下ろされる方が遥かに速かった。

俺は目を瞑った。

もう見ていられなかった。

ザシュッ。

という生々しい肉を断ち切る音。

そしてゴトリという重い何かが地面に落ちる音。

ああ、終わった。

俺の光が今消えた。

絶望が俺の心を完全に黒く塗りつぶした。

だが。

次に俺の耳に届いたのはレシアの悲鳴ではなかった。

魔王の信じられないといった驚愕の声だった。

「……なっ……!?」

俺は恐る恐る目を開いた。

そしてそこに広がっていた光景に我が目を疑った。

レシアは無傷だった。

彼女はただ目の前で起きたことが信じられないといった顔で、呆然と立ち尽くしている。

そして彼女の足元には一つの首が転がっていた。

それは魔王の首だった。

胴体を失ったその巨体はゆっくりと塵となって崩れ落ちていく。

そして魔王がいたはずの場所に一人の男が立っていた。

金色のオーラをその身にまとい、その手には俺が見間違えるはずもない聖剣アスカロンが握りしめられている。

戦いの痕跡である左目の上の傷跡。

不器用だけど誰よりも優しいその瞳。

その背中は俺がずっと追いかけてきた、世界で一番大きくて偉大な背中。

「嘘だろ……」

俺の喉から声が漏れた。

涙が視界を滲ませる。

「……父さん……なのか……?」


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