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第四部 キミシダイ帝国編
第一章:君が為の鎮魂歌
一
世界から音が消えたのは、いつからだっただろうか。
王都の半壊した処刑台を後にしてから、俺達はただ、無言で歩き続けていた。あれから三日が過ぎた。太陽は昇り、沈み、夜空には無感動な星々が瞬く。だが、俺の世界では、時間は凍り付いたままだ。
俺の左肩から右の脇腹にかけて走る傷は、まだ生々しく熱を持っている。レシアの拙い治癒魔法と、俺自身の得体の知れない回復力が、かろうじて傷口を塞いではいたが、ふとした瞬間に、母リリアの拳が叩き込まれたあの衝撃が蘇り、呼吸が浅くなる。
だが、そんな肉体の痛みなど、心の痛みに比べれば、些細なことだった。
俺の心には、ぽっかりと、巨大な穴が空いていた。それは、父エミールを失った時の虚無感とは、また違う種類の痛みだった。あの時は、罪悪感と後悔という、どす黒く重い感情が俺を支配していた。しかし、今は違う。
喪失感。
ただ、純粋で、どうしようもないほどの、喪失感。
俺の隣を、レシアが歩いている。彼女もまた、俺と同じように、魂の抜け殻のようだった。亜麻色の髪は埃にまみれ、大きな翠色の瞳からは、かつての輝きが失われている。時折、俺の顔を心配そうに覗き込んでは、力なく微笑んでみせるが、その笑顔が、無理に作ったものであることは、火を見るよりも明らかだった。彼女もまた、俺と同じように、深い傷を負っている。いや、もしかしたら、俺以上に。
俺達は、仲間を失った。
ライア。
銀色の髪と、血のように赤い瞳を持つ、儚げで、そして誰よりも強い意志を持った少女。俺達がようやく手に入れた、三人目の仲間。嘘つきで、不器用で、そして、どうしようもなく優しい、俺達の、家族。
彼女は、もういない。
俺達の腕の中で、光の粒子となって、空へと消えていった。
『二人も……諦めないで……。どんなに……辛くても……。幸せになることを……』
彼女の最後の言葉が、壊れたレコードのように、頭の中で何度も繰り返される。幸せになること。それを諦めるなと、彼女は言った。だが、ライア、お前がいない世界で、どうやって幸せになれというんだ。
お前が命を懸けて繋いでくれたこの未来を、俺達は、どうやって生きていけばいい?
その答えが見つからないまま、俺達は、ただ、当てもなく、南へと歩き続けていた。王都から、母リリアの支配から、一刻も早く遠ざかるために。
その日の夜、俺達は森の中で野営をすることにした。湿った枯れ葉を集め、火打石で火を熾す。パチパチと爆ぜる炎の音だけが、重苦しい沈黙を支配する空間に響いていた。
火の番は、俺が引き受けた。レシアは、支給された毛布にくるまり、壁際に背を預けている。眠っているのか、起きているのか、その表情からは読み取れない。
焚き火の炎が、揺らめく。その赤い光を見つめていると、嫌でも思い出してしまう。
三人で囲んだ、最後の夜のことを。
ゼノグラードを出発する前の、あの夜。ライアが、自分の故郷の話をしてくれた。俺とレシアは、その話を聞きながら、彼女の痛みを分かち合い、俺達は本当の意味で一つになったのだと、そう信じていた。あの時の、炎の温かさ。三人の間に流れた、穏やかな空気。その全てが、今となっては、鋭い刃となって俺の胸を突き刺す。
ライア。
お前は、あの時、どんな気持ちで、俺達に思い出を語っていたんだ。
俺達を裏切らなければならない、その運命を知りながら。
お前の心は、どれだけ引き裂かれそうだったんだ。
俺は、気づいてやれなかった。お前の、笑顔の裏に隠された、絶望的な孤独に。
「……ウオ」
不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、レシアが、いつの間にか目を覚まし、潤んだ瞳で俺を見ていた。
「……悪い、起こしたか」
「ううん」彼女は力なく首を振った。「眠れないの」
俺もだ、とは言わなかった。彼女は、ゆっくりと俺の隣に移動し、同じように焚き火の炎を見つめた。しばらく、二人分の呼吸の音だけが、夜の静寂に溶けていく。
その沈黙を、破ったのは、レシアだった。
「……私のせいだ」
ぽつりと、零れ落ちた、その言葉。
それは、罪の告白だった。
二
「……何を、言ってるんだ」
俺は、彼女の言葉の意味を、理解できなかった。理解したくなかった。
「ライアが死んだのは、私のせいなの」
レシアの声は、震えていた。彼女は、毛布を握りしめたまま、俯いて、言葉を続ける。その小さな肩が、小刻みに震えているのが、炎の光に照らされて、はっきりと見えた。
「私……何も、できなかった。ウオが、リリアさんと戦って、傷ついて。ライアが、命を懸けて、私達を守ってくれたのに。私だけが、ただ、怯えて、泣いてるだけだった……!」
違う。俺は、そう言おうとした。君は、最後まで、俺の隣で、戦ってくれたじゃないか、と。だが、彼女の口から紡がれる言葉は、俺の反論を、許しはしなかった。
「ううん、違う。ただ、怯えていただけじゃない」
彼女は、顔を上げた。その、翠色の瞳からは、堰を切ったように、大粒の涙が、溢れ出していた。その瞳に宿っていたのは、後悔と、そして、どうしようもないほどの、自己嫌悪の色だった。
「私ね、ライアのこと、信じきれてなかった」
「……え……?」
「嘆きの丘で、ライアが、本当の姿を見せた時。私、心のどこかで、『やっぱり』って、思っちゃったの。この子は、私達とは違うんだって。私達を、裏切るために、近づいてきたんだって。そう、疑ってた……!」
彼女の告白は、俺の胸を、鈍器で殴られたかのように、揺さぶった。
そんなこと、思っていたのか。レシアが。あの、誰よりも優しくて、人を信じることのできる、彼女が。
「だって、ずるいじゃない……」
彼女の声は、嗚咽に変わっていく。
「ライアは、綺麗で、強くて、賢くて……。ウオと、私が知らないような、難しい話で、盛り上がって……。私が、知らない、ウオの顔を、引き出して……。私だけが、仲間外れみたいで……。怖かったの。ウオが、私よりも、ライアのこと、好きになっちゃうんじゃないかって……!」
それは、嫉妬。
愛する人を、奪われるかもしれないという、純粋で、そして、どうしようもなく、醜い、感情。
俺は、言葉を失った。
思い当たる節が、あったからだ。ゼノグラードでの、あの日々。武器屋での会話。図書館での調査。確かに、あの時、俺とライアは、二人だけの世界に、没頭していたかもしれない。その輪の外に、レシアがいたことに、俺は気づいていたはずなのに。
大丈夫だろう、と。俺は、勝手に、思い込んでいた。
俺の、その鈍感さが、彼女を、これほどまでに、追い詰めていたのだ。
「ウオが、広場で、ライアのこと、助けた時……」
レシアは、さらに、続けた。その言葉は、もはや、告白というよりも、懺悔だった。
「あの、義母っていう女の人から、守った時。ウオ、ライアに、すごく、優しい顔で、笑いかけたでしょう? 『とびっきりの笑顔』で……。私、あの笑顔、見たことなかった。私には、一度も、見せてくれたことのない、顔だった……!」
「……っ」
「あの時、私、すごく、嫌な気持ちになったの。胸が、ちくちくして、苦しくて……。ライアがいなければいいのに、って。一瞬だけ、そう、思っちゃった……!」
彼女は、ついに、その場に、泣き崩れた。
「そんな、醜いことを、考えてたから、罰が当たったんだ! 私が、あの子を、信じてあげられなかったから! 私が、あの子の、居場所を、奪おうとしたから! だから、ライアは、死んじゃったんだ! 私のせいだ! 私が、ライアを、殺したんだ……!!」
彼女の、悲痛な叫びが、夜の森に、木霊する。
それは、あまりにも、痛々しい、魂の、慟哭だった。
俺は、何も、言えなかった。
ただ、泣きじゃくる、彼女の、小さな背中を、見つめることしか、できなかった。
俺も、同じだったからだ。
ライアを守れなかった、無力感。
彼女の、本当の苦しみに、気づいてやれなかった、後悔。
俺達は、二人とも、罪人だった。
仲間一人の、命すら、救うことのできなかった、無力で、愚かな、罪人なのだ。
俺は、ゆっくりと、彼女の隣に、膝をついた。
そして、震える、彼女の体を、そっと、抱きしめた。
彼女は、俺の胸に、顔を埋め、子供のように、声を上げて、泣き続けた。
その、温かい、涙が、俺の、服を、濡らしていく。
俺達は、ただ、そうして、互いの傷を、舐め合うように、寄り添っていた。
夜が明けるまで、ずっと。
三
どれくらいの時間が、経っただろうか。
レシアの、嗚咽が、少しずつ、穏やかな、寝息へと、変わっていった。彼女は、泣き疲れて、俺の腕の中で、眠ってしまったようだった。その、あどけない寝顔には、まだ、涙の跡が、生々しく、残っている。
俺は、彼女を起こさないように、そっと、自分の上着を、その肩にかけた。
空が、白み始めている。
夜の闇が、東の空から、徐々に、その色を、薄めていく。新しい一日が、否応なく、始まろうとしていた。
俺は、眠ってしまった、レシアの、髪を、優しく、撫でた。
彼女の、あの、告白。
それは、俺の心を、深く、抉った。だが、同時に、俺は、少しだけ、救われてもいた。
彼女が、その、醜いと、思い込んでいる、感情を、俺に、打ち明けてくれたことが。
一人で、抱え込まずに、俺を、頼ってくれたことが。
俺は、彼女の、弱さも、醜さも、全て、受け止めようと、思った。
だって、俺自身も、決して、綺麗なんかじゃないのだから。
俺の、中にも、獣が、いる。
王都で、母リリアと、対峙した時、俺は、確かに、あの力に、身を委ねようとした。
大魔王ダイマ・オウの、破壊の力に。
仲間を守るためなら、悪魔にだってなってやる、と。そう、願った。
俺と、レシアは、似ているのかもしれない。
大切なものを、守りたいと、願う、その想いの、強さ故に。
心の中に、光と、同じくらい、深い、闇を、抱えてしまう。
父さんは、言っていた。
『力そのものに、善悪はない』と。
きっと、感情も、同じなのだろう。
嫉妬も、憎しみも、それ自体が、悪なのではない。
その、感情を、どう、使うか。
それを、決めるのは、自分自身の、心なのだ。
レシアは、その、嫉妬心を、乗り越え、最後まで、ライアを、仲間として、守ろうとした。
俺もまた、大魔王の力に、完全に、呑まれることなく、最後の、一線で、踏みとどまった。
俺達は、まだ、負けていない。
俺は、静かに、立ち上がった。
そして、夜明けの、光が、差し込み始めた、空を、見上げる。
ライア。
お前が、命を懸けて、繋いでくれた、この未来。
俺達は、決して、無駄にはしない。
お前が、守ろうとした、俺達の、幸せを、俺は、必ず、この手で、掴み取ってみせる。
それが、お前に、対する、俺の、唯一の、鎮魂歌だ。
俺は、決意を、新たにした。
もう、迷わない。
もう、俯かない。
レシアが、目を覚ましたら、伝えよう。
君は、一人じゃない、と。
君の、罪も、弱さも、全て、俺が、半分、背負う、と。
君がいたから、俺は、最後まで、戦えたんだ、と。
そう、心に、誓った、その時だった。
眠っていたはずの、レシアが、身じろぎした。
そして、ゆっくりと、その、瞼を、持ち上げる。
「……ウオ……?」
寝ぼけ眼の、彼女が、俺の、名を、呼んだ。
俺は、彼女の前に、屈み込み、その、頬に、残っていた、涙の跡を、親指で、そっと、拭ってやった。
「……おはよう、レシア」
俺は、微笑んだ。
それは、偽りの、笑顔ではなかった。
心の、底からの、覚悟と、愛情に、満ちた、笑顔だった。
俺の、その、顔を見て、レシアの、瞳が、大きく、見開かれる。
そして、彼女の、頬が、朝焼けのように、ほんのりと、赤く、染まった。
「……おはよう」
彼女もまた、はにかむように、微笑み返してくれた。
その、笑顔は、まだ、少し、ぎこちなかったけれど。
それでも、その奥には、確かな、光が、戻ってきていた。
俺達は、立ち上がった。
二人で、並んで、朝日を、浴びる。
温かい、光が、俺達の、冷え切った体を、包み込んでいく。
悲しみは、まだ、消えない。
傷も、まだ、癒えていない。
だが、俺達は、もう、絶望の、淵には、いなかった。
互いを、支え合い、共に、歩んでいく、覚悟が、そこには、あったからだ。
「行こうか。レシア。君には、俺がいる。たとえ世界の全てが君の敵になっても、君には俺がいる。だから、自分のことをあまり責めないでくれ」
俺が、言うと、レシアは、力強く、頷いた。
「うん…!! うん…!!!」
俺達の、本当の、戦いは、ここから、始まる。
四
あの日、夜明けの森で交わした無言の誓いは、俺達二人を、再び、戦士へと立ち返らせた。悲しみに暮れている時間はない。俺達には、二百日という、あまりにも短い、タイムリミリットが、課せられているのだ。
俺達は、南へと向かうのをやめ、再び、文明の匂いがする、街を目指して、歩き始めた。目的は、情報収集。母リリアと『愛眼』の手がかりを、掴むためだ。
数日後、俺達は、とある、商業都市に、たどり着いた。王都ほどの、規模ではないが、人々の、往来も多く、活気に、満ち溢れている。
俺達は、まず、宿を、確保し、泥と、埃にまみれた、体を、洗い流した。そして、街の、中心部にある、冒険者ギルドへと、向かった。
もう、仲間探しの、ためではない。
あらゆる、情報が、集まる、この場所で、何か、手がかりが、見つからないかと思ったのだ。
ギルドの中は、相変わらず、汗と、酒の匂いに、満ちていた。だが、以前のように、その、空気に、気圧されることは、もうなかった。俺達の、目には、明確な、目的が、宿っていたからだ。
俺は、カウンターへは、向かわず、ギルドの、隅にある、情報屋の、テーブルへと、直行した。フードを、被った、痩せた男が、一人、黙々と、酒を、飲んでいる。
俺は、村長から、託された、なけなしの、金貨を、一枚、テーブルの上に、置いた。
男は、ちらり、と金貨に、目をやると、興味なさそうに、言った。
「何の、ようだ、坊主」
「情報を、買いたい」
俺は、単刀直入に、切り出した。
「『愛眼』という、組織について、何か、知らないか」
その、名前を、口にした瞬間、男の、動きが、ぴたり、と止まった。彼の、フードの、奥の、目が、鋭く、俺を、射抜く。
「……その、名前を、どこで、聞いた」
「答える、必要は、ない。知っているのか、いないのか、それだけ、答えてくれ」
男は、しばらく、俺の顔を、値踏みするように、見つめていたが、やがて、諦めたように、ため息を、ついた。
「……命が、惜しければ、関わらないことだ、坊主。そいつらは、この世界の、『理』そのものだ。逆らえば、消されるぞ。お前みたいな、ガキが、どうこうできる、相手じゃねえ」
「それでも、知りたい」
俺の、揺るぎない、瞳を見て、男は、再び、ため息をついた。
彼は、テーブルの上の、金貨を、懐に、しまうと、声を、潜めて、言った。
「……奴らの、本拠地は、誰も、知らねえ。だが、最近、妙な、噂が、流れてるのは、確かだ」
「噂?」
「ああ。この、王国の、東。国境を、越えた先にある、都市国家、『フィボナッチ帝国』。聞いたことは、あるか?」
フィボナッチ帝国。
初めて、聞く、名前だった。
「その国の、王が、少し、前から、おかしいんだとよ。圧政を、敷き、民を、苦しめ、逆らう者は、次々と、粛清。まるで、人が、変わっちまったかのようだ、と」
「……その王の、名前は?」
「フィボナッチ、とか言ったな。元々は、民に、寄り添う、名君だったらしいが……。今じゃ、国中の、富を、独占し、民は、飢えに、苦しんでいる。だが、誰も、逆らえねえ。逆らおうとした者は、皆、次の日には、忽然と、姿を、消しちまうからだ」
俺の、胸が、ざわめいた。
人が、変わった、王。
民の、富の、独占。
逆らう者の、粛清。
それは、母リリアが、王都で、やろうとしていたことと、酷似していた。
「……その、フィボナッチは、『愛眼』と、関係が、あるのか?」
「さあな。そこまでは、知らねえ。だが、奴のやり方は、どうも、普通じゃねえ。まるで、何か、得体の知れない、力に、操られているかのようだ、という者もいる」
男は、そこで、話を、打ち切った。
「俺が、知ってるのは、ここまでだ。これ以上、首を、突っ込みたきゃ、自分で、確かめるんだな。まあ、生きて、帰ってこれたら、の話だが」
俺は、男に、礼を言うと、その場を、離れた。
レシアが、心配そうに、俺の元へ、駆け寄ってくる。
「ウオ、何か、わかったの?」
「……ああ。次の、目的地が、決まった」
俺は、ギルドの、壁に、貼られていた、古びた、大陸地図を、指差した。
俺達が、今いる、王国の、東の、国境。その、すぐ、先に、小さな、都市国家の、名前が、記されていた。
『フィボナッチ帝国』
「ここへ、行く」




