23
二
絶体絶命。
その言葉以外にこの状況を表す言葉を俺は知らなかった。振り下ろされる闇の剣。それは死そのものの具現だった。俺はもう動けない。レシアの治癒魔法も間に合わない。俺達はここで終わるのだ。
だがその死の軌道に割り込んだのは俺が想像もしなかった存在だった。
ライアだった。
彼女はいつの間にか立ち上がり俺を庇うようにリリアの前に立ちはだかっていた。その手には漆黒の剣が握られている。さっきまでの虚ろな瞳はどこにもない。そこには自らの命を燃やし尽くすことを覚悟した者の静かでそして燃えるような決意の光が宿っていた。
「どきなさいライア」
「嫌だ」
リリアの冷たい命令をライアは即座に否定した。
「貴女の駒として生きるくらいなら私はここで死を選ぶ。そして死ぬのなら私の大切な仲間を守って死ぬ!」
彼女の絶叫。それは彼女の魂からの叫びだった。リリアに植え付けられた偽りの記憶と呪縛を自らの意志の力で振り払ったのだ。
「愚かな子」
リリアは心底つまらなそうに呟くとその闇の剣を容赦なく振り下ろした。ライアはそれを自らの剣で受け止める。
凄まじい衝撃音。二つの剣が激突した地点から黒い衝撃波が迸り処刑台の床が粉々に砕け散った。ライアの足が地面にめり込む。彼女は歯を食いしばりリリアの圧倒的な質量を受け止めていた。
だが拮抗は一瞬で崩れた。
リリアの剣がライアの防御をこじ開けその勢いのまま彼女の体を袈裟懸けに切り裂いた。
「ライア!!!!!」
俺とレシアの絶叫が重なった。
赤い鮮血が宙を舞う。ライアの華奢な体は木の葉のように吹き飛ばされ俺のすぐ隣に叩きつけられた。その胸から腹にかけて刻まれた一筋の深い傷。そこから溢れ出す血が彼女の銀色の髪をみるみるうちに赤く染めていく。
「……っ……かはっ……」
ライアの口から血の泡が漏れる。致命傷だ。誰が見ても助からないと分かるほどの深い傷。
「ライア! しっかりして!」
レシアが泣きじゃくりながらライアに治癒魔法をかけようとする。だがライアはそれを手で制した。
「……無駄だよ……レシア……」
彼女は途切れ途切れの声で言った。そして傷口から血を流しながらもゆっくりと俺の方へと顔を向けた。その赤い瞳はもう憎しみも絶望も映してはいなかった。ただ穏やかでそして深い愛情に満ちていた。
「ごめんね……ウオ……」
彼女は微笑んだ。血に濡れたその笑顔は俺が今まで見たどんな笑顔よりも美しくそして悲しかった。
「私……二人を……守れなかった……」
「そんなこと言うな!」俺は叫んだ。「お前は俺達を守ってくれた! だから死ぬな! 死なないでくれ!」
俺の言葉にライアは嬉しそうに目を細めた。
「……ウオに……そう言ってもらえるなら……良かった……」
彼女は俺とレシアの顔を交互に見つめた。そしてまるで最後の願いを口にするかのように言った。
「私も……!! 二人の幸せを……!! 諦めたくないから!!」
その言葉が引き金だった。
彼女の体からそれまでとは比較にならないほどの膨大な魔力が溢れ出した。それは純粋な光の奔流。彼女の魂そのものが輝いているかのようだった。
「だから……!!」
ライアは叫んだ。それは天に対する祈りであり自らの運命に対する宣言だった。
「ここで終わってもいい……!! ここで死んでもいい!! 私の覚悟よ!! 私に新たな術式”冠位装填”を授けよ!!!」
彼女の絶叫に応えるかのように世界が白い光に包まれた。
その光はリリアの纏う禍々しい闇を浄化するかのように処刑台の上を隅々まで満たしていく。温かくて優しい光。それはまさしくライアの魂の色だった。
光が収まった時そこにいたのはもう俺達の知るライアではなかった。
彼女の体は神々しい純白の鎧に包まれその背中には白鳥のようであり天使のようでもある六対の光の翼が生えていた。銀色の髪はキラキラと輝きその顔は慈愛に満ちた女神のように穏やかだった。胸の傷は完全に塞がり一筋の血の跡さえ残っていない。
彼女はゆっくりと立ち上がった。その姿からは先ほどまでの死の気配は微塵も感じられなかった。代わりに感じるのは生命そのものを祝福するかのような絶対的な肯定のオーラ。
そして彼女は自らの変身の名を告げた。その声は聖歌のように美しく響き渡った。
「冠位装填――”ハピネス・スマイル”」
ハピネス・スマイル。
幸福な微笑み。
その名前の意味を理解した瞬間俺の目から涙が溢れ出した。
彼女は俺とレシアの幸せを願ってその名を付けたのだ。自らの命を懸けた最後の奇跡に。俺達の未来を守るというただそれだけのために。
なんという自己犠牲。なんという愛情。
俺は彼女に何一つ返せていないというのに。
冠位装填を成し遂げたライアはリリアへと向き直った。その慈愛に満ちた瞳はしかしリリアだけを絶対的な敵として捉えていた。
「リリア」
ライアの声は静かだった。だがその静けさの中には決して揺らぐことのない鋼のような意志が秘められていた。
「貴女の歪んだ愛から私の大切な人達を私が守る」
白い女神と黒い魔神。
二つの冠位装填が今処刑台の上で対峙する。
俺は傷の痛みも忘れただその光景を呆然と見つめることしかできなかった。
俺達の運命を懸けた本当の戦いが今始まろうとしていた。
光と闇の激突。
その言葉ですら陳腐に聞こえるほどの壮絶な戦いが始まった。
ライアとリリア。女神と魔神。二つの冠位装填はもはや人間同士の戦いという枠組みを遥かに逸脱していた。それは神話の一場面。世界の創造と終焉を賭けた二柱の神々の闘争そのものだった。
俺はレシアに肩を支えられながらその光景をただ見上げることしかできなかった。腹の傷はレシアの拙い治癒魔法では塞がりきらない。絶えず流れ続ける血が俺の体温と意識を容赦なく奪っていく。だが俺は目を逸らすことができなかった。逸らしてはならないと思った。ライアが命を燃やして紡ぐこの物語の結末をこの目に焼き付けるまでは。
ライアの戦い方は光そのものだった。
彼女がその純白の翼を羽ばたかせるたびに無数の光の矢がリリアに降り注ぐ。一本一本が城壁を穿つほどの威力を持つ光の豪雨。だがリリアはそれを闇の剣一本で全て弾き返す。あるいはその身に纏う漆黒のオーラが光の矢を飲み込み霧散させてしまう。
「無駄よライア」
リリアの声はどこまでも冷たい。「貴女の光は私には届かない。闇が光を飲み込むのはこの世界の理なのだから」
「理なら私が覆す!」
ライアは叫び両手を天に掲げた。彼女の頭上に巨大な光の球体が生成される。それは第二の太陽と見紛うほどの圧倒的な光量と熱量を秘めていた。
「聖なる光よ! 罪深き闇を浄化したまえ! “ホーリー・ノヴァ”!」
極大の光熱球がリリア目掛けて放たれる。処刑台の石畳が熱で蒸発し周囲の空気が灼熱の風となって俺達の肌を焼いた。直撃すればリリアとて無事では済まないだろう。
だがリリアは微動だにしなかった。
彼女はただ静かに闇の剣を自らの目の前に突き立てる。
「闇よ集え。我が身を喰らい我が敵を喰らえ。“ヴォイド・イーター”」
彼女の剣先を中心に空間が歪み漆黒の渦が生まれた。それはまるで宇宙に開いたブラックホール。ライアが放った太陽は悲鳴を上げる間もなくその闇の渦に吸い込まれ跡形もなく消え失せた。
「そんな……」
レシアが絶望の声を漏らす。俺もまた言葉を失っていた。次元が違う。ライアもまた冠位装填に至った強者のはずだ。だというのにリリアとの間には絶対的なまでの隔たりが存在していた。
「なぜ……」ライアが喘いだ。「なぜ貴女はそこまで強いの……!?」
「簡単なことよ」リリアは答えた。「私は貴女よりも遥かに長い時を生きている。そして貴女よりも遥かに深い絶望を知っている。私の力は憎しみと復讐心によって磨き上げられたもの。愛だの希望だのという曖昧な感情を力の源とする貴女に負ける道理がない」
リリアの姿が掻き消える。次の瞬間には彼女はライアの背後に回り込んでいた。闇の剣がライアの純白の翼を根元から断ち切る。
光の羽が血飛沫のように宙を舞った。ライアは悲鳴を上げ地面に叩きつけられる。冠位装填の鎧が砕け散りその下から再び生身の体が現れた。背中の傷口から夥しい量の血が流れ出す。
「ライア!」
俺は叫びながら駆け寄ろうとした。だが腹の傷が激痛を発しその場に崩れ落ちる。
「がっ……はっ……!」
口から血の塊を吐き出した。もう限界だった。意識が闇に沈んでいく。
「ウオ! しっかりして!」
レシアが俺の体を必死に揺さぶる。だがその声も遠くに聞こえた。
ああ駄目だ。
俺はここで死ぬのか。
父さんのように何も守れずに。
ライアの命の灯火が消えかけているのが分かった。彼女のハピネス・スマイルはもう微笑んではいない。ただ苦痛に歪み絶望の色を浮かべているだけだ。
違う。
違うだろ。
こんな結末のために彼女は命を懸けたのか。俺達の幸せを願ってくれた彼女がこんな風に報われずに死んでいくなんてあっていいはずがない。
怒りが絶望を上回った。
憎しみが無力感を焼き尽くした。
もし俺に力があれば。
この女を叩き潰せるだけの力が。
父さんから受け継いだ勇者の力じゃない。もっと根源的で圧倒的な破壊の力が。
そうだ。
俺の中には眠っているはずだ。
母リリアが渇望し父エミールが恐れた力が。
大魔王ダイマ・オウの力が。
目覚めろ。
今こそ目覚めてくれ。
俺の魂をくれてやる。この女を倒せるなら俺は悪魔にだってなってやる。
俺がそう強く願った瞬間だった。
俺の腹の傷口から黒い何かが溢れ出した。それは血ではない。闇だ。俺自身の内側から生まれた純粋な破壊の意志。その闇は俺の体を侵食し傷を塞ぎ失われた力を取り戻していく。
視界がクリアになる。痛みが消える。代わりに魂を焼き尽くすかのような全能感が俺の全身を駆け巡った。
俺はゆっくりと立ち上がった。
俺の体から放たれる金色の闘気は黒いオーラへと変質していた。
その異常な光景にリリアが初めて驚愕の表情を浮かべた。
「まさか……ウオ……!?」
俺は何も答えなかった。今の俺には言葉は必要なかった。
俺はただ目の前の敵を認識する。
そしてそれを排除するという結果だけを求める。
俺の右手から闇が溢れ出しそれは一本の剣の形を成した。父さんが使っていた聖剣でもなく村の親方が打ってくれた剣でもない。俺自身の魂の形。大魔王ダイマ・オウの魔剣。
俺は地面を蹴った。
先ほどまでとは比較にならない速度。リリアが反応するよりも速く俺は彼女の懐に潜り込んでいた。
そして魔剣を振るう。
リリアは咄嗟に闇の剣で防御したがその剣は俺の魔剣に触れた瞬間ガラスのように砕け散った。
「なっ……!?」
リリアの驚愕の声を背に俺の剣は止まらない。
だがその切っ先は彼女の体を貫くことはなかった。
俺は最後の最後で剣の軌道を逸らし彼女のすぐ隣の地面を斬り裂いていた。地面に深い亀裂が走り処刑台そのものが大きく傾ぐ。
なぜ斬らなかったのか自分でも分からなかった。
ただ俺の心の奥底でまだ人間ウオとしての何かが叫んでいたのだ。
母を殺すなと。
「……面白い」
リリアは砕かれた剣の柄を捨てると恍惚とした表情で俺を見つめた。「面白いわウオ。貴方こそが私の最高傑作よ」
彼女はそう言うと俺に背を向けた。
「今日のところは退いてあげる。貴方の覚醒はまだ不完全。ここで摘み取ってしまうのは惜しいもの」
彼女の体が黒い霧となって消えていく。その最後に彼女は俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「二百日後にまた会いましょう。私の可愛い息子。その時は貴方の全てを私が奪ってあげる」
その言葉を残して母は完全に姿を消した。
後に残されたのは半壊した処刑台と傷だらけの俺達三人だけだった。
俺の体から黒いオーラが消え失せると同時に凄まじい虚脱感が襲ってきた。俺はその場に膝から崩れ落ちる。
「ウオ!」
レシアが駆け寄ってくる。
俺は彼女の声に応えることもできずただ荒い息を繰り返しながらうつ伏せに倒れている少女を見つめた。
ライア。
彼女の体はもう動かなかった。冠位装填の代償かそれともリリアに受けた傷が深すぎたのか。彼女の命の灯火は風の前の蝋燭のように揺らめきそして今まさに消えようとしていた。
四
俺は震える足でライアの元へ這い寄った。
レシアも泣きじゃくりながらその隣に膝をつく。
「ライア! しっかりして! 死んじゃ駄目だよ!」
レシアが必死に治癒魔法をかける。だがライアの体から流れ出す光の粒は止まらない。彼女の存在そのものがこの世界から消え去ろうとしていた。
「……ウオ……レシア……」
ライアが薄っすらと目を開けた。その赤い瞳にはもう力がない。
「……よかった……二人とも……無事で……」
「馬鹿野郎!」俺は叫んだ。「お前が無事じゃなきゃ意味ないだろ!」
「……ううん……これで……いいの……」
ライアは穏やかに微笑んだ。その顔には後悔の色は微塵もなかった。
「私……やっと……思い出せたんだ……」
彼女は虚空を見つめながら言った。
「お父さんの……不器用な笑顔……。お母さんの……温かい手のひら……。親友の……悪戯っぽい笑い声……。そして……彼が、最後に……私に言ってくれた……言葉……」
彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなかった。失われたものを取り戻せたことへの喜びの涙だった。
「『愛してる』……って……。私も、ずっと……言いたかった……」
リリアの呪いは彼女が命を燃やし尽くしたことで解けたのだ。彼女は最後に一番大切なものを取り戻すことができた。
「ウオ……レシア……」
彼女は俺達の手を弱々しく握った。その手は氷のように冷たかった。
「二人も……諦めないで……。どんなに……辛くても……。幸せになることを……」
それが彼女の最後の言葉だった。
彼女の手から力が抜けその瞳から光が消える。
そして彼女の体は無数の光の粒子となって空へと昇っていった。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように。後に残されたのは彼女が身につけていた純白の鎧の一部とそして俺達の心に刻まれた決して消えることのない温かい記憶だけだった。




