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02

村の外れには、馬が用意されていた。エミールは馬に跨ると、「行ってくる」と一言残し、死の都へと一人旅立っていった。




 その背中が見えなくなるまで、ウオはずっと手を振り続けていた。




 旅立ちの朝、エミールを見送る村人たちの中に、レシアの姿もあった。ウオが、父の背中を不安そうに見つめていると、レシアがおずおずと彼に駆け寄ってきた。


「ウオくん……」


 彼女は、小さな手で何かを固く握りしめている。


「これ……」


 差し出されたのは、一枚の、青い布だった。丁寧に刺繍が施された、手作りのバンダナだ。


「私が、作ったの。お守り……みたいなものだから。これを持ってたら、きっと、ウオくんも、勇者様も、守ってくれると思うから……」


 レシアは顔を真っ赤にしながら、そう言った。


 ウオは、そのバンダナを受け取った。布地から、彼女の温もりが伝わってくるようだった。


「……ありがとう、レシア」


 それが、彼が彼女に言えた、最後の言葉だった。


 その夜、ウオはベッドの中で眠れずにいた。


(駄目だ。一人にしちゃ、駄目だ)


 強い衝動が、彼の全身を突き動かした。エミールを守らなければ。


 彼はリリアへの置き手紙を書くと、パンと水筒、そしてエミールが作ってくれた木の剣を鞄に詰め込んだ。腰には、レシアからもらった青いバンダナを固く結びつける。


 夜の空気は冷たく、森の闇は深い。しかし、ウオの黒い瞳には、恐怖よりも遥かに強い決意の光が宿っていた。


 彼は、エミールが出発した東へと続く街道を、小さな足で必死に走り出した。


(待ってて、エミール。僕が必ず、君を守るから)


 運命の歯車は、もう誰にも止められない速度で、大きく、そして狂おしく回転し始めていた。


 第四章 父の背中と最後の塔


 父の背中を追い始めてから、二週間が過ぎようとしていた。


 僕の一人称視点に切り替わったこの旅は、想像を絶するほど過酷だった。父の歩みは驚くほど速く、僕は必死にその足跡を追い続けた。


 道中、父は何度も魔物の群れと遭遇した。だが、その度に、僕の理解を超えた光景が繰り広げられた。父が剣を抜いたことすら認識できない。ただ、閃光が一度走ったように見えたかと思うと、次の瞬間には魔物たちが悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちているのだ。


 父、勇者エミールの、常軌を逸した『強さ』。僕はそれを目の当たりにするたびに、誇らしさと同時に、父がどんどん遠い存在になっていくような寂しさを感じていた。


 だが、父の体は確実に消耗していた。野営の夜、遠くの岩陰から隠れて見る父の背中は、ひどく疲れて見えた。時折、激しく咳き込み、その口元を抑える姿も見た。彼は、僕の知る優しい父親であると同時に、自らの命を削りながら戦う、孤独な戦士だった。


 そして、ついに僕たちの目の前に、それが姿を現した。


 天を突き抜けるかのような、巨大な黒い塔。魔王軍最後の砦、『ファイナルタワー』。


 その最上階に、最後の四天王にして、魔王軍最強の魔剣士と謳われる男、『魔剣』のゲルニカが待っている。


 父は、その塔を静かに見上げていた。満身創痍の体。しかし、その瞳に宿る光は、これまでで最も強く輝いていた。


 父は、一度も振り返ることなく、塔の闇の中へと一人で消えていった。







 第一部 第五章 約束と裏切り


 父、エミールがファイナルタワーの闇に消えた後、僕はどれくらいの時間、その場に立ち尽くしていたのだろうか。数分だったかもしれないし、一時間以上が経過していたのかもしれない。僕の感覚では、永遠にも等しい時間だった。


 重く巨大な黒鉄の扉は、父を飲み込んだ後、完全に沈黙していた。あの向こう側で、今、何が起きているのか。父は生きているのか。最後の四天王、ゲルニカとの死闘は、既に始まっているのかもしれない。


 このままここで待っていても、何も変わらない。父が勝って出てくるのを祈るだけか? それとも、最悪の結末を、この扉が開くことで知ることになるのか?





 嫌だ。


 どちらも、絶対に嫌だ。


 ロルフとの戦いで、僕は学んだ。無力な傍観者でいることが、どれほど歯痒く、どれほど後悔を生むかを。僕の小さな行動が、結果的に父の窮地を救った。それは紛れもない事実だった。今回も、僕に何かできることがあるかもしれない。いや、たとえ何もできなくてもいい。ただ、父と同じ空間にいたい。父が一人で戦っているという、耐え難い孤独から、目を背けたくなかった。


 僕は、震える足に力を込めて立ち上がった。そして、あの黒鉄の扉へと向かう。


 父が押し開けた時、あれほど重々しい音を立てた扉だ。僕一人の力で動かせるとは到底思えない。それでも、諦めるわけにはいかなかった。扉に手をかけ、全体重を預けて押してみる。


 びくともしない。まるで、岩の壁を押しているようだ。





「くそっ……!」


 何度も、何度も体当たりを繰り返す。肩が砕けそうな衝撃が走るが、扉は冷たい沈黙を守るだけだった。涙が滲み、絶望が心を覆い尽くそうとした、その時だった。


 扉に、ほんのわずかな隙間が空いていることに気づいた。


 父が入った後、完全には閉まりきっていなかったのだ。おそらく、父自身が、あるいは塔の仕掛けが、すぐには閉じないようにできていたのだろう。その隙間は、子供である僕の体が、やっとのことで滑り込めるかどうかという、絶望的な細さだった。


 でも、僕にとっては、天から差し伸べられた蜘蛛の糸だった。


 鎧とリュックサックを脱ぎ捨て、護身用のナイフだけを腰に、僕はその隙間に体をねじ込んだ。鉄の冷たさが肌を削り、骨が軋む。息を止め、必死に体を細くして、暗闇の中へと進む。


 数分にも感じられる格闘の末、僕の体は、ついに塔の内部へと滑り落ちた。





 ひんやりとした、墓場のような空気が僕を包んだ。光は一切なく、完全な闇が支配している。鼻をつくのは、濃密な魔力の匂いと、微かな血の匂い。そして、長い間使われていない石造りの建物の、カビ臭い匂いだった。


 僕は壁に手をつき、慎重に立ち上がった。目が闇に慣れるまで、しばらくじっとしていなければならない。心臓の音が、やけに大きく耳に響く。


 やがて、目が慣れてくると、ぼんやりと周囲の様子が見えてきた。そこは広大なエントランスホールのようだった。天井は遥か高く、闇に溶けて見えない。そして、ホールの奥に、上階へと続く巨大な螺旋階段が、まるで巨大な蛇のようにとぐろを巻いているのが見えた。





 父は、もうこの階段を登っているはずだ。


 僕は、足音を極限まで殺しながら、階段へと向かった。塔の内部は、不気味なほど静まり返っていた。魔物の気配が全くしない。それは、二つのことを示唆していた。この塔には元から魔物が配置されていないか、あるいは、先行している父が、全て片付けてしまったか。


 階段を数段登ったところで、僕は後者であることを確信した。


 階段の脇に、巨大なミノタウロスの骸が転がっていた。その体は、一刀のもとに、綺麗に両断されている。血もほとんど流れていない。あまりに鋭利な斬撃は、傷口を瞬時に焼き切ってしまうのだと、父が昔、教えてくれたことがあった。


 父の消耗は、一体どれほどのものだろう。三人の四天王と戦い、満身創痍のはずの体で、さらにこれほどの強敵を倒しながら進んでいる。僕は、父の身を案じながら、ただひたすらに螺旋階段を登り続けた。





 一段、また一段と登るたびに、上階から伝わってくる魔力が濃くなっていくのを感じる。それは、これまで僕が感じてきたどんな魔族のものとも違う、底知れない、深く、そして静かな魔力だった。まるで、深海のようだ。穏やかに見えるのに、その底には想像を絶する圧力が渦巻いている。


 二段、これが、四天王最強、ゲルニカの魔力。


 どれくらい登り続けたのか、もうわからなかった。肉体的な疲労よりも、精神的な緊張が僕の体力を奪っていく。


 そして、ついに僕は、螺旋階段の終点にたどり着いた。


 そこには、最上階へと続くであろう、一枚の荘厳な扉があった。これまでの道のりで見てきたどの扉よりも大きく、複雑な魔術的な文様が刻まれている。




 扉は、固く閉ざされていた。しかし、その向こう側から、二つの強大な気配が伝わってくる。一つは、間違いなく父のもの。傷つき、消耗しているが、それでもなお、燃え盛る炎のような闘志を放っている。


 そして、もう一つが、あの深海のような魔力。ゲルニカだ。


 どうやら、まだ戦いは始まっていないらしい。僕は安堵の息をつき、扉の脇にある巨大な石柱の陰に身を潜めた。ここからなら、中の会話が聞こえるかもしれない。


 心臓を落ち着かせ、壁に耳を澄ます。


 やがて、父の、疲労と緊張が入り混じった声が聞こえてきた。





「ここが、貴様の待つ場所か、ゲルニカ」


 扉が、ギィィ……と重い音を立てて開く音がした。父が、ついに最後の部屋へ足を踏み入れたのだ。


 僕も、固唾を飲んで、その瞬間を待った。父と、魔王軍最強の魔剣士との、最後の戦いが始まる。


 しかし、次に僕の耳に届いたのは、剣戟の音ではなかった。


 父の、心の底からの驚愕と、戸惑いに満ちた声だった。


「なんで……」


 その声は、震えていた。これまでのどの強敵と対峙した時とも違う、信じられないものを見た人間の声だった。


「なんで……お前が、ここにいるんだ……レイザー……」




 レイザー?

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